第三章 その一
六月上旬。休日を利用してミオと二人で行ったショッピングモールのことを思い出す。
彼女は、時計屋のショーケース前で立ち止まり、紳士物の腕時計を眺めていた。それも彼女のカチューシャと同じ色をした真っ赤なやつだ。自分でつけるつもりなのだろうか、それにしてはやはり大きい気もする。
「ねえ、加藤君」
「ん? どうした」
「誕生日プレゼントって、どんなものを贈られても嬉しいものかしら」
何だ、その質問。簡単なようですごく難しい。
僕は、少し迷って、けれど自分ならば、と答える。
「そう、それは良かった」
ほんの少し、安心したように表情を崩し、ミオは歩き始め店を出て行こうとした。てっきり僕は、この時計を買うものだと思っていたけれど、そうではなかったようだ。何となく不思議に思いながらその背中を見つめていると、彼女が振り返って言った。
「何をしているの? 次は服屋へ行きましょう」
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我ながら知り合って数か月の女子クラスメイトが学校を無断欠席した程度のことで、ソワソワしてしまうなんて僕の精神強度も地に落ちたものだなと思うけれど、一体全体武村ミオの保護者である武村博士は、何をしているのだろう。朝のホームルームの時点では、一時間目までに登校するという遅刻の一報、一時間目の時点では、三時間目までには登校するという遅刻の一報、三時間目の時点では、六限目までには登校するという遅刻の一報だったけれど、いやいや、そこまで行ったらもう休もうよ、あまりに雑な博士の伝達は教室のあらゆるところでネタにされていた。というか、そもそも話題の中心に据えるべき点は、武村博士の伝達内容ではなく、ミオに一体何があったのかという点だろう。
「風邪だろ」渉に至っては、彼女があまりに馴染み過ぎてアンドロイドであることを忘れていたし、教室の誰に聞いてもこの事態の重要性に気が付いてすらいなかった。
アンドロイドにとって風邪を引くなんてことがあるのだとしたら、それはサイバーウイルスに感染したということなのではないか。まさか奈々子をいじめていた連中から、その報復を受けたなんてことも……。
「ということがあったんですけれど、何か分からないですかね?」
七月上旬、僕はガンガンに冷房の効いたアンドロイド研究開発部、奈々子のラボにて、ロボタンが運んでくれたアイスティーを口に含んだ。
ガムテープで修理されたウサギ型の机を挟んだ向かいに奈々子、自分から質問をしておいて何だが、うーんと考えてくれている彼女を眺めながら別のことを考えていた。
奈々子は、恋でもしたのだろうか、初めて会ったときを思い出して、その変化に思わず感嘆の息を、いや、言葉を漏らしてしまう。
「髪、切ったんですね。似合ってますよ」
「そ、そうかな……あ、ありが、とう」
とんでもなく可愛いな、個人的にショートボブがストライクゾーンというのを抜きにしたって、いや、抜きにしては語れないのだろうけれど、彼女の小顔を引き立たせているその髪型は、冗談抜きで似合っている。
「け、化粧もしてみたんだけど、ど、どうかな……アイライン、とか」
大きな瞳とぱっちり二重、普段は童顔っぽい彼女の顔だが、確かに言われてみればアイラインが強調されて大人っぽい感じになっている。僕としては、地雷系で見るからに涙袋が強調された化粧が好みではあるのだけれど、それを差し置いてもいいほどに、
「良いですね、すごくいいと思います。大人系を目指しているんですね」
「う、うん。か、加藤君、は、ど、どんなのが、た、タイプ?」
完全に僕の好みではあるのだけれど、白衣ではなくもっと地雷系、いや、そこまでいかなくとも、ピンクでふわふわした感じのファッションも見てみたいところだった。
いやでもまあ、僕のタイプなんて知って得することはないだろう。というか、気持ち悪がられてしまうかもしれない。そう思って僕は、ミオの身に何かあったんじゃないか、一度逸らしてしまった話題を引き戻すことにした。「そんなことより奈々子先輩」
「そ、そんなことなんだ……う、ううん、そ、そう、だよね。わ、私、ごときが、どんな、服着てたって、よ、喜んでくれ、たりしない、よね。こんな私、き、消えた方がいいよね、うう……そ、そうだよ、ね」
「え、えっと……?」
何だ、何だ、僕ってば何か踏んじゃいけないもの踏んじゃったのか? 大袈裟過ぎるほどにうな垂れてぶつぶつと深淵の言葉を呟きだした奈々子を宥めようとするも、僕の声が届いていないのか、次第に彼女はこんなことを言い出した。
「で、でも……ふ、服に申し訳ない、な……ふ、服は可愛い、のに、わ、私、ごときを可愛くさせられなかったら、ぶ、ブランドに、泥をぬ、塗っちゃうことに、なる、私のせいで、つ、罪のない服たちが、ああ、ああ……ど、どうしよう」
どんな風にヒステリックを起こしたら服の心配をしようって思考になるんだよっ。何だか面白過ぎる転がり方だ、今の彼女には、どんな言葉も届かないとだろうと分かっていた僕は、一方的ではあるけれどそれをいじってみることにした。「どうするんですか? このままだと、その服たち、ブランドから見捨てられちゃいますけど?」
「そ、そうだよね……み、見捨てられちゃう、よ。ど、どうすれば……そ、そうだ、ま、貧しい子供たちにき、寄付すれば、新しい居場所が……」
「先輩が着た服なんて誰かにもらってもらえると思ってるんですか?」
「そ、そうだよね……か、加藤君の言う通り、だね……わ、私の着た、服なんて誰も」
「裁断された後、リサイクルされるのがオチでしょうね。仕方ない、僕がもらってあげましょう。だから、さあ早く服を脱いで」
「そ、そうだよね……い、今すぐぬ、脱ぐね……で、でも、わ、私なんかが触ったら、ぬ、布の価値が……そ、そうだ、か、加藤君が、ぬ、脱がせて……」
「へへへ、分かったらはやくこっちへ……って」
何をやっているんだ僕は。
というかネガティブな言葉なら聞こえるのかよ、どんな心理状態なんだこの人。
僕のネガティブさを遥かに超えているのは間違いないとして、いや、そんなことはさておき、どうすべきか考えて僕は言う。「奈々子先輩、やっぱり駄目だ。僕はその服に触れない」
「ど、どうして……や、やっぱり私が着てるから」
「違うよ、その服の居場所をたった今見つけたから、僕が触る必要なんてなくなったんだ。たとえブランドがその服を見捨てても、貧しい子供がその服を拒絶しても、その服にはたった一つだけ受け入れてくれる場所があったんだ。それは奈々子先輩、あなたですよ」
「わ、私……?」
「ええ、世界がその服を嫌っても、先輩はその服を嫌いにならないでしょう。だからその服にとって、先輩という存在が最後の居場所なんです……見捨てないでやってください」
僕が言い終えると、それから彼女は、滂沱の涙を、いや、さすがに流しはしなかったけれど、服をじっと見つめて小さく微笑んで言った。「私が見捨てちゃいけない、ね」
それから僕を真っすぐに見て、しかし、どこか照れくさそうに彼女は、
「か、加藤君、ありがとう……や、やっぱり優しいんだね」
そう言った。その表情にどきっとして僕は、思わず目を逸らしてしまう。
それからすぐに鳴った校内放送で、
「職員室から生徒の呼び出しをします。加藤啓一君は、今すぐ職員室へ」
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