第8話
細川勝元は、私の見る限り、明らかに政治的、戦略的な手腕は、山名宗全に勝っていました。
その差が、御霊社の戦いから応仁の乱勃発に至るまでの経緯において、山名宗全に対して、細川勝元が優位に物事を進められる事態を招来した、と私には思えます。
御霊社の戦いの後、細川勝元は密かに畠山政長を庇護します。
また、山名方の諸国に騒乱を引き起こすように働きかけます。
例えば、播磨等の旧赤松領で、現在、山名領になっているところでは、赤松政則(実際には、赤松政則が幼かったために、その家臣である浦上則宗らが主に動いたようです)を指嗾し、山名宗全に対する反乱が起こることになります。
更に山名一族の分裂を、細川勝元は策します。
細川一族は、基本的に一枚岩と言って良い態度を、少なくとも細川勝元の父、細川持之が当主である足利義教が将軍だった頃から執っており、応仁の乱以降も細川勝元の子、細川政元の後継者を巡って、永正の錯乱が勃発する直前まで、一族間の不和が表面化することはありませんでしたが。
山名家は違っていました。
そもそも、山名宗全自身が自らの兄弟である山名持煕と家督争いの末、山名家の家督を継いだ存在です。
それ以降も、山名家は一族間の争いがくすぶり続けており、山名宗全は、長男とされる教豊と対立して、教豊が播磨に下向する事態を引き起こし、また、山名宗全の次男の是豊が、山名家の家督相続を望みましたが、宗全によって拒絶される等、一族間のゴタゴタが続いていました。
そして、最終的に、応仁の乱勃発に伴い、山名是豊は、義兄弟の細川勝元に味方し、父、山名宗全に刃を向ける事態が引き起こされます。
ともかく、こういった事態が引き起こされたことから、山名家の軍勢は、京都から引き離され、反乱鎮圧等に赴かざるを得なくなります。
これに対抗して、山名宗全も、大内政弘等との連携を策しますが、細川勝元もさるものです。
斯波義敏等と連携して、更なる味方の獲得を、細川勝元は図ることになります。
もっとも、細川勝元の最終的な狙いは、京制圧でした。
この時、細川勝元としては、京を制圧し、幕府を握ることで、自らの力を回復するつもりだったのです。
そして、応仁元年(文正2年)5月、細川勝元の家臣、池田充正が軍勢を率いて上洛したことを最終的なきっかけとして、応仁の乱勃発に至ります。
ですが、余り歴史書では、私が調べる限りですが、述べられていないことがあります。
それは、細川勝元にしても、山名宗全にしても、京を巡る争乱は短期間で終わる、と予期していたのではないか、ということです。
私の知る限りですが、京の都を巡る争乱は、それこそ保元の乱以来、応仁の乱勃発に至るまで、敵味方を変え、時代を超えて、何度もありました。
私の思いつくまま、歴史順に上げていきます(他にも、これがこれが、と多々ツッコまれそうです)が。
保元の乱、平治の乱、以仁王の挙兵、木曽義仲の入京、源範頼、義経の入京、承久の乱、赤松円心、足利尊氏の六波羅探題攻撃を皮切りとする南北朝時代の数度にわたる京攻防戦です。
しかし、何れも1年どころか、1月も経たない内に、京内部での戦闘、争乱は終わっています。
応仁の乱勃発以前、南北朝時代の武将の中で、トップクラスの戦術家、楠木正成が言ったとされる
「京の都は攻めるに易く、守るに難い場所である」
という言葉が正しい、としか言いようが無いのが、京の都だったのです。
そのために話がずれますが。
丁度、第一次世界大戦がすぐに終わると思い、欧州列強が第一次世界大戦に飛び込んだように、応仁の乱はすぐに終わると思い、細川方も山名方も応仁の乱に飛び込んだのでは、と私には思えるのです。
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