第3話
畠山氏の家督争いは、畠山持国に中々、実子が産まれず、弟の持富を養子にして家督を継がせる予定としていたのに、実子の義就が生まれたことから、義就に家督を継がせようと持国が考えたこと、その一方で、義就はいわゆる側室腹の上に、本当に持国の子か、周囲に疑問を呈されていたことから、畠山氏の家臣団が分裂して、結果的には持冨の子の政長と、義就の間で家督争いが起きた、と思う人が多いと思います。
確かに間違ってはいませんが、意外と奥が深い争いのように、私が調べる内に思えてきました。
(なお、義就の母は、悪く言えば、かなり身持ちが悪い女性だったようで、いわゆる遊女説もあり、信濃の小笠原氏や飛騨の江間氏との間でも、子どもを産んでいるという説があるそうです。
義就に反感を抱く畠山氏の家臣の一部は、そんなことから、義就が本当に持国の子かどうか、分かったものではない、とも主張して、義就の家督相続に公然と反対した模様ですが)
畠山持国は、説明をかなり端折りますが、6代将軍の足利義教と対立し、隠居に追い込まれます。
その後、足利義教が暗殺されると、自分の代わりに畠山家当主になっていた弟の持永を、持国は討つことに成功することで、畠山家当主に返り咲いたのですが。
この後、持国は自分が隠居していた際に近侍していた者を重用し、畠山家の家臣団には亀裂が入ります。
また、自分と同様に足利義教によって迫害された者等に対して、持国は好意的な態度を執り、逆に足利義教に庇護された者等を冷遇するようなことを、持国はします。
例えば、足利持氏の遺児、足利成氏が鎌倉公方に復帰できたのは、持国の尽力によるものがありました。
ですが、このことは、足利義教に庇護された者等を、持国に対峙している細川勝元に奔らせることにもなったのです。
そして、持国は実子の義就に家督を譲ることを考えて、実行に移しますが、このことは持国に冷遇されていた家臣達にしてみれば、絶好の攻撃材料でした。
義就の出自に疑問があること等を主張して、持冨、更に政長こそが次期当主に相応しい、と冷遇されていた畠山家の家臣は訴え、更に細川勝元も政長に肩入れします。
(勝元にしてみれば、管領を争う畠山家を弱体化させ、政長に恩を売る絶好の話でした)
そして、政長と義就が、畠山家次期当主の座を争うことになったのですが、足利義政は、結果的には更に事態を混迷させる決断を下します。
最初は、義就を畠山家次期当主として、義政は認めたのですが。
義就が、義政の上意を詐称したことで義政の怒りに触れたこと等から、義就の代わりに政長が、畠山家の当主として、義政に認められます。
(私の憶測ですが、享徳の乱の勃発に伴い、成氏に味方していた父持国と同様に、義就が宥和的な態度を執る、と義政は考えたのかも)
そして、義就は都落ちすることになるのですが。
この後、義就は、一時は朝敵にまでなり、細川勝元の援護を得た政長と死闘を繰り返しますが、兵力的には劣勢にも関わらず、しぶとく戦い続けます。
(最も、これは政長が余り軍事的に有能で無かったのもあるようです。
何かで読んだのですが、政長と義就は、お互いの生涯において13回も戦いましたが、その内の11回は義就が勝っているとか)
こうしたことが、政治家というより、生粋の軍人だった山名宗全に、義就が気に入られる理由となったと思われます。
山名宗全は、次話以降で述べますが、山名家の当主に自力でなった程であり、いざという場合には、幕府権力と争うことも辞さない人物でした。
(もっとも、山名家自体が、幕府と微妙な関係を続けています)
そして、山名宗全と義就の結びつきが、応仁の乱の導火線になります。
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