表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

第二章 Drive the Dahlia



 それは優美なる栄華の象徴にして、

 移り気をほのめかす厳粛なるハナの女王。



「こんな遅い時間にどうしたんだい?」

 あれから家に帰ってきて、日付も変わろうかという午後十一時半過ぎ、電話の向こうの貴宮の声は明らかに嬉しそうだった。

「あのさ、私と一緒に舞台に上がる気ない?」

「それってイベント? アリスの新企画?」

「いや、アリスは関係ない。これは私の企画」

「……面白そうだね。話聞こう」

 良かった。メイドの私以外には興味がないのかも、とか思ったけれどちゃんとノってきてくれた。まあアリスのユメリには興味がない以上、今の私の方にこそ興味あるのは確かなんだけれど。とにかく、これで話はまとまりそうだ。

「えっとね、まず私が主演女優。であんたが監督兼主演俳優兼プロモーター。とにかく仲のいい友達をがんがん集めちゃってよね」

「ごめん、話が見えない」

「電話じゃどうせ全部伝えきれないからね。明日外で会って話したいの」

「えー明日かーどうしようかなー」

 あざとく間延びした声が見返りを要求しているんだと一発で分かる。何となく予想はついていたけれど。ってか明日もアリスに来るって言ってただろ。

 でもこいつには五千円借りたり服貰ったりと世話になっているから、ちゃんと謝礼は用意するつもりだった。

「あんたの望むがままの接し方をしてあげる」

「ホントに? じゃあ行く」

「分かりやすいねあんた……。じゃあ明日アリスが終わったらって事で。家どこ? そっちに行くから」

「大森」

「近っ」

「え? そうなの?」

「いやいや、そうでもなかった」

 慌てて私は取り繕う。ここで私の家は隣の大井町ですよなんて言ったら付きまとわれるかもしれない。いい奴だとは思うけど、でもまだこいつの事を信用は出来ない。

「えっと、じゃあ明日大森に行くから。多分九時半ごろ」

「了解」

 電話を切り携帯を放り投げて、私はベッドの上に大の字になる。

 これで前条件はクリア。多分うまくいくだろう。

 まさか自分から男と会おうとするなんて、私自身も意外でならないけど、でもこれはマヤ達を見返してやる為の行動だ。割り切っていこう。

 早くしないとすべて手遅れになるんだから。



 翌日のアリスは一言で言ってしまえば何もなかった。マヒロさんはあんな事があったっていうのに休まずに出勤してきたし、マヤ達も私が分かる範囲内では何もしてこなかった。貴宮と滝くんも予告どおり来てくれたし、マリさんは相変わらず一人別世界の営業を繰り広げていた。

 後から思えば何もないよう警戒して動いていたって事なんだと思う。私もそうだけど、何よりマヒロさんが、だ。彼女は鍵つきのボックスをちゃんと持ってきて、自分の荷物をすべてそこに入れていた。そして営業中は常に私と一緒にいて、終わってしまえば誰よりも早く帰ってしまった。何も起きないのはいい事だけど、やはりいつもとは違う。マヒロさんが笑っていない。彼女が笑っていないってだけでアリスの雰囲気が随分と暗くなった気がするのは私だけだろうか。

「ユメリ」

 帰り際、ロッカールームのドレッサーで軽く化粧をし終えた私に、マリさんが話しかけてきた。

「マヒロの言葉に可憐さが見受けられなかったわ」

「そう……ですね」

 ポーチをバッグにしまいながら、相談するべきか迷う。マヒロさんは誰にも言わないでくれと言っていたし――

「マヤ達ね」

 考えあぐねていると、マリさんは察してしまった。まあ昨日揉めていたのはマリさんも知っているところなので仕方ない。

「私はね、ユメリ」

 鏡越しにマリさんの姿を窺う。

 マリさんの口調はいつも通りだったけど、彼女がすっと目を閉じると、何故か私の首筋にひんやりとした感覚が伝わった。一瞬だけ空調が壊れて冷気が流れたかのような――これはそうだ、そんな寒気すら感じる緊張。

「アリスに仇名す者は許さないの」

 再び開かれたその瞳を見て、私は更なる寒気を感じる。そのシニカルではなくクルーエルな瞳こそ、彼女を女王たらしめる理由なのだろう。

 全身を燃え盛るほどの赤で包みながらも、その実内側にはすべてを凍らせるほどの冷たさを隠している。

 いや、周りの誰をも凍らせてしまうから――だから赤で包んでいるんだろうか。

 それは相反する物同士で中和するかのように。

 とにかく一つだけ言える事は、今ここにいたくない。

 あれだけ頼って助けてもらって失礼なんだけれど、マリさんが怖い。

「あの子はアリスにとって大事な存在だけど――」

 自分の息を飲む音がやけに響いた。

「見方を変えればゴミにもなる」

「ちょっと待って下さい!」

「どうして? あなたそんなに博愛だったの?」

 勿論そんなわけない。確かにみんな仲良くやっていけるに越した事はないけど、それがもう不可能な事は私が一番理解しているつもりだ。

「いえ、こんな事言ったら失礼かもしれませんが、マヤに一番怒っているのは私です」

「だから手を出すな、と?」

「申し訳ありませんが、私にやらせて下さい」

 私がそう言った瞬間、それまで鏡越しに遠くに見えていたマリさんの姿が消えていた。

 目を疑う私。

 背後からいきなり両肩に手が置かれた。

「私がどれだけアリスを好きか、想像した事ある?」

 冷笑を浮かべながらマリさんが私に視線を反射させてくる。

 返答如何によっては私も排除するといった雰囲気だった。これまで他人にあまり干渉してこなかったマリさんが動こうとするという事がどれほどの事か、ちょっと考えれば私にだって分かる。でも、アリスが好きな気持ちは私だってかなりのものだ。

「いえ……でもきっと、私と同じくらいだと思います」

「顔を上げなさいユメリ。そう。そのまま。私の目を見なさい」

 俯いていた顔を上げたくはなかったけれど、マリさんの言うとおりにした。鏡越しでなかったら、たぶん卒倒するんじゃないか、なんて考えが一瞬頭の隅をよぎった。

 そのままマリさんとしばらく視線を交錯させて――

「やりなさい」

「本当ですか?」

 マリさんが無言で頷いた。

 おそらくマリさんがやろうとしている事に比べたら、私の反撃はかわいいものに違いない。けど、それでも私が仕返しをしなきゃいけない。

「ただユメリ、マヤの本質が何であろうと序列は信頼の証よ」

「ええ。でもマリさんご存知ですか? 真っ白な百合には一つ棘があるって」

「ないわよ」

「いきなりはっきり否定しないで下さい……。ここはそういう話をでっちあげてでも盛り上がるところですよ」

 マリさんはさっき程じゃないものの、冷ややかな目で私を見てきた。うぅ気まずい。

「ま、ユメリっていう新種の百合にはあるって事にしといてあげるわ。上手く刺しなさい」

 マリさんの顔つきが当社比一・二倍くらいで楽しそうベクトルに傾いた気がする。うわ、デフォルトが冷笑だったからあんまり変わってないじゃん。

「がんばってマリさんに追いつきますから」

「そう。少しだけ待っててあげるわ」

 ただいま一・五倍か?

「でも早くしないと私、動くわよ?」

 タイムリミットを暗に決めながら、マリさんは帰っていった。でも大丈夫。今週以内には決行する予定だから。

 あとは私の度胸次第だ。



 十月七日、土曜日、快晴。少し肌寒くなってきたけど、それを感じさせないほどの混雑ぶりを今日も秋葉原は見せてくれるだろう。

 開店二十分前、着替え終わってキッチンに向かった私は、ヒナとカレンがいる事に気づいて入口で立ち止まった。やっぱりマヤ派の巣穴に飛び込むのは躊躇われる。そのせいで自然と二人の会話を聞く形になってしまう。

「マヒロさんもさぁ残念だよね、ユメリなんかに肩入れしたせいで」

「だよねー。私マヒロさんは嫌いじゃないんだけどね」

「私も。あの人マジいい人だよねー」

「でもマヤさん怒らせたんじゃしょうがないよ」

 何がしょうがないのか、自分は悪くないと言うのか、二人は他人事のように話し続けていた。

 むりやり自分を肯定するな。手が汚れていないと思うな。

 そうだ、私は怒っているんだ。一晩経っても忘れようもない程の傷をつけられたから。マヒロさんが受けた傷、それは私の心と連動している。だから私、何を躊躇っているんだ!

 私ははっきりと分かるよう踵をキッチンの床に振り下ろした。

 何奴、とばかりに二人が一斉に振り向いた。

「んだよテメェかよ。脅かすなっつーの」

「あれー挨拶が聞こえないですよーユ・メ・リ・ちゃん」

 これまで衝動的に動かなくて良かったと思う。

 ――ぶん殴って地べた這わせる? 誰がそんな得にもならない事をするかっての。

「誰が彼女の涙を見たかったんでしょうね」

 まさか私がメイド状態で反論するとは思ってなかったんだろう、ヒナとカレンの顔が引きつっていく。それを横目に、私はカートに用意されていた客席用の水差しを二つ手に取った。

「まあ生ゴミを漁る卑しい人達には彼女の笑顔は毒だったんでしょう。ねえ?」

「てめえ!」

 不意打ちのダメージから立ち直ったカレンが、私の胸のリボンを捻りあげる。殴られるのは嫌だけど、言わずにはいられなかった。だから後悔なんてしていない。

 カレンが手を振りかぶって、私は反射的に目をつぶった。しかし痛みも衝撃も罵声も飛んでは来なかった。

「カレン、やめなって」

 え――なんでヒナが?

「止めないでよヒナ! こいつ口の利き方がなってないんだよ!」

 恐る恐る目を開くと、ヒナがカレンの手を掴んで止めてくれていた。

 何で私を助けるんだ?

「一発くらい殴ってやん――」

 カレンの声が、ボリュームのつまみを一気に左にひねったように下がっていった。

 どうやら誰か来てくれたようだ。私も少しだけ首を後ろに向けて窺う。視界ギリギリ、キッチンの入口に赤い服の切れ端が見えた。

 なんと最強の援軍だった。おそらく二人は今、心を凍らせる絶対零度の視線に射抜かれている事だろう。マジ怖いだろ。ざまーみろ。

「カレンさん、洋服を乱暴に引っ張るなんてメイドの規範にはないですよ?」

 胸元を指差して私がユメリ口調で言うと、カレンはすぐに手を離して私のリボンを綺麗に整え始めた。

「いや、ユメリちゃんのリボンが少し曲がっていたから直してあげようと思って。ねえヒナ?」

「そう、そうだようん。ユメリちゃんおっちょこちょいだなー」

「そうだったんですか。それはありがとうございます、お二人も私みたいなおっちょこちょいな事して怒られないよう気をつけてくださいね。それでは失礼します、あマリさんおはようございます」

 ユメリ口調を棒読みで飛ばして、私は入口で静かに二人を睨むマリさんの横を通り抜けた。

「いいの? やりかえさなくて」

 なんてすれ違いざまに聞かれたから、

「いいんですよ、今は」

 と私はマリさんに答えたのだった。

 私がアリスにいつづける為にも、マヒロさんを救う為にも、これが最善策なんだ。

 盛り上がりは最後に取っておかなきゃね。

「マヒロさん! おはようございます」

 毎度の遅刻寸前ダッシュを決め込んできたマヒロさんの腕を掴みながら、私はこれからのアリスの事を想像した。

 私とマリさんとマヒロさん。

 三人、きっと笑い合ってる。



「珍しいな」

 私の後ろで、所マネージャがホールを見渡しながらそう呟いた。何が珍しいのかと言えば、土曜の昼の混雑時を過ぎたというのに常連客が少ない事だ。一般人からすれば、土曜の昼はまだまだ物珍しいメイド喫茶に、昼飯も兼ねて入ろうという時間だ。常連客はそれを分かっていて時間をずらして来る。それなのに今日は常連客が少ない。その理由はと言うと、貴宮が私の依頼どおりたくさんの客を連れてきてくれたからだ。ちゃんと常連客を掴まえているのはマリさんとマヤくらいか。うん、最高の数だ。マヤの客が入れないほど入れてしまっては勘ぐられる可能性がある。こんな珍しい状況でも自分の実力は飛び抜けている――そう思って過信の上にふんぞり返ってくれてた方がいいんだ。そしてきっと思い知る事になる。あとは私が土壇場でミスをしなければ、貴宮がいつも通りやってくれれば、スターロードは確実に着工される。

「ユメリちゃん、貴宮さんから指名入ったよ!」

 胸に感情を押し殺したマヒロさんが元気に私の肩を叩いてくれた。

 最高の合図。

 あなたの想像を遥かな高みで裏切る舞台をこれからお見せします、マヒロさん。私達三人が幸せになれる舞台です。

「え? ユメリちゃん?」

 私が腕まくりをした事にマヒロさんが驚く。

「何でしょうか? マヒロさん」

「あ、ああ何でもないの」

 マヒロさんが口を濁した。メイド服を着ればおとなしいユメリ、きっとそう思っていたからだろう。

「じゃあ行ってきます」

「ごめんね。買出し行かなきゃいけなくて。戻ったらすぐに合流するからね」

 私の背中をぱん、と叩いてマヒロさんは外に出ていった。マヒロさん間に合うといいけど。

 握りしめていたネームプレートをそっとポケットの中に放して、私はホールへと足を踏み出した。数あるライトが全部私の為のスポットライトに思えてくる。

「いらっしゃいませ……。今日はユメリを選んで頂いてありがとうございます」

 エプロンの裾先につつましく指先を揃え、私は貴宮に深々とお辞儀をする。こんな私が嫌いな彼でも、さすがに今日は嬉しそうに微笑んでくれた。

「この前少し楽しかったからね。おどおどして困ってる顔も悪くなかったよ」

 嘘つき。

 まあアリスにはほとんど来た事のない貴宮だから、この台詞もこいつが嘘をついていると気づかれる事はないだろう。

「そんな……過ぎたるお戯れはお止めになってくださいませ」

「んーどうしよっかなー」

「もう、貴宮様ったら……」

「あっははまた困ってる」

「駄目ですよ貴宮様。これ以上困らされたら私覚醒しちゃいます」

 自分で言ってて恥ずかしいし馬鹿なんじゃないかって思う。何だよ覚醒って。もう少しマシなシナリオ考えろっての。

 と思いつつも私はしっかり困ったそぶりを見せる。ユメリだったらこんな感じだろうな、と想像しながら。

「覚醒か、見てみたいね。覚醒ユメリ……アツすぎる」

 ちょっと待て。演技抜きで喜んでないかオマエ。

「え、おやめになった方がいいですよ貴宮様。覚醒した時って私……何も覚えていないんです」

「そんな僕好みの事言われたらますます見たくなっちゃうな――」

 と、そこで貴宮が注文したホットコーヒーが到着した。持ってきたのは今日の午後は「何故か」指名のないカレンだった。

 よりにもよって私のテーブルに運ばなければいけないなんて、っていう思いがありありと顔に表れているのを横目でちらっと確認する。

 さて、こいつはどう出る? さっきあれだけ煽ってあげたんだから、簡単に引き下がったりはしないよね?

「ユメリちゃん、せっかくだからあなたから手渡ししてあげなさいな」

 ――来た!

 その言葉を待っていた。これならおそらくプランBが出来る。

 私は少し不安げな表情を作りながら、カレンに目を向ける。客をもてなすというメイドの立場からすれば、絶対に断れない提案だ。

 恐る恐る立ち上がり、カレンからコーヒーを受け取る。ソーサーの上で不安定に揺れるカップの音が、持つ手も震えさせる。

 そのまま貴宮の近くへと回り込む。

 一回きり、失敗は出来ない。

 歩調を合わせろ私。

 私の行く手に、カレンの足が出されたのが見えた。

「お待たせしまし――きゃっ!」

 避けれないユメリはそれに躓き、派手に転ぶ。

 結果、貴宮に向かって思いっきりコーヒーをぶちまける事になる。

「あっつ!」

 頭からコーヒーをかぶった貴宮が飛び上がり、直後にカップの割れる音が響いた。それと同時に店内の視線が一斉にこちらに向けられる。客もメイドもみんなだ。床に転がっている私と、服を汚し立ち上がった貴宮。何が起きたかなんて一発で理解できる構図だ。

 見上げるとカレンがにやけ面で見下ろしていた。

 やめてよ、そんな勝ち誇った顔されたら――笑っちゃうじゃん。

 なんとか彼女に悟られないよう目線を外し、呼吸を整える。

「何をする!」

 貴宮が怒ってテーブルを叩く。

「すみません! ちょっとユメリ、あなた早く謝りなさい!」

 私はカレンに腕を捻り上げられるような形で、無理矢理立ち上がらせられた。

「す、すみませんでした……!」

「ユメリ、君じゃない」

「え……?」

「カレン……か。君、ユメリの足を引っ掛けただろう今」

 想像も出来ない堂々とした態度で貴宮はカレンを糾弾する。ただユメリでいればいい私は、おどおどしたまま二人を交互に見つめるだけだ。

「そんな、私、足をひっかけてなんかいないです」

 トレイを盾みたいに胸の前に掲げながら、カレンは弁解する。

 実際、どちらでもいいんだ。カレンが足を引っ掛けようと引っ掛けまいと。どう転ぼうとも「ユメリがカレンの足に躓き、貴宮がカレンを責める」というシナリオなんだから。

 だけど本当に引っ掛けようとしてくれてよかった。貴宮の良心が痛まなくて済んだろうから。

「この子が勝手に躓いただけで……」

 弁解すればするほど墓穴を掘っていくとは――ナイス、カレン。

「いーや俺見てたぜ」

「俺も」

 と、隣のテーブルの男達が囁き始めた。もちろん劇団貴宮の優秀なエキストラさん達だ。

「マジかよ」

「えげつねえな」

「こんな裏見たくありませんでしたね、ハイ」

 元々店内が静まり返っていたから、その囁きは他のテーブルにも伝わり、そこかしこでカレンに対する非難の声が囁かれる事になった。それはエキストラの人達だけではなく、マリさんやマヤが相手をしている一般客にも伝染していた。

 マリさんを見ると、彼女は刃の切っ先のような目でこちらを――カレンを射抜いていた。

 マヤは自分の客をなだめながら、左拳を強く握っていた。

 カレンは涙目で震え上がったまま、何も言えないでいた。

 このままではアリス全体が危なくなる――そう思ったのだろう、マリさんとマヤは同時に立ち上がった。

 この場を治められるのは確かにこの二人だけだろう。

 でもそれは昨日までの話。

「違います!」

 近づいてくるトップの二人を制止するように私は声を振り絞った。

「私が、自分で転んだんです」

「いや、僕は見てたんだよ。確かにカレンは足を引っ掛けていた」

「たまたま足がぶつかってしまっただけです。ですから、責められるなら私なんです」

「そうか。じゃあそういう事にしよう。でもね、カレンはさっき君を助けなかった。君はカレンをかばっているというのに」

 さっきのカレンの責任逃れの台詞をシナリオに入れ込んだ貴宮の機転に、私は脱帽した。これでこの後の私が映える。

 やるじゃない。なら、シナリオの最終段階にしてご褒美をあげなきゃね。

「でも、お願いです、お願いですからカレンさんを責めないで下さい」

「いーや駄目だね」

 貴宮が一歩前に出る。私はその前に立ちはだかる。

「何のつもりだい?」

「わ、私のことを案じて頂けるのは、たいへん嬉しく思います、ですけど、カレンさんも、大事な人なんです」

「責任は誰かが取らなければいけない」

「ですから、私が取ります」

「話にならないな、いいからどいてくれ」

 乱暴に私を払おうとしたのを見て、横で見ていたマリさんとマヤが限界だ、とばかりに動いた。

 ここだ――


「貴宮さんの、ばかぁーっ!」


 アリスで鳴ってはいけない乾いた音が響き渡る。

 一瞬、誰もが呆気に取られていた。マリさんですらも。

 私は渾身の力をこめたビンタでよろけた貴宮を押し倒し、上に乗った。そしてエキストラの一人にこっそりとサインを送る。彼の役目はマリさんにこれが演技だと伝える事だ。

 ここまでマリさんに打ち明けなかったのは、マリさんには立ち上がってここまで来てくれないと緊迫した雰囲気が生み出せなかったからだ。かと言ってマリさんに手伝ってくれとは言えなかった。そういうわけだ。

「あなたは優しいお方ですのに! 何故分かって下さらないんですか! 責められるべきは私なのに! この後どんな罰が待っていようとも! 刻みます! 私刻みます! 愛情を持って! あなたのお身体に!」

 一呼吸ごとにビンタを浴びせる私の耳に、囁きが届いてくる。

「メイドにマウント取られてるぞ、あいつ」

「覚醒だ……。覚醒ユメリ」

 あああ普通に楽しんでるよエキストラの奴ら。最後までちゃんと仕事しろって――

「ユメリちゃん!」

 声が掛かって、私はビンタを止め、目だけそちらへ向けた。

 買ってきた荷物をその場に全部落とし、マヒロさんが呆然と突っ立っていた。そりゃそうだろう。帰ってきてこんな地獄絵図が展開されていたら、誰だって言葉を失う。

「ちょっとユメリなんて事してるの!」

 マヒロさんの落とした荷物の音で我に返ったマヤが、貴宮から私を引き離した。

「私、また――」

 無意識下の出来事だったかのように、床の上に転がる貴宮を見下ろす。

「謝りなさい! いや、立ち去りなさい今すぐ!」

 自分のしでかした事の重大さに気づいたユメリはよろめいて床に尻餅をつく――さあ貴宮、ユメリ育成計画のプレリュード、そのクライマックスだ。

「素晴らしい!」

 叫びにも取れるほどの大きな声を出し、貴宮が上体を起こした。マヤは彼の台詞の意味が分からずに、またもやその場でフリーズした。

「そこのメイドさん、ユメリを責めないで下さい。彼女に非は何もない。悪いのはこの私だ。思えば彼女の為に怒ったというのに、それがいつの間にか彼女を傷つける結果となってしまっていた。そして更に彼女に手を汚させてしまった。それもまた彼女を傷つけてしまった事でしょう。本当は僕を叩きたくなんかなかった。でも叩かざるをえなかった。そうしなければ僕はもっとたくさんの人達を嫌な思いに巻き込んでしまっていたでしょうから。普通のメイドさんじゃここまでは出来ない。元来メイドカフェは清楚で従順で貞淑さを兼ね備えたメイドが多い。アリスでもそうでしょう。そんな中でそれを破る今のような行動を起こせば、それは身の破滅だ。ああ今までのキャラは嘘だったんだ、と思われて。それでも彼女は、ユメリはためらわなかった。僕もカレンもアリスすらも守ろうと思った彼女にとっては、これからの自分なんてどうでもよくて、ただみんなの幸せを守る為だけに精一杯で――」

 熱弁をふるう貴宮は、いつの間にか立ち上がって拳を握り締めていた。

 シナリオが違う。本当はこんなに長い台詞じゃなかった。

 熱意が違う。演技云々ではない何かが確実にこもっている。

 本当に私に居場所を与えようとしてくれているのかもしれない。

 その熱意の発端がどういうものであれ――

 ああいいな、と私は思ったんだ。

「ねえみなさん!」

 貴宮がホール全体を見回す。

 すでに場全体が貴宮一人に支配されていた。一般客もエキストラもメイドもみんな、彼の言葉の一つ一つを聞き逃すまいとしていた。

 マリさんは――いつのまにか消えていた。

「先に僕は聞きたい。こんな彼女が罰せられるべきでしょうか!」

 誰も何も答えなかった。貴宮も答えを望んでいるようではなかった。彼は続ける。

「アリスの皆さんにお願いします! 彼女にどうか罰を与えないで下さい! 辞めさせたりしないで下さい! 彼女はこの店にとって今でも貴重な人材でしょうが、この先もっと何者にも変え難い存在になるはずです! 何故なら彼女は強力な個性を持っている! 普段のおどおどした姿からは想像もつかないほどの強さ、芯の通った心、それがあります! ――それも、そっちも、彼女の本当の姿です。どうかここにいる皆さん全員にそんなもう一つの彼女を見て頂きたい。もう一つの彼女を受け入れてやって頂きたい」

 なんでだろう、ちょっと涙が出そうになった。

 貴宮は最後に、全員に向かって深々と頭を下げた。

 強烈に熱を放っていた炎が消え、場が一気に静まり返る。でもそれは暖炉にくべる最初の火種のようなもので、彼の熱意に打たれた人達は拍手という名の薪をゆっくりと、そして段々に速度を高めてくべていき、彼の炎に呼応していった。

「いいぞー!」

「感動したっ」

「今日のこれ、アリス板にうぷしとくぞ!」

「ドジギレメイドの誕生だ!」

 口々に盛り上がってくれたのは勿論エキストラの人達がほとんどなんだけど、それだけじゃなかった。他の一般客、それとマヒロさんやマヤ派の下の子達も何人か拍手してくれた。

 自分も出演者ながら、貴宮のアドリブのせいでいつのまにか観客の一人になっていた私は、そんな状況にただただ驚くばかりだった。

「今日はごめんね、本当に」

 貴宮の声に振り向いた私は、彼のすまなそうな、でも優しい顔を見て思わず目を逸らしてしまった。ちょっと格好いいって思ってしまったから、恥ずかしくて顔をまともに見れない。

「いえ、その、こちらこそごめんなさい……」

 そうユメリ口調で言うのが精一杯だった。

 と、貴宮が笑い出した。

「でもドジギレメイドだって。なんか新しいよね」

「喜んでいいのか、戸惑うのですけれど……」

「喜ぶべきだよ。多分今日のアリス板はお祭り騒ぎだろうね。さしずめ新種誕生ってところかな。きっと君は成功するよ。おめでとう」

「はい、がんばります!」

 よかった。大成功だ。

 ぜんぶ、ぜんぶ貴宮のおかげだ。ありがとう。

 声にして言いたかったけれど、ぐっと堪えて私は改めてホールを見渡した。いまだ盛り上がり続けるみんなの中に、マヤの姿は見当たらなかった。カレンもヒナも。

 勝った。まぎれもなく今マヤに一矢報いたんだ。

 突然貴宮に背中を押されて、私はみんなの前に放り出された。

 いつのまにかユメリコールが巻き起こっていた。貴宮に助けを求めると、彼は苦笑いを浮かべるだけだった。仕方ないから、私は恥ずかしながらもお辞儀で応え続ける事にした。

 今日この瞬間を、私は一生忘れないだろう。



「何よあの三文芝居」

 営業が終わって、マリさんに呼び出された私は、屋上で待っていた彼女に意気揚々と会いに行った――その開始の一コマ。

 呆れ口調のマリさんは、背中を向け手すりにもたれかかったままこちらを振り向こうとはしない。

「あれ? もしかしてちょっと怒ってます?」

 テンションがすごく高まっていたから、いつもだったらもう少し気を遣って言葉を選ぶところもあまり気にしなかった。

「ええ、とっても」

「まさかぁ。だってマリさんも手伝ってくれましたし。ね、事務所のドア」

 あの後マヒロさんから聞いた話だけど、あの騒ぎの中、所マネージャが出てこなかったのは、誰かが事務所の前に重い荷物を置いてドアを開けられなくしていたからだと言う。私じゃない。私はそこまで気を回していなかった。貴宮もそこまでは考えていなかった。だとしたら、それをやったのはあの時早々にいなくなったマリさんしかいないのだ。

「何の事だか」

「本当にありがとうございました!」

「まあ無事にあの場が収まったから良かったものの、そうじゃなかったら――」

 マリさんの背中が夜闇の下だというのに鮮明に真っ赤に見えるのは、気のせいだろうか。

「そ、その為に大勢のエキストラ用意したんですよ」

「ま、男を叩いた瞬間熱が感じられなかったから何かおかしいとは思ったけど」

 もたれかかったままこちらに振り返って、マリさんは大仰に空を仰いだ。

「どこが正攻法よ。むしろ」

「マリさんその先は言わないでっ! 私も結構気にしてるんです!」

 知らずに来ていたお客さんや、関わっていない他のスタッフの子達には悪い事したと思っている。

 私があたふたしていると、なんとあのマリさんが声を出して笑い始めた。

 マリさん笑うって感情あったんだーとか、マリさん笑うとこんな可愛らしいんだーとか、色々頭の中を埋め尽くしていくんだけど、えっと、笑うって事は、怒ってないって事だよね?

「分かってるならいいのよ。非合法すれすれの行為をしてる相手に合法は通用しない。あなたにとってはマヤはそのくらいしないと倒せない相手だわ」

 目尻に指をあてながら、マリさんがもう片方の手を差し出してきた。

「先に言っておくわ。おめでとうユメリ、これであなたも花開いた者の仲間入りよ」

「は……はいっ!」

 ランキング入り――マリさんの言葉でそれも手の届くものになるだろう事が分かって、私はその手をぎゅっと握り返した。すごい柔らかくてすべすべなんですけど。

 いつまでも握っていては悪いので、私は名残惜しくもそっと手を離した。マリさんは私には決して真似の出来ない流麗な仕草で手を胸に持って行きながら、笑うのをやめた。

「花開いた者の心得を一つ教えておくわ。自分の花の香に惑わされない事」

「過信するなって事ですか?」

「それは自分で考えなさい。あなたなら他の誰よりきっと、すぐに理解に至る筈」

 そんなマリさんの言葉に、私はすぐに考えるのをやめた。どうせ今考えたところで、実際ランキング上位に入ってみないと分からないだろうから。

 それよりもマリさんが随分と私に目をかけてくれてる事が嬉しくてたまらない。

 季節を少しだけ早める屋上の風が、冷たく私の頬を撫でていった。

「寒いわね。今日はもう帰りましょう」

「マ、マリさん! じゃあラーメン食べに行きませんか!」

「らあめん? それって温まるの?」

 腕を組みながら首を傾げるマリさん。

 ……本気で言っているのか?



 あれから一週間、ユメリ人気は留まるところを知らない。ネットのアリス掲示板で火がついてしまってはそれも当然なんだけど、それだけじゃない、オタクじゃない一般客までその噂を嗅ぎつけてやってくる始末だった。その、とっても嬉しいし、こういう結果になる事を望んで行った芝居だったけど、正直私にはみんな何で殴られたいのか分からない。

 だからといって貴宮ほどの変態というわけではない。どこぞの魂の注入みたいなもんかもしれない。

「なんでアイスティーなんて頼むんですか!」

 本日二十三回目の平手打ち。男だからフルスイング。もうね、こっちの手が痛いんですけど。それにもう気の利いた台詞も出てこないっつーの。

 でも理不尽な因縁にも関わらず、私に引っぱたかれた男は、やった! って顔して小さくガッツポーズをする。

「ありがとうございます!」

 お礼言うなよ、心苦しいだろ。

 私は叩いてしまった右手を左手で胸に押さえつけ、言う。

「ああ、この右手果てるまで私は止まれないのです」

 コレ、決め台詞ね。

 馬鹿馬鹿しいのはもううんざりするほど分かっているから、どうせならって事で貴宮と考えた。これも意外に好評だったりする。

 そして私は一旦退散し、アイスコーヒーを持って現れる。注文されたアイスティーは絶対持ってこない。だってここでアイスティー持ってきたらただのツンデレだから。

 アイスティーという間違った道を選んだこの男に、アイスコーヒーという正しい道を自分の手を汚してでも教えるというのがこのドジギレメイドの役割だ。うん、自分でも意味分からないのは分かってる。

「ユメリちゃん、また指名きたよ」

 マヒロさんが上気した顔で言ってくる。

 私は手首の体操をしながら、そのテーブルへと向かう。

 うん、順調だ。



「それじゃあランキングの発表な」

 所マネージャが全員を見渡しながら言う。半月に一度のランキング発表。これでアリスでの地位が決まる。ポイントとなるのは指名客数とアンケート結果。ホストとかじゃないので売り上げで決めるのではなく、純粋に多くの客から支持を得れるかどうかで決まるのだ。

 全員が緊張しているのを楽しむかのように、所マネージャは言葉を勿体ぶる。

 ランキング圏内の十位と十一位の間には果てしない差がある。給料もマネージャからの扱いも発言権も段違いで、更にはアイドルオーディションの推薦枠が与えられるかどうかも十位以内でないといけない。

 だから九位や十位の者はいつ落ちないかとびくびくするし、逆に十一位や十二位の者は今度こそランキング入りをしてやる、と目をぎらつかせる。

 私は二十位にすら入れていない落ちこぼれだけど、今回ばかりは少し期待していた。だって今週一週間はユメリ週間だったから。それにマリさんも花開いた者の仲間入りだって言ってくれたし。

 だから十位くらい一気に入ってくれてもいいかな、なんて。

 甘いかなあ。

「一位――マリさん。まあ当然か」

 所マネージャの言うとおり、当たり前になってしまった「一位、マリさん」なので、もう誰も驚かない。マヤはやっぱり面白くない顔をしてるけど。

 マリさんは無表情の顔を崩さず、所マネージャに向かって優雅に会釈をした。

「そして二位は――」

 マヤが立ち上がろうとする。

 しかし所マネージャはマヤの方を見なかった。

「俺もびっくりだ――ユメリ」

 みんなの顔が一斉に私に向く。

 ――本当に?

 ――本当に、二位?

「……やったじゃん! ユメリちゃん!」

 マヒロさんが私をぎゅっと抱きしめ、立ちかけのマヤがソファに崩れ落ちた。

 それで私はようやく本当に二位だって理解する事ができた。

 でも実感が沸かない。

 二位。二位。二位。

 何度反芻してもまったく意味不明の、別次元の言葉にしか思えない。

 でも、本当らしい。

 そっかー二位か。

「何だユメリ、嬉しくないのか?」

 所マネージャの問いかけに、私は首を横に振った。

「いや、嬉しいです、よ」

 やけに無感動な声で、私は答えたのだった。



 一位、マリさん。

 二位、私、ユメリ。

 三位、マヤ。

 四位、マヒロさん。

 五位、サヤカ。

 六位、ヒナ。

 七位、ユウ。

 八位、ミコト。

 九位、フウカさん。

 十位、サクラ。

 これが今回のランキングの結果だった。マヤは腐ってもメダリストと言ったところで、しっかり三位をキープしてきた。マヒロさんは変わらず四位。前回三位のサヤカは私だけでなく、マヒロさんよりも下の五位という結果になった。自慢じゃないけど、これはマヒロさんが私のそばでフォローしてくれた結果だと思う。つまり私と一緒にいたマヒロさんも好感度が上がった、とそういう事だ。

 カレンは私のドジギレメイド誕生事件のせいで一気にランク外へと転落した。人を陥れようとしたんだから、まあ当然の結果だと思う。

 仕事が終わり、マヒロさんとロッカールームに向かうと、今日は成績発表の日だったから多くの子達であふれていた。何だか女子高の時を思い出す光景だ。みんな男には見せられない姿で話に盛り上がっている。成績の話って良くても悪くても盛り上がるんだよね。

 なんて思いながら入ると、みんなの視線が一斉に私達に集まった。

 理由なんて一発で分かる。ええ、私だってびっくりしてるんですよ?

「ユメリちゃんおめでとー!」

 今までまったく話した事もなかったフウカさん――ランキング内でマリさんとマヒロさんを除いてマヤ派じゃない最後の一人――や他の数人の子達が、改めて私を祝福してくれた。その盛り上がりに驚いて動けないでいると、彼女達は変なノリで手でアーチを作り始めた。その前に服を着ろ、とか思っちゃうのは私のノリの悪いとこか。

 マヒロさんに助けを求めると、彼女も通っちゃいなよ! みたいな目で私を見つめるもんだから、私はしかたなく照れながらそのアーチを潜り抜けた。

「お前らうるせえんだよ」

 突然ヒナの声が聞こえて、場が静まり返った。

 見ると、マヤ派のロッカーが集中している、通称マヤブースで着替え終わったヒナが苛立ちも露にこちらを睨んでいた。奥にはマヤの姿も、他のマヤ派の子達の姿もあった。

「ランキングで傷ついてる奴がいるって事も少しは考えろよ!」

 よく見るとカレンが奥にいる事に気づいた。背中を震わせているように見える。

「何それ今さらってかんじ。あんたこそ今まで考えた事あんの?」

「あ? おまえなに調子に乗ってんだよ? 自分が何位か言ってみろよ?」

 私の横に並びながら言い返すフウカさんに、ヒナが片目を大きく見開く。

 フウカさんの言ってる事は正論だけど、でもランキングで序列化されたアリス内では正論もその力を弱める。だからこそ、私は非合法な手を使ってでもランキングを無理矢理押し上げる事にしたんだ。

 と、私はフウカさんに腕を掴まれている事に気づく。

 もしかして、頼られているのか私?

「九位だけどそれが何? こっちには――」

 フウカさんが私の腕を持ち上げようとしたその時。

「やめなさいヒナ」

 今まで静観を決め込んでいたマヤが静かにロッカーを閉じ、その青い髪をかきあげながら優雅に振り返った。

「あまり高圧的に出るものではありませんよ」

「だ、だけどマヤさん……」

「初めてランキングに入った時の喜びはあなたも知っているでしょう? 今日くらい許してあげなさい」

 後ろからヒナの肩に手を添えながら、マヤは私達に向かって微笑んだ。

「改めておめでとうユメリ。でもヒナが怒った意味も考えてあげて頂戴ね。――みんなも」

 そんな風に言われると何も言えなくなってしまう。フウカさんも他の子もそう思ったようで、私達は矛先を納める事にしたのだった。

 マヤが派閥の一同を率いてロッカールームを出ていく。嫌なプレッシャーが室内に広がる。

 前のようにすれ違いざま何か吐き捨てられるかと身構えたけど、マヤは微笑を湛えたまま何も言わずに出ていった。

 私の事を少しは認めた……?

 いや、そんなはずない。

 ランキングでは勝ったけど、でも油断しちゃいけない。マヤは潔く負けを認めるような女じゃない。

 どんな手で来るかは想像がつかないけど、アリスでは気を抜かないようにしなきゃ。

「ねえねえユメリちゃん、これから一緒に組まない?」

「あ、私も私も!」

「漏れなく私もついてくるよ!」

 フウカさんの言葉を皮切りに、他の子達もそんな事を言い出した。

 まいった。

 あまり徒党を組むのは好きじゃないんだけど。マリさんとマヒロさんがいれば充分なんだけど。

 だからと言ってむげに断るわけにもいかない。

「そんな、こちらこそよろしくお願いします」

 なーんて台詞をしゃあしゃあと吐きながら、私は上に立つってこういう事か、などと考えていた。



「で、覚醒ユメリの調子はどうだい?」

「上々だねー。もう笑いが止まりませんよ」

 真っ昼間の日比谷に高笑いを響かせ、私はチョコラテをすすった。これまで散々お世話になった貴宮に、お礼も兼ねて遊びに行こうと誘ったのだ。秋葉原と言われるかと思ったのに、日比谷とは意外だった。それを指摘すると彼は、

「ユメリがホームを知らない男と歩いていたら台無しだろ」

 と言ってきた。なるほど、あんまり考えてなかった。どうやら私は人気を維持する努力を怠りまくっているみたいだ。

「それにたまにはアウェイな場所を自分の足で開拓するのもいいと思ってね」

 なんて言ってるくせにちゃんとノートパソコンは持ってきていて、今もテーブルに広げて日比谷の情報を集めているんだから、随分と近代的なフロンティア精神だと思う。

「いいじゃん、適当に映画でも見ようよ」

「映画なんて家でも見れる」

 引きこもりみたいな台詞を吐くな。

「よし、海に行こう」

「海!」

 なかなか素敵な事を言うじゃんか。このパステルピンクと白のスタイルにも合うってもんだ。

「意外と近いんだよ、築地」

「はぁ?」

 私のとっさの拒否反応にも鈍感に、ノートパソコンを閉じながら貴宮が席を立つ準備を始める。今だけは漁港を海とは認めたくない。

「昼だけどいい店があるみたいなんだ」

「いや、おいしいお魚とか大好きだけど、でも」

 マグロの競りに参加しながら声を張り上げる私と貴宮。すごい上物に値段はどんどん釣りあがっていく。最終的には私と貴宮の一騎打ちになって、で私が競り勝って、百五十万とか払ってくそ重たいマグロを背負って電車に乗り帰路に着く――

「却下。百五十万も払えない」

「どんな想像したんだ」

「とにかくこの格好にビニール袋いっぱいの海産物なんて持ち歩きたくないよ」

「そ、そうか。ごめん、もう一回探してみるから……」

 と再び貴宮がノートパソコンを開けようとしたので、私はそれを上から押さえつけた。

「いいよ。開拓しよ」

 適当な方に向かって私は歩き出した。荷物をまとめていない貴宮の慌てふためいた声が後ろから聞こえるのが何だか楽しい。

 本当にどこでもいいんだ。多分、今日はどこに行っても楽しい。



 痛い。

 めちゃくちゃ痛い。

 調子に乗って歩きすぎた。さすがに日比谷公園、東京タワー、六本木ヒルズの行程は無理があった。適当にも程がある。歩いていて見えてきたものに向かって片っ端から向かっていくなんて、まったく今日の私は浮かれすぎだった。

 でも私はまだいい方で、貴宮はノートパソコン他色々入ったバッグが致命的すぎて、東京タワーにて力尽きた。だから積荷を捨てて少しでも軽くしろ、とバッグを投げ捨てようとしたら慌てて立ち上がって復活をアピールしてきた。男って単純だ。とりあえずその平然を装った強がりに免じて一発殴ってあげた。

 それにしても家が遠い。駅から歩いて十五分の距離が、今日歩いたどの場所よりも長く感じる。ボーンサンダルでよかった。普通のサンダルだったら絶対足の皮むけてる。

 あーもう貴宮と一緒にタクシーに乗ればよかった。彼は六本木で二度目の死を迎え、さすがに無理だと自分に素直になりやがったのだ。送っていくよと言ってくれたから本当は乗りたかったけど、何度も貴宮のお世話になるのも申し訳ないし、何より今日は貴宮へのお礼の為に遊んだので、丁重に殴ってお断りしたのだ。それに若干自分の家をまだ知られたくない、っていうのもある。

 私の家の辺りはコンビニもない住宅街なので、十時をすぎたこの時間では人通りもほとんどない。と言ってもマリさんの家の周りほどじゃないけど。

 私の記憶に反応するかのように、どこかで犬が鳴いた。

 まさかまた襲われるなんて事は……ないよね。

 背後を確認して、大丈夫な事に溜め息をつく。予感なんて上等な代物じゃなくて、ただ思い出して不安になっただけだ。犬の鳴き声は遠い、びびるな私。

 いつもは突っ切る十字路の角に面した公園も、今日は道路の方から迂回して回る。びびるのと慎重に行くのは別物だ。

 そうやって公園をやり過ごした時だった。突然白いワゴン車が私の横に止まったかと思うと、ドアが開いて男が飛び出してきた。

 いきなりすぎて訳が分からないうちに、私は車内に引っ張り込まれた。そして叫ぼうとした時には口を塞がれ、暴れるより先に両腕を掴まれ組み敷かれた。とっさの判断で足を思いっきり伸ばす。閉まろうとしていたドアに挟まれ激痛が走るけど、これを閉められたらもっと酷い事になる。

「おい暴れんな。殺すぞ」

 私は脅してきた男をきっと睨みつけた。カーテンを閉め切った暗い車内で更にフードで隠しているから顔ははっきりと見えない。

 睨んだのが気に食わなかったのか、男は私を一発殴った。

 まさか、殴られるなんて思わなかった。

「おい閉めろ早く」

 その小さな怒声にもう一人、ドアを閉める役の男が私の左の足首を掴む。少し放心していた私は、我に帰って何とか身体をひねらせ右足をばたつかせて、それを振りほどこうとしたが、こんな体勢ではほとんど無力だった。あっさりとドアは閉められ、私は完全に囚われの身となってしまった。

 周りは住宅街で人だっていっぱいいるのに、なんでこんなに絶望的なの?

 そもそもなんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの?

 今日はいい日だったのに。

 私を押さえつけていた男が馬乗りになり、もう一人が私の口を塞ぐ役割に移動する。

「正直に答えろ。そうすれば帰してやる」

 馬乗りになった男の言葉に、私は震えて上手く動かない身体でなんとか頷いた。

「おまえアリスのユメリか?」

 その問いに、私はまた黙って頷く。

「よし」

 押さえつけられていた腕が解放される。よかった、帰れる!

「ビンゴだぜ。ユメリだ」

「悪いな、顔に少しだけ傷をつけさせてもらうぞ。それから写真もな」

 チキチキと鳴るこの音は――多分カッターの刃!

 え? 何で? 帰してくれるって言ったじゃん!

 口を塞がれているから声に出来ない。でも私の言いたい事は男達には分かっているようだった。

「動くともっと酷いことになる」

 私の顔に向かって男の両手が、指が近づく。

 だから、指はやめて。

 ――やめてってば。

 怖い。

 怖い。怖い。

 助けてよ。

 誰か助けてよ。

 貴宮、助けてよ!



 どういう動きをしたのか分からない。ただひたすら怖くて暴れただけだ。

 でも今、私を押さえつけていた男は汚らしい悲鳴を上げて、顔を手で覆っている。何が起こったのか――答えは右手に握っていた。

 鍵。とっさにバッグから取り出したんだ。

 そこから先は想像したくなかった。ただ、もう一度握りなおした鍵の先端は確かに濡れていた。

 とにかく今がチャンスだった。私は馬乗りになっていた男を押しのけ、もう一人の男に鞄を投げつけると、車から飛び出した。発進させられていなかったのが最大の幸運だった。

「逃げんじゃねえよ!」

 背後で無傷の方の男が小さく叫ぶ。私は公園を突っ切って駅の方へと逃げようとした。けどさっきドアに挟まれたせいだろう、走り出した瞬間、足にものすごい痛みを感じて転んでしまった。

 後ろから抱きすくめられる形ですぐに私は捕まった。もちろん口は最優先事項、とばかりに塞がれる。

 指の感触はダメ! 離して!

目をぎゅっとつぶって抵抗しようとするけど、今度は完全に何も出来ない体勢だった。

 また戻されるの? あの車内に。

 私は叫んでおかなかった事を激しく後悔した。

 もうだめだ――

「全力でしゃがんで!」

 その声に私は目を開いた。

 助けが来た!

 私は駆けてくる何者かが発した言葉を何とか理解し、ありったけの力でしゃがもうとした。でも捕まったままではやっぱりしゃがめなかった。

「それで充分!」

 しゃがもうとした分下がった私の頭の上をかすめて、背後の男に何か機材のようなものが叩きつけられた。音からして痛そうなだけあって、男は私から手を離し悶絶した。

「早く行こう!」

「貴宮……!」

 どうして?

 どうして貴宮がここにいるの?

 何でいつも私が困った時に現れてくれるの?

 かっこよすぎるよ……!

 私は手を差し出す彼の胸に飛び込もうとして――


 踏みとどまってしまった。

 こんな時でも身体は拒否反応に忠実だった。

 私という女はどうしてこんなに致命的な欠陥があるの?


「何やってんだ! 早く!」

 立ちすくんだままの私の手を掴んで走り出そうとする彼を、私は反射的にありったけの力で振りほどいてしまった。

「ご、ごめん」

「僕がここにいる事に不信感を持ってるかもしれないけど今は言う事を聞け!」

「違う、そんなんじゃないの」

「何でもいいから!」

 私の背後を確認して貴宮が焦りをあらわにする。私にも男が起き上がろうとしているのが砂利の音で分かった。

「じゃ、じゃあ手、しまってくれる?」

「何を言ってるんだ。君、動けないんだろ」

 いつもと違って貴宮は強引だった。それはとても男らしくて、彼の事をもっと好きになりそうな、そんな姿だ。でも今はそうされればされるほど私の身は引き裂かれそうになる。

 全身全霊を込めて彼の胸に飛び込みたいのに、思い出したくないこの数分間をその腕で忘れさせてほしいのに、今の私では殴る事は出来ても優しく触れる事が出来ない。

「ね? 一緒に走ろう?」

「そうだ、一緒に走るぞ!」

 思いも空しく、貴宮は私の手を力強く掴んだ。

 だから、だめなのに――

 私の頭の中で、女の子が再生される。

 その女の子は、コンパスを間違った持ち方で、別の使い方をする。

 そして笑うんだ。この世の何よりも醜く。

「いやあぁっ!」

 私は絶叫と共に、彼の腕を鍵で切り裂いた。



 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 私は朦朧とした意識の中で、ただそれだけを繰り返していた。

 でもね、彼はその度に優しい言葉を――。

 そんな気がした。



 目が覚めると自分の家だった。カーテンの向こうの明るさに時計を確認すると、もう昼前だった。随分と寝ていたようだ。

 しかし記憶がはっきりとしない。服装は昨日のまま。帰ってきてすぐに寝ちゃったんだろうか。私はベッドから降りようとして、シーツが土や砂でまみれている事に気づいた。お尻に手をやると、べったりと土がついている事が分かった。

 それで私は昨日起こった事を全部思い出した。

 貴宮、貴宮に謝らないと!

 携帯を取ろうとテーブルを見るけど、充電器しかなかった。そうだ、バッグごと投げつけちゃったんだ。

 家に電話線なんて引いてない。何よりアドレス帳だってバッグの中だ。

 いや、でも滝君に聞けば分かる!

 アリスに行こうと急いで着替え始めた私は、キッチンとこの部屋を仕切るドアに紙が貼り付けられている事に気づいた。

 剥がして食い入るように文章を目で追うと、そこには貴宮から謝りの言葉がたくさん綴られていた。

 帰ったはずなのに私の家の近くにいた事、それで私を怯えさせてしまった事、気を失った私をおぶった事、家に運び込んだ事、中まで勝手に入った事、そして鍵を掛けずに出ていく事。そのすべての文章を「ごめんね」で締めくくり、最後にもう二度と目の前に現れない事を記していた。そしてまた「ごめんね」と。

 力が抜けた。

 どれも彼が謝る事じゃない。全部私が謝らなきゃ、感謝しなきゃいけない事だ。なのに、なのに私は。

 へたりこんだ床の上で、私の目に知らず涙が滲んだ。

 彼を傷つけちゃったまま、謝ることも出来ないまま、バッグ一つなくしただけでこんなにも簡単に縁が切れてしまった。もうきっと、彼の友達も彼の携帯番号を教えてはくれないだろう。

「貴宮……」

 会いたい、会いたいよ。

 私に謝らせてよ。

 でも、もう。

 そう思ったらもう駄目だった。涙と一緒に、すべての否定的な言葉で目の前が埋め尽くされる。

「貴宮ぁ……!」

 何度名前を呼んでも、それはこの部屋に溶けて消えるだけ。それでも私はずっと彼の名前だけを口にし続けた。

 ぎぃ、と玄関のドアが開く音がした。

 まさか貴宮……?

 期待をして涙でべちゃべちゃの顔を向けた先に、やっぱり貴宮はいなかった。

「こんちはーす……」

「片瀬ちゃん……!」

 彼女の胸に飛び込んだ私は、すべてを吐き出すかのように、いっそう激しく泣いた。



「よし、殺そう。そいつ」

 泣き疲れた私がすべてを話すと、片瀬ちゃんはそう言い放った。

「え? なんで……?」

「たかみや君とやらじゃないんよ。ユメリを襲った犯人!」

 自分で買ってきた刺身に箸を突き立てて、片瀬ちゃんが怒りをあらわにする。

 私は膝に唇を当てたまま、軽く首を横に振った。

「いいんだ、そっちはもう」

「何でだよ」

「そんなにたいした怪我はしなかったし、どのみち誰だか分からないし。それに……本当にどうでもいいんだ、そんな事は」

 貴宮の事以外、今は何も考える気が起きない。たとえ犯人を捕まえたとして彼が戻ってくるわけじゃない。ならどうでもいい。

「バカユメリ!」

「容赦ないなぁ……ごめんね」

「違う、たかみや君に会いたいんでしょ! なら少しでも望みをかけてアリスに、秋葉原に行かなきゃだめじゃん!」

「うん。もう少し落ち着いたらそうするよ……」

 きっといないだろうけど、馬鹿な私の足は彼を求めて秋葉原を彷徨うと思う。

「なら犯人を何とかしないと」

「どうして? 関係がないよ」

「アリスに行くならおおありだよ! だって襲った奴らはアリスのユメリを狙ったんでしょ?」

「あ……」

 そうだ。昨日私を襲った男達は私がアリスのユメリか確認したんだ。それで襲ってきたという事は、つまりアリスで誰かに恨みを買ったという事になる。でも私は昨日の男達は知らない。これは断言できる事だった。彼らは秋葉原にいるタイプの人間ではなかったから、もし彼らが客として来ていれば、絶対に私の印象に残った筈だからだ。それに客として会っていれば、わざわざ私の名前を確認する必要もない。

 つまり彼らは誰かに頼まれて私を襲ったという事になる。

 では誰か。それはすぐに想像できてしまった。

 そこまでする奴だとは考えたくないけど――

「真犯人に辿りついた?」

「うん。でも彼もうアリスには来ないから行っても……」

 と言った途端、頭にゲンコツを食らった。

「私だったら彼の知り合いを半殺しにしてでも携帯番号聞き出す。自分の携帯で電話しても出ないなら、その知り合いの携帯を奪って偽装してかける。――まだ繋げられるんだもん」

 殴ったままの握りこぶしを私に突きつけながら、片瀬ちゃんは言い切った。

 本当に、傍若無人。

「ね? 行かなきゃ」

「そうだね」

 片瀬ちゃんの笑みに釣られるようにして、私も少し微笑んだ。微笑む事ができた。

「じゃあ真犯人を殺そう。でもどうしようか。私なら完全犯罪出来るんだけど、ユメリじゃあ無理だよねー。破壊衝動持ってるとはいえねえ……」

「何か物騒な言い回しだね……」

 本気で相手を殺害するみたいな言い方はさすがに危ないと思うんだけど、片瀬ちゃんらしいと言えば片瀬ちゃんらしい。

「普通に強気で行けば何とかなると思う。人気も立場も私の方が上だし」

「二度と歯向かう気が起きないくらいの怖さを見せつけなきゃ駄目だかんね。まあ今のユメリなら大丈夫だと思うけど」

「ちょっと、片瀬ちゃんまでユメリって呼ばないでよ」

「じゃあ何て呼べばいいのさ? 私メイドの方の名前知らないよ?」

「え? ユメリがメイドの方の名前だよ」

 そう言うと、片瀬ちゃんは風邪気味の人にやるみたいに、自分と私の額に手をあてて首をかしげた。

「熱はないみたいだね。ねえ、ユメリ本当に昨日なんかされなかった? レイプとか」

「されてないよ! 失礼な」

「だってユメリの言ってる事イミフなんだもん。相当ショックな体験しないとこうは……」

 片瀬ちゃんが何を言っているのかよく分からなかった。私からすれば彼女の方が意味不明な事を言っている。

「ねえユメリ、あんた自分の本名言える?」

「馬鹿にしないでよ。私の名前は――」

 名前は。

 あ、あれ? 何だっけ?

 何も思い出せない。

「重症だね……」

 片瀬ちゃんは慰めるように私の髪を撫でると、そっと頭を両腕で包んできた。

 何だかとても腹が立った。

「やめてよ! 私、おかしくなんかないよ!」

 彼女の腕を振りほどいて私は立ち上がった。これ以上自分がおかしな人間だなんて思いたくなかった。もうこれ以上、貴宮との距離を離すような事実は認めたくなかった。

 名前なんてきっと度忘れしているだけだ。きっとそんな事、誰にだってある。

 胸を押さえる手が震える。怖い。自分が分からなくなってくる。

 睨みつける私に片瀬ちゃんが溜め息を一つついた。彼女も立ち上がったから、近づかれると思って少し距離を取ろうとしたけど、彼女は私に近づくのではなく部屋の外へ出ていった。そして玄関の郵便受けを探るとまた戻ってきた。

「はい。ポストずっと見てないみたいだね」

 溜まった郵便物の束を差し出す片瀬ちゃんの意図はすぐに分かった。私は恐る恐る一番上のダイレクトメールの宛名を見た。

 そこには夢梨と書かれていた。他のどんな読み方にも無理があるように思えた。

「違う。違う。違うの。昨日私は汚されてなんかいない」

「じゃあアリス以外でユメリって言われた時を思い出して。その時どう思ったか。この前お邪魔した時、私は確実にユメリって言ったよ」

 確か、この前片瀬ちゃんが来た時には……すでに忘れていた。

 じゃあもっと前?

 この郵便物の量はたぶん一ヶ月分はある。これを見ていれば自分の名前に気づいたはずだから、これより前に私は名前を忘れた事になる。一ヶ月以上前――私に何があったっていうの?

「性格変わった原因も、多分そこにあるんだろうね」

「私は変わってなんかない! 犯されてもいない!」

 私を変な人扱いする片瀬ちゃんがすごく嫌で、知らず口調が荒くなる。

「何も知らないくせに推測だけで私がどうかなっちゃったみたいに言わないでよ!」

「始まりは知らないといけないよ、ユメリ。じゃないと彼とだって……」

「うるさい! 帰って!」

 私はそこらにあったものを手当たり次第に片瀬ちゃんに向かって投げつけた。彼女はそれを避けようともしない。

 目覚まし時計が額にぶつかって、彼女は苦痛に表情を歪めた。

「ご、ごめん……」

 額を押さえた手をすっとどかした片瀬ちゃんの目が一瞬ぎらついて見えた。彼女自身もそれに気づいたのか、もう一度手で隠して深呼吸をした。そして少し息を止めて、ゆっくりと手をどかした。

 いつもの片瀬ちゃんだった。

「ユメリは私の大切な、友達なんよ」

「ありがと。……でも、今日は、一人にしてくれる?」

「うん。帰るね」

 荷物を手繰り寄せると、片瀬ちゃんはそれ以上は何も言わずに部屋を出ていった。玄関まで見送る気になれない私は、もう一度床にへたり込んだ。

 何だかもう、今日は立つ事ができない気がした。

 私の周りの全部が黒く塗り込められていく。なんだろう。涙ももう出ないや。

 それから何時間が経ったか分からない。

 ただ胸の中に浮かんだある思いが、私をやっと突き動かしてくれた。

 あいつを、潰さないと。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ