第6話
応仁の乱の東軍の首領といえる細川勝元ですが、私の見る限り、結果的にはですが、貧乏くじを引いてしまった人に思えてなりません。
細川勝元は、言うまでもありませんが、三管領家の一つ細川家本家(京兆家)に産まれました。
しかし、12歳の時に実父の細川持之が病死し、叔父の細川持賢の後見を、勝元は受けることになります。
そういった状況から、管領のライバルといえる畠山持国に対抗し、更に勘合貿易等の関係から、予てから細川家と折り合いの悪い大内家とも対峙する必要があることから、既述の通り、山名宗全の養女を正室に迎えることで勝元は、山名宗全と協調して、幕府内の地位を固めていくことになります。
その一方で、勝元は、細川家の血を受け継いだ基本的に有能な政治家で、微妙に山名宗全とはいわゆる肌が違う、肌が合わないところがあったようです。
もし、肌が合っていたら、従来から完全に細川勝元と山名宗全は協調関係を保っていたと思うのです。
山名宗全と、足利義政(とその側近、伊勢貞親ら)とは、既述の通り、仲が悪かったのですが、勝元は義父の山名宗全と完全には協調せず、山名宗全と足利義政との二人の間の仲を取り持とうと苦心し、結果的に山名宗全にも、足利義政にも与しない、いわば第三勢力となって行きます。
そして、ライバルである畠山家の勢力を削ぐため、勝元は畠山政長に肩入れし、畠山家の分裂を煽ります。
こうした勝元の行動は、細川家、また、幕府における管領の行動としては、それなりに合理的で妥当なものがありましたが、足利義政(とその側近、伊勢貞親ら)からも、山名宗全からも、微妙に反感を買う、ある意味では八方美人的な態度だったように思われます。
そして、文正の政変までは、室町幕府内の権力争いは、伊勢貞親らの将軍側近派、細川勝元派、山名宗全派の三者間の争いでしたが、文正の政変により将軍側近派が没落してしまい、細川勝元派と山名宗全派が対峙する事態が生じます。
そこに畠山義就と山名宗全の提携という事態が起きたのです。
既述の通り、細川勝元は畠山政長を支援しており、畠山家の家督争いは、幕府内の二大勢力の争いに火をつけてしまったことになります。
そして、事態は急変していくことになります。
というか事態が早く動き過ぎて、結果的に細川派、山名派がそれぞれ引き返すタイミングを逸してしまったように、私には思われます。
1466年(文正元年)12月26日に、畠山義就は軍勢と共に上洛を果たします。
そして、畠山義就とそれに与する山名宗全らの軍勢の圧力により、翌1467年(応仁元年)1月1日に予定されていた室町幕府の正月行事の1つ、垸飯こそ予定通り畠山政長の下で行われましたが、翌日の足利義政の畠山政長邸への御成は急きょ中止になり、代わりに足利義政と畠山義就の対面行事が行われ、1月5日に足利義政の畠山義就への御成が行われ、翌6日には畠山政長の管領罷免、翌々日の8日には明らかな山名派である斯波義廉が管領に任命されるという事態が起きます。
1月11日には、斯波義廉が管領として出仕を始めたことから、畠山政長や細川勝元は、軍勢を催して、将軍御所を包囲して形勢を逆転しようと、15日に行動に移しますが、細川勝元の正室がその動きを養父である山名宗全に密報したため(?)、山名宗全や畠山義就は、逆に将軍御所を占拠し、翌16日には足利義視まで山名宗全が確保する事態にまで発展してしまいます。
こうした状況から、畠山政長は自らの邸を焼き、上御霊神社に立てこもります。
畠山家の家督争いにこれ以上巻き込まれたくない足利義政は、細川勝元や山名宗全にこれ以上の介入を止めるように命じます。
本文途中に(?)とあるのは、応仁の乱の一次資料といえる「経覚私要鈔」には、そう書いてあるらしいのですが、私としては、京の街中で軍勢を動かそうとすれば、そんなことが無くとも、すぐに街中の噂として流れて、相手の耳に入るのでは、と思えてならないので、敢えて(?)としました。
本当は応仁の乱の前哨戦、御霊合戦に入りたかったのですが、次話になります。
ご感想をお待ちしています。




