第三章 その二
奈々子とのくだりは何だったのだろう、いやまあいいか。今はとにかく気分が悪い。満員電車の中を流れるエアコンの不快な風が、額に浮かんでいた脂汗を乾かす。今日は、夕方から雨が降るという天気予報の割に日照りが強い。電車の窓から見える限りでは太陽が雲に隠れているのに、半袖カッターシャツと密着している脇の辺りが汗でべっとりだ。座席に座れたことが、せめてもの救いだろう。
「ずっと気になってたんだけど、それ何?」
そんな僕の右隣に座っているミオは、先程から涼し気な表情を崩すことなく、見たこともない英語が記された、恐らくブランド名だろう、膝上の紙袋をじっと見ていた。
「プレゼントよ、昔お世話になった人の誕生日だから」
なるほど、それが今日一日学校を無断欠席してショッピングモールへ行っていた理由か。何か心配して損した気分、でもまあ。
「誕生日プレゼントか、良いなあ。てことは今向かっている場所って、その人の家?」
「勘が良いのね、まるで脳みそが入っているみたいだわ」
「僕を何だと思ってんだよ! あんまりだ!」
「あら、そこまで反発してくるなんて……じゃあ、加藤君、中間テストの点数を言ってみなさいよ」
「はあ? 三百六十八点だよ、別に悪くもなく良くもなくって感じかな」
「普通……ゴミみたいな点数ね。私、四百九十八点だもの。やっぱり脳みそなんて入っていなかったみたい。ごめんなさいね」
「何で言い直した!? いや、お前と比べたら学校中が脳なしになっちまうだろ。というか、真面目な話、脳みそが入ってないのは、ミオの方じゃないか」
「あらら、バレちゃったわ」
電車に揺られて間もなく三十分。三十分前までは、電車に乗る予定などなかった僕だけれど、武村博士の方で紆余曲折あったらしく、担任の先生づてにミオの様子を確かめて欲しいと頼まれ、示された住所に向かった結果、今に至る。
「そう言えばミオって、マンションに住んでたんだな。僕はてっきりタケムラテクノロジーの本社ビルとか研究施設とか、そういう厳戒態勢の場所で暮らしてるもんかと」
「嫌よ、あんな狭苦しい場所。私だって年頃の女の子だもの」
確かにすごく年頃の女の子っぽい格好だ、トレードマークのカチューシャはそのままに、藍色のノンスリーブシャツ、ブラウンを基調としたチェックのフレアスカートが隣の僕とのファッションレベルの差を見せつけている。彼女が髪をかき上げた際、銀色の光を見せた左腕の時計も随分と高価そうだった。
「大体、私って結構強いし、襲われても負けないわよ。護身用の画鋲も持ち歩いているし」
護身用だったんだあれ、そんな僕の驚きが言葉となる前に電車は目的地へ到着し、人の流れに従って僕らも下車した。
青空の見える小さな駅のホーム、周辺の風景はどこを見渡しても住宅街であり、家屋の錆びついたトタン屋根が想像していたよりもずっと田舎っぽかった。
都心の空気と比べると外の空気は、格段に澄んでいて思わず深呼吸しながら伸びをしたくなる。都会暮らしではあるが、僕の生活圏を考えると電車に乗り慣れている方とは言えなかったし、疲労が溜まっているのかもしれない。「ここから二十分くらい歩くから、飲み物でも買っておいたら?」そんな僕に気を遣ってくれたのか、ミオがホームに置かれた自販機を見て言った。「大丈夫、行こう」
※
何もないな、本当に。そう呟いたのは何度目だろうか、僕の呟きは、夏の日照りと蝉の鳴き声の中に虚しくも溶けていった。隣に見渡す限りの畑が広がる歩行者用道路を歩き、時々現れる高い建物に反応して注視すると、その殆どが団地住宅か工場のどちらかだ。ここは僕が思っていた以上にのどかな地域らしい。
「お世話になった人ってさ、どういう人なんだ? やっぱりアンドロイド開発者?」
「いいえ、彼は何一つ特筆すべき点のない一般人よ」
「酷い言い方だな……でも、どうやって知り合ったの?」
「……以前、日野宮高校へ来る前に通っていた学校で、ちょっとね」
「以前? 日野宮高校以外にも通っていたって言うのは、テストで?」
「ええ、そんなところよ」
誕生日プレゼントを誰かに贈ったことなんか人生で一度もないなあ、自分の過去を振り返りながらミオの隣を歩いていた僕。「ふうん」
誕生日を祝い合うような関係の人がいる、ともすれば僕の人生は、アンドロイドよりも寂しい人間関係によって構築されてきたことになる。そのことに気が付いて静かにショックを受けた僕だったけれど、それはまあさておいて、ミオとそこまでの関係を築いた人物には興味があった。一体どんな友達なんだろうか、気になって僕が尋ねると彼女が言った。
「友達ではないわね、何といえばいいのかしら。教育者……?」
「学校の先生ってこと?」
「そうそう、彼は、学校教師よ。いずれにせよ私の大切な人ね」
「大切な彼? 男ってことか?」夏の暑さが僕をおかしくしてしまったに違いない、何の考えもなしにそのことを追求してしまった。餌を撒いちまったんじゃないか、何だか嫌な予感がして、ちらりとミオの横顔を見るとそこには、案の定こちらをからかうような笑みが浮かんでいる。どういうわけか突然立ち止まった彼女は、わざとらしく演技がかった口調で言った。
「男じゃいけなかったのかしら? ちなみに彼は、高学歴で、高収入で、そこそこイケメンで、女子生徒からモテまくり。あら、そんなにむっとして……嫉妬、しているの?」
「なっ、からかうなよ、そんなわけないだろ」
くそっ、まるで僕とは正反対な奴じゃないか。神様、不公平すぎやしませんか。
「顔が赤いわよ、もしかしてあなた、私のことがす、き、なの?」
「違う、断じてないね。大体、僕とミオは、人間とアンドロイドだろ」
謎に溜めて言った「す、き」に若干心臓が乱れたものの、僕は視線を寄越すことなくきっぱりと言い切る。ミオがアンドロイドでなかったとしたら、そんな風に追及されてしまうと返事に困るところだったが、彼女は「ふうん、恋人はいつでも募集しているのに。残念ね」と呟いたきり何も言わず黙々と歩きだした。
そうして会話が途絶えたまま数分、一本道だった歩行者用道路を十字路で折れて十字路に入ると、またしてもミオが立ち止まった。何があったのだろう、迷子になったのかと僕が訊くと彼女は首を横に振り、キョロキョロと辺りをあらゆる方向に視線を動かす。彼女らしくもなく落ち着かない様子で、まるで周囲を警戒しているかのような動作だ。
「どうしたっていうんだよ?」
「しっ! 黙って、私たちは今、生命の危機に瀕しているの!」
そう言われたって全く分からないぞ、しかしミオは、剣呑な目つきで僕を睨みつける。それは今まで見たことがないほどに、強い意志を宿していた。まさかとは思うが、タケムラテクノロジーの最新AIである彼女を狙った闇の組織がここまで付いてきていたとか、そういう危機的状況じゃないだろうな、さすがの僕も口を閉じ四周警戒に移る。
――わんっわんっ!
後方から聞こえた獣の鳴き声――ではなく、僕が振り返るとそこにいたのは、小型犬だった。しかも可愛らしいチワワだ、性格は荒っぽいとよく聞くが実際のところはどうなのだろう。伸縮式のフレキシブルリードに繋がれたその犬は、トコトコと音がしそうな足取りで僕らの元へ歩いてくる。うん、すごく可愛い。思わずその姿に頬が緩むも、
「こ、来ないで! き、来たら、容赦しないわよ……!」
何やってんだミオ、彼女は腰を抜かし、震える手でカチューシャに手を掛けていた。
こいつ、犬が苦手なのか? 恐怖に震えあがったミオの表情から、最新アンドロイドの最大の弱点を見抜いてしまう僕。面白かったので放置しておこう。
しかし、残念ながら彼女の言葉は、届かなかったらしくじわじわと、いや、普通に距離を詰めてくる犬、それを迎え撃つように決然と彼女がカチューシャを構えた。その刹那、僕の時とは比にならないレベルの凄まじい光と爆裂音を放つカチューシャもといスタンガン。こんなの当たったら死ぬんじゃないか、近くに立っているだけで熱を感じてしまうほどの電気量に僕が危機感を覚えると、命の危険を察知したのか犬が大きく飛び下がり威嚇するように吠えた。
「キャンッ!」
その途端、迸っていた放電の輝きと音が消え去り、代わりに女の子の悲鳴が響き、
「ひ、ひぃい! も、もう無理ぃぃいいいいいい!」
カチューシャを握り締め、情けないにもほどがある泣きっ面で逃げ出したミオ。二カ月ほど前までは、極悪非道な手段も厭わない鬼畜女だったはずだが、記憶と照らし合わせ僕は、その姿に開いた口が塞がらず立ち尽くしてしまった。
「俊足のランナーだ、百メートル走八秒台も夢じゃないかもしれない」そんな戯言を呟いた僕だったけれど、しかし、よくよく考えてみれば、ここが何処なのかも分からない場所で一人になってしまうのは、危機的状況なのではないだろうか。
「待ってくれ、ミオ!」
全身全霊の力でスタートダッシュを決めた僕は、危うく見失うところだった彼女の背中を必死に追いかける。それにしてもとんでもない速さだ、狭い住宅街とは言え、走行中の車と並走して追い抜かすなどチワワに怯えて逃げ出した者の速度じゃない。
「お巡りさん、あの人、スピード違反ですよっ」どんどん小さくなっていくミオの背中に叫んで、しかし、とうとう僕は彼女を見失ってしまった。くそっ、これがドーベルマンサイズの大型犬だったらどうなってしまうんだ、それは今度学校で試すとして、呼吸と滝のように流れる汗を整えるべきだろう。「マジで、サイ、アクだ……」
しかし今日は、信じられないほど運が悪い。
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