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第一章 Lyric for Lily



 それは純潔・貞操・無邪気・処女性の象徴にして、

聖母マリアが愛したハナ。



 大切なものを求めてこの地にやってくるひと、心の傷を癒しにやって来るひと、この地で太陽のように咲き誇る歌姫に会うためにやってくるひと、様々な思いを抱いて聖地を行き交う人々の波の中で、黒い服に身を包んだ私は誰かを探し続けていました。

 そう、誰か。

 誰でもないけれど、誰かでなければいけません。

 誰でもいいようで、誰でもよくはありません。

 私はやがてある一人の殿方に目を奪われました。この方がきっと私の求めていたひと。

 一見髪がぼさぼさで、ただ町を渡り歩くジプシーの方にも見えますが、眼鏡の奥に仄見える知性を私は見逃しませんでした。迷彩柄のお召し物は生き延びる為の機能を重視しているのでしょう。そういうことからも、この殿方が何か大事な使命を持っていることが窺えます。背中の重そうな荷袋は、きっと遠くに遠征に行ってらっしゃったのでしょう。そこから覗かせる丸めた白い紙は宝の地図でしょうか。

 そう、こういう殿方こそ私の探し求めていた方なのです。

 私は勇気を振り絞ってこの殿方に声をかけました。緊張で同じ言葉を何度も言ってしまったり、噛んでしまったりして伝えるのに三分もかかってしまい、話が終わる頃には私は恥ずかしくてうつむいていました。それでもこの殿方は私の失敗を怒らず、微塵も気になさらない御様子で私の誘いに賛同してくれたのでした。なんて優しいひとでしょう。

 私は顔を上げ、困ったような照れ笑いを浮かべるこの殿方の手を、失礼のないよう指を添えるようにそっと取って、少し離れた塔へと案内したのでした。

 塔の入口で階数を告げ手を離すと、君は来ないの、と殿方がおっしゃいました。私はその言葉に思わず目を伏せてしまいました。悲しいけれど、行きたいけれど、今の私はただの案内人でしかありません。ですからこの先へ進む資格はないのです。

 申し訳ございません、と深々と頭を下げるくらいしか出来ませんでしたが、殿方はむしろ無理に誘ったみたいで悪かった、と謝ってくださいました。なんて心の深いお方なのでしょう。ああ、この方をお誘いして本当によかった。この塔の上で開かれているティー・パーティー「アリス」にこの方を誘えて本当によかった。

 私は上階へのゲートをくぐる殿方を最後までお見送りして、また町へと戻りました。

 ――アリスと冠された、閉鎖されたガーデンでのティー・パーティーにまた誰かを誘うために。



 それは先程の殿方をお送りしてから十五分ほど過ぎた頃の事でした。私はまた「アリス」に誘うにふさわしい殿方を見つけました。汚れのない純白のシャツに深青色の強い素材のズボンをお召しになられた、私と同い年ほどの方です。不躾な発言になりますが、私的に誘うには少し幼く見えます。けれど「アリス」はこの殿方を誘え、と私に囁いてきます。

 少し不安でしたが、私はそれに習って声をかけることにしました。緊張で上手く喋れませんけれど、頑張って私は説明を続けます。

 初めは私の誘いを疎ましそうに聞いていた殿方でしたが、説明が進むにつれ理解して頂けたようで――

「それにしても上手いね、君」

 私の説明を遮り、殿方が感心してくださいました。何をでしょう?

「一瞬本当にデフォルトでこんな子がいるのかと思っちゃった。でもどっちにしろ僕おどおど系は好きじゃないんだ」

 突き放すような言葉に胸が悲しみで満たされていきます。でもここで諦めるわけにはいきません。私は殿方にもう少し話を聞いていただこうとしたのですが――

「だからー僕はアリスには用ないって」

 頑張って食い下がろうとした私に、殿方はぴしゃりとおっしゃられました。

 仕方ありません。ならばせめてこのカードだけでも渡したいと思います。

 しかしカードを出すより早く、私はこう拒絶されたのでした。

「どっか行けって」

 私にはもう無理のようです。

 ですから私は胸の名札を外しました。

 ああイライラする。ここからユメリやめまーす。

「死ね、キモヲタ」

 そう吐き捨てて、私はこの殿方――じゃなかった、オタクの前から大股で去った。肘にかけた籠からメイド喫茶「アリス」のインビテーションカードが少し落ちたけど、私は気にせず歩き続けた。そして神田川近くの人通りのない場所まで来ると、自販機の陰に隠れるように座り込んで煙草を取り出した。吸った事はない。ただ最近今みたいにストレスが溜まるから、今日の朝買ってみたんだ。煙草はストレス解消できるって聞いたし。

 それにしてもすっげー腹立つ。オタクのくせに、オタクのくせに! だから秋葉原は嫌いなんだ。

 深呼吸みたく肺いっぱい吸い込んだ瞬間、私はむせ込んだ。何だよこれ! 苦しいし気持ち悪い! 

 もうほんっと最悪。更にストレス。ったくオタクってのは普段おどおどしてるくせに、何で変なところで強気なんだろう。自己主張っての? 自分の脳内ですら騙す私の演技は完璧だったとして、それが気にくわないならさっさと消えろっての。説明聞いてんだったら来いっての。

 イライラが消えないので、もう一度吸ってみようか迷いながら煙草の先を見つめた。

「未成年、歩き煙草禁止条例、ってかメイドの格好のままってのが一番罪だよなー」

 聞き覚えのある声にむっとして顔を上げると、さっきのキモヲタが横の自販機の前に立っていた。缶ジュースを一つ買って、それを私に放ってくる。

「いらない」

 そう言って放られたオレンジジュースを投げ返すとキモヲタは残念がるどころか、むしろ嬉しそうな顔をして戻ってきたジュースを開けた。まるでこう言われるのが分かっていたような雰囲気だ。

「さっすが」

 キモヲタはジュースをぐっと飲むと、私の横にやってきて座り込んだ。なんてあつかましい奴なんだ。自販機との間で窮屈な私は、自然とスカートの裾をきゅっと挟み込むように体育座りせざるをえなくなった。

「っつーか何の用?」

「何の用、ね……。ほらさ、誰だってギャップに弱いって言うじゃん? だからツンデレが流行ったっていうか」

「意味分かんないし」

「ほら、クリオネがかわいい事には興味ないけど、実は頭がばかって割れるって聞い」

 なんかキモかったから言い終わらないうちに殴っていた。

「よく分からないっての」

 見ず知らずの人を殴った罪悪感はまったくなかった。むしろ被害者は私だと思ったっていうのもあるし、何より殴られて嬉しそうに見えるし。なんでだ。

 私が分からないって言ったもんだから、キモヲタは必死に分かりやすい例えをひねり出そうとしているようだった。呟くのを聞いていると全部アニメ。何個か分かってしまう自分が悲しいけど、でもだからといってシンパシーなんて生まれようもない。とにかくこれ以上キモイ事言ってきたらまた殴る。

「んー例えようがないからこそ惹かれたんだよな」

 キモヲタはさらっと諦めて、かごに入れていた私のネームプレートを覗き見た。

「ユメリ、ね」

「今は違うから」

「そう、ホントの名前教えてよ。僕はユメリには用ないから」

「嫌。何で教えなきゃならないの」

「好きだから」

 いきなりのその言葉に私は悪寒を感じて、向かいのビルの壁際へと飛んでいた。たぶん今の私の顔には拒絶の色が顕著に現れている事だろう。

「違う違う」

 キモヲタはびっと私を指差して言ってきた。どんな弁解があるって言うんだか。これで私の警戒は更に深まった。残念だね、キモヲタ改めナンパ君。

「そこはさっきみたく思いっきり俺を殴ってくれないと」

 弁解じゃないのかよ。

「僕はデフォルトでサディストの君が好きになったんだ。おどおどするバーチャルのユメリには興味ないね」

 合点がいった。ナンパ君はようするに素の私を好きになってくれたという事だった。でも私はサディストなんかじゃない。殴ったのは行き過ぎたかもしれないけど、誰だってむかついたらあれくらい言う筈だ。飛び退ったのだって素の私だ。デフォルトが好きとか言っておいて、結局素の私がどういう人間かなんてこいつにはまだ分かる筈がない。

 なんだか深く考えている自分が馬鹿らしくなってきたので、私はもうアリスに帰る事にした。さよなら、ナンパ君改めバーチャル野郎。

 置きっぱなしだった籠を取って帰ろうとした私は、なんだか籠が重くなっている気がして中を見た。

「インビテーションカードは確かに頂いた――ああ、これはルパンね。代わりに僕の名刺にすり替えておいたから」

 確かにアリスのカードは一枚もなく、ごっそりとした束すべてがこのバーチャル野郎の名刺に変わっていた。

「いらないっての!」

 タウンページ四冊分はあるだろう名刺の束を思いっきりバーチャル野郎に向かって力投した。

「ひどいなあ。まあ僕にぶつけてくれたのは賞賛に値するけど」

 バーチャル野郎は身体の後ろに隠していたアリスのカードの束を取って立ち上がり、ごめんね、と謝りながら籠に全部戻してきた。そして最後に腕を縦に振ると、何も持っていなかった手に一枚のカードが出現した。

「一枚くらい貰ってよね」

 そう言って私の手を取ろうとするバーチャル野郎。

 私の背筋に痒みにも似た感覚が走る。

 やめて。

 だめ。いまはユメリじゃない――

 両手合わせて十本の指がまるでおぞましい生き物のように私に迫ってくる。

 掴まったら絡みつかれて離してくれない気がして、私はゆっくり後ずさった。

「いや、そんなに嫌わないでってば」

 バーチャル野郎が警戒を解こうと微笑みながら私の手を取った。指の感覚は――いけない。

「だめ!」

 バーチャル野郎の手を振りほどいて私は走り出していた。この薄暗い通りから逃げないと。迫ってくる指から逃げないと。

 表通りに出た私は、人目も気にせず全速力でアリスへとダッシュしていた。



「あらおかえりなさい、ユメリ」

 私がアリスに戻ると、キッチンから出てきた先輩のマヤさんに出会いました。彼女は見目麗しい上にとても優秀なメイドで御主人様たちからの人望も厚く、毎日ティー・パーティーの華やかな輪の中で輝いておられます。御主人様たちはみな彼女の淹れた紅茶を飲みながら、このつらき憂き世のささやかな魂の糧とされているようです。私もいつかはマヤさんのように御主人様たちを元気付けられる立場になれればよいのですが。

「今日は早かったわね。あなたもやれば出来るじゃない。そのいきですよ」

「ありがとうございます」

 労いの言葉をかけてくださるマヤさんに頭を下げたとき、華やかなるガーデンの方からマヤさんを呼ぶ声が聞こえました。どうやら御主人様がお待ちのようです。

「では私は行きますね。あなたも早く手伝ってね」

「はい……」

 光り輝くガーデンに向かうマヤさんとは対照的に私は暗い更衣室に入り、電気もつけずに自分の荷物の所まで行きました。町でついた埃を払おうとブラウスを脱ぎ――

「何様っ!」

 思いっきり自分のロッカーをぶん殴っていた。よりにもよって一番会いたくない奴に最初に会うなんて、やっぱり今日の自分は運が悪い。マヤは明らかに私を馬鹿にしていた。客に見えないように背中を向けているのをいいことに、思いっきり劣等生を見る顔だった。そりゃあマヤは人気ナンバーツーで、私はいつも客引きに回されるようなド新人。でもね、ここまで馬鹿にしなくてもいいじゃん。ツンデレ喫茶行けよ。そっちの方がお似合いだ。

 ネームプレートを外しユメリではなくなった私は、早退しようと脱いだブラウスを畳んでまとめて、私服のシャツに袖を通した。嫌な事が色々あって、なんだか今日はもう働きたくなかった。それに少し頭も痛い。執事、もといマネージャには着替えてから言えばいいだろう。

「あーらユメリさんもうお帰りになるの?」

「自由奔放で羨ましいですわ」

 二つの皮肉の台詞と共にぱっと電気がついた。誰かは見なくても分かる。私はその声が聞こえなかったふりをして、黙ってスカートを脱ぎサブリナパンツを取り出した。

「おい、聞こえてんだろ」

「何勝手に帰ろうとしてんだよ」

 台詞の主にしてマヤの腰巾着、黒髪スパイラルのヒナと金髪ショートのカレンが見事に豹変して近寄ってくる。

 更衣室は店の一番奥で、完全防音。だからドアを閉めてしまえばホールに声が漏れる事はない。

 私がそれでも無視して着替えていると、ヒナが私のロッカーの戸を思いっきり蹴飛ばした。それががつんと当たって腰の辺りに痛みが走った。

「私達に何も言わないで帰るんだ?」

「着替えたら言おうと思ってましたよ。それと、顔近づけないでくれません? ヒナさんの漆黒スパイラル、呪われそうなくらい重たいんで」

「は? 喧嘩売ってんのテメエ」

「いえいえ私如きが喧嘩を売るなどと。ただもう既にヒナさんに押し売りされちゃったようですけどね」

 自分の言葉が段々と刺々しくなっていくのをなるべく抑えてはいるものの、もはや時間の問題に思えた。でも私はまだこの店を辞めたくない。

「なあ、お前自分の立場分かってんの? 最大派閥のマヤ派を敵に回して生き残れると思ってんの?」

 カレンが私を囲むように後ろを回りながら言ってくる。

「私、何かあなた達を怒らせるような事しましたっけ……」

 私の言葉にヒナとカレンは揃って、してんだよ、と声を荒げた。

「マヤさんの誘い断った上にスタンドプレー。こっちは迷惑してんだよ」

 カレンの言うとおり、確かに私はアリスに入ったときマヤに派閥に入らないかと誘われた。しかしつるむのが嫌いな私はそれを断った。勿論他のいくつかの派閥に入ってもいない。それでもちゃんと連携とって迷惑かけないように仕事はしているつもりだ。派閥に入ってないからって、それだけでスタンドプレー扱いするのかお前らは。

 ようするにただイジメたいだけなんだ、こいつらは。女子高でも往々にしてあったけど、女ってのはこうやって誰かを生贄にしたがる性質がある。それこそ憂き世のささやかな魂の糧だとでもいうかのように。ターゲットは基本的にはおどおどした、友達も少なそうな弱者を。でもその該当者がいない場合には私のような数的弱者を。

「スタンドプレーなんてしてませんよ。それでもそう見えたのなら、仕事熱心と言ってほしいですね」

「じゃあもっと客つけろよ」

「ってか話してる時くらい着替えんのやめろよ!」

 がん、と隣のロッカーを叩くカレンの言葉に、私は渋々従う事にした。おかげで白いニーソックスと黒エナメルのローファーが脱げず、私服のシャツやサブリナパンツとのミスマッチさを我慢しなければいけなくなった。

「この店辞めたくなければさ、今からでもいいから従えよ」

「嫌です。逆らう気はありませんけど、従う気もありません」

 きっぱりとカレンに言った瞬間、ヒナが私の髪の毛をがっと引っ張った。

「それが逆らってるって言ってんだよ」

 言葉の意味を理解しろ無能、という台詞を飲み込むのにはかなり苦労を要した。結果私は無視したと思われたようだった。

「なんとか言えよ、おい」

 更に強く髪の毛を引っ張られ、激痛が走った。おそらく何本か抜けただろう。

 もう我慢できない。やってやろうじゃないか。

 まずはヒナだ。ロッカー蹴ってきた事と髪引っ張ったこと、思い知らせてやる。

 振り向きざまに殴ってやる――

 そう決意を固めかけた時だった。

「清楚粛々、百合のさまなり姪奴花。されど陰では醜くぞあり」

 凛と透き通る声が更衣室に響き渡り、私達は揃って入口の方に目を向けた。

 入ってきたのはアリスの一番人気、マリさんだった。真っ赤な髪にカラコンだろう真っ赤な目、私達とデザインは同じだけど真っ赤なメイド服と靴、という奇抜なスタイルは今日も輝いている。

 本当はメイド服は制服だから、みんな同じ服を着ないといけない。けどトップの彼女は黙認されている。というか、噂によると入ってきた時にいきなり所マネージャに作らせたらしい。凛々しさと優雅さを兼ね備えた、メイドの鑑のような彼女からはまったく想像がつかないけれど。まあ彼女のおかげでアリスがこの秋葉原でも一、二を争う名店になったのは確かだ。

 だから誰もマリさんには逆らわない。ヒナやカレンは勿論、二番人気のマヤも、マネージャですらも。そしてそんな彼女は派閥を作らない。実質アリスを支配できる立場にいながら誰もしもべにつけない、孤高の女王だ。

 ――まったくもって憧れる。

 マリさんはあまりつるむのが好きじゃないこの私の理想で、アリスにおいて唯一尊敬できる人間だった。

「あ、あの、マリさん、お疲れ様です」

「もうあがりですか?」

 さっきまでの態度はどこへやら、いきなりヒナとカレンが腰を低くした。かくいう私も毒気を抜かれてしまい、ただマリさんを見つめていた。

「ええ、今日は私の姉が一年ぶりに帰ってくるので、これであがらせて戴くわ」

「そうですか、それはよかったですね」

 ヒナの言葉に小さく頷きながら、マリさんは私を見つめた。何があったのか悟られたくなかったから、私は乱れた髪をさりげなく整えた。

 でも待てよ、入ってきた時マリさんは確か――

「ヒナ、カレン。ネームプレートをつけているうちはあなた達はヒナとカレンなのよ。意味分かるわね?」

 マリさんの言葉に二人は大きな声で返事をした。

「それと派閥を作るのは勝手だけど、入るかどうかは各人の自由意志でしょう。――これはマヤの指示かしら?」

「いえ、そんな事は……」

「マヤさんには言わないで下さい! お願いします!」

「そう、違うのね。なら言わないでおきましょう」

 マリさんは厳格な雰囲気のまま、でもヒナとカレンに恩赦を与えて、自分のロッカーへと向かった。ちょうど私のロッカーの真裏だ。

 ヒナとカレンはばつが悪くなったのだろう、無言で着替え始めるマリさんの気にあてられたかのようにロッカールームから出ていった。

「あの、ありがとうございます」

 ロッカー越しにお礼を言うと、返事は返ってこなかった。ただ服が擦れる音だけが聞こえてくる。私にも怒っているのだろうか。

 段々とマリさんと一緒のこの空間が気まずくなってきて、私は急いで着替えを済ませてしまおうと靴を脱いだ。そしてロッカーの戸を掴んで、片足立ちになってニーソックスを脱いだところで、いきなり後ろから首に両手が添えられた。

「およそ美しいと分類されるタイプに入ると思うのだけれどね」

 飛び上がって振り返るとマリさんが無表情のまま立っていた。

「ま、マリさん、いきなり何するんですかっ!」

 裏返りそうな声で私が抗議すると、私の首に手を添えた時のままの、小さく前習えポーズのマリさんは事もなげに健康チェック、と言ってきた。

「悪くないわね。でもちょっと凝ってるかな。姿勢正した方がいいわよ」

「は、はい――」

 返事が上の空になってしまったのは、マリさんの姿に改めて気づいたからだった。私がニーソックス片方脱ぐ間に着替え終わったらしいけど、いったいどんなスピードなのか――しかも浴衣なんて時間のかかるものを。ちなみにやっぱり真っ赤である。

「あら変かしら?」

「いえ、そんな事はないですけど、祭にでも行くんですか?」

「そんなところよ」

「いいですね」

 靴下を履きながら見上げると、マリさんはもう目の前にいなかった。驚いて入口の方に首を向けると、彼女はロッカールームから出て行くところだった。

 やっぱり行動が読めないマリさんに向かって、お疲れ様です、と言うと彼女は少しだけ足を止めてくれた。

「あなた、アリスは好き?」

「は、はい」

「そう。よかった」

 マリさんは少しだけ微笑んでくれて、ふわっと髪を翻らせながら微かなぽっくりの音を連れてロッカールームを出て行った。格好いいなあ。



 着替えも終わり、ドアをそっと開けてホールの様子を窺うと、相変わらず満席のようで、客とメイド達の楽しげな会話があちこちから聞こえてくる。誰一人手の空いている者はいない。ヒナとカレンも客に精一杯の愛想を振りまいている。ヒナは小悪魔的要素を含んだコケティッシュ系。カレンは元気いっぱいだけどおっちょこちょいな天然系。

 他人の事言えた身分じゃないけど、素に戻って見てみるとみんなよくやるなって思う。演技が上手いのはマヤとか少数だけど、キャラを貫くのは全員ばっちりだ。本当に別世界。この賑わいを見ていると、さっきまでの修羅場を引きずっているのは私だけな気がしてくる。

 客に見えないように、キッチンとホールの間に立っていたマネージャにばたばたと手を振っていると、少しして気づいてくれた。私の格好を見て、渋い顔をしながらも近づいてきてくれた。

「どうした?」

 勤務時間内で私服姿の私に、答えは分かっていながらもマネージャは聞いてきた。

 私は外で変な男に絡まれて逃げてきて、思い出して頭が痛むと正直に告げた。するとマネージャは露骨に嫌そうな顔を見せダメだ、と返してきた。

「この状況分かるだろ。今日は何曜日で今何時だ?」

「土曜日で、もうすぐ五時です……」

「アリスにいたいならすぐに着替えて来い」

 非情な台詞に私は二の句が告げられなかった。本当に怖かったっていうのに、頭痛いっていうのに、どうして分かってくれないんだろう。

 マネージャが更衣室を指差すのを見て、私はまた指の感覚を思い出してしまい、胸の辺りを押さえながら俯いた。意識してしまうとこれだけでもおぞましく感じる。

 せめてそのままぴんと伸ばしていて。お願いだから曲げないで。

 嘔吐感が押さえた胸の奥に生まれて、私はこみ上げて来ないよう懸命に鼻で空気を吸った。

「どうした? 早くしろ」

 苛立ちを見せるマネージャの声に反応できる状態じゃなかった。まだ更衣室を指差しているかもしれないと思うと、どうしても顔を上げることが出来ない。

「所マネージャ」

 マヤの声がした。

「ユメリさん、本当につらそうですわ」

「そうか? でも今抜けられるとな……」

「大丈夫です。ユメリさんが抜けてもギリギリ十人いますし、皆ベテランですから。こういう時こそ助け合いですわ」

「マヤ君がそう言うなら……。まあマリ君は帰っちゃったけど、上位メンバーはほとんどいるしな」

「じゃあ決まりですね」

 手を叩く音が聞こえた。

「仕方ない。ユメリ、今日はあがっていいぞ。マヤ君に感謝しろよ」

 吐き捨てるように言ってキッチンの方に戻っていくマネージャの背中の燕尾を見て、ようやく目の前に指がない事が分かり、私は涙目のまま顔を上げた。すこぶる笑顔で立っていたマヤと目が合った。

「良かったですわね、ユメリさん」

 私の手を取るマヤにはめずらしく邪気がなかった。さっきと違う様子に調子を狂わされるけど、一応お礼は言わなきゃいけない。と思っていると、彼女が顔を近づけてきた。彼女の青い髪が頬に軽く触れる。

「あ、ありが――」

「これ以上いられても邪魔なのよ」

 耳元で急にトーンを落として囁かれたその言葉に、私は言いかけていた言葉を止めた。

「見てて苛々するの。あんたのキャラ見てると」

 何か言おうとしたけど何も出てこなくて、ただがちがちと歯が震えた。少しでもお礼を口にしてしまったのが悔しくてたまらない。マヤはアリスの中でも数少ない完璧な女優だった。それは知っていた筈なのに。

「それと、あんたマリに何か言ったでしょ。あの女、私見て笑ったんだけど」

「……何も、言ってません」

「どうだか――まあいいわ。さっさと消えてちょうだい、ランク外」

 どん、と私を従業員用出入り口の方に突き飛ばして、マヤはハンカチで自分の手を拭いた。

「どうかしたの?」

 私が転んだ音に、ついたての向こうから四番人気のマヒロさんが顔を出した。

「なんかユメリさん、立っていられないくらい具合悪いみたいなの」

「え、大丈夫? ユメリちゃん」

 心配そうに駆け寄ってきたマヒロさんが差し出す手を会釈して断りながら、私は一人で立ち上がった。それでも見つめてくれる彼女より、その向こうで蔑んだ笑みを浮かべるマヤに焦点がいく。

 ――何でこんなに私を目の敵にするんだ。

 何か言ってやりたいのに、治まらない動悸がそれを阻む。

「……失礼します」

 何とかそれだけ口にして、私は薄暗いビル内非常階段に出た。

 背後で勝手に閉まっていく鉄扉の向こうから、マヤの声が掛かる。

「治るまで遠慮なく休んでくれていいのよ」

 私は精一杯の力を込めて背中で鉄扉を閉め、そのまま寄り掛かるように崩れ落ちた。

 もう限界だった。

 飲み込んでいた涙が一気に溢れ出し、小刻みにしゃくりあげる喉から嗚咽が漏れる。

 誰も来ない非常階段で、私はそれからしばらく泣き続けた。



 私ってこんなに弱かったっけ。

 帰ってきてからすぐに風呂に入り、さっさとパジャマに着替えてベッドに横たわった私は、ずっと天井を見上げながらそんな事を考えていた。強いと言い切れるほど怖いものなしじゃないし、むしろヘコむ事の方が多いけど、でも大抵のヤな事に立ち向かっていく自信はあった。この前痴漢に遭った時も突き出してやったし、そう、むかし学校でいじめを受けた時も――忘れたけどしっかり立ち向かった筈だし、今日だってマリさんが来てくれなかったらヒナとカレンには立ち向かうつもりだった。マヤにだって同じように出来た筈だ。

 なのに出来なかったのは、そう、あの時マネージャの指の恐怖から抜け出したばかりでまだダメージが回復していないところだったからだ。だからいとも簡単にマヤの言葉に刺されてしまったんだろう。

 額の上に乗せていた右手を持ち上げ、顔の上で少し広げる。握っていたネームプレート

のユメリの文字を見て溜め息が出る。ああ、明日行きたくないな。

 でも私にはユメリが必要だ。アリスを辞めるわけにはいかない。

 清純可憐、純真無垢なユメリだったらこの状況どうするだろうか。ふとやってみる価値はあるかなと思ったから、私はネームプレートをベルト穴に通し、目をつぶった。

 ――私には仕方の無いことなのです。私はまだティー・パーティーに従事することになってまだ朔望一周ほどの期間しか経験させてもらってませんから。技術も配慮も人望もまだ未熟な私に、先輩方が厳しく当たるのは当然です。たとえ私のことを疎ましく思っていようと、先輩方の非難をするなど私には出すぎたまねに他なりません。マヤさんやヒナさんやカレンさんほど殿方に信頼されているメイドになれて初めて、思慮することくらいは許されるのかもしれません。それでも逆らうなどもってのほか。メイドたる者いついかなるとき誰に相対しても、遠慮と配慮を兼ねそなえた慎み深い姿勢を持っていなければなりません。

 私はもう一つの手も胸に当てました。そう。ゆっくり息を吸って。憂き世の百合の花でいたいのなら、気持ちを落ち着けなければ。

 夜の静かな時間は、床について自分を見つめなおすための時間であるようです。明日はもしかしたら案内人ではなく、ティー・パーティーで殿方のお世話をさせて頂けるかもしれません。希望を持って、アリスが好きだということを心に染みこませてこのまま眠りにつけていけること、これ以上の幸せはありません。

 と私が思ったところで聞き覚えのある音楽が部屋に響き渡りました。

 私はゆっくりと名札を外しました。

 なんだよもう、寝れるかと思ったのに。っていうか馬鹿みたい。現実まで脳内別人格演技しちゃうなんて。ユメリはあくまでアリスの中だけの存在だっていうのに、これじゃあ私が友達いない奴みたいだ。

 アメリのワルツを流し続ける私のケータイは、留守録に変わる八コールを過ぎてもまだ鳴り続けていた。どうやら録音が多すぎて容量がいっぱいになっているようだ。鳴り止む気配がなかったから、私は渋々ベッドから手を伸ばしてケータイを取った。かけてきたのは叔父さんだった。三日に一回のペースで電話をかけてくるから面倒くさくてほとんど出ないんだけど、もう二週間くらい出てないからそろそろ声を聞かせないと捜索願を出されかねない。

「もしもし」

「やっと出た、いっつも出ないから心配したんだぞ」

 心配という言葉をタイトルに掲げ、出るなり矢継ぎ早に説教を始める叔父さんに、私はわさびにやられたような顔でベッドに突っ伏した。叔父さんには少し前までお世話になってたんだけど、親切が度を越してお節介になってきて、それが窮屈になったから私は今こうして一人暮らしをしている。もちろん叔父さんには別の理由をでっち上げたけど。

 で、反対の嵐を押し切って始めたっていうのに――こうなるからいつも出なかったんだ。

 はい、の二文字を繰り返しながら私は着信拒否しようかと少し悩んだ。でもそれはさすがに失礼すぎると思い直す。望んでいない事ではあるけれど、親切の行為である事は確かだから。

 ちゃんとご飯は食べているのかとか、バイトはしっかりやれているかとか、一人で寂しくないかとか、夜遊びはしていないかとか、細かい事まで伸びてくる説教に時計をちらっと見ると、もう十分以上過ぎていた。

「ねーもう分かったってばー」

「そうか? 夜はちゃんと戸締りしないと駄目だぞ。それとたまにはご飯食べに来い。出てってから一回も来てないじゃないか」

「まだ一ヶ月くらいしか経ってないよ。ちょくちょく帰ってたら一人暮らしの意味ないじゃん」

「じゃあせめてきちんと連絡を入れなさい」

「はーい」

 不承不承返事をすると、叔父さんはようやく解放してくれた。うつ伏せのまま電話を切ると同時にケータイを放り出す。今日あんな事があってへこんでいたところに更に説教を食らうなんて、なんてついてない一日だろうか。さすがに涙は出ないけど、なんだか酷く惨めだ。

 眠気が吹っ飛んでしまった私は暇つぶしに料理をする事にした。あまりお腹はすいていないけど、何か手を動かしたかったのだ。

 冷蔵庫にはトマトと卵とほうれん草しかなかった。それだけでは味気ないので冷凍庫を開けて中を探る。ポケットにラップにくるんだ豚コマの残りを発見し、それで料理を思いついた。トマトはいらない。

 フライパンを火にかけ、まず豚コマを入れる。塩コショウで軽く味を調えつつ炒め、火が通ったところでほうれん草を入れる。その上から卵を割って、一気に箸で混ぜる。これでほうれん草チャンプルーの出来上がり。五分もかからないお手軽料理だ、って速すぎ。もう少し時間のかかる料理にしなきゃ暇つぶしにならないというのに。これ以上作っても食べきれないし、かといってご飯も炊いていないもんだから何だか中途半端だ。

 ほうれん草チャンプルーを皿に移してテーブルに持っていき、仕方ない食べるかとつまんだところで、今度はチャイムが鳴った。ホントタイミングが悪い。

 すぐに席を立ったというのに、玄関に行くまでに更に二回チャイムが鳴らされた。叔父さん達ではないし、そうすると誰だろうか。夜八時を過ぎてやってくる知り合いなんていない筈だ。

 恐る恐るドアのレンズを覗いて、その正体に私は安堵しながらドアを開けた。

「片瀬ちゃん、どうしたのいきなり」

「ワケは後で!」

 私の横を通り抜け、有無を言わさず片瀬ちゃんはウチに上がりこんだ。高校時代からこういう子だって事は知っているから、私は外を確認してから苦笑いでドアを閉めた。

「わ、劣化ゴーヤチャンプルー」

「失礼な、おいしいよ多分」

 勝手に席に着いた片瀬ちゃんに続いて私も席に着き、どうしたのかと聞くといい男をおいしく頂いてきたのだという。

「なんか女豹だね……。でもなんで逃げてるみたくなってるの?」

「ああ、それはインパクトのある登場シーンをやってみただけ」

「まぎらわしい……。あ、お茶でいい?」

 と立ち上がって冷蔵庫に向かったところで、ストップと声が掛かった。

「お茶なんて無粋なこと言いなさんな。まずはコレでしょ?」

 と缶ビールを二本テーブルに出す片瀬ちゃんは、次はコレでしょと缶チューハイを二本出して、そしてコレでしょと芋焼酎の一升瓶をドン、と置いた。

「飲むのぉ?」

「だって明日は大学休みだし」

「私は朝からバイトだよ」

「うっわ、冷てえよ。メイドはつくすもんじゃないの?」

「アリスに来たらつくしてあげる」

 そう言いながらも私は缶ビールを取った。落ち込んでいたから実は片瀬ちゃんが来てくれて嬉しかったんだ。

「さっすがユメリ、話が分かるー」

 それはアリスでの名前だっていうのに。無邪気な意地悪に思わず笑顔になってしまう。 二人同時に缶をあけ、乾杯する。お酒はあまり飲み慣れてないからビールをおいしいとは思わなかったけど、悩んでる時には酒、というのを一度やってみたかったんだ。ヤケ酒とまでは言わないけどね。

 暇つぶしに作ったほうれん草チャンプルーを勧めると、片瀬ちゃんは両手で大きくバッテンを作って謝ってきた。

「苦手なもん入ってるからスルーしまっす。私は自分の用意して来たんよ」

 片瀬ちゃんは刺身五点盛り合わせのパックを取り出して、勝手に食べ始めた。卵ダメなのかな、と少し残念に思いながら、私は私でほうれん草チャンプルーを口に入れた。適当に作ってみたけれど予想通り美味しかった。

「でもさ、ユメリ変わったよね。高校ん時とは別人みたいだよ」

「そう? メイド喫茶やってるからかな」

 その名前で通すつもりか、と思いながらも私は転がっていたメイド用カチューシャを取ってつけてみせた。

「メイドは前から似合うとは思ってたけどねえ。勤めるほど前向きとは思ってなかったっすよ」

 早くも二つ目の缶チューハイを飲み終えた片瀬ちゃんは、立ち上がってハンガーにかけてあったメイド服を取って渡してきた。ちなみにこれは個人的に買ったものだ。

「ねー着てみてよー」

「ええ? 今着るの?」

「いいじゃん生着替え。萌えてやんよ?」

「おっさんくさいよ、片瀬ちゃん……」

 受け取りながら少し後退する私に、立ったままの片瀬ちゃんが口元をにやつかせながらもう一歩踏みこんできた。うぅ、着なきゃいけないの?

「じゃあ風呂場で着替えてくるからちょっと待ってて!」

 しまったその手があったか、って声が聞こえてくるのを尻目に私は風呂場に駆け込んだ。着替えるところが見たかっただけのような気もしたけれど、成り行き的に仕方なく着替える事にした。パジャマを脱いでメイド服の一つ一つを着ていく度に、私は少しづつユメリになっていく気がして、この際ユメリっぽく接してやろうと考えた。

「お待たせ致しました」

「おおおメイドっ子ユメリだ! 似合ってんよー」

「それはどうもありがとうございます、片瀬様」

 すでに一升瓶の半分を胃の中にイリュージョンしていた片瀬ちゃんは、私の登場に拍手で応えてくれた。

「少し飲みすぎのように思われますよ、片瀬様」

 そう言って私はさっと一升瓶を手の届かない所に置いて席に着いた。

「返せー私の黒霧だぞー」

「ダメです」

「メイドのくせにー!」

「御客様の身体を気遣うのも仕事の一つですので」

 片瀬ちゃんから一本取った私は、悔しそうに手をばたつかせる彼女に意地悪に微笑んで缶ビールの残りを飲み干した。身体が火照っていくような感覚がとても気持ちいい。それに上半身を揺らすだけで何故だかとても楽しい。

「あーやっぱりユメリは酒弱いね」

 取り上げられた芋焼酎の代わりに私の分だった缶チューハイを口にする片瀬ちゃん。やられた。これでもう芋焼酎しか残ってない。

 これで止めようかとも考えたけれど、もう少しこの浮くような感じを味わいたかったから、私は初めての芋焼酎をコップに注いでストレートで思いっきり一口飲んだ。その瞬間口いっぱいにむわっと酒気が広がって、私は咳き込んでしまった。何だこれ! こんなののどこがおいしいのか分からない!

「処女だ! 芋処女がいるー!」

 薄情な片瀬ちゃんは私の様子を見て思いっきり笑っている。私はまだ十八歳で未成年なんだから芋焼酎飲んだ事なくて当たり前だっていうのに。この歳でそこまでお酒に慣れている片瀬ちゃんの方がよっぽど珍しいはずだ。

 でも浮くような感覚はさっきよりしっかり増していて、それは心地良かった。私はもうこのままベッドに飛び込んじゃいたいと思い、ふらっと立ち上がった。もう寝ちゃうの、という片瀬ちゃんの声に少しだけ頷いて返して、ベッドに倒れこむ。毛布をかけるのも面倒くさかった。

 片瀬ちゃんの声も聞こえなくなり、部屋が一気に静かになる。

「……もう、手のかかるメイドだなあ」

 少しして、毛布が私の上に掛けられた。

 何年ぶりだろうか、毛布を掛けられるというのは。今日一日の嫌な事なんて一気に吹き飛んじゃうくらい温かい。うん、悪くないよ。

 シーツの匂いに誘われるように意識が遠くなっていく。

「おいしく頂いちゃうぞー」

 それは勘弁して。私はまだ乙女でいたいの。



 通勤客の流れに乗って、定期が入った財布ごとかざして改札を通り抜けると、秋葉原は嵐の前の嵐といった様相を見せる。働き蟻の行進に私みたいなのが混ざっていると、一発でメイドだなと分かる。少し前を歩く女の子もおそらくどこかのメイド喫茶のスタッフだろう。

 昨晩片瀬ちゃんに振り回されてお酒まで飲んでしまったから、今朝は少し寝坊してしまい急いで家を出たけれど、ついてみればいつもと変わらない時間だった。片瀬ちゃんが寝ていたら完全に遅刻していた気もするけど、彼女は起きた時にはもういなくて、メールで始発で帰ると送られてきていた。相変わらず元気でマイペースな子だ。

 私はコンビニに立ち寄ってからアリスへと向かった。八時半を少し回ったこの時間は出勤時間にはまだ早く所マネージャしかいない。本当の出勤時間は開店の一時間前、九時半だ。

「おはよう。相変わらず早いな」

 通用口から入った私が挨拶すると、所マネージャは苦笑いで返してくれた。

「具合大丈夫か? こんな時くらいもう少しゆっくり来ればいいのに」

「この時間に慣れちゃったんで。昨日はどうもすいませんでした。おかげでもう大丈夫です」

 笑顔を返して更衣室へ入る。一番乗りっていうのはそれだけで何だか気分がいい。買ってきたお茶を一口だけ飲んでロッカーの棚に置いて、私は着替えた。

 それから私はティー・パーティ会場を清掃して回りました。テーブルを拭いたり、花の水を替えたり、壁際に飾られた細かい装飾品や絵の埃を丁寧に拭き取ったり、するべきことはたくさんあります。御主人様をお迎えする場所ですもの、気を抜いてはいけません。

 準備に勤しんでいると先輩方が一人、また一人といらっしゃって段々と賑やかになってきました。本日は休日だけあってほぼ全員が出勤のようです。

「早いじゃん下っぱ」

「仮病だったんじゃねえの?」

 ヒナさんとカレンさんの言葉には少し棘が見受けられましたが、でもそう思われても仕方のない立場と状況でしたから、私は昨日のことを謝罪しました。

「んだよつまんね。もうキャラ入ってんのかよ」

「便利なキャラだな」

 着替えに部屋に入っていく彼女達の姿が消えるまで、私はずっと頭を下げているくらいしかできませんでしたが、少しでも伝わってくれることを期待してまた準備に戻りました。

「遅れたあ!」

 続いてアリスに飛び込んできたのはマヒロさんでした。

「あ、ユメリちゃんおはよ。もう平気なの?」

 その言葉に私がしっかりと答えた時には、マヒロさんはもう着替えに入ってしまっていました。彼女が焦るのも無理はないです。今日は人気の上位五名の手作りクッキーを配る日なのですが、彼女は家で作れないそうなので早めに来なければならなかったからです。でも彼女なら間に合うと思います。手際のよさに私いつも見とれてしまいますもの。

 他の先輩方も加わってアリスの準備は着々と進んでいきます。ティー・パーティ会場の方は私がほとんど終わらせたので、キッチンやエントランス、ゲートの方へと皆さん流れていきます。

 おはようございます、と大きな挨拶が波のように押し寄せたので見てみると、マヤさんが到着なされたところでした。彼女には特に昨日迷惑をかけてしまったので、私は挨拶とともに深々とお辞儀をしましたが、そんな私を彼女はつまらなそうに見て着替えに入ってしまいました。やはり厳しいお方のようです。

 そしてそれから五分ほど経って、真っ赤なマリさんが到着しました。彼女は相変わらず挨拶すら寄せ付けなさそうな雰囲気で、周りに目をくれることなく着替えに入ってしまったので、私は挨拶をする機会を逸してしまいました。

 ともあれ、これで全員揃ったみたいです。ミーティングで本日の目標や諸注意が所執事から細かく飛んできて、私はそれらを頭の中で整理するのでいっぱいでした。ですから、と言ってしまうのは言い訳ですが、その後言われたことは私には届いていませんでした。

「おいユメリ、聞いているのか」

 突然名前を呼ばれ、私は目の焦点を所執事に戻しました。

「今日はお前もホールにつけって言ったんだ」

 言葉の意味をすぐに理解できずに私が呆けていると、返事は、と怒られてしまいました。慌てて返事をしますが、え、これは、私もティー・パーティに従事していいということなのでしょうか。

「じゃあマヒロさん、ユメリのこと見てやってくれ」

「はーい。よろしくね、ユメリちゃん」

 隣にいたマヒロさんがさっと握手を求めてきました。私はその手を握り返しながらやっと理解しました。案内係やキッチン内だけのお仕事から、やっと御主人様のお相手をさせて頂けるというのです。私は元気よく所執事に向かってお礼を言いました。

 アリスでは御主人様に名前を覚えられてやっとメイドと言っても過言ではありません。私は高揚する胸を押さえながら、あと十分が早く経たないかと何度もエントランスの方を見てその時を待ちました。

 会場内に美しいストリングの音が響き始めました。

 私は皆さんと同じようにエントランスに並んでぴっと背筋を伸ばしました。

 そしてドアが開かれました。

 さあ、ティー・パーティの始まりです。



 五番テーブルへアイスティーを持っていく、それだけのことで私は緊張して足取りがぎこちなくなってしまいます。運ぶだけのことなのに一歩進むのが何故だか怖く感じてしまうのは、決して失敗できないという重圧からなのでしょう。

「ほら、肩の力抜かないと。こぼしちゃうよ?」

 私をすっと抜いていくマヒロさんは、三本の指だけで料理が三つも乗ったトレイを難なく運んでいきます。格好良すぎです。さすが活発で裏表のないメイド代表、といったところです。

 私は一度立ち止まって深呼吸をし、マヒロさんに習って思い切って元気よく足を踏み出しました。大丈夫のようです。さすがに三本の指でなんて無理ですけれど、先へ進む足は全然不安定ではありませんでした。そのまま目標の五番テーブルまで一直線に歩いて、待っていた御主人様に時間をかけてしまったことを謝ってから、アイスティーを置かせて頂きました。緊張している君を見るのもよかった、と御主人様はおっしゃって下さいました。

 何だかからかわれてしまいました。やっぱり私はまだまだのようです。ですが、その初々しさも大事にしてね、ともおっしゃって下さったので私は素直に返事をしました。初心忘れるべからずと教えて下さったのですね。ありがとうございます。

 トレイを胸の前に抱えキッチンに帰っていった私に、マヒロさんが手をかざして迎えてくれました。さすがに手を叩きあうというものは恥ずかしかったので、少しだけトレイを持ち上げて見せました。

「そっか、ユメリちゃんはそういうのナシだったよね」

 ナシと言いますか、恥ずかしいのです。

 その違いは伝わらなかったようでしたが、マヒロさんはそれ以上は気になさらない様子で、御主人様の元へと向かっていきました。

 私もキッチンの先輩から新たに料理を渡されたので、また別の御主人様の元へと向かうことになりました。でももう大丈夫です、私このお仕事向いている気がします。

 背筋を伸ばして肩の力を抜いて、ネームプレートがちゃんと見えるように私は歩き始めました。

 華々しい会場に少しでも似合うように、そう心がけながら。



 湖のほとりでいつも渡り鳥がやって来るのを心待ちにしていたような。

 雲の切れ間ばかり眺めていたような。

 そのような感覚だったのです。

 渡り鳥がその姿を見せて私は立ち上がり駆け出します。

 湖には足を踏み入れてはいけないというのに。

 待ちに待っていたティー・パーティにそんな格好では出れはしないというのに。

 夢を壊したのは、夢に酔っていた私自身なのでしょう。

 メイド服も脱がずに聖地に出た私は何も持たず、ただうつむきながら、一人になれる昨日の薄暗い路地を目指して重い足を少しずつ引きずっていきました。今の自分の曇り空のような雰囲気が嫌で、自分のことをどんどん嫌いになってしまいそうで、そんなことを考えてしまう自分が嫌でさらに雲を濃くしてしまう私は、もうどうしたらいいのか分かりません。誰か教えてください。どうすればよかったのでしょう。どこに行けばいいのでしょう。

 路地裏で昨日と同じように座り込みポケットを探ると、煙草が出てきました。昨日のもう一人の私が仕込んだそのままでした。ユメリはそんなもの吸えません。メイドですから――

 でも私は今メイドしてますか?

 ティー・パーティを勝手に抜けてしまった私は、メイドですか?

 違うんでしょう。なら吸ってみるのもいいかもしれませんね。

 そこまで考えて私は溜め息をつきました。これ以上やったら本当に戻れなくなるからです。何を馬鹿なことをやろうとしているのでしょう、私は。もう一人の私がするだけでも悪いことですのに、私まで染まってしまっては二人いる意味がありません。でもそもそも二人いる意味なんて本当にあったのでしょうか。

 ふとマリさんを思い出しました。彼女はプライベートでもメイドの仕事をしているときも、まったく変わりません。いつでもマリさんなのです。私を含め他の皆さんのように「もう一人の自分」を持たずに、たったひとりですべてを完璧にこなします。誰の力も借りようとはしません。彼女は真の意味でひとりなのです。何故彼女はこんなにも強く咲き誇れるのでしょうか。

 その時、視界の端でふわりと赤い色が翻りました。私はマリさんが来たと思って持っていた煙草を急いでポケットにしまおうとしました。

「また悪い事してる」

 声の主はマリさんではなく通行人の殿方でした。でもむしろ殿方にこのようなものを持っているところを見られた方が事態としては最悪です。おしまいでしょうか、私。

 恐る恐る殿方を見上げると、昨日ここで会話を交わした方でした。今日は帽子をかぶっていて、大きな鞄を持っていて、赤い絹のようなシャツに黒いズボンという格好でした。少し話しただけですし、服装も違いますが、でも忘れはしません。何故ならあの時もう一人の私が、せっかく頂いた名刺を受け取りもせずに逃げてしまったという出来事があったからです。

 私はしどろもどろになりながらも昨日の出来事を謝罪しました。

「サボってるのにユメリ演技する必要あるの?」

 殿方は昨日のことは気にしておられない御様子で、私に聞いてきました。確かに、今私である必要はないです。それどころか、これから先はもう私がいる必要もないかもしれないのです。

 悲しくて涙が出てきてしまい、今はもう何も考えたくありませんでした。ですから私はもう一人の私に席を譲ることにしました。

「泣かないで」

「泣いてないっての!」

「おー戻った」

「なんであんたがまたいんのよ。なんでマリさんじゃないのよ」

 私は恨めしくバーチャル野郎を見返しながらぼやいた。

「なんだ、君ってリリーさん?」

 また訳分からない事を言うもんだから、私はバーチャル野郎の横っ面を思いっきり引っぱたいてやった。その後で喜ぶ事を思い出して後悔の念が沸いてきたけどもう遅かった。案の定待ってましたみたいに瞳を輝かせられて、私はまた溜め息をついてうなだれた。どうしてこいつはこんなに殴りやすいんだろう。

「ごめん。でも一人にして。お願いだから」

「やだね。だって君悩んでるみたいだから」

「分かってるなら消えて。マジで」

「悩みは誰かに話すべきだと思うよ。一人で抱えていい悩みなんて世界のどこにも存在しない」

「だから話すならマリさんに話すから。あんたじゃない」

「格好いい台詞のつもりだったのに」

 バーチャル野郎はショックを受けたようで、よろめいて自販機にがん、とぶつかった。そのオーバーアクションはありきたりでわざとらしかったけど、本当に私を心配してくれたんだろう。少しいい奴だと思った。

「ごめん。でも一人にしてよ。お願いだから」

 心の底から言った言葉なのに、バーチャル野郎は帰るそぶりを見せなかった。前言撤回。あと五秒以内に消えてくれなかったら大声出そう。

 私は地面を見つめながらカウントダウンを開始した。

「マリちゃんってアリスのナンバーワンだよね? 会わせてあげよっか」

 三、のところでカウントが止まる。私がアリスに戻れないという事を分かっているような言い方だった。呼んで来てくれるのだろうか。でもそれは無理だ。

「アリスの営業時間内はあの人は絶対動かないよ。厳しい人なの」

「だから、その後」

 まさかマリさんを出待ちするつもりだろうか。それこそ無理だ。メイドはどこの店でもアイドル化している傾向にあるから、粘着質のキモヲタにストーカー行為をされかねない。だから出待ちやナンパ行為はどこだって店側が禁止している。

 アリスは一流店だけあって狙う輩が特に多い。だから最後のメイドが店を出るまでマネージャ達男性陣が店の前を厳重に警備している。それに帰る際も出来るだけ二人以上で、とうるさく言われている。私のような接客もほとんどしていない、名前もまだ覚えられていないメイドなら一人で帰っても何もないけれど、マリさんのような天上人なんて常に狙われている身だろう。だから店を出てもガードは固いと思う。下手したら秋葉原で彼女に近づく、それだけで出禁確定かもしれない。

 それでも彼女はいつも一人で帰るのだけど――

「絶対無理。あんた秋葉原にいられなくなるよ」

「出待ち? んな事しますかっての」

「じゃあどうやって会わせてくれるの」

「秋葉原が無理なら他で会えばいい」

「無理だよ。マリさんの連絡先ってみんな知らないんだもん。前に誰かがマネージャに聞いたらしいけど、教えてくれなかったらしいし。プライベートは徹底的に秘密なんだ、あの人」

「へえ……そりゃあ燃える展開だ」

 バーチャル野郎がさっと手を縦に振った。昨日と同じく、その手に名刺が現れた。

「今度こそもらってね」

 差し出されたそれを、私はなるべく指を見ないように目を背けながら摘んだ。動悸が高まったけど、なんとか受け取れた。

 自販機の陰で暗くてよく見えなかったので、私は思いっきり顔を近づけて凝視した。WEB寺管理人・貴宮直、と書いてあった。何をやっているのかよく分からない。というか社会人としての名刺ではなく趣味で作ったもののような気がする。歳だっておそらく私とそう変わらないし。

「たかみやなお?」

「そう。なおって名前気に入ってるんだ。ま、ハンドルネームなんだけど。WEB寺ってのは、ウェブ上で困った事があった場合の駆け込み寺みたいなものね」

「で、これが何だって言うの? 私バーチャルで困ってるんじゃなくてリアルで困ってるんだって、分かるよね?」

 私はカチューシャを外して手櫛で髪の乱れを直しながら、バーチャル野郎こと貴宮を見上げた。何だか敢えて回りくどい言い方をしているように思える。焦らされて私が怒りだすのを待っているんだろう、きっと。怒れば怒るほど相手は喜ぶんじゃ、こっちはただ疲れるだけで怒り損だ。 

「ねえ、私怒らないからね?」

「え、じゃあ教えない」

 瞬間的に私は座ったまま貴宮の脛を蹴っていた。私の馬鹿。

「ってえ――我慢なんて無理なんだって」

 鞄を落として涙目で飛び跳ねる貴宮は、それでもやっぱり頬を緩めた。

「痛い、痛い、痛い。ふう。教えますよ、教えさせて頂きますよ」

 そう言ってしゃがみ込み、落ちた鞄から貴宮が大事そうに取り出したのはノートパソコンだった。彼は昨日と同じく図々しくも私の横に座ると、膝の上で開いて電源を入れ、慣れた手つきで何やら操作を始めた。私は少し身体を離しながらも遠巻きに画面を覗き込んだ。

「見てても分からないと思うよ。ちょっと待ってて」

 偉そうに言われて私はむっとしたけど、貴宮の操作は速すぎて確かに何をしているのかさっぱり分からなかった。仕方なく私は言われたとおり待つ事にした。

「駆け込み寺は伊達じゃないってとこ見せてやる」

 貴宮は独り言を呟きながら尚もキーボードに指を滑らせ続ける。

 やがて空中で指をぱちんと鳴らし、勢いよくどこかのキーを叩いて貴宮は息をついた。

「はい、クオッド・エラット・デーモンなんとか」

 何かの専門用語なのかアニメの台詞なのか、相変わらずよく分からない言葉と共にノートパソコンが私の方に向けられた。

 どこかのブログのようなものが画面に映っている。軽く文面を読んで、女性という事だけは分かった。読んでみてよ、との貴宮の言葉に私はその日記を目で追っていく。

 そこには女性が家に帰る事を喜ぶ内容が書かれていた。やっとくつろげる事、妹に久々に会う事、帰ったら自転車を飛ばしてすぐ近くのスイーツ・フォレストに行く事、そこまで五分という立地に確実に太ってしまうだろうという事など、色々書かれていた。本当に嬉しいのだという事が伝わってくる文章だった。

 だけどこれがいったい何だって言うのか分からない、と思いながら一応読み進めた私は最後の一文に釘付けになった。

 ――妹はどうせメイド喫茶でも真っ赤なんだろうなぁ。

「これって」

「九割九分マリちゃんのお姉さんだね。んなメイド秋葉原でマリちゃんだけだもん」

「よく見つけたね」

「まあね。悪用される技術も知っててこそ、駆け込み寺管理人なのさ」

 素直に感心しようとして、私は微笑みかけた顔で固まった。

「……悪用?」

 満足気な顔の貴宮は私の言葉に首を縦に振って、違法のスキル、と告げてきた。

 私は笑顔のままで固まった。違法って事は法を違えるって事で、つまり犯罪だ。

「もしかしてかなりやばい事?」

「うん。クロール対策してあるサイトの日記のパスを無効化しちゃったから、見つかったら逮捕かもね」

「そこまでしなくたって――」

「何があったか知らないけど、君は今戻れないんでしょ? それじゃあマリちゃんに直接聞けないじゃん。それにその格好のままじゃ君がマリちゃんを出待ちってのも無理だろうし」

「そう、だけど」

 言いながら、私は今こんな事せずにアリスに戻ってみんなに謝っていればよかったのかな、って思っていた。でもいくら自分のせいじゃないとはいえ、あんな大失態の後で、飛び出してしまった後で、アリスに戻る事なんてできなかった。

 でも私はアリスを辞めたくない。何とかこの状況を打破したい。マリさんに相談に乗ってもらいたい。

「なら彼女の家に行くしかない。そりゃあ普通に検索で引っかかるならいいけど、なんか彼女の家の情報だけは引っかからないからね。だからこうするしかないのさ。覗いたくらいじゃ誰も困らない。悪用するわけじゃないから僕は自分の行動を肯定するよ」

 貴宮の言葉は力強かった。きっと自分自身に対して真面目な人間なんだろう。

「そうだね、いいよね、このくらい。ありがと」

「ホントはちゃんと調べてあげたかったんだけどね。彼女、忍者かってくらい完璧にファンに足つかませないみたいだから。ごめんね」

「ううん、多分大丈夫。あの人普段も目立つから」

「みたいだね。スイーツ・フォレストまで自転車で五分って事は自由が丘から一駅圏内だろうから、がんばって」

 電源を切りながら貴宮が言った。真面目な横顔だった。

 しゅん、と小さな音を残して画面がブラックアウトするのを確認して、彼はノートパソコンをぱたんと閉じて鞄にしまい、立ち上がった。

「じゃ、ちょっと待ってて」

「え? どうして?」

「その格好じゃ秋葉原から出れないでしょ。服買ってきてあげるから待ってて」

「そんな、悪いよ」

「いいのいいの。先行投資。君にはこれから秋葉原で最高のサディストメイドになってもらうんだから」

「ならねえ!」

 しゃがみ状態から渾身のアッパーが勝手に出る。

 ああああ、また殴ってしまった。

 貴宮は思いっきりよろけながらも、親指を突き出してきた。そしてそのままユメリ育成計画の始まりだ、と嬉しそうに言いながら表通りへと消えていった。

 私は貴宮が消えた方を見て、アニメのTシャツだけは買ってくるな、と願った。



 いったい何をしているんだろう、というのが正直な気持ちだった。

 秋葉原を飛び出して自由が丘に行った私は、アリスが終わる九時を三十分過ぎるくらいまで適当に時間を潰し、マリさんが帰路に着くだろう時間になってからスイーツフォレストの前に行った。そこで十五分くらい待ってみたけど都合よく通ってはくれなかったので、やはり探して歩くしかないかと立ち上がり一時間、いまだ私は歩き続けていた。

 本当の苗字も名前も何も知らない私はコンビニや通りかかる若いお姉さんに聞き込みをしたけれど、マリさんの家や名前は勿論、全身真っ赤の女の子すら見た事がないという結果に終わった。秋葉原では有名人だけど芸能人ではないから、この辺りの人が知らなくても仕方の無い事だとはいえ、見た事すらないというのは予想外だった。

 もしかして方角が百八十度間違っているのかもしれないと反対の方を探してみたりもしたけれど、やはり手がかりは掴めないままだった。

 正直、自転車で五分の距離というのはかなり広い。地図はないし、あったとしても自転車で五分の距離が示されているわけでもない。やってみて分かった事だけど、手がかり少なすぎ。これじゃあ闇雲に探しているのと大して変わらない気がする。

 携帯もアリスに置いてきたままの私は、どこかの店に入るか公衆電話に頼らないと時間を知る術がない。十分くらい前に入ったコンビニで確認した時は十時五十分くらいだったから、早いところ探し当てないと終電を逃してしまう。ぎりぎり見積もってもあと一時間が限界だ。

 とはいえ、もう人通りも少ないこんな時間に聞き込みなんてほとんど出来ないし、コンビニもそうそうあるわけでもない。なんか無理な気がしてきた。

「もう帰るかなぁ……」

 そう思いながらも薄暗い住宅街を歩いていると、突然外灯がなくなり、雑木林が目に飛び込んできた。小さな山だろうか、見上げると結構高さがある。不気味に思いながらもそのまま進むと鳥居を発見した。どうやら神社のようだ。

 鳥居の下から上を見上げると、登るのが躊躇われるほどの石段が続いていた。見事なまでの一点透視図法の風景に、昼間に来ればさぞ素敵な景観だろうと思った。

 私は石段に腰を下ろし、休憩を取る事にした。今は夜中で不気味さの方が上だったけど、だんだん自分の行動が馬鹿らしくなってきたのだ。

 そもそも貴宮の見せてくれたマリさんのお姉さんだろう人の日記は、本当にマリさんのお姉さんなんだろうか。全身真っ赤なメイドは実はマリさんだけではなく、もう一人どこかの店にいるのではないだろうか。確かに真っ赤なメイドなんて秋葉原じゃマリさんだけだ。でも今では秋葉原以外の町にもメイド喫茶はある。今探している真っ赤なメイドさんの家は、真っ赤な偽物という事はないだろうか。

 考えれば考えるほど無駄な事をやってる気がしてきた。貴宮にシャツとスカートを貰って、さらに五千円借りてまでここまで来て――ホント何やってるんだろう私。

 へこみにへこんで、もう帰ろうと思い顔を上げると、道の向こうを歩いていた犬と目が合った。首輪をしてるところを見ると野良犬ではないようだ。

 嫌だなあと思っていると、それを感じ取ったのか犬が立ち止まった。怖くて視線を逸らせないでいると、犬はこっちに向かって歩き始めた。この神社や雑木林に用があるようには見えない。っていうか低く呻っている。どうやら私に敵意を抱いているようだ。

 私はすぐに動けるように中腰の体勢になって犬の動向を窺った。覚えている道の方が振り切る確率は高いから、来た方の道に逃げたい。

 でもそんな考えも犬に一回大きく吠えられただけで消し飛んでしまった。

 怖くて身体がすくんでしまって、すぐには動けなかった。犬はそんな私を牽制するように、少しづつ近づきながら呻り続ける。投げつける物も振り回す物も持っていないから、戦うなんてできない。

 飛び掛かられる境界線を越えられないよう、私は石段を後ろ向きのまま一段上がった。

 犬が迫るだけ後退するしかない私は、いつの間にか石段を上がる以外の逃げ道を失っていた。

 そうやって五段ほど上がったところで、犬がもう一度吠えた。

 それがスイッチだった。私はくるっと回って一段飛ばしで石段を駆け上がった。犬も吠えながら私を追ってくる。後ろなんて振り返ってる暇はない。

 石段の長さに逃げ切れる自信がなくなっていく。でも止まったら確実に襲われる。こんな所で襲われたら、下手すれば転げ落ちてしまうかもしれない。

 やだ、やだ!

 マリさんに助けてほしくてここまで来て更に災難に遭うなんて――私が何をしたっていうの!

 私は手の甲で涙をこそぎ落として走り続けた。石段のラストを告げるもう一つの鳥居が段々と迫ってくる。

 足首に一瞬犬の毛の感触が走った。

 もう駄目、追いつかれる――

 それでも私はあの鳥居をくぐれば何とかなると思って、息が上がる身体に鞭打って二段飛ばしにして速度を上げた。

 その甲斐もあってか、私は何とか掴まらずに鳥居をくぐる事に成功した。でも勿論これで終わりじゃない。足を止めずに境内を走りながら、逃げ切れる場所を探す。

 と、本堂の右手奥に明かりを見つけた。管理人か誰かいるんだろう。そこまで行けば助かる!

 私は止まりそうだった足に最後の力を込めた。しかし方向を変えた瞬間、石畳に足が引っかかってしまった。

 肩から派手に地面に転び、激痛に息が止まる。それでも何とか上半身を起こしたけど、それが精一杯のようだった。犬はいつでも私に飛び掛かれる場所でまた低く呻っていた。

「や――」

 口から漏れ出た声を犬が吠えて掻き消す。呼吸が乱れて叫べない。

 犬は何度も何度も吠えて、私ににじり寄ってくる。

 体勢を低くして――

 そして犬が跳躍した。

「うっさい馬鹿犬!」

 怒号と共に何かが飛んできて犬に当たり、犬はきゃふ、と声を詰まらせ地面に転がった。

「ちょっと何で私のスリッパ投げんのよ!」

 もう一人別の声がして後ろ、明かりのあった方からばたばたと慌ただしい音が聞こえてくる。見ると犬に当たった物は確かにスリッパだった。可愛らしいデザインの女の子物。

 よく分からないけど、これで助かる。

 犬が警戒してその場で呻っているうちに、私は社務所だろう明かりの漏れる建物へと駆け出した。

 玄関の戸が開いて中から知らない女の人が出てくる。

「ったく自分の投げろっつーの……」

「助けて下さい!」

 私が飛びつくと、女の人は面食らった顔で私を見て、それから私の背後に視線を向けた。

「あー追われてたんだね。もう大丈夫。ちょっと待ってて」

 女の人は私を玄関の中に入れると、一人で犬の方に向かっていった。

「あ、あぶな」

「繋がれてろ馬鹿犬!」

 履いていたサンダルを犬に投げつけながら女の人が一喝した。それだけで犬はいともあっさりとどこかへ逃げてしまった。なんか圧倒的。

「さ、これでもう平気」

 片足で投げたサンダルの元へ行き、スリッパを回収して女の人が振り返った。

「怪我とかしてない?」

 無言で首を縦に振ると、女の人は微笑んで戻ってきた。

「飼い主には何度も鎖に繋いでおけって言ってるんだけどね。あ、ちょっと待ってて。物騒だから送ってあげるよ」

 そう言って目の前の階段を上がって女の人が消えていった。社務所ではなく普通の家のようだ。管理人か何かなんだろう。

 私は安堵感にほっとした。けれど、その後でこれで帰らなければいけないという事実に気づいて愕然とした。もう探している時間はない。

 しゃがみ込んで袖の土を落とす。溜め息は頼んでもいないのに勝手に出てきた。

 ぎい、と階段の軋む音がした。女の人が戻ってきてくれたようだ。

 私は顔を上げて――信じられないモノを見た。

「マリさん!」

「え? あ、っと――ユメリ?」

 見間違いようもない真っ赤な姿、凛とした顔立ち。

「はい!」

 私は元気よく立ち上がって、真っ赤なパジャマのマリさんに返事をした。



 甘いローズヒップの香りに緊張が解きほぐされていく。私はカップに口をつけて、ちらっとマリさんを見やった。湯気の向こうの彼女は、私と同じ場所で同じものを飲んでいるとは思えないくらいに優雅だった。町娘その一に付き合ってくれた女王様みたいな感じだ。パジャマだというのに優雅。たとえばカップを持つ指先。たとえばソファの座り方。たとえば視線の動かし方。それが気取っているわけではなく自然の仕草だから、思わず見とれてしまう。

「なるほど、あなたがお客様にコーヒーをこぼしたのはカレンに足を引っ掛けられたからなのね」

 それまで私の今日起こした事件を黙って聞いていたマリさんは、猫のように目を細めて私を見つめてきた。この人の前では嘘なんて誰もつけやしないだろう。私はただ黙って頷いた。

「そういえばあの時ヒナが大仰に叫んでいたわね」

「はい。なんかそれで私慌てちゃって。とりあえずおしぼり取りに行かなくちゃって思ったんですけど、持ち場を離れるなってカレンさんに言われて」

 アリスを逃げ出す直前の出来事を思い出しながら、私は感情的にならないようにゆっくりと喋った。

「本当にカレンはそう言ったのね?」

 私が首を縦に振るのを待って、マリさんは続けた。

「あなたはおかしいとは思わなかったの? 何もせずにただお客様の前にい続ける事に」

 私は何も言えなかった。確かに今思えば迷惑をかけた客の前でただ突っ立ってるだけなんて、あり得ない事だと分かる。でもあの時ユメリだった私は、先輩に逆らうなど考えてはいけないと誓った後だったから、言われるままに動くのがメイドのあるべき姿だと思っていたのだ。

「マヒロは? いなかったわね」

「はい、ちょうどキッチンに行ってたみたいで」

「なるほどね……。で」

 二杯目を次いでティーポットを置いたマリさんが、こっちを見ずに聞いてくる。

「どうしてあなたはお客様に手をあげたの?」

 怒っているふうではない声が逆に胸に刺さった。話さなければいけない。私はその為にマリさんに会いに来たんだから。

「その話をする前に、少し聞いてもらってもいいですか?」

 私の大切な事、アリスの志望理由。

 マリさんは何も言ってくれなかった。代わりに私のカップにも二杯目を注いでくれた。私はそれを話してもいいというサインだと受け取る事にした。

「私、極度の男性不審なんです。本当は触られるのすら駄目なんです」

 そう、だから指の感覚なんてもっとも感じたくないものなのだ。

「でもずっと男性に関わらずに生きていくなんて無理じゃないですか。だから私何とかしなくちゃって思ったんです。色々考えて――で、メイド喫茶を見つけたんです。ほら、メイド喫茶だったらもう一つ名前が貰えるじゃないですか。そしてまったく違う別人格を演技できる。そんな事ができる職場ってメイド喫茶だけだと思うんです。だからメイド喫茶で働いていれば、いつか男性不審を克服できるんじゃないかって――そう思って、アリスに入ったんです」

 こんな志望理由は本当はいけない事かもしれない。でも私はこれに縋るほかなかったのだ。実際に効果はあがってきている。

 私は喉を潤してさらに続けた。

「アリスの中でユメリでいる間は何もかも順調だったんです。徐々に男性に触れられるようになってきてましたし、マヤ達の嫌がらせだってユメリでなら耐えれたんです」

「じゃああなたはあの時マヤに、ユメリという魔法を解かれてしまったのね」

 マリさんは理解してくれたようだった。そう、あの時コーヒーをこぼして立ち尽くしていた私は、近づいてきたマヤにおしぼりを手渡され、そのまま強引にお客さんの下腹部に重ねさせられたのだ。いくらユメリでもそれは耐えられなかった。その瞬間ユメリは私に戻り、そして気づいた時にはお客さんを張り飛ばしていたのだ。そこから先は御覧の通り、転落人生みたいな今の状況というわけだ。

「魔法というよりおまじないでしたね、今思えば。効き目なんてあっさり切れる」

「魔法だってそんなものよ、きっと」

「どちらにしろもう一人が必要だったんです。……マリさんはプライベートでもアリスとあまり変わりませんね。どうしてですか?」

「それは私が仮面を被りたくないから。何かを演技するっていうのは、その間本当の自分を消す事と同義でしょう。それが長く続けば続くほど、本当の自分はどっちか見失ってしまう。例えばあなた、そのうちユメリが表層化して乗っ取られちゃうかもしれないわよ」

 あり得なくない話だ、と私は思った。私の弱点を補うために創られたユメリという人格は、今では私の意識の介入を必要としていないのだ。今日だって私の意識が介入していたなら、メイドは先輩に逆らわない、というユメリサイドの考えを否定する事ができたのだ。

 でもアリスにいる誰もが私のように、とまではいかなくても別の誰かを演じているわけで、それこそがメイド喫茶の本質だと思っていたのだけど――マリさんは営業終了後も変わらないわけで。

「じゃあマリさんの本名は」

「ええ、毬よ」

「なるほど、二人いる必要がないですね」

「そういうことね。でもあなた、働く動機として決して悪いとは言わないけれど、秋葉原のメイド喫茶はやめた方がいいかもしれないわね」

「どうして、ですか」

「秋葉原は魔の都。人間達の欲望渦巻く町だから。メイド喫茶はそこに来る客も欲望にまみれているし、働くメイドも欲望にまみれている。特にアリスは秋葉原でアイドルになろうといった連中の登竜門みたいな店だから」

 確かに。何故私が一流のメイド喫茶に入れたのかは分からないけれど、アリスはアイドルになりたい連中がこぞってやって来る場所だ。当然、内部事情はお客さんにはお見せできない競争で溢れかえっていたりする。人気ランキング制度が最たる証だ。

「――じゃあマリさんもアイドルに?」

 そう尋ねると、マリさんは首を横に振った後で少し微笑んだ。

「……だってウチのメイド服って可愛いでしょ?」

「なるほど」

 確かにウチのメイド服は可愛い。まあマリさんのはデザインだけ借りてあとは真っ赤なオリジナル仕様なんだけど。

でもマリさんの人間臭いところを初めて見た気がした。ようやく少しこの人の事が分かった気がする。

「アリス辞めたくありません、私」

 クビになってもどうせ他のメイド喫茶に行くくらいなら、マリさんのいるアリスに残りたい。

「罰を受ける覚悟は?」

「あります」

 もう一度雑用からだっていい、私はアリスを辞めない。

 拳を握って額に当てて、私は強く負けない、と念じた。よかった、来て本当によかった。

「マリさ――」

 いなかった。

 たった今まで目の前に座っていたというのに、マリさんは目の前――いや、居間からも姿を消していた。探そうかとも思ったけど、人の家をこんな夜遅くに勝手にうろつくのも悪いので、私は待つしかできなかった。

 ふいに耳元に何かが押し当てられた。

 慌てて振り仰ぐと、マリさんが無表情で私を見下ろしていた。

「電話」

 耳元に押し当てられた物の正体、電話を私に渡すと、マリさんはキッチンの方にそのまま消えてしまった。少し分かりかけていた気がしたのに、やっぱ掴めないですマリさん。

 それにしても電話?

「もしもし」

「ユメリか?」

「マネー……ジャ?」

 罰を受ける覚悟があるとは言ったものの、今とは思っていなかった。半年先の旅行が急遽明日になりましたって言われたようなもんだ。私は準備不足の心でマネージャとの会話に挑む事になってしまった。

「お前どんだけ迷惑かければ気が済むんだ」

「……すいません」

「客を殴って勝手に逃げ出して、おまけに荷物もそのまま」

「……すいません」

 謝ってばっかりの自分が嫌になってくる。でもこれは仕方の無い事だ。何があろうと、お客さんを叩いた事実は消せない。

「お前アリスに何か恨みでもあるのか?」

「……すいません」

「あるのかって聞いてんだ」

「ないです。今日のは……」

「言い訳は聞かない。とりあえず明日絶対出勤しろ。以上だ」

 それで一方的に電話は切れた。やっぱりクビですか?

 テーブルに子機を置いてソファに沈み込む。完全に出足くじかれた。気力出ないって。

「あきらめたらそこで――」

「メイド終了ですか? いや、諦めないですってば」

 戻ってきたマリさんに私は作り笑顔を向けた。

「マリさん意外に漫画読んでますね」

「あら、主人の会話についていくのに最低限のたしなみよ」

 ふわりと頭にタオルを乗せられた。

「風呂入ってきなさい。凪もそろそろ――いえ、ちょうど今出たから」

 虫の声一つ聞こえない静寂の高台エリアなんだけど、私には何も聞こえなかった。

 と、床板の軋む音が近づいてきた。

「あーやっぱ実家はいいね。水道代気にせずイケる」

 ナギさんだっけ、頭にタオルを巻いたままでさっきのお姉さんが居間に入ってきた。どんな聴力してるんですかマリさん。

 ナギさんに夜遅く上がりこんでいる事を謝ると、彼女はキッチンの方に向かいながら気にしないでと言ってくれた。

「毬に会うために彷徨ったんだってねー。いい友達じゃん」

「友達だなんて、尊敬する大先輩です」

「へえ、毬が」

 美容ドリンクの瓶を片手に戻ってきて、ナギさんは私の向かいに座った。

「おしゃべりは身を滅ぼすわよ」

 何故だか怒っているようなマリさんの言葉に、ナギさんは含んだ笑みを返した。

「ユメリの布団用意してくるわ」

「え、え? マリさん!」

「いいのいいの。行かせてあげて」

 マリさんを止めようとした私に、ナギさんが制止の声をかけた。ただでさえ迷惑かけてて、これ以上かけるわけにはいかないのに。

「泊まってって。私からもお願い」

「でも……」

「はい座る。いいから座る。また犬に襲われてもいいの?」

 もう追いかけられるのはごめんだった。私はナギさんの言うとおりソファに戻り、姿勢を正した。

「ありがと。よろしくねユメリちゃん」

 ナギさんは言い忘れてたとタオルを取って自分の名前を名乗った。

「いえ、こちらこそ改めてよろしくお願いします」

 マリさんと二人きりでも緊張するけど、ナギさんと二人きりでも緊張する。初対面だからというより、あのマリさんのお姉さんというのが大きい。でも予想していたのと違ってナギさんはかなりフランクで、マリさんとはくっきりはっきり対照的だ。もっと言えば顔立ちも全然似てない。二人ともすっごい美人ではあるけれど、姉妹というよりはアイドルデュオと言われた方が納得できる。って失礼か。

「嬉しいんだよあの子。こんなに頼りにされちゃって」

「そ、そうなんですか?」

「そうなの。お高くとまってるけどツンデレって奴よ」

 いつも完璧で自分にも他人にも厳しくて、でも時折微笑みかけてくれる孤高の女王のマリさんをツンデレとは……。何だかミもフタもない。

「お客さんには厳しくて、でも優しくて……とにかく不思議な魅力を持った人なんですけど」

「確かに不思議っちゃあ不思議よね」

「それに加えて仕事完璧なんですよ。どうやったらあんなに早く正確にてきぱき動けるんですかね」

 特にテーブルセッティングや料理のスピードは人間技には思えない。

「ああそれはね、先生がすごいの」

 肩の辺りをほぐすストレッチを始めながらナギさんが言った。

「先生?」

「そ。あの子世界一のメイドに教わったから」

「な、なんですかそれって」

「実際に大きな屋敷に仕えるメイドさんにね、本物の給仕を教わったの。そこらのにわかメイドじゃあの子には勝てないよ?」

 ガッツポーズのようなところで止めて、ナギさんが相好を崩した。

「すごい! 留学までしたんですか? 本場英国のマナーとか習ってきたなんて、納得ですよ」

 私が両拳を握り締めて興奮すると、ナギさんは突然ソファに転がって大笑いを始めた。

「いやいや日本。ってか千葉県? ユメリちゃん想像力ぶっとんでるねー」

 いや世界一って言ったのナギさんじゃん。

「ごめんごめん、でも慕ってくれてるんだね」

「それは勿論」

「お、本格メイドの御帰還。イギリスどうだったー?」

 けらけら笑うナギさんの台詞に振り向くと、マリさんが眉根を寄せて立っていた。

「おしゃべりは身を滅ぼすって言わなかったかしら」

「あらーその前にあんたの身を滅ぼしてあげる。お・しゃ・べ・り・で」

 女王でも姉には勝てないわけで。

「ほらユメリ、さっさと風呂入ってきなさい」

「あ、はい、すいません」

 マリさんは私を立ち上がらせると、案内するわ、とさっさと居間を出ていってしまった。 ナギさんに頭を下げて、私もすぐに後を追う。

「あの、本当に今日はありがとうございます」

 恐る恐る背中に声をかけると、マリさんはぴたっと立ち止まった。

「ここね。着替えは水色のワンピースで悪いけど、我慢して頂戴」

「なんか怒ってます……?」

「そんなことないわ。心配しないで身体温めてきなさい」

「はい……」

 私はワンピースを受け取って脱衣所に入った。

「そうだ、何があっても一度だけ助けてあげるわ。私の家をつきとめた御褒美」

 そう言い残してマリさんは引き戸を閉めた。少し照れていたように見えたけど、まさか本当にツンデレじゃ……ないよね。それにしても何があっても、とは心強い言葉だ。もしかしたらマネージャに口添えしてくれるのだろうか。あるいはマヤ達から守ってくれるのだろうか。何にしても最高の切り札である事には違いない。ありがとうございますマリさん。

 服を脱いで風呂場に入りシャワーを出す。色々あったけど、マリさんのおかげでまだ頑張れそう。嫌な事は温かいお湯で流して、パワーアップ版ユメリにならなくちゃね。

 なんて思ってると、マリさんとナギさんの言い争うような声が聞こえた気がした。シャワーのせいでよく聞こえないけど、あのマリさんがまさか喧嘩なんて、ね。

 喧嘩なんて、ねえ。

 あの完璧でメイドの鑑なマリさんがですよ?

 気になる。すっごい気になる。

 私は少しだけ風呂場のドアを開けようとして――やめた。

 だってほら、マリさんがそんな事するわけないし。あの人は私にとって絶対な天上人なんだから。

 いつもより髪を洗う指に力がこもる。ええい、もっと大きな音は出ないのか。

 いっそ湯船に飛び込んでやりましょうか。



「クビはナシだ。客からの要望でな」

「本当ですか!」

 私はレジカウンタに飛びつき、開店作業中の所マネージャに詰め寄るように身体を伸ばした。

「嘘言ってどうする。昨日の客がな、辞めさせないで下さいって言ってくれたんだよ。被害者だとは思っていない、むしろ可哀想な事をしたってな」

 手で私を追い払いながら所マネージャはレジに両替金を入れていく。

「お前の為にまた来るって言ってくれてるんだ、辞めさせるわけにもいかないだろう」

 殴ったっていうのにむしろ悪い事をしただなんて、どこまでいい人なんだろう。

 私はほっとしてレジカウンタに突っ伏した。ありがとう昨日の人。これで首一枚繋がった。というか、初めて私目当てに来てくれるお客さんの誕生か?

 突っ伏したままにんまりとしていると、それを感じ取ったのか所マネージャが言葉の出足払いを仕掛けてきた。

「しかしあれだけの事を起こしたんだ。不問と言うのも他のスタッフの手前よろしくない」

 マジかよ。よろしくなくないですよ。

「時給マイナス三十円、二週間トイレ掃除サービス残業、週休五日――どれがいい?」

 どれもチクチクと金が絡んでくるんですけど。

「えー、じゃあトイレで」

「普通はまあそれを選ぶよな。じゃあよろしく」

 言ってマネージャは事務室の方に行ってしまった。まあいいか。

 私もそろそろ着替えようと更衣室に向かった。いつもは一番乗りで私しかいないけど、今日は違う。

「大丈夫だったみたいね」

 着替えずに椅子に座っていたマリさんが目を細めて微笑んだ。うーんニヒリスティック。今日は赤いブレザーとプリーツスカート、胸に真っ赤なリボンという学生服みたいな姿だ。

「はい、トイレと二週間向き合わなきゃいけないですけど、クビは免れました!」

「それが正しい結末ってものよ」

 マリさんが着替えに立ったので私もロッカーに向かった。

 置きっぱなしだった荷物を確認してから、私はメイド服に着替えていく。

「ユメリ、早く私に追いつきなさい」

 ロッカーの裏からマリさんの檄が飛んできた。そうだ、もう私はマヤ達に負けたくない。その為には力を手に入れなければならない。人気という力を。

「はい、マリさん」

 最後にネームプレートをつけて、私は顔を上げた。

 マリさんに追いつくだなんて千の夜の果てにもなさそうな物語ですけれど、ユメリは頑張ります。



 今日もアリスは賑やかで、そこかしこから御主人様達の楽しそうな笑い声が聞こえてきます。御主人様達は美味しい紅茶と同じくらい、私どもメイド達との会話を楽しみにやって来てくれるため、店内から笑いが途絶える事はありません。

「昨日は大変だったねユメリちゃん」

 キッチン脇でマヒロさんが私の肩を抱き寄せて下さいました。まるで騎士様、私を戦火から守ってくれるかのようです。彼女の視線を辿ると、御主人様から一歩退いて跪くマヤさんが目に入りました。相手の心を捉えて離さない見事な話術、それでいて控えめな物腰、さすがの立ち居振る舞いです。

「今日はユメリちゃんから目を離さないから安心して」

 昨日のお詫び、とマヒロさんが私の口に手作りのクッキーを入れて下さいました。いきなりで驚きました。でもしっとりとしていて、オレンジの風味が口いっぱいに広がって、とても美味しいです。

「よっし、じゃあ乙女の戦場に行くとしますか」

 腕まくりをするマヒロさんはとても眩しくて、私は嬉しくて元気いっぱいに返事を返し、五個もコーヒーが載ったトレイを取りました。

 背中を軽く叩いてくれる彼女に頷いた後、私は背筋を伸ばしてマヤさんの横を通り過ぎました。

 一瞬だけマヤさんと目が合いました。

 先輩、今度はちゃんとやりきってみせます。



 思いのほか順調に私は仕事をこなしていました。転んだり注文を取り違えたりすることもありませんし、マヤさん達に何かをされることもありません。そちらの問題の方はマヒロさんが目を光らせて下さっているおかげでしょうけれど、本当に初めてアリスで私が役に立てているような気がします。

 そんなふうに思えてきた時のことでした。

「マヒロさん、私今から手料理作らなければいけないの。ですからその間私の御主人様のお相手お願いしますね」

 ティー・パーティ会場から戻ってくるなり、マヤさんはマヒロさんにそう言ったのでした。

「え、でも私今日はユメリちゃんの面倒を見てあげないと……」

「少し見てましたけど、ユメリさんならもう一人でも大丈夫でしょう」

「私はそうは思いません。ですから同じ派閥のヒナちゃんやカレンちゃんに頼んでいただけませんか?」

「あの子達にはまだ無理なのよ。五番目までじゃないと気を悪くする方なの」

 マヒロさんは周りを見回しましたが、どうやら人気三番目と五番目の方は手が離せない様子です。そうすると確かに四番目のマヒロさんしかいません。今日のマヒロさんは私についていられるくらいの余裕があるのですから。

 別のテーブルについていたマリさんが静かにこちらを見つめていたのが、視界の端に見えました。

「それでも。派閥作ってるならその中で回してくださいよ」

 私はマヒロさんが怒ったところを見たことがありませんでした。だから明らかにマヤさんの行動に対して気分を害しているマヒロさんの様子に、私は少なからず驚きました。

 まさかマヒロさんが反論するとは思っていなかったのでしょう、マヤさんは少しだけ目を大きく開いて――すぐに細めました。それはとても冷えきった瞳でした。

「そう、あなたも私に逆らうのね」

「逆らう? 最初に派閥制を作ったのはあなたでしょう?」

「そうね。でも原則には例外がある。言ったでしょう、五番目までの人間を欲していると。アリスの為に尽くすのが最優先なのだから、その点においては派閥制の原則は破棄される。この場合適用されるのは――ランキングよ。従いなさい」

「いい加減うんざりです。ランキングがすべてじゃないでしょう?」

「戯れ言ね。序列は優劣の証よ」

「ランキングとここで働く事は関係ありません。私はランキングなんてどうだっていいですから」

 キッチン周りに戻ってきた他のメイドの方達も、立ち止まって私達の様子を窺っていました。マリさん以外で真っ向からマヤさんに立ち向かう人がこれまでいなかったでしょうから、注目されるのも仕方ありません。

「おい、何やってる」

 ざわめきを感じ取って、所執事が事務室から顔を出しました。

「いえ、何も。所マネージャが気にするほどの事ではありませんわ」

 すこぶる笑顔でマヤさんが言うと、彼女を信頼している所執事はすぐに首を引っ込めてしまいました。私が先に少しでも声を上げておけばよかったのかもしれません。

「マヒロ、覚えておくわ」

 そう言ってマヤさんはキッチンに消えて行きました。後をヒナさんやカレンさん達派閥の方々が続いていきます。こぞって不気味な笑みを私とマヒロさんに向けて。

 また元通りの雰囲気に戻って、張り詰めていた空気から解放された私はマヒロさんに謝りました。すると彼女は私の頭を軽く叩きました。

「すぐ謝るの、ユメリちゃんの悪い癖。いいんだよ、私もむかついてたんだし」

 一矢報いたとばかりにマヒロさんは笑いました。これでよかったのでしょう。ふと見ると、マリさんはもうこちらを気に留めてはいませんでした。

「じゃあ一緒に頑張ろうね」

 マヒロさんはもう一度肩を抱いてくれて、私は強い安堵感を覚えました。

 そうやって、この優しい翼に私はついつい甘えてしまうのでした。

 ――私も同列に立ってマヤさんと戦っていればよかった、なんてその時は思うに至らなかったのです。



 ティー・パーティー閉会まであと少しという九時になって、そろそろ後片付けの準備に入ろうかと思い始めた矢先、エントランスのチャイムが鳴り響き、私とマヒロさんは今日最後だろう殿方を出迎えに向かいました。

「お帰りなさいませ、御主人様!」

 寒空に晒された身体も、マヒロさんのこの一声で温まるのではないでしょうか。まだまだ力不足な私の声は残念ながら掻き消されてしまいましたが、彼女には聞こえていたようで、頭を下げている時に褒めて下さいました。

「こんばんは、ユメリちゃん!」

 姿勢を戻すと、なんと昨日私が御迷惑をかけてしまった御主人様が立ってらっしゃいました。所執事の言っていた通りまたいらしてくれたのです。私なんかよりも遥かに温情に溢れた気配りに、思わず涙腺が緩んでしまいそうです。

 ありがとうございます、ありがとうございます、何度お礼を言っても言い足りません。

「いいから、ホントに。もう君は僕達の希望の星だから」

「良かったじゃんユメリちゃん! ファン第一号誕生じゃない?」

 そんなに肩を揺さぶらないで下さい、マヒロさん。おなかの泉が氾濫しちゃいます。

 とその時でした。

「違うな、一号はこの僕だ!」

 エントランスに響き渡る別の声に、私とマヒロさんは揃って鶏のように首を向けました。

 押し殺した笑い声と共に入ってきたのは、なんと貴宮さんでした。あれほど今の私には興味がないとアリスにはいらっしゃって下さいませんでしたのに。

「貴宮、間に合ったな」

「まあねー。イベント終わってダッシュしてきた。ほいこれ滝におみやげ」

 どうやら二人はお知り合いのようで、このアリスで待ち合わせをなされていた御様子です。

「どうやら昨日マリちゃんには会えたようだね、ユメリ。クビにならずに済んだようでよかったよ」

 その言葉に小さく返事を返すと、やはり今の私はあまり好みではないのでしょう、貴宮様は残念そうな表情を顔に浮かべられたのでした。

「え? ユメリちゃんマリさんとプライベートで会ったの? すごいじゃん」

 いつも一人で先に帰られるマリさんとアリスの外で会うのがどれだけ大変か、マヒロさんはすぐに察してくれたようでした。これは誰にも話していませんでしたが、私の自慢です。

「あのー」

 マリさん談義に花を咲かせていた私とマヒロさんと貴宮様は、滝様の声に我に帰りました。

「とりあえずさ、入んない?」



 他の御主人様達もほとんどお出かけされ、ティー・パーティ会場は賑わいの炎を弱めていっています。マリさんやマヤさんはまだ御主人様のお相手をされていますが、他のメイドさん達はもう後片付けに入っているようで、ここにはほとんどいません。ですから私の小さい声もちゃんと聞こえるようです。

「ユメリちゃんをトップクラスのメイドにする?」

 隣のテーブルを拭きながら聞き返したマヒロさんに、貴宮様と滝様は揃って頷いたのでした。私はそんな大それた考えなんて持っていないのですが、反論する間も勇気もなかったので、黙ってお二人の目の前で座っているしかありませんでした。ちなみに今私は初めての御指名を受けているので、お二人の御主人様の下座に座っています。

「そ。ユメリは百年に一度の逸材……」

「のっけから胡散臭いですね」

 貴宮様の力説の出足を挫くマヒロさん。意外と会話の相性がよさそうです。

「さすがランキング四位のマヒロちゃん。突っ込みスキルも持っているとは」

「スルースキルも持ってるんですよ、私」

 会話の主導権は既に貴宮様ではなくマヒロさんにあるようで、これはこれで見ていて面白く、微笑ましいです。

「で、ユメリちゃんのどの辺りがセンチュリーな感じなんですか?」

 マヒロさんの問いに貴宮様と滝様は二人揃って私を指差し、同時に答えたのでした。


「ヴァイオレンスッ!」


「え? え? どういう事ですか?」

 マヒロさんは私が貴宮様と出会った時の話や、昨日の事件の詳細を知らないのですから、意味が分からないのも無理はありません。ですが暴力性とはあんまりです。

「それはだね、はい貴宮君」

「一昨日の会話の途中でのフック、あれはよかった……はい次、滝君」

「昨日のビンタに見せかけた掌打、あれはよかった……はい次、貴宮君」

「昨日のためらいなく脛を狙った蹴り、あれもよかった……はい次、滝君」

「今のところ以上であります」

「というわけなの」

 貴宮様の締めくくりに、マヒロさんは驚きを隠せないようでした。

「本当なの? ユメリちゃん」

 やったのはもう一人の私で、アリスにいる時の私ではないのですが、事実ですので私は黙って頷きました。

「なんか意外ー。ってかギャップ激しいキャラ設定にしたね……窮屈じゃない?」

 それは裏表のないメイド代表のマヒロさんならではの質問でした。ですがもう一人の私だって別に暴力性に富んでいるわけではありません。その誤解だけはなんとしても解いておかねばなりません。

 ですが場はアリスの終了時刻に向けてますます加速していくようで、私が口を挟める間などどこにもありませんでした。

「このまま恥ずかしがり屋さんメイドをやっていても何番煎じだ! って感じじゃん」

「そうそう、追加属性はドジっ子でしょ。それももうありきたりだし」

「確かにそうですねー。私みたいなよくしゃべるメイドなら自己アピールも簡単ですけど、今のユメリちゃんのキャラじゃあねー」

「だから何か別の斬新なキャラ設定をするべきなんだ!」

「幸いにもユメリちゃんはそれを持っている!」

「その答えは!」

 貴宮様、滝様、マヒロさんの順番で会話が弾んでいき、最高潮に達したところで皆さんがこちらを振り向き一斉に口を開きました。


「そう! ヴァイオレンスッ!」


「じゃないっ! 駄目ですよそれは!」

 ご自分も参加されていたのに、マヒロさんは即座に切り返しました。

「御主人様を殴るなんてもうメイドじゃないですって!」

「そうかなあ。メイドってのはもっと自由にあるべきだと思うよ。ユメリちゃんが始めれば間違いなく第一人者だ。ウィキに書いてあげるよ、メイド解放運動の祖って」

「平塚雷鳥じゃないんですから……」

「お、意外に博学」

「褒めても許可できませんよ」

 貴宮様の提案にマヒロさんはやはり駄目だと言ってくれました。これで安心です。罪のない人に暴力を振るうなんて私には出来ないですから。

「あ、でもさ」

 滝さんが何かを思いついたようです。

「ある貴族がさ、息子の教育係のメイドに、出来が悪かったら殴ってでも教えろっていうスパルタ方針を指示していたっていう設定ならありじゃない?」

「おお、滝ナイス!」

「そんな細かい設定誰も理解できないですよ……」

 マヒロさんが溜め息をついたところで、ティー・パーティ終了の音楽がかかり始めました。

「さ、今日は終わりです、御主人様。またいらしてくださいね」

 マヒロさんは急かすように二人を立たせると、エントランスの方へと連れて行きました。私もお見送りに後をついていきます。

「また明日も来るから考えといてね、ユメリちゃん」

「無理にでもやってもらうからね、ユメリ!」

 貴宮様の強引な言葉が少し引っかかりますが、初めての私の御主人様ですので、なるべく満足して頂けるおもてなしをこれからもしたいところです。そうなると、やはりあの提案に応えなくてはならないのでしょうか。

 お二人をお見送りしたまま悩んでいると、マヒロさんが伸びをしながら声をかけてくださいました。

「すっごいMだったね、あの二人……。要は僕を殴ってくれーって事だよね。しゃべってる分には面白いんだけど……。ユメリちゃん、無理にやる必要なんてないからね」

 じゃあ片付けますか、と会場に戻っていくマヒロさんの後をついていき、私は貴宮様と滝様の飲み干したカップをキッチンへと持っていきました。

 キッチンの方はもう既に片づけが終わっていて、担当のメイドさん達は一足先に帰ったようでした。ですので私は自分でカップを洗い、最後に器具の点検をしていきました。

 会場の方に戻ると、マヒロさんの方もちょうど終わったらしく、掃除用具を片付けていました。

「ったくマヤ派の人達みんなして先に帰ってんの。ずるくない?」

 時計を見ると九時半を過ぎていました。いつもは片付けのローテーションで最後まで何人かはいるのですが、今日はもう私とマヒロさんしか残っていないようでした。

「じゃ着替えよっか。一緒に帰ろ?」

 とマヒロさんが言ったところで、事務室の方から所執事が出てきました。

「おいユメリ、トイレ掃除忘れてないだろうな?」

 すっかり忘れていました。私は所執事に謝ってから、急いでトイレ掃除の準備に取り掛かりました。

「マヒロさんは手伝っちゃ駄目だからね。これはユメリへの罰だから」

 先に釘を刺されて、モップを握りしめていたマヒロさんは渋々トイレの外に出ました。

「じゃあ先に着替えて待ってるね」

 軽く手を振ってマヒロさんは私の視界から消えていきました。長く先輩を待たせるわけにもいきませんから、私は一心不乱にたわしとモップと雑巾の装備でトイレと戦い続けました。

 そして十五分後、ようやくトイレ掃除を終えた私は、事務室に行き所執事に報告をしてから、更衣室へと向かいました。

 お待たせしてすいません、と口にしながら更衣室に入ると、マヒロさんはまだ着替えておらずロッカーの前で立ち尽くしていました。

「あ、ユメリちゃんお疲れさま」

 先程までと違ってなんだか元気がありません。どうしたのですかと尋ねるとマヒロさんは、風邪気味かな、と口にされました。それなら尚更早く帰らなければいけません。私は自分のロッカーに向かい、急いで服を着替え始めました。まずはネームプレートを外して――

 マリさんに借りたままの水色のワンピを着て、メイド服を素早くくるくるっと丸めてロッカーに押し込む。ワンピってホント素早く着れるよね。

「お待たせしました!」

 マヒロさんのロッカーの列に顔を出すと、彼女はまだ着替えていなかった。こちらに背を向けるように自分のロッカーにもたれかかっている。

「マヒロさん大丈夫ですか? 立ってるだけで精一杯なんじゃ……」

「ん、少し休めば治るから……」

 背中を向けたままで答えるマヒロさんは、明らかに元気がなかった。でもそれは風邪だからとかそういうのではなく、精神的にまいったような元気のなさに思える。

「ごめんね、悪いんだけど先に帰って」

「そんな、置いていけるわけないじゃないですか。横になりましょう」

「ただの立ちくらみだから。ね、だから少し一人にしてくれると、嬉しいな……」

 最後の方の声が震えていた。

 私は意を決してマヒロさんに近づき、彼女の肩を掴んでむりやり振り向かせた。

 マヒロさんは泣いていた。

「や、ちょっと、恥ずかしいよ」

 私から逃れるようにマヒロさんは顔を背けた。

「何があったんですか」

「本当に、なんでもないの」

 マヒロさんの肩を掴んだままの私は、そこで異変に気づいた。甘い匂い、すっぱい匂い、焼いた肉のような匂い、牛乳の匂い、色んな匂いがごちゃ混ぜになって私の鼻を突いてくる。匂いの元は――

 私はマヒロさんの肩から手を離すと、彼女のロッカーの取っ手を掴んだ。

「だ、だめ!」

 マヒロさんには申し訳ないけれど、私は彼女を無視してロッカーを開けた。

 むわっと広がる異臭に顔をしかめながら見ると、中は生ゴミでぐちゃぐちゃだった。客の食べ残しのオムライスやパスタやサイコロステーキ、クリームがべっとりついたパフェの残りやらメイプルシロップでべたべたのハニートーストなど、今日の昼に出たゴミを全部この中にぶちまけたって感じだった。勿論マヒロさんの私服や荷物はそれらに汚されてとても使用できる状態じゃない。

「なんか着替えると本当に別人みたいだね、ユメリちゃんって。さっきまでの私達とまるで正反対」

 努めて明るくマヒロさんが言った。

「これは誰が? マヤ達ですか?」

「絶対素のユメリちゃんで営業出ても人気出ると思うよ」

「マヒロさん!」

 ロッカーの中を見つめたままで私は声を荒げた。

「……私ってさあ、いじめとは無縁の人間だなんて勝手に思ってたんだよね」

 振り向くと、マヒロさんはむりやり笑顔を作っていた。

 けれど終わりゆく線香花火のように、涙は頬からひとつこぼれた。

「結構つらいもんだねえ」

 髪を掻きながらマヒロさんがあはは、と笑った。


 マヤの奴、もう許さない。


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