最終章 Cry for the ChristmasRose
それは追憶を照らし、
狂気をもって狂気を癒す慰めのハナ。
十二月になってアリスはクリスマスキャンペーンに入った。うちはアイドル養成所みたいなものなので、白のファーで縁取りされた赤いメイド服を週一回着なきゃいけなかったりする。普段のメイド服も赤いリボンや深緑のステッチのブラウスなど、ささやかだけどこの華やかな季節に花を添えるデザインになっている。
マリさんは相変わらず真っ赤なまま。所マネージャがクリスマス用の衣装に着替えてくれと懇願していたけど、彼女は絶対に衣装を受け取らなかった。でもそれがあの人の一番の魅力なんだろうと思う。誰にも媚びず自分を貫くからこそ、高貴なんだ。いまだ一位をキープしているという事が何よりの証拠だ。
かくいう私も受け取りはしたものの、二位の発言権をあます所なく発揮し不着用にさせた。芸能人なんて興味ないし、何より浮かれた格好になれるほど幸せじゃない。
あれから一ヵ月半、貴宮は本当に私の前に姿を現さなかった。それどころか滝君を始め他の友達もアリスに来ない。あの書置きの通り、本当に私から自分の存在を消そうとしているようだった。
新しく買った携帯は、強制的に人間関係を清算させられたようで好きじゃない。だから何度か捨てようともした。でもそれがなければもっと一人ぼっちになってしまうから、仕方なく今も持ち続けている。
アドレスのゼロ番を空けてる私はなんて馬鹿なんだろうと思う。時が経てば経つほど、その未練がましさに自己嫌悪に陥る。ほんと、かっこわるい。
待っているのか忘れたいのか。
答えは出せないまま、だから私は休まず働き続けている。
「三番のお客さんヘルプ頼むね。私ユメリパフェ作るから」
「ちょ、私だって客ついてんだよ!」
抗議の声を上げるヒナを無視して、私はキッチンに入った。下は黙って言う事を聞いていればいい。
ユメリパフェとはランキングに入った者だけに許されるオリジナルメニューの一つだ。と言ってもあまりオリジナリティ溢れるものじゃない。微妙に余っているフルーツ類を集めてミキサーにかけて、アイスのソースにして上にフレークをまぶす、お手軽フルーツパフェだ。一応他のパフェと違いを出す為に最後に練乳をかける。私だったらこんなクソ甘ったるいパフェ食べない。けどこれが売れる。
何故かと言えば、私が作って、私が最初の一口を食べさせてあげるからだ。だから客はこれに千円という高い金を払ってくれる。まあ私が人気があるという証拠だ。
手早く作り上げた私は、使用したミキサーをシンクに持っていった。しかし洗い場担当の新人がいない。食器と違って調理器具は使用後すぐに洗わないといけない。ミキサーの一部は洗浄機にかけれないので、洗うのに手間がかかる。
何で持ち場を離れるんだ、馬鹿。
私は舌打ちをしてキッチンを見回した。他の新人の子が二人ほど調理をしている。後は――マヤ。彼女も自分のメニューを作っているようだ。ちょうどいい。
「マヤさんちょっと来てくれる?」
私に名前を呼ばれたマヤは、包丁を持ったままこちらを向いた。瞼の下がひくついているのが分かる。
「ユメリさん、私が今何をやっているか分かっていますわよね?」
「マヤさん、私はあなたの都合に構っているほど暇じゃないの。いいから早く来い」
私が睨みをきかせると、マヤは口を変な形に歪めて包丁をばんと置いた。
「それで、何でしょうか、お偉い最大派閥のリーダー様」
精一杯の皮肉を込めながらマヤがこっちに来る。覚醒ユメリの一件で二位になった私は、ランクだけじゃなく仲間も手に入れていた。マヤを嫌いな子達、マヤ派から離れた子達がここぞとばかりに私の下に集まって、結果最大派閥にまで膨れ上がった。最初は面倒だったが、今ではマヤ達を追い詰めるのに随分と都合がいい。
「これ洗っといてくれる?」
「そ、そんなの他の子にやらせればいいでしょう!」
「だから、その他の子がいないからあなたに言ってんの。よろしくね。あ、あと洗い場の子に持ち場離れるなって教育しておく事」
それだけ言うと私はパフェを持ってさっさとホールに向かった。例え元女王のマヤとて序列には逆らえない。彼女は私に言われた事をやるしかない。
キッチンから食器が割れる音が聞こえ、私の口から笑みがこぼれた。
ある日仕事終わりにロッカーを整理していたら、ネームプレートを見つけた。覚醒ユメリになってからはつけなくなった、昔のユメリの象徴だ。
片瀬ちゃんいわく、私は性格が変わったらしい。とすればこの何事にもはいはい言って利用されるだけの小心者のキャラが本来の性格なのだろう。もしこの話が真実だとして、貴宮も人気も手に入れられない、マヤを倒す事も出来ないこのキャラに戻ろうなんて、私は欠片も思わなかった。
まあでも私は二重人格じゃない。ただ名前を度忘れしていただけだ。それに普段生活している時の性格が本当の自分に決まっている。
と言いつつも捨てるわけにはいかないので、私はメイド服のポケットに適当にしまった。
誰より早くタイムカードを押し、お疲れ様でした、と適当に流してアリスを出る。電気街のネオンは冬の寒空に負けじと輝いている。きっとクリスマスに雪が降ってもこの光と熱気に掻き消されちゃうんだろう。
マフラーを口元が隠れるくらいまで上げて、私は大通りから一つ裏の通りに向かった。仕事帰りに秋葉原を練り歩くのは、もはや日課となっている。理由なんて忘れた。ううん、嘘。
メイドのフットマッサージサロン、メイドの眼鏡ショップ、私はそういった店の前を通り、中が見えれば覗いて、見えなければ少し外で様子を窺ったりした。
もう人通りもないメイドの美容院の前に五分ほど立っていた時の事だった。閉店準備に外看板の電気を消しに来たメイドの子が、看板をしまうかと思いきや私に近づいてきた。
「こんばんは。最近いつも見てるよね? 興味があったりするのかな?」
優しくフランクに話しかけてくる彼女に、私が返答に困っていると、
「じゃあ髪切ってほしいとか? 大丈夫、うちは女の子も大歓迎だよ」
と私の手を握った。私は慌てて弁解し、覗いていた事を謝った。
「ワケアリ、なんだね」
そう言うと、彼女はすっと手を離してくれた。察してくれた彼女に私は苦笑いを返した。
「いいよ、あなた可愛いからずっと見てても。あ、そうだ店の中入りなよ。お茶出してあげる」
随分とお節介な子だ。なんて思っていると、美容院から男の人が出てきてダッシュでこちらに向かってきた。そしていきなり私と話していた子を後ろからはたいた。
「いったぁっ! て、店長?」
「すいません、何かうちのスタッフがご迷惑おかけしませんでしたか?」
「ひどいよ店長! 私何もしてないよー」
勿論彼女の言ってる事は本当の事なので、私はもう一回謝罪とお礼を口にした。すると店長は更に態度を固まらせて私に向かって深々と頭を下げた。
「そんな! ユメリさんからそんな言葉を頂けるなんて! 噂どおりの優しい方だ。ほら、お前も!」
彼女にも無理矢理頭を下げさせる店長。私は心苦しかったので、もう一度謝ってその場を離れた。どうやら私は同業者にもそれなりに有名らしい。アリスというブランドにはそんなに力があるのだろうか。
恥ずかしかったので、すぐに角を曲がって電信柱の陰に入った。これからは目立つような行動は控えよう。
呼吸を整えていると、さっきの二人の話し声が聞こえてきた。
「店長、あの子そんな有名なの?」
「お前も知ってるだろ、アリスの覚醒だよ」
「あ、あの子が目覚めちゃった子かー。感じ悪いって噂の」
「因縁つけられたら面倒だからな。関わるなよ」
「そんな悪い子には見えなかったけどなー」
「本物は隠すのが上手いんだよ」
なんだよ、それ。
何で外に変な噂が広まってるんだ!
私は怖くなって、急いでその場を離れた。この分だとこの辺りの同業者すべてにそんな噂が広まっているかもしれない。あいつ、ここまで……!
これ以上秋葉原にはいられない私はすぐに駅に向かうと、逃げるように電車に乗り込んだ。車内でも、私を見る人みんなが噂と実物を照合しようとしている気がして、ドアに張り付き息を殺し続けた。
家に帰って靴を脱ぎ捨てベッドに荷物を投げ出したところで、ようやく私は逃亡劇を終える事ができた。こうして巣穴で縮こまっているしか今の私に安息はない。いや、安息なんて聞こえのいい言葉じゃない。ただまともに息が出来るだけだ。息を吸って吐いても誰も咎めない場所。
私は片瀬ちゃんに相談しようと携帯を開いた。
しかし両手を使ってメールを打っている途中で浮かんだある疑問に、指が止まった。
――もしかして、お客さんにもこの噂は広まってるんじゃないのだろうか。
そう思ったらメールどころじゃなかった。電源ボタンを連打してメール機能を中止して、すぐに巨大掲示板サイトへ接続した。そしてアリスのスレッドに目を通す。
「あ……ははは」
おかしくておかしくて、おかしくなりそうだった。
びっしりと。一言の隙間もなく、全部私への非難だった。
誰がかわいいとか、誰は俺の嫁とか、そんな他愛のないメイド評価合戦が繰り広げられてたはずのスレッドは、私に対する悪意で埋め尽くされていた。ずーっと送るとたった一つだけ私を擁護する書き込みがあったけど、それもすぐに非難の言葉の渦に飲み込まれていた。
携帯を持ったまま額に手をあて、込み上げてくる笑いに身を任せた。
あれだけやってもまだ生温いって言うんなら、とことんまでやってやる、やってやるよ!
恐れを殺せ、視線に構うな、嘘と妬みをねじ伏せろ。
どちらが女王か分からせてやる。
次の日から私はマヤに対し一切の容赦をしなくなった。目についた時だけではなく、四六時中呼びつけては無駄に何かを言いつける。営業に支障が出ないラインはぎりぎり見極めているから、所マネージャに何を言われる事もない。そもそもランク至上主義の彼が私に注意する事などない。
マヤは随分としぶとかった。それどころか段々と何を言っても反抗的な態度を取らなくなっていった。過去形女王様の内心が召使いに成り下がる事はないだろうけど、少なくとも表面上は見せなくなった。アリスから外に戦う場所を完全にしぼったのかもしれない。だけどそれで私がやめると思ったら大間違いだ。
今年いっぱいにはケリをつける。
クリスマス・イブを二日後に控えた十二月二十二日、私が知るかぎり一度も休んだ事のないマヤが初めて休んだ。
これには所マネージャ始め他のみんなも驚いたようだった。
私は努めて興味のないふりを装いながら、心の中でざまーみろ、と呟いた。
二時頃になって、ふと店内がおかしい事に気づいた。いつもなら昼の忙しさは一時半には収まるのに今日はまだ混雑しているのだ。かといって客が回転している様子もない。よく見ればみんな何だか動きが悪い。こんな調子じゃ明日からのクリスマスイベントを乗り切れるか心配になってくる。
「フウカさん、キョウコとイチゴを十四番の団体さんにつけて下さい」
通りかかった彼女に指示を出しながら、私は二枚のトレイにどんどん料理を載せていく。
「それじゃあドリンカーは誰がやるのよ!」
「私が合間見つけて入ります。あの子達じゃ遅すぎる」
私一人でホールとドリンカーをやるのはきついけど、そうでもしないといつまで経っても客に品物が出ない。要領が悪いなら客につけていた方がいい。最大派閥のリーダーとして、アリスの信頼を落とすような真似だけはできない。
「先輩、私初めて指名入ったんですけど……」
「そんなのわざわざ聞きに来ないで! 指名が入ったんならさっさと行きなさい!」
報告に来たド新人のミイナを一蹴して、私はカウンター内のドリンカーに入った。新人教育をしてる暇はない。
オーダー受信の紙がのれんのように吐き出されていた。すくい取って下の方からざっと確認し、グラスやカップを一気に出す。エスプレッソとココアを機械にかけている間にジュース類を注ぎさっさと出し、それから果物を刻む。それが終わると、ちょうど出来上がったエスプレッソとココアに仕上げをしてホールの人間に出し、果物を添えるメニューを仕上げる。私もこの数ヶ月で随分と成長したもんだ。
「あ、あの、ユメリちゃん……」
「はい、何でしょう御主人様?」
手を止めてカウンターの客を見ると、エスプレッソを頼まれた。
今作ってたの見てただろ。一緒に頼めよ!
勿論そんな事口が裂けても言えない。でもすごい切実。ブレンドならすぐに出せるんだけど――
と、私にしか出来ない技がある事を思い出し、私は客の方に出た。
「何でエスプレッソなんて言うんですか! 御主人様はこんなにもブレンドコーヒーがお似合いなのに!」
客の頬を引っぱたき、右手を胸に当てる。
「ああ、この右手果てるまで私は止まれないのです」
喜ぶ客に一礼してドリンカーに戻ると、私は保温器のブレンドのポットを取り、速攻で注いで客に出した。ちょっとずるくて申し訳なかったけど、喜んでくれてるみたいなのでよしとする事にした。
それからまた増えていたオーダーをある程度処理し、私は再びホールに出た。
待たせてしまった指名客のテーブルに戻って謝り、殴って、お話をして、注文をとって、キッチンに戻って、指示を出して、ドリンクを作って、次の指名客のテーブルに着く。何だか今日はエンドレスだな。
ようやく落ち着いて時計を見ると、もう五時を回っていた。
閉店間際、事件が起きた。
今日初めて指名を受けたばかりのミイナが、客の男をトレイで殴ったという。
その報せを聞いて、別の客の相手をしていた私は急いでその席へと向かった。
「お前何様だよ!」
う、かなりヒートアップしてる。
ミリタリー風の格好からして、今はあんまり見ない軍事オタクのようだ。弱った。
テーブルをばんばん叩きながら、その男はミイナを罵倒し続ける。彼女は泣きじゃくりながらひたすら謝っていたけど、どうにも収まる雰囲気ではなかった。マヒロさんやフウカさん含め、周りの子も怯えちゃって固まってしまっている。
マリさんが立ち上がったのを見て、私は彼女を手で制した。この子は私の派閥の子だ。彼女に甘えるわけにはいかない。
「御主人様、何か問題ございましたでしょうか」
経緯は知ってる。ただこの場合これ以外の切り出し方が分からない。
「誰だお前」
私の事を知らないとはね。一見客か。
「申し遅れました、私ユメリと申します。この子は私の大切な後輩です」
「へえ、お前が噂のユメリか」
噂、という言葉に思わず身体が反応する。
「随分と腹黒いらしいじゃん、お前」
「私の評価はどうぞご自由に。それより何があったか教えて頂けますでしょうか」
「こいつが俺の事殴りやがったんだよ、おぼんで!」
俺こそ被害者とばかりに頬を押さえる男。だけど誰も理由なく客をトレイで殴ったりはしない。おおかたこの男がセクハラまがいの事をやったんだろう。ミイナに事実確認をすると、殴ったけどそれはこの男がスカートの中に手を入れてきたからだという。
納得はいかないけど穏便に済ませたかったので、私は男に向き直り頭を下げた。
「御主人様、申し訳ございませんでした。この子もこうして謝っている事ですし、許して頂けないでしょうか」
「駄目だな、ちょっと店長呼んでこい」
所マネージャを呼んだら、あの客にへつらうマネージャは絶対この男に謝罪するだろう。もしかしたら慰謝料を払う事になりかねない。そうしたらミイナはクビだ。
こんな奴に泣かされて、その上クビだなんて理不尽な話、私は認めない。
だから絶対にマネージャは呼ばない。
「申し訳ありません、執事はただいま出払っております」
「こんな時までメイドごっこしてんじゃねえ!」
男がいきなりテーブルをなぎ払い、みんなの悲鳴と食器の割れる音が店内に響き渡った。
「おい何の騒ぎだ」
今の騒ぎを聴きつけて所マネージャが事務所から出てきてしまった。
ああ、今は勘弁して!
「お、お客様、どうなさ――」
「所マネージャ、ちょっっと待って下さい。私が何とかしますから」
ここで所マネージャに入られるわけにはいかない私は、彼の身体を押し返すと、睨みつけて留まらせた。
「で、でもだな……」
「そういうわけで、私が責任者です」
男に向き直って、きっぱりと言い放つ。
「だからお前のごっこ遊びに付き合ってる暇はねえんだよ!」
怖い、逃げ出したい。でも私しかミイナを助けてあげられない。
負けちゃ駄目だ、私は深く息を吸ってすくんだ身体に活を入れた。
「私達は本物のメイドです。中途半端な気持ちで働いている者など一人もおりません」
「へえ本物ってか。じゃあ御主人様には絶対服従だな。おいミイナ、お前ちょっと外出ろや」
「や、やあぁっ!」
ふざけるな――
男がミイナの腕を掴み上げた瞬間、私は思いっきり男を殴り飛ばしていた。
不意打ちだったので男は派手によろけてテーブルと一緒に床に転がった。
「ちょ、ユメリちゃん!」
所マネージャが声を張り上げるけど、構ってる余裕はない。
「てめえ! メイドが御主人様に手をあげていいとでも思ってんのか!」
「私だけは許されているんです」
同じ箇所を二度殴られ頬を真っ赤にした男がわめき散らすのを、私は努めて冷静に切り返した。
腹をくくった。こうなったら戦ってやる。
我に帰った一人が警察呼びます、と駆けていった。でもちょっと遅いかも。
と、肩を叩かれた。
振り向くとマリさんが立っていた。
「止めないで下さい」
「止めないわ。――でもあなたじゃここから先は無理ね。だから」
マリさんは私の手に勝手にタッチすると、ミイナを助け起こした。そして私に預け前に出ると、凛とした声を張り上げた。
「メイドとは主人に仕える者。主人とはメイドを許容する器を持つ者。器なきお前にアリスに入る資格はない」
「ふざけんな……何だよ、何なんだよこの店はぁ!」
完全にキレた男がポケットから折り畳みナイフを取り出した。
客もスタッフの子達も所マネージャも、それを見た全員が一斉に悲鳴をあげ後ずさり、私とマリさんの周りが一気に広くなった。
「馬鹿にしてんじゃねえ!」
男がマリさんに斬りかかる。
「マリさん!」
ナイフを握った手が容赦なく振り下ろされる。
しかし彼女はその手首を掴むと、もう片方の手で襟首を掴み――男を床に叩きつけた。
誰にでも出来ると言わんばかりの短い動作だった。
男が失神したのを確認して彼女が顔をぱっと上げる。ふわっと髪の毛がまき上がり見えた彼女の頬に、汗など一粒もなかった。
「す……げえええ!」
客の一人が興奮した声を上げる。それを皮切りに、店内に歓声と拍手の嵐が巻き起こった。マリさんはそれに反応する事もなく、所マネージャに男を引き渡し、残っていた客に向かって謝罪した。
「まことに申し訳ありませんが、このような事態ですので本日のティーパーティーはこれで終了とさせて戴きます。怪我をした方、気分を害された方は遠慮なく私どもにお申し付け下さい。尚、本日の代金は結構です――」
マリさんの指示に従ってスタッフの子達が慌ただしく動き出した。他の客は文句などある筈もなく、マリさんを褒め称えながら帰っていった。
「マリ先輩、ユメリ先輩、本当にありがとうございます……」
マヒロさんに介抱されていたミイナが、まだ止まらない涙を拭いながら謝ってきた。
ミイナに完全に非がないわけじゃない。だから私はこの子を怒らないといけない。
「ミイナ、どうしてこうなる前に私を呼ばなかったの?」
「だって、先輩とっても忙しそうだったし、自分で考えないと、いけないと、思って……!」
「その結果がこれよ! 自分で対処できないならちゃんと報告しなさい!」
「ま、まあユメリちゃん。ミイナちゃんまだ入ったばっかなんだし、仕方ないよ」
ごめんなさい、と繰り返すミイナの頭を撫でながらマヒロさんが言った。
何だかすごいむかついた。
「入ったばっかなら何してもいいって言うんですか! みんなが迷惑するんですよ!」
「でもユメリちゃんだって――」
「マヒロさんはリーダーになった事ないから分からないんですよ」
足の下でカップの破片がパキっと鳴った。
「ごめんなさい……」
謝るマヒロさんを見て、私は小さく舌打ちをした。
何か私が悪いみたいな空気になっている。
どうしてこうも上手くいかないんだろう。
「ごめんなさい皆さん。こんな時に悪いけど、私ちょっと休憩貰いますね。ユメリもどう?」
だんまりを決め込んでいたマリさんが唐突にそんな事を言って、私の腕を取った。確かに今日は忙しかったし、こんな事件があったりでろくに休んでもいない。それにもうこの場にいたくない。だから少し考えてから、私はマリさんの誘いを受ける事にした。
やっぱり私の苦労を分かってくれるのはマリさんだけだ。
彼女の後をついて行きながら、改めてそう思った。
「ユメリ、あなたもう少しリーダーとしての自覚を持ちなさい」
その台詞に、私はプルタブを起こしたところで動きを止めた。まさかマリさんまで私を責めるとは思わなかった。
すっと視線を上げると、マリさんは手に持った缶コーヒーを手すりの上に置いた。
屋上を冷たい風が吹き抜けていく。同じ場所、同じ夜空の下、しかしマリさんはいつかのように苦笑いを見せる事はなかった。
「たった二ヶ月で驚くほどの成長を見せ、名実共にあなたはアリスの看板になった。これはアリスの歴史でも類を見ない速さだわ。でもね、速すぎる。あなたの速度にあの子達がついてこれてない」
多分、以前の私ならマリさんの言葉を絶対的に信じていただろう。でも今は違う。
「私の派閥に入った以上、私に従ってもらいます」
孤高のこの人には私の悩みは分からない。
「二ヶ月前のあなたに同じ事が言える?」
「その頃の事は忘れました。思い出したくもありません。……休憩じゃないのならもう行ってもいいですか?」
説教を聞かされるつもりはない。私はくるっと回れ右をして、アリスに戻ろうとした。
「あなたは誰と戦っているの?」
その問いに仕方なく私は足を止めた。
「もちろんマヤですよ」
「……そう。ならもう八つ当たりはやめなさい」
「八つ当たりじゃないですよ。……もういいじゃないですか、終わった事なんて」
「じゃあ明日以降はあの子達の速度に合わせてあげられるわね?」
私は返事をしなかった。
無言が気まずくて、思わず視線を逸らした。
「納得いってないようね」
「当たり前じゃないですか。ミイナの為を思って取った行動なのに、何でここまで説教されなきゃいけないんですか」
段々と言葉が刺々しくなっていくのが自分でも分かった。
「あなたが全体を見て的確に指示を出していれば、もしかしたら防げたかもしれない。ミイナは今日初めて指名を貰ったばかりなのよ。他の子に関してもそう。ちゃんと一人一人に合った指示を出しなさい。マヤは難のある性格をしているけれど、少なくともそれは出来ていたわ」
「私がマヤに劣っているって言うんですか! マリさんは私の味方じゃなかったんですか!」
「そのつもりよ。でもね、このままじゃアリスが崩れる。言ったわよね? アリスに仇名すのなら誰であろうと――」
「潰す、ですか? そんな事言って本当は私に追い抜かれるのが怖いんでしょう!」
勢いで言った瞬間、頬に衝撃が走った。
マリさんは手を振り抜いたまま、少し悲しそうな目で私を見つめていた。
「――そんなんじゃいつか壊れるわよ」
叩かれた頬がじんじんと痛む。
この人は何も分かっていない。私の苦しみなんて、何も。
「もうとっくに壊されちゃってるんです。生活も、彼も」
精一杯我慢したけど、涙は止められなかった。
「……失礼します」
マリさんが何かを言おうとしたみたいだったけど、私はそれを振り切って屋上から逃げ出した。
神田川近くの自販機の横、いつもの指定席にしゃがみ込んだ私は、何となく買ったオレンジジュースを一口飲んで溜め息をついた。
後片付けを放棄して帰ってきてしまった事は申し訳なかったけど、他の誰とも気まずくて一緒にいれないのが事実だ。
どんなに頑張っても上手くいかない。どんなに器用に動いたつもりでも全部空回り。どこでおかしくなっちゃったんだろう。
もうアリスにいる意味も完全に失われた気がする。マヤはもうどうでもいいし、男性不審も覚醒ユメリでは克服できない。貴宮もまったく見つけられない。
今年いっぱいで辞めようかな。
早く家に帰れと責め立てるように、ニットコートの隙間から風が入り込む。
地面に缶を置いて、膝を抱えるように出来る限り小さくなるけど、寒さは拭えなかった。
……抱きしめられるってどんな感じなんだろう。
やっぱ温かいのかな。抱きしめられたいな。
そのまま眠るように目を閉じる。時折人が通りかかったけど、私はぴくりとも動かなかった。みんなきっと変な奴だと思っただろう。
本当に眠りに落ちそうになったところで、私ははっとなって顔を上げた。手の感覚が薄くなっている。死ぬ気か私。
ずり落ちそうなマフラーを直しながら立ち上がり、飲みかけのオレンジジュースをこぼさないようにそっとゴミ箱に入れる。
それから大通りに向かって歩き始めた私は、少し行った所で立ち止まり後ろを振り返った。犬と暴漢、二度も襲われた経験から、道端でしょっちゅう振り返る癖がついてしまったのだ。
だから、これは偶然なんかじゃない。
向いた先、裏通りの十字路に立っていた人影に、私は思わず大きく目を見開いた。
「貴宮……?」
呟いて、私は歩みを止めた。
目を凝らして見る。そのシルエットを忘れるものか、間違いなく貴宮だ!
彼はやっぱり秋葉原にいた。絶対に見間違いなんかじゃない。久しぶりのこの心臓のリズムが何よりの証拠だ。
ところが一歩踏み出した途端、あちらも私に気づいたのか、逃げるように角へと消えてしまった。
私は急いで角まで走って彼の消えた方を目で追った。けれどもう彼の姿はどこにも見当たらなかった。もしかしたらと期待を込めて怪しい場所――ビルの入口や車の陰などをくまなく探したけど、彼を発見するには至らなかった。
そして次の十字路で、私は完全に彼を見つけられないと悟った。
ふらついた足でビルの壁にもたれかかり、彼が消えたかもしれない遠くにピントのボケた目を向けた。
拒絶されるのは分かっていた。けれど実際目の当たりにすると覚悟なんて鎧はあっさりと消えて、一瞬で私の胸は痛みでいっぱいになってしまった。呼吸すらうまく出来なくなる。この苦しみの癒し方を、私は知らない。
もう許してくれなくてもよかった。ただ、せめて謝りたかった。
でもそれすらも、私には許されない事のようだった。
どうしてここにいるんだろう、なんて一昨日から五十回は考えた疑問をまた思い浮かべながら、私はサンタ服っぽいあのメイド服に袖を通した。メインイベントの十五分間でいいから、としつこく迫る所マネージャに負けた形だった。
昨日から始まったクリスマスイベントの盛況ぶりは私の予想を遥かに上回っていて、初日の昨日はなんと二時間待ちの列が出来るほどだった。これには所マネージャも驚いたようで、本番ともいえる今日は急遽店内をスタンディング形式にする事となった。しかしさすがイブというだけあって、来客数は昼の時点で昨日を遥かに上回り、結局長蛇の列が出来上がってしまった。
「これも君達三人のおかげだよ」
待機する私達トップスリーに向かって、涙を流しそうな勢いで喜ぶ所マネージャ。話によるとアリス始まって以来、最大の来客数らしい。
マリさんを見ると、いつもより豪華ではあるもののやっぱり真っ赤な格好だった。マヤはその青髪に合うように白を基調とした服だった。どうやら二人とも自前らしい。
二人がこっちの視線に気づいて顔を上げたので、私はすぐに視線を逸らした。マリさんとは昨日から一言も話していない。
「じゃあよろしく。この人気ぶりなら年明けにでも先方に舞台のオーディションの話伝えるから」
上機嫌で私達の肩を叩いて、所マネージャは事務所に戻っていった。気楽な人。
アナウンスが流れ、会場のボルテージが一気に高まる。
そしてメインイベントが始まった。ステージに出ていった私は、客の熱狂ぶりに圧倒された。
ひっきりなしに飛び交う歓声に、私もマリさんやマヤのように手を振って応える。見掛けはノリよく、笑顔を忘れず。
嘘の笑顔を振りまくたびに心の何かを失うというのなら、私の心はきっともうマイナスの領分まで到達している。
それでもこんな事はもうこれで終わり。もう少し我慢すればこの雑音から、アリスから解放される。
「え? マヤから?」
「うん。みんな帰った後待ってなさい! 以上、マヤさんからの伝言だーって、ヒナが」
閉店後、レジの精算をしていた私の所へやって来たマヒロさんは、マヤだかヒナだか分からない真似をしながらそう言った。
「何の用――って考えるまでもないか」
千円札を数えながら聞ける話じゃなかった。私はお札の束をぱん、とレジカウンターに叩きつけ溜め息をついた。
一回へこませたし、もう辞めるつもりだから、正直もうどうでもよかったのだけど――
「そういえばマヤは? 見当たらないんですけど」
「明日のための買出しだって。……ユメリちゃんどうするの?」
どうしよう。ここで無視して帰るってのもありだけど、それで明日余計な面倒を起こすのも疲れる。
――そうだな、きっちりとケリをつけておいた方がいいかもしれない。
「待ちます」
「私も待ってようか?」
「いえ。一人で大丈夫です」
丁重に断ったが、マヒロさんは心配顔を崩さなかった。考えすぎだと思う。だって私の方が立場は上なんだから。どちらかと言えば、むしろ年明けも残るだろうマヒロさんの方が心配だ。私がいなくなった後、余計に目をつけられる事のないように、この人は関わらせない方がいい。
「私を誰だと思ってるんです」
マヒロさんに拳を突きつけ、私は不敵に笑ってみせた。ちなみに今はシックな普通のメイド服に戻っている。サンタメイドじゃこんな台詞も格好つかない。
「強くなったね、ユメリちゃん」
「なんたって覚醒しましたから」
使い勝手のいい言葉だ。
マヒロさんはそれでも心配そうだったけど、納得はしてくれたようでまた仕事に戻っていった。
少し時間があったのでメイドの格好のまま一人でコンビニに行き、お茶を買ってから私はアリスに戻った。みんなはもう帰ってしまっていた。時計を確認すると十時半を回っていた。
実は今店内の人間は私一人だったりする。所マネージャは本社に行っていて、十二時頃に戻るらしい。日付変わっても働いてるなんて、クリスマス期間だというのによくやる。
私が残る話については、明日の打ち合わせという事になっている。マヤが通したらしい。
で、そのマヤだけど、まだ外から帰ってきていない。
……まさか戻ってこないっていうオチじゃないだろうな。
何かそんな気もしてきたので、私はあと十分だけ待って帰る事にした。
誰もいないアリスは何だか不気味だった。照明も消され銀テープも片付けられたステージや、店内を彩る聖なる夜の飾り付け、鮮やかなものほど人がいないと逆に怖い。
ステージの真ん中に腰掛けて、私は頬杖をついた。明日でこのステージも終わり、またいつもの営業スタイルに戻る事になる。多分こんな経験もう一生味わう事はないんだろう。 できるならもっといい気持ちでやりたかった。心の底から微笑んで、手を振って、一番後ろの壁に寄りかかる人には精一杯の気持ちを込めて――
いつの間にか俯いていた顔を上げ、私は立ち上がった。
「帰る」
声にして、催眠術のような妄想を解く。ばいばいアリス、と一足先に心の中で呟いて、私は着替えに向かった。そしてロッカーを開けて――
「あいつ……」
私の私服がなくなっていた。これでは帰るに帰れない。かといって相談する相手もいない。どうやらこれがマヤの目的だったようだ。
ロッカーを蹴りつけてから、ドレッサーの椅子に座る。まともな話し合いができると少しでも思ってしまった自分が恨めしい。
私は髪をかきあげて室内を見回した。あいつへの報復は後で考えるとして、今はどうやって帰るかだ。片瀬ちゃんに服持ってきてもらおうか。幸いにも携帯はポケットにある。
とポケットに手を入れたその時、上の階が崩れてきたんじゃないかっていう轟音と振動がして、私は反射的に固まってしまった。
音が止んで、周りを見渡す。どうやら外のようだ。
この部屋の外、というと心当たりがあった。ロッカールームの外には、今日のステージの為にどかしたテーブルと椅子が天井近くまで積み上げられている。でもここに入る時には崩れる様子はなかった。地震が起きたわけでもない――
嫌な予感がして私はドアノブに飛びついた。
予感的中だった。思いっきり押したけど、ドアは五センチくらいしか開かなかった。何度か開け閉めを繰り返し、蹴りつけてもみたけど、結果は変わらなかった。
隙間から覗くと、やはりテーブルと椅子が崩れ落ちていた。
「マヤ! いるんでしょう!」
直感的に私は叫んでいた。一角だけ崩れるならまだしも総崩れなんて、これは人為的すぎるからだ。
返事は返ってこなかった。ボロを出すつもりはないらしい。
どうにもならないので、私は再びドレッサーの椅子に戻って深く腰掛けた。開けられない以上、所マネージャが戻ってくるまで待つしかない。つまり終電は間に合わない。
首を倒して天井を見上げる。どうしてマヤはこの局面でこんな地味な嫌がらせをするんだろうか。暴漢に襲わせたり、嫌な噂広めたり、もっとひどい事をたくさんしているにしては幼稚すぎる。確かに帰れないというのは意外とダメージでかい。けれど明日になればこの事はアリスの誰もが知る事になり、そうすればよりダメージを受けるのはマヤ自身に他ならない。それが分からないほど馬鹿な奴ではないと思ったんだけど――
色々と考えていると、ふと変な匂いが私の鼻を刺激した。
何だこれは――
匂いが濃くなるにつれ、私の頭の中でも照合が進んでいく。まさか、認めたくはないけど、これは……焦げ臭いってやつ?
ばっと身体を起こし入口に目をやると、ドアの隙間から煙のようなものが見えた気がした。
駆け寄ってドアを開いてみると、黒く濁った空気が入り込んできた。手で散らしながら右手の方を凝視すると、キッチンの方から煙が出ているのが分かった。料理を焦がしましたって次元の話じゃなかった。
ここまで……ここまでやるの?
「マヤーっ!」
ドアに手をかけながら、私はありったけの声で叫んだ。どうして彼女は私を憎むの? どうしてここまでされなきゃいけないの? マヤ派に入る事を拒んだから? ランキングで追い抜いたから? 私が昔されたように嫌がらせをしたから? でもどれだって私から仕掛けたわけじゃない。私は追い詰められて仕方なく戦う事を選んだだけだ。ほっといてくれたなら何もしなかった。私はただ自由に生きたかっただけだ。
それなのに。
段々と視界が濁ってくる。ドアを閉めたけど、隙間がある以上煙は入ってくる。
何とかしないといずれ燻されてしまう。
私は立ち上がって探し始めた。窓なんてないと一瞬で分かる。天井近くをぐるっと見渡すけど、換気扇もついていない。天井に一つだけ通風口だか換気扇だかよく分からないものがあったけど、どっちにしろ抜けられる大きさじゃなかった。
死にたくない、死にたくない!
ドレッサーを押しのけて、裏を確認するけど穴なんて開いてない。
ダンボールをどかして壁際を探ってみたけど、やっぱりそこにも何もない。
「マヤ! マヤ! やめてよもう!」
私はドアをガンガン叩いて叫んだ。
「謝るから! 私の負けでいいから! だから助けてよ! ねえ!」
何度も呼びかけたけど、ドアの向こうから声が返ってくる事はなかった。
「マヤ……!」
へたり込んだ私の耳に、突然ドアをガンと叩く音が響いた。私じゃない。私は今叩いていない。
というか、このドアじゃない。
一瞬誰かが助けに来てくれたのかとも思ったけど、そうじゃないみたいだった。何故なら音はこの部屋の中から聞こえたからだ。
またガン、と音が響いた。
私は顔を上げ部屋の奥を見つめた。音はロッカーのどこかから響いてきているようだった。
「だ、誰かいるの……?」
立ち上がって小さく呼ぶと、私の声に反応するようにまたガン、と音が響いた。
私の他にもう一人閉じ込められている人がいる……?
マヒロさん? あるいはフウカさんか? あるいはマヤ派を抜けた子の誰か? マヤにここまでの恨みを買うとは思えないけど――まさか、想像したくないけど、マリさん?
「誰なの……?」
呼びかけるけど、答えは返ってこなかった。口を塞がれているのかもしれない。とにかく早くしないと、私ももう一人の子も煙に巻かれて死んでしまう。
音を頼りに絞っていった私は、一番右側の奥から二番目のロッカーで立ち止まった。ここは誰も使っていない所だ。ノックをすると、確かにドアは蹴り返された。
でも何で出れないんだろう――とロッカーのドアをよく見ると、上下に穴が開けられ太い針金でぐるぐるに固定されていた。これじゃ女の子の力じゃ出れない。
「待ってて。今開けてあげるからね」
とは言ったものの、渾身の力を込めても針金はびくともしなかった。お菓子の袋を閉じるように綺麗にねじられているせいで、無理矢理引きちぎる事もできない。まるで恨みの深さを表しているようだった。くそ、時間ないのに!
頭を掻こうとして、私は手を止めた。
そうだ、ヘアピンでどうにかなるかも。
すっと一本抜き取って、針金の先端の分かれた部分にはめ込む。そしてそのまま握りこんで回す。硬いけど、両手を使うと何とか回った。
「もうちょっとだからね! 待って、て……!」
ある程度開く事ができれば後はこっちのものだった。ヘアピンを口に咥え、両手で解いていく。
「あと一つだから!」
中にいる子を励ますように声を張り上げる。いや、私が心細いから声をかけているのかもしれない。一人じゃない、それはこんな状況で唯一の救いだから。
同じ要領でもう一つの針金も解き、私は思いっきりドアを開いた。
「大丈夫――」
閉じ込められていた子を、私は一瞬理解できなかった。
「……何で……?」
噛まされたタオルの奥で怯えた声を上げる女の子――
そこにいたのは、私を閉じ込め火を放った筈のマヤだった。
「ねえ、何でマヤがここにいるの!」
マヤの拘束を解くなり、私は彼女を問い詰めた。
「あんたこそ、どうして私を助けるのよ……」
「そんな、誰か閉じ込められてたらそりゃあ助ける――」
言いかけて、マヤの口が震えている事に気づいた。私に怯えているみたいだ。もしかして私がやったって思ってるのだろうか。
「違う、私だって閉じ込められてるんだから! こんな事するの、絶対マヤだって……」
マヤだって、思ったのに。
「閉じ込められてる……? どういう事? それに何、この焦げ臭い匂い――」
マヤじゃないなら誰? 誰が私を追い詰めたの?
「ユメリ!」
肩を掴まれて、私は我に帰った。
「火事なのね? そして、この部屋から出れないのね?」
マヤの的確な分析に、私は黙って頷いた。彼女は私を置いて立ち上がると、身を低くしながらドアの方に向かった。
「むやみに開けない方がいいみたいね。ユメリ、詳しく教えなさい。火事が起きてからどのくらい経った? この向こうはどうなってるの?」
「十分は経ってないと思う。テーブルが塞いでて少ししか開けられない。……ねえ、今までのもマヤの仕業じゃないって言うの?」
彼女は必死に何かを探しているようで、私の問いには答えなかった。
今までのすべてが崩れていきそうで、だから私は立ち上がって彼女に近づいた。
「ねえ答えてよ! 私を襲わせたのもマヤなんでしょ!」
「今はそれどころじゃないでしょう!」
私の手を思いっきり振りほどいて、マヤは隅のカラーボックスを探りにかかった。
「……何があったのか知らないけど、あんたが私を追い抜いてからは何もやってないわ」
「本当に?」
「本当よ。私、自分より上の者は実力で蹴落とす主義だから。信じて貰えないだろうけど」
そんな言葉、勿論信じられる筈がなかった。でもマヤも閉じ込められていた、その事実は十月からの出来事をすべて否定しかねないわけで。
「二ヶ月で私を抜くなんてそりゃあ認めたくないけど、でもそれが事実なんだから認めなくちゃいけない……あった!」
喜びながらマヤがカラーボックスから取り出したのは、工具箱だった。
「ねえ、あんた携帯持ってる?」
唐突に聞かれて、私は携帯を持ってる事を思い出した。それを告げると彼女は何処にかけたかを尋ねてきた。私は黙るしかなかった。
「忘れてたのね。ったく……。とにかく消防! さっさとかけなさい!」
「マヤは何する気……?」
「見りゃあ分かるでしょう! ぶっ壊すのよドアを!」
トンカチとマイナスドライバーを取り出して、マヤが叫んだ。
「開けたら煙が……!」
「ここに閉じこもってたって死ぬでしょう! いいからさっさとかけなさい!」
ものすごい剣幕で私を叱って、マヤはドアを開けた。一気に煙と熱風が入り込んでくる。それをしゃがんでやり過ごしながら、彼女はトンカチを振り下ろす。どうやら蝶番を引っぺがそうとしているようだ。
「早、く!」
煙の直撃を受け、咳き込みながらマヤが叫んだ。
「う、うん!」
ようやく身体が動き、私は携帯を開いた。
その瞬間、突然携帯が鳴った。相手はマヒロさんだった。この際マヒロさんでもいい、消防を呼んでもらおう!
「ユメリちゃん、話し合い大丈夫だった?」
「マヒロさん、消防車呼んで下さい!」
「え? 何?」
「アリスが火事なんです! お願いしますよ!」
余計な事を喋ってる暇はない。私は最優先事項を伝えると、電話を切った。
ようやく頭が回ってきた私は、まずマヤが拘束されていたタオルを拾い、それを二つに引き裂いた。次に片っ端からロッカーを開け飲み物を探した。そしてヒナのロッカーで飲みかけのお茶のペットボトルを見つけた私は、タオルにお茶をかけた。濡らしたハンカチの代わりだ。
「交代しよう」
マヤの口にタオルを当てると、彼女はそれを受け取り後ろに下がった。全身煤で真っ黒になった彼女は、たった一分かそこらでひどく憔悴しきっていた。
「そこにあるお茶でうがいして!」
それだけ叫ぶと、私も蝶番の解体に取り掛かった。煙が目に染みるなんて泣き言は言ってられない。薄目で見ると、マイナスドライバーはもう半分くらいまで入り込んでいて、あと少しで下のネジも外れそうだった。
私は一心不乱にマイナスドライバーの頭に向かってトンカチを打ち続けた。
生き延びてやる。生き延びてやる。
――絶対に生き延びてやる!
そう強く思いながらトンカチを振るった時――
金属の割れるような音と共に、ついに蝶番が外れた。
最後のうがいで一息ついた私達は、煙が酷い上の蝶番を外すのを諦め、作戦を変更する事にした。単純明快にして最後の手段――ドアを蹴破る、だ。もう室内にがんがん煙が入り込んできていてお互い真っ黒けになっている今、一刻の猶予もない。
「じゃあせーので蹴るわよ」
マヤの言葉に私は無言で頷いた。これで駄目ならもうどうしようもない。
「マヤ、生きよう」
「分かってる事言わないで」
すっげーむかつく。
……でも、今はそれが何だか心地いい。
「せーの!」
掛け声と共に私達はドアを蹴りつけた。上の蝶番から軋んだ音が漏れた。
「行ける! せーの!」
もう一度蹴りつける。上の蝶番が、今度はバキっと音を立てた。
「せーの!」
三回目、ついに上の蝶番がネジ一本残して外れた。これで充分な筈!
二人でドアの下の方を押すと、私達なら通れるくらいの隙間が出来た。
「やった!」
まず私から脱出する事になり、私はドアの隙間に潜りこんだ。
「左よ! 非常階段から降りるのよ!」
「分かってる!」
タオルで口を押さえながら這って進む。ほんのちょっと前も見えないけど、非常階段側がどうなっているかは分かる。ここは少しスペースが開いている筈だ。アリス内の電気のスイッチがあるから、物を置かないようにしているのだ。換気扇のスイッチもここにある。非常階段はすぐそこだけど、もしまだ電気系統が生きているのなら入れておいた方がいいに決まってる。
私は目をつぶって立ち上がり、壁をなぞっていった。そしてスイッチを見つけると、一番左の三つをオンにした。
うっすらと目を開けると、視界が少し開いていた。どうやら換気扇は生きていたようだ。上を見ると、少しだけど煙が吸い込まれていってるのが分かった。
「やっと脱出できる!」
私は歓喜の声を上げながら非常階段のドアに駆け寄った。
これで私達は助かる――
というのは甘い考えだった。ドアノブを掴んだ瞬間、焼肉の鉄板に触れたような音と共にものすごい熱さと痛みが手のひらを駆け抜け、私は悲鳴を上げて後ずさった。
「どうしたの!」
「熱くて掴めない……!」
「見せて!」
駆け寄ったマヤは私の赤く腫れた右手を掴み上げて一瞥した。
「身を低くしてタオルで手を押さえてなさい」
私の手をそっと離すと、彼女は息を止めてタオルを手に巻いた。もうほとんど水分のないタオルだという事は私にも分かっている。幾分かマシな程度で、きっと普通に掴むには足りない。
それでもマヤはドアノブを掴んだ。タオルの焦げる音が私にも届く。
苦悶の声を上げ、顔を歪めながらもドアノブを回す彼女は、ドアを押して――そして手を離した。
「膨張しちゃってる……!」
言うなりマヤはその場に膝をつき、咳き込んだ。
「マヤ!」
彼女の手を見ると、タオルが真っ黒に焦げていた。もしかしたら私よりひどい火傷を負っているかもしれない。
でもそれよりも危険だったのは、彼女の咳が止まらない、という事だった。
私は急いで自分のタオルを彼女の口に当てた。しかし彼女はそれを押しのけた。
「ちょっと、死んじゃうよ!」
無理矢理にでも押し付けるけど、マヤはタオルを断固として受け取らなかった。その代わり、彼女は床に顔を近づけきれいな空気を吸い込み始めた。そして何とか呼吸を整えると、力強い言葉を吐いた。
「死なない、わよ。脱出して絶対に犯人、見つけてやるんだから」
「うん、そうしよう……!」
「……ユメリ、あんた意外といい、奴ね」
タオルを巻きなおし、マヤがすっと立ち上がった。
「ごめんね、入ったばっかの頃、いじめちゃって」
咳き込むのを堪えつつ、彼女は煤とよだれだらけの顔にちょっぴりすまなそうな笑顔を浮かべた。女王気質のそれではなく、私と同い年の普通の女の子の笑顔を。
それは、この二ヶ月間マヤが本当に何もやってないって思えるものだった。なら私は彼女に謝らないといけない。今私がやるべき事。それは――
「私がドアを開」
「脱出できたらさ! 一緒にメイド喫茶探さない?」
私の言葉を掻き消すように、一際大きくマヤが言った。
「私とあんたと二人で! どうしてもって言うならマリも誘ってあげる! ね、いい話じゃない?」
「私がやるってば……!」
「うるさい! 後輩は黙ってろ!」
近づいた私を突き飛ばして、マヤが叫んだ。そしてもう彼女は何も言わなかった。ドアノブを思いっきり掴んで、体当たりするようにドアに身体を押し付け、気合とも苦痛ともつかない声を張り上げてドアと戦い続ける。
「あ、あ、あ、あ、あ――!」
熱膨張したドアが軋み、少しづつ開いていく。
そしてマヤは手を離して、渾身の力でもって蹴りつけた。
ぎこちなくも、ドアが開いていく。
「やっ、た――」
マヤが力なく安堵の声を上げる。非常階段はまったくの無傷だった。
「ユメリ、これでもう、大丈夫」
「危ない!」
熱膨張したドアがかろうじて支えていたのか、天井が一気にマヤに向かって降りそそいだ。
私は反射的にマヤを突き飛ばしていた。
テーブルが崩れ落ちた時とは比べ物にならないほどの轟音、轟音、轟音。
自分まで避ける時間はなく、私は焼け落ちてきた天井をまともにかぶった。
遠のきそうな意識の中、マヤの呼ぶ声が聞こえた。
――よかった、私の行動は無駄じゃなかった。
天井があったはずの場所にぽっかりと穴が開いている。
それはとにかく真っ暗で、きっと底がないんじゃないかってぐらい深く見える。
天井なのに底がないだって。変な言い方しちゃった。
あは、は。
朦朧とした意識が少しづつはっきりとしてきた。目の焦点が合い、天井はちゃんと剥き出しの配管を私に見せつけていた。
炎はもう私の周りを埋め尽くしているようで、あちらこちらからはぜる音が聞こえた。
幸いにもと言っていいのか分からないけど、崩れ落ちてきた天井は軽めの素材らしく、潰されて死ぬ事はなかったようだ。でも残念、力がまったく入らなかった。どれくらい気を失っていたか知らないけど、体力なんてもうなかった。そして全身に走る鈍痛が火傷だか打撲だか分からないほど、感覚も鈍っているようだ。
と、私の足元に更に瓦礫が崩れてきた。炎をじかに被ってはいないようだけど、熱い。
――なんでこのまま死なせてくれなかったんだろう。
私、死ぬ時は眠ってる間に死にたかったんだけどな。痛くないから。
やっぱ現実はそううまくいかないらしい。もっとも、ここ最近の私のツキを考えればうまくいくわけがないのは明白だけど。
どこかでまた天井が崩れ落ちた。じきにここも崩れるだろう。
ならば折角の残された時間、私はやりたかった事をやる事にした。
「貴宮ー! ごめんねー!」
大声なんてここ最近あげてなかったから、いくらかすっきりした。本人に直接言えないのが残念だったけど、言わないより遥かにいい。
「貴宮ー! ありがとうー!」
熱に頭がくらっとする。本当に残った体力を使っちゃったみたいだった。目をつぶればもう眠っていける気がする。
でも待って、最後に言わなきゃいけない事がある。
咳き込みながらも、私は息を溜めていった。
「大好きだよー!」
言っちゃった。誰も聞いてないとはいえ、思いっきり言っちゃった。
こんな時なのに、恥ずかしい。思わず笑い声が漏れた。笑って死んでいけるのは最高の幸せだって、テレビで聞いた事がある。これはちょっと意味が違うかもしれないけど、幸せだと思う――ううん、幸せだ。
目を閉じて、私は私の一生に幕を下ろす事にした。
どこかでまた瓦礫が崩れた。
熱いなあ。
そう思うと、何故か喉がひんやりとした気がした。そして、熱いはずなのに別の――温かな感じが私を包んだ。
幻……じゃない、現実?
もう開けないと思っていた目を開けた先には、信じられない光景が広がっていた。
貴宮がひたひたに濡らしたハンカチを絞って、私の口に水滴を垂らしている。何これ。
幻かと思った瞬間、喉に流し込まれた水にむせ、私は思いっきり咳き込んでいた。苦しい、けど、じゃあこれは――
「貴宮……」
呟くと、彼は申し訳なさそうに顔を離した。
「本当に? 本当に貴宮なの?」
そう問いかけると、彼はゆっくりと頷いた。全身煤だらけで、あちこち火傷を負って、服もボロボロだったけど、貴宮に間違いないようだった。
「何で? 何でいつも助けに来てくれるの?」
貴宮はその問いかけには答えないまま、私の上の瓦礫をどかし始めた。
「ねえ、どうして……?」
いつもピンチになると駆けつけてくれる、彼は本当に王子様だ。
彼が押し黙ったままなので、私は答えてくれるのをじっと待った。
そして私の上半身が自由になった頃、彼は静かに口を開いた。
「……世間一般では、僕の行為はストーカーって呼ばれるよ」
貴宮は私の視界から逃げるように、足の方に移動していった。
「この前僕、ユメリの事怯えさせちゃっただろ? だから本気で離れなきゃって思った」
「……違うよ」
否定したのに、彼は独白をやめなかった。
「ネットで君の人気が上がるのを喜ぶだけの、ただの一ファンに戻るつもりだった。でもできなかった。僕はやっぱり君を探してしまった。君が傷つくって分かってながらね」
「違う」
「ユメリ、僕は王子様なんかじゃない。ただのストーカーなんだ」
「違うって……」
「だから変な幻想は抱かないで。もうこれで本当に消えるから」
「違うっての!」
怒りで力が沸いてきた私は、思わず叫んでいた。びっくりしたらしく、貴宮の動きが止まった。
「勝手なこと言うな! ストーカーならストーカーらしく最後まで私につきまとえ! それが出来ないなら今すぐどっか行け!」
「ユメリ……」
「世間的にはストーカーかもしれないけど、私にとってはいつもピンチに駆けつけてくれる王子様なの! だから、だから……消えるなんて言わないでよ……!」
まだ水分あったんだ、ってくらい私の瞳から涙が溢れてきた。
「でも僕は君を怯えさせちゃったんだよ……?」
「違うの。それは――」
言いかけた瞬間、一際大きい崩落がおき、配管や金属片が私の上に降りそそいだ。
とっさに貴宮が私に覆いかぶさってくれて、私は何とか一命をとりとめた。
「貴宮!」
「大丈夫。それより……出よう。今なら、入り口の方に抜けれる」
背中の瓦礫を振り落とし、貴宮が自分の後ろを親指で示した。見るとキッチン前の天井から、配管の破損か水が吹き出していた。私の頭の方、非常階段側が完全に塞がれてしまった今、このチャンスを逃すわけにはいかない。
「動ける?」
「駄目……足が挟まっちゃってる」
何とか身体を起こし動いてみるものの、左足がまったく抜けなかった。
待ってて、と言って貴宮が立ちあがった。その背中を見て私は絶句する。金属片が刺さったまんまだったのだ。小さい破片とはいえ、出血の量は私から見てもかなりのものだった。
もういいよ、って言いたくなるのをぐっと堪えて、私は叫んだ。
「頑張って!」
「そりゃ僕の台詞だ」
笑いながら、貴宮はテーブルの脚の破片を使って瓦礫を押しのけていった。そして私の足首が見えると、彼はテーブルの脚を放り捨てた。それを合図に私は瓦礫から這い出ようと力を込めた。だけど動かない。足の感覚がまったくなくなっていた。
「出れない?」
「足が動かないや……」
「何だそんなこと。ほら」
貴宮が差し出した手を、私は勿論取れるわけがなかった。彼の手だろうと、指先は私を苦しめる。
でも、今こそ克服する時なのかもしれない。これを逃したらもし生き延びれたとしても、一生彼の手を掴む事はできないんじゃないだろうか。
私は目をつぶって彼に手を伸ばした。
大丈夫、名刺は受け取れたんだ。もう少しだけ先に伸ばすだけでいいんだ。
震える私の手を彼がしっかりと掴んだ。
「だめえ!」
けど欠陥はそんなに都合よく克服できるものじゃなく、私は彼の手の感触に耐え切れず振りほどいてしまった。
「ごめんね、ごめんね」
「ユメリ、もしかして君」
「触りたいの。でも触れ、ないの。男の人が、怖いの」
せっかく助けに来てくれたっていうのに、やっぱりこの欠陥がすべてを台無しにする。それなのに、一人で逃げて、っていう台詞も言い出せない。助けてほしい、でも彼の手は掴めない。もう嫌だ、助けて……!
「諦めないよ」
暴れるのを分かっていて、彼は私の身体を抱え上げた。
彼の指の感触が、私の肌を貫いて電流のように巡る。
「やああぁっ!」
怖くて無我夢中に暴れる私は、分かっていながら彼の頬を、首筋を、腕を引っ掻いていく。それでも彼は私を離さない。気がおかしくなりそう。
「やめて! 離して!」
願いは無視され、私は運ばれていく。
助けてくれてるんだ、助けてくれてるんだ、何度も言い聞かそうとするけど、でももう一つの思いには勝てなかった。
――私は何処に連れていかれるの?
再生されていく。コンパスを持った少女が。
その子は私と正反対のおとなしくて控えめな性格で、何をやっても下手くそで、いつも周りの人間に迷惑をかけて、すぐに俯いて。だから変わりたいっていうのがその子の願いで決意だった。背筋をぴんと伸ばして、護身用にコンパスなんて持っちゃって――少しずつ生活の仕方を変えていけばきっと変われる、なんて信じちゃって。
結果、確かに彼女は変われた。いや変わったというよりは分離させた、と言った方が正しいかもしれない。だってあんなコンパスの使い方、その子は知らないんだから。
「離せ! 離して! やめて! やだあっ!」
背中の破片を思いっきり押し込んで、私は彼の顔を力いっぱい押し離した。彼は小さく呻いて、やっと倒れた。
解放された私は水溜りに転がって、荒い呼吸を整えた。
降りそそぐ水しぶきの中で、彼を見つめ、段々と、分かっている、ああ、なんて事を。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「気に、しないで」
ここでよかった、と貴宮は降りそそぐ水で顔を洗った。
「さ、もう一回だ」
と、濡らした服の一部をちぎって私に差し出す彼を見ていられなくて、申し訳がなくて――私は待ったをかけた。
気づいちゃったんだ、確実に助かる方法がある事に。でもそれをやったら私は確実に貴宮に嫌われる。やだ、この人だけは離したくない。
だからって、これ以上貴宮を無駄に傷つけるのは、もっと耐えられなかった。
「私、ニセモノだったみたい」
ポケットの中を探りながら私は告げた。彼は意味不明だと言わんばかりの顔で私を見つめてきた。
指先に触れるプラスチックの感触を探り当て、握りしめる。ユメリのネームプレートだ。これをつければ彼の手を取れる。だけど今回はゆめりになるんじゃない。ゆめりに戻るんだ。
「こっちが――おどおどしたゆめりが本当の私だったよ」
ネームプレートを見せてから、私はそれをぎゅっと握りしめた。この自分がニセモノだって気づいちゃった以上、どんなに心地良くてもいつか戻る時がくるだろう。一生を演じきる事なんてできないんだから。
なら今戻るべきだ。
生き延びる、それ以上の事を望むのはもうやめよう。
「何を言ってるんだよ」
「一時的な二重人格みたいなもの、だっただけ」
ホンモノのゆめりは、あの日あの時起こったすべての嫌な事――男性の指の感触、行き過ぎた暴力に手を染める罪悪感――を私として分離した。そして何も知らない、何もされてない、手の感触も恐れない純真無垢のまっさらなメイドとして再出発させた。そういう事だ。
気づいてしまった今、これをつけたらもう二度とこの私には戻ってこれないだろう。でも満足だ。最後にいいこと、結構あったし。
「ばいばい。できるなら、好きでいてね」
ボロボロになった胸の所をつまみあげ、私はネームプレートをつけた。
バトンタッチ、頑張れゆめり。
「な、ばいばいって――」
「あの貴宮様、その、できれば、起こして頂きたいのですが……」
「……そういう、ことか」
こんな私に手を差し伸べて頂けるか不安でしたが、貴宮様は優しく起こして下さいました。それどころか、歩けない私を抱え上げて下さいました。
腕の中から見上げる貴宮様のお顔は凛々しく、こんな炎の中でも絶対の安心感を与えて下さいます。でも、そのお顔に少し翳りがあるように見えるのは、私の気のせいでしょうか。
「貴宮様、何か悲しい事でもあったんですか?」
「……ちょっと、ね」
「あ、あの、こんな私でよければ、その、お話を」
「ごめん、少し黙っててくれ」
貴宮様がお怒りになるのも無理はありませんでした。ただのメイドが出過ぎた真似をしたのですから。
それでも、貴宮様は私を更にぎゅっと抱きしめて、この炎の海を渡って下さいました。瓦礫に足を取られないように一歩ずつ確かに踏みしめて、決して私を放さずに。
私は密かに決意しました。段々と近づいてくる出口の向こうに辿りついたら、私は一生をかけてでもこの人に恩を返していこう、と。
ですが所詮叶った記憶がない私の願い事。あと数メートルという所で、突然私達の前に燃えたアンティーク棚が倒れてきて、私達の進路を塞いでしまいました。火が点いて間もなくのようで、踏み越えるのは無理なほどの炎が出ています。
「……ユメリ、どう、思う?」
「え、どう、って……」
私を床に下ろした貴宮様が、天井を指差して問いかけてきました。見ると無傷のパイプが出口の方まで通っているのが分かりました。もしかして、ここを伝っていくとおっしゃるのでしょうか。
「できる?」
その問いかけに、私は答えられませんでした。私の力じゃ、すぐに下に落ちてしまうのが、分かったからです。
私は震え上がりました。死、という言葉を考えてしまったからです。炎に巻かれる想像に、私はもう耐えられそうに、ありません。
「貴宮様……!」
私は恐怖に耐え切れなくなって、失礼だと分かっていながら貴宮様の足に縋りつきました。
貴宮様はそんな私の肩に優しく手を置いて――
「ごめんね、ユメリ。やっぱり君を選べないや」
胸のネームプレートを引きちぎってきたのでした。
「な、何をなさるん、ですか」
私は急いで胸を押さえ、露になった下着を隠しました。こんな時にご乱心なさったのでしょうか?
「帰ってこい、ユメリ!」
どうやら前の私を呼んでいらっしゃるようです。しかし彼女はもういないはずです。偽者だって気づいてしまったのですから。
「ユメリ!」
「貴宮様、もう一人の私は、もう……」
「僕は認めない!」
「貴宮様!」
「うるさい!」
貴宮様はそう叫ぶと、私を押し倒してきました。
「どのみち君じゃあこのパイプを伝えない。だから早く替わってくれ」
「もう、もういないんです。本当に……」
「彼女の存在は知っているんだろ! なら出してくれ!」
「やめて、下さい……!」
押さえつけられた両腕から逃れようと、私はもがきました。しかし男の人の力には敵いませんでした。
「もう彼女はいないんです!」
段々と声が荒っぽくなっていく私がいました。早くしないと炎に巻かれてしまいます!
「いる!」
「だってあの子は偽物! 私! 私を見て下さ――」
強引に唇を重ねられ、ました。
私の、初めての、キスでしたのに。
もっと素敵な場面を想像、してたのに。
こんなどさくさにまぎれて、するものではない、だろ――
「ばかぁー!」
気づくと私は、貴宮様をぶっ飛ばしていた。
「え? え?」
握りこぶしと貴宮を交互に見渡して、私は首を傾げた。どうして私が、いる?
「やっぱ最高だよ、君!」
死にかけの身体に笑顔を浮かべて、貴宮がゆっくりと起き上がった。これは、貴宮が私を戻したって事だろうか?
「貴宮、私、消えたはずじゃ」
「戻した」
簡単に言いやがった。んな馬鹿な。
「あっちのユメリには相当ショックだったみたいだけど」
「……何したの?」
何か怖かったけど、気になるから聞く事にした。すると彼は少し迷ってから、キスした、とカミングアウトした。は、キスね、そりゃあっちのゆめりには大変な――
「え、えええええ?」
私は自分の唇に触れた。何、奪われたの? 私。
「ごめん、それ以外思いつかなかった」
理には適ってるよね、という貴宮の言葉に私は一瞬考えたけど、そんなわけなかった。
「でもどうして私を……?」
と尋ねると、彼は天井のパイプを指差した。話を聞くと、ホンモノのゆめりの方じゃ掴めないらしい。単純に度胸の問題なんだけど、私もホンモノは無理だと思った。
「だからって無理矢理復活させるなんて」
「愛のパワーって奴だね」
臆面もなく言う貴宮に、私の方が恥ずかしくなって顔を背けた。
「じゃあいくよ。君を掴むのは一瞬だから、目をつぶっていれば大丈夫」
そう言って目をつぶった私の腰に一瞬ぞくっとした感触が来たけど、パイプを掴むと同時に離してくれたから、何とか大丈夫だった。
「うん、行けそう」
上半身は無事で本当によかったと思う。貴宮を見下ろすと、彼は親指を突き出してくれた。その手が震えているのを、私は見逃さなかった。
「すぐに、あと追うから。はい出発進行ー」
貴宮はおどけながら、指を出口に向かって倒した。
下手くそなんだから……。
首を振って煙を払いながら、私は言った。
「待たないよ! だからすぐにつかまえて!」
「はいはい――」
と小さく手を振る貴宮の前に、私は飛び降りた。彼の目がこれでもか、ってくらい大きく開いたのが印象的だった。
床に足がつき、そのままべちゃっと尻餅をつく。
「馬鹿! 何でこんなことをする!」
「すぐにって言ったじゃん。それに」
貴宮のおなかが真っ赤になってるのを指差すと、彼は諦めたのか力尽きたのか、私と同じように座りこんだ。
「もう力残ってないんだぞ……馬鹿」
「一緒にいよ?」
「……ありがとう」
それから私は少しの間、目をつぶった。
炎がこんなに燃え盛っているというのに、とても静かな、心安らぐ感じがした。
私は貴宮に這い寄った。彼も同じ事を考えてくれたみたいだった。
私達はお互いに這って、近づいて、唇を触れ合わせた。
「ニセモノの私を好きになってくれて、ありがと……」
「僕にとっては本物だ」
涙を拭ってくれるつもりだったのか、貴宮が手を伸ばしてきた。しかし私の顔に触れる寸前で、横に倒れた。
「貴宮!」
彼の身体は痙攣を起こし始めていた。勿論私の声に反応なんかできない。
何も出来ない私は、せめて少しでもやわらぐように、彼の背中をさすり続けた。
もう死ぬって分かっていたけど、自分が死ぬ覚悟は出来ていたけど、目の前で大好きな人が死ぬ覚悟なんて出来るわけがなかった。
「貴宮、苦しくないよ、ほら、そばにいるよ」
私は必死に彼の背中をさすり続けた。酸素が足りないのなら私の空気をぜんぶあげる。水分が足りないのなら私の涙をぜんぶあげる。血が足りないのなら私の血をぜんぶあげる。
「だから……だから死なないでよぉ……!」
目の前の天井が崩れて、燃え盛る棚を飲み込んでいった。ここももう崩れる。なら今すぐに落としてほしい――
消えた筈なのに目の前に炎が見えた気がして、私は顔を上げた。
「間に合った」
こんな炎の中でも動じる事のない口調の、なんと頼もしい事か。
「マリさん……!」
どんな炎よりも赤く鮮やかな彼女の名を、私は涙声で呟いた。
「さあ行くわよ」
「貴宮を! 彼を助けてください!」
「彼を助けるのはあなたよ」
そう言うなりマリさんは貴宮を抱えあげ、私の背中におぶせた。しっかり腕を掴んでいなさい、その言葉に何をするのかと思ったら、彼女はなんとその私ごとおぶり始めた。
「持ち上がらないですよ……!」
「誰に言ってるの。いいからあなたは彼の腕をしっかり掴んで、目をつぶってなさい」
その言葉があまりに力強かったから、私は素直に彼女に従った。この人なら奇跡すら当たり前に起こしてしまいそう。やっぱ敵わないな。
「よく頑張ったわね」
マリさんの声がとっても優しかったからかな――身体がふわっと浮くような感覚に包まれながら、私は彼女の背中で気を失っていった。
左踵骨骨折、全身打撲、両手両腕と腹部及び右足の火傷、しめて全治三ヶ月。あの火事の状況でこれだけで済んだのは、これもひとえにみんなが助けてくれたからだ。
マヤは右手と右肩に大火傷を負ったものの、一日入院しただけで帰っていった。
貴宮は本当に危なく、病院に運ばれた時は一酸化炭素中毒で死ぬ寸前だった。それに加えておなかと背中の裂傷も緊急を要するもので、助かったのは奇跡だと先生が言っていた。他にも骨折や火傷など、数えきれないくらい、とにかく全身ボロボロだった。
だから二週間経ってようやく病院内に限り歩く事を許された時、とにかく真っ先に彼の病室に向かった。彼の無事をこの目で確認しなければ気が済まなかったからだ。でも私は病室に辿りつく事すらできなかった。彼はまだ面会謝絶だったのだ。勿論それで気が済むわけもなく先生に食ってかかったけど、結局諭され、私は泣く泣く自分の病室に戻ったのだった。
火事については、私がマリさんに助けられてから二時間後にようやく消し止められたそうだ。とばっちりを受けた四階と五階は幸いにも夜遅くで誰もいなかった為、結局巻き込まれたのは私とマヤと貴宮だけで済んだようだ。うん、全員生きてる。もう少し早く通報者の男性にはビルに来てほしかった、なんて初めはニュースを見るたびに思ったりもしたけど、今となってはただ無事だった事に感謝している。
出火原因はレンジの配線のショート。だけど明らかに不審火のようだ。普通ショートする場合、鼠にかじられたり、ほつれて千切れたりするのが一般的らしいんだけど、今回原因となった配線はそのどちらでもなく、何か鋭利な刃物でスパッと切られたような断面だったって話だからだ。
先に退院したマヤが、私達が閉じ込められていた事を警察に話してくれたみたいだけど、犯人はまだ見つかっていない。
入院生活はやっぱ退屈だったけど、マリさんや片瀬ちゃんが頻繁にお見舞いに来てくれたし、叔父さんと叔母さんも毎日のように来てくれたから、寂しくはなかった。まあ家に戻って来いって話がうっとうしかったけど。
会いに来てくれた人達の中で一番びっくりしたのは、貴宮の両親だ。開口一番に息子が命を賭けて助けた女の子を見にきた、って言われた時はどうしようかと思ったけれど、これからも息子をよろしくね、と言ってくれた。彼の容態はまだ予断を許さない状況だけど、あの子が死ぬわけがない、と彼のお母さんが笑ったから私も笑う事にした。一番辛いだろう人を差し置いて泣いちゃいけない気がしたから。
その日から、毎晩寝る前に神様に祈るようになった。
「今更ですけど、年変わってるんですよね……」
火傷もほとんど治り、あとは踵骨骨折を残すのみとなった私は、今日ようやく退院する事ができた。暦はすでに二月になろうとしている。
「まあ病院で一番の時計は自分の傷だものね。ぼやけるわよ」
マリさんがブラックのコーヒーをぐるぐるかき混ぜながら答えた。何やってんだ。
叔父さん達より先に私を迎えに来る、と予約してくれたマリさんにつきあって、今私は秋葉原のコーヒーショップにいる。通りのずっと向こうにアリスの跡を望めるロケーションだ。
あの火事で勿論アリスは営業続行不可能となり、みんなバラバラになってしまった。会社の計らいで、望んだ子はアリスの姉妹店に入れてもらえたが、私もマリさんもマヤもそれを断った。
「寂しい?」
アリスをぼーっと見つめていた私に、マリさんが尋ねてきた。
「あの時は辞めたくて辞めたくてしょうがなかったんですけどね。なくなっちゃうと、やっぱり……」
「……そうね」
かちゃり、とスプーンを置いてマリさんはコーヒーを口に運んだ。
「ねえマリさん、どうしてあの時助けに来てくれたんですか?」
ずっと気になっていた事を私は聞いた。
「一回だけ助けてあげるって言ったでしょう?」
「えー、その前から何回も助けてもらってましたよー」
そんな格好よすぎる答えずるい、と私がテーブルに突っ伏すと、彼女は珍しく少しためらってから、口を開いた。
「あなたが昔の私に似てたから、かな」
誰とも相容れなかった孤高の女王が、どうして私を気にかけ、そして命を張ってくれたのか。
分かったような、分からないような答えだった。
「そんな事よりあの話」
「分かってますよ」
額に手の甲を当てて敬礼まがいのポーズを取ってから、私は席を立った。
「行くの?」
「はい」
「病み上がりなのによくやるわ」
呆れ顔で言って、マリさんが松葉杖を渡してくれた。
「じゃあ三月にまた」
マリさんの手のひらに軽くタッチすると、私はコーヒーショップを後にした。
それから一時間、私は錦糸町のとある公園にいた。
「ごめん、おまたせー」
ベンチに座っていた私に向かって、小走りでマヒロさんが駆け寄ってきた。
「悪いね、病み上がりなのにわざわざウチの方まで来てもらっちゃって。それとお見舞い行けなくてごめん! おばあちゃん倒れちゃってさ」
「気にしないで下さい」
申し訳なさそうに謝るマヒロさんに頭を上げてもらって、私も松葉杖で器用に立ち上がった。
「でもホント今回は災難だったね。ユメリちゃんせっかく二位までいったのに」
どこから出せるんだろう、っていうぐらいとびっきりの笑顔を見せながら、マヒロさんはくるっと一回転した。
「マヒロさん」
「ん? なあに?」
「……何であの時、消防車を呼んでくれなかったんですか?」
一瞬彼女の笑顔が凍りついたように見えた。通報者が男なのはニュースでも報道されていた事だ。とは言っても、男性の後に通報した形になっただけかもしれない。
これは賭けだった。
「ああ、あれはね、ちょうど横で見てた人が通報してくれたの。だからいいかなって思って。びっくりしたよ! 忘れ物取りに戻ったらあんな事になってるんだもん」
「じゃあどうして電話でマヤとの話し合いの事なんか聞いてきたんですか? もしも火事が見える位置にいたのなら、そんな事聞いてる場合じゃない」
私も認めなきゃいけないんだな。
答えられないマヒロさんを、私は涙をこらえて強く睨みつけた。
「何であんな事したんですか」
「あんたがあっさり抜くからよ」
口を閉ざすかと思ったら、彼女は意外にもあっさりと認めた。
「何をやらせてもダメな奴だったから教育係を買って出たっていうのに、あんたは反則技で一気に人気をかっさらっていった。覚醒? 何それって感じ。知ってんだからね、あの一件がヤラセだって事」
「それはマヒロさんを助けようと思って――」
「順当に行けば私はサヤカを抜いて三位、芸能界への切符を手に入れるはずだった。それをぶち壊しといて恩着せがましい事言わないで」
芸能界……? それが、理由?
「そんな事の為に私を襲わせて、変な噂を広めて……殺そうとまでしたんですか?」
彼女が犯人でも、この動機までは信じたくなかった。私が知らずに憎まれるほどの悪い事をしていたのだと思いたかった。だってこれじゃあまりに身勝手すぎる。
この人は今までずっと仮面を被っていたんだろうか。マヤの嫌がらせで泣いていた時も、ミイナをかばった時も。すべてはいい人だと思わせる為の心理的なアリバイ工作だとでも言うんだろうか。
優しいマヒロさんは、本当にもういなくなってしまったのだろうか。
「そんな事……? 私の人生がかかってんのよ? 一大事よ! なら何だってやるに決まってるじゃない! 他人を蹴落とさなきゃいけないならどんな手を使ってでも蹴落とす、自分の人気を上げるためなら枕営業だってやる。知ってる? オタクどもって経験ないくせに嗜好はキモイのよ」
「やめて」
耳を塞ぎたくなるような話だった。そんな裏の事情、私は知りたくない。
「さっさと終わらせたいのに色んな耳つけさせたり変なポーズ取らせたり。まあその分ふんだくってやったけどね」
「やめて下さい!」
目の前にいる女はただの放火犯だ。知らない、こんな奴知らない!
「は、純情ぶっちゃって。襲われた次の日出勤したくせにさ。未遂だからってフツー暴漢に襲われたら休むわよ?」
マヒロさんはにやにやしながら近づいてきて、私の顔を下から覗き込んだ。
「当ててあげようか? 経験済みなんでしょ?」
「……だったらどうだって言うんです?」
私の言葉にマヒロさんは、よく言えました、とばかりに手を叩き大声で笑い始めた。
「あはは、そうなんだー経験済みなんだー。……ねえこれさ、貴宮君は知ってるのかなあ?」
私の背中をぞわっと何かが駆け抜けた。
「彼、知ったら悲しむかな? もしかして自殺しちゃうかな?」
その言葉を聞いた瞬間、私は右手を思いっきり振り抜いていた。マヒロさんがよろめく。私はそこを更に松葉杖で突き、彼女を地面に這いつくばらせた。
「やりやがったな……!」
憎悪を込めた目で私を見上げるマヒロさんに、私は銃口を向けるように松葉杖を突きつけた。
「吐くな、その口で。あの人の名前を」
これ以上彼の事を口にしたら絶対に許さない。だから最後通告をする事にした。
「もう自首してください」
「は? 誰がするかっての。それよりも誰かに火事の事ばらしたらまた襲わせるわよ? あんたと貴宮、次はまとめて拉致ってあげる」
血が逆流する。私は松葉杖を叩きつけて――それから後の事は覚えていなかった。
「すとーっぷユメリ。それ以上やったらこいつ死んじゃうよん」
片瀬ちゃんに羽交い絞めで引き離されて、私はようやく我に帰った。マヒロさんは顔を真っ赤に腫らし、口から血を垂らしながら、荒い呼吸をしていた。
「ごめん、片瀬ちゃん」
「ユメリを止めるとは思わなかったんだけど」
片瀬ちゃんが珍しく乾いた笑い声をあげた。彼女には隠れててもらって、万が一危なくなったら出てきてもらう予定だったのだけど。
「なーお前さー、見苦しいからマジで自首してくんないかなあ?」
「誰だよお前は!」
マヒロさんがそう吐き捨てると、片瀬ちゃんは私を横に放って、瞼を挟むようにピースサインを作った。
「はっ、私ユメリの一番の親友を務めさせていただいております弦巻片瀬ですっ! 血液型はAB型、誕生日は――いつだっけ?」
「んな事どうだっていいって……」
「冷てえな。まあいいや。そういう事だから、ユメリをいじめる奴は私が許さないんよ」
私をかばうように前に出る片瀬ちゃんを見て、マヒロさんがゆっくりと身体を起こして、笑った。
「は、許さないなら何だってのよ? 警察に突き出してみる? 証拠なんかないわよ」
口元の血を拭いながらマヒロさんが高笑いをあげた。確かに物的証拠も状況証拠も私は突きつけられない。この会話だけが何よりの証拠だったけど、レコーダーなんて持ってきていない。マヒロさんにはただ謝ってほしかった、それだけだったから。
「片瀬ちゃん、行こ」
「いいのかぁ?」
首を縦に振って、私は片瀬ちゃんの手を取った。
「覚えとけよユメリ、死ぬより辛い目にあわせてやる!」
「――そんな事したら、私がお前を喰うからな?」
後ろを振り返った片瀬ちゃんの横顔に、私はいつかと同じ――ぎらつく猛禽類のような瞳を見た。
マヒロさんはそれ以上何も言えないようだった。
私達は、公園を後にした。
「ホントにあれで良かったの?」
道すがら片瀬ちゃんが尋ねてきたので、私は首を横に振った。あんな本性を見てしまった以上、やっぱり許す事なんか出来なかった。それに放っておいたら本当に報復されそうで怖かった。だからって私にはあれ以上どうする事も出来なかった。ならばあの場所にい続けるのは無意味で、ただただ辛いだけだ。
「ったく、抜けてんだから」
溜め息をついて、片瀬ちゃんが手のひらサイズの機械を放り投げてきた。リモコンみたいなそれはICレコーダーだった。きょとんとしていると、彼女は更に私の肩から小さな機械をむしり取った。こっちはもしかして、マイクだろうか?
「実録! 白昼の脅迫その一部始終! ってか」
「片瀬ちゃん……!」
瞳を輝かせて片瀬ちゃんを見ると、彼女は人差し指をすっと立てた。
「準備は大切にねっ。東京電」
言いかけた片瀬ちゃんの口を急いで塞ぎ、私は溜め息をついた。危ない。
彼女は私の右手から逃れると、陽気にくるくる回転しだした。
「まーすぐに使うなり、切り札に持っとくなりご自由に」
「うんっ、ありがとう!」
「そーそーその笑顔。バカユメリは笑顔だけが取り柄なんだから」
「あだ名になりそうだからやめて……」
くるくる回り続ける片瀬ちゃんは、楽しそうにバカユメリを連呼する。
うう、私そんなに馬鹿かなぁ?
「そういえばこれからどうすんのさあ?」
「えっとね」
私は内緒の話を片瀬ちゃんに打ち明けた。
彼女の目と口がぽけーっと開いていく。面白くて私は思わず笑ってしまった。
心の底から笑う事が出来るって気持ちいい。
本当だよ?
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