余談とエピローグ
こうして、応仁の乱の終結まで、時系列に沿って書いていったのですが。
こうしてみると、「応仁記」の語っている、山名宗全が、日野富子の頼みによって、足利義尚を将軍に推そうとしたことが、応仁の乱の一因という主張には、どうにも無理がある気がしてなりません。
実際、応仁の乱の勃発から終結まで、山名宗全が、具体的に足利義尚を将軍に、という要求を掲げたことというのが見当たらないどころか、応仁の乱の途中というより、大半の期間においては、西幕府を構成した上で、山名宗全以下の西軍は、足利義視を将軍として支持しているのです。
そして、最終的に、足利義視が事実上の赦免がされた後で、大内政弘や畠山義就は京を去ってもいます。
もし、足利義視をそれなりに西軍が尊重していなければ、それこそ「西陣南帝」のように、西軍諸将は足利義視を途中で放擲していたでしょう。
更に指摘するなら、応仁の乱の前段ともいえる文正の政変において、足利義視が先に頼ったのは、細川勝元ではなく、山名宗全でもあります。
そうしたことからすると、山名宗全が足利義尚を将軍に推したのが、応仁の乱の一因というのには、無理があるようにしか思われません。
そして、私にとって、更に気になるのが、「応仁記」の内容と作成されたとされる時期です。
「応仁記」は、ある意味、不思議なことに細川勝元と山名宗全が死ぬところまでしか、書かれていません。
更に書くなら、作成時期は不明で、最も古いとされるモノは、1523年作成という奥書があり、これは応仁の乱終結後、50年近く後の話になります。
何故に、「応仁記」は応仁の乱の終結まで描かなかったのでしょうか。
作者が、応仁の乱終結まで生きていなかった、という可能性はありますが、何となく不自然に思えます。
それに、それこそ日野富子から山名宗全に送られた書状を見ることができる程の立場に、作者があったにも関わらず、その作者名が不明というのにも、私には引っかかるものがあります。
こういった謎について、呉座勇一氏が、興味深い説を示しています。
(超要約すればですが)「応仁記」は、永正の錯乱の後、足利義稙(足利義視の子)、細川高国(細川勝元の養孫)、畠山尚順(畠山政長の子)の三者が協調した時期に、それぞれの家臣団の不満を宥めるために作られたという説です。
トップが政治的に協調することに納得できても、部下にしてみれば、それこそ長年にわたって敵対関係にあり、実際に殺し合いまでしていては、中々協調には納得できないでしょう。
実際、応仁の乱の後に起きた明応の政変において、細川勝元の子、細川政元によって、畠山政長は自害に追い込まれ、足利義稙は将軍位を追放されるという事態が引き起こされています。
そして、永正の錯乱によって、細川政元は殺され、政元の養子3人は家督争いを行い、養子の1人、細川高国は、足利義稙や畠山尚順と手を組んで、政権を樹立するということになるのです。
こういった歴史的経緯を考えていくと。
「応仁記」が、細川勝元(及び山名宗全)が死ぬまでしか、書かれていないことの意味が何となく分かってくる気が私はしてなりません。
応仁の乱を最後まで描いては、細川政元を登場させざるを得なくなるからです。
足利義視と細川勝元、畠山政長は麗しい協調関係に、そもそもはあったのだ。
だが、日野富子らにそそのかされ、細川政元はその協調関係を壊してしまった。
この際、かつての麗しい協調関係を取り戻そうではないか、という主張の為に「応仁記」は書かれたという呉座氏の説は、私にとって、極めて説得力を持って迫ってきます。
更に付け加えるなら。
第一次世界大戦の経緯と同様に、どうにも当事者でさえ、何故に京の都が焼け野原になるまで、10年余りに渡り、我々は戦い続けねばならなかったのか、という割り切れない思いが(少なくとも実際の政治を握る上層部において)ずっと横溢していたのもあると思われます。
実際の所は、畠山家の家督争いを軸に、享徳の乱への対応や斯波家の家督争い等々が加わり、更に足利義政の、現在の強い者の言うことに従って、当面の安泰を維持するという無定見も相まって、諸大名の対立が積み重なって、誰もが退くに退けなくなってしまった末に、応仁の乱があそこまで続くことが起きたのだ、と私には思われますが。
当事者やその親族にしてみれば、そんな複雑な理由では理解できない、応仁の乱が起きて、あそこまで続いたのには、もっと単純な理由があった筈だ、という感情論が陰であった、と思われるのです。
そこに、「応仁記」という、将軍家の相続争いと言う理由があったのだ、という資料が現れます。
それこそ世間によくいる陰謀論を鵜呑みにしてしまう人達
(その中には、当然、実際の政治を握る上層部を構成するような人たちも、一部ですが居ます。
本当に皮肉なことに、頭の良い人程、世間の話に騙されてはいけない、これが真実なのだ、という嘘の話を信じてしまい、陰謀論に引っかかりがち、というのが現実でも多々あるのです)
にしてみれば、「応仁記」に書いてある事実が本当にあったからこそ、応仁の乱は、あそこまで長く大きくなったのだ、という考えに奔るのも当然のように、私には思われてなりません。
更に「応仁記」ができたとされる頃には、日野富子は既に亡くなっており、死人に口なし、ということから、幾らでも悪事をすりつけられたこと、また、生前の日野富子が、やむを得ない事情とはいえ、女性の身で幕政を主導し、幕府の財政維持のために利殖に奔ったことから、悪評に既にまみれていたことが、「応仁記」の主張を、当時の多くの人が受け入れ、更に後世まで信じていった原因だったのだ、という呉座氏の主張は、ここまで応仁の乱を自分なりに追ってきた私にも、すとんと腑に落ちる説です。
勿論、私の今の考えも、推論に推論を重ねたもので真実とはとても言い難く、一部、呉座氏の考えを鵜呑みにしたもので、陰謀論を信じる人とそう変わりがない、という容赦のない批判が浴びせられそうですが。
延々と応仁の乱前夜からの経緯を考えていくと、以上のように今の私には思われてならないのです。
これで完結します。
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