きっとまた、会えるから
声が……聞こえない。
俺をいつも支えてくれる者達の声が。
まあ、そりゃそうか。
“みんな”俺が殺したんだもんな……
見ると、街のそこかしこには数え切れないほどの死体があった。
焼殺、刺殺、毒殺、圧殺、殴殺……様々な死が転がっている。
全て、俺がやったことだ。
壮絶な戦闘の末、俺が勝った。
たった一人の女を助けたいから、“みんな”を手にかけた。
自分の行なったことが、正しいかどうかはどうだっていいことだ。
人の倫理など関係ない。
例え身勝手と言われようと、知ったことか。
傍からしたら俺は、ただの悪人にしか見えないだろう。
決して立派じゃないし、優しくないし、道徳的なんかではない。
でも、俺は立派になるために生きてるわけじゃない。
優しく、道徳的になるために生まれてきたわけでもない。
俺は、俺になるために生まれてきた。
彼女を救うために生まれてきた。
だから……歩かなければ。
片足を引きずりながら進む。
体中に鈍い痛みが走っている。
頭が、重い。
きっと、回復力が落ちているのだろう。
“みんな”を殺せば殺すほど、この体は弱っていく。
人類が死に絶えれば、俺という意思と肉体も消え失せる。
つまり人を救うということは、俺自身の延命行為に他ならない。
人類を救いたいという気持ちを、合理的に説明することができるのだ。
できるのだが、俺は今、自分の寿命を自分で減らしている。
……矛盾だ。
けども、俺はこの矛盾というものがどうしても嫌いになれない。
人間という生き物は、矛盾という言葉なしでは語れないからだ。
人を嫌いになれない俺が、矛盾を嫌いになれるわけがない。
「さて、行かなくっちゃな」
どこへ?
彼女の元へ。
歌の響く場所へ。
……マリア大聖堂 。
かつてカトリック教会だった場所だ。
上空から見ると、それは十字架のように見えるという特異な形状をした巨大建築物。
だが、現代で礼拝する者などいるはずもなく、廃れた場所に過ぎないのだが。
入り口の扉を開け、中へ足を踏み入れる。
奥へ、奥へ。
そして辿り着いた。
礼拝を行うためのホール。
俺の住んでいたボロ教会の数倍は広い。
だがその分、伽藍洞のような虚しい印象を受ける。
俺のいたあの教会は狭かったが、温かさがあった。
……用のないものを見るのは、寂しいものな。
「来たか」
それは聞き慣れた声だった。
「神父……あんた、こんな所にいたのか」
「……急にいなくなって、すまなかったな」
「本当だよ。俺とビスケが、どれだけ心配してたのか分かってんのか」
「そうか……」
神父の表情は、自殺願望者のソレと同じだった。
心に圧迫を受けた者特有の……
そして、何より。
神父の後ろ……壁に立て掛けられている巨大な十字架の下。
そこに、ビスケが横たわっていた。
「もう、分かっているのだろう?」
「……あんたが、敵の本体か」
「そうだ」
否定してほしかった。
違うと。
ただその一言があれば、俺は安堵していただろうに。
「俺はあんたを、殺さなくちゃいけないのか?」
「敵、だからな」
「あんた、普通に喋ってるじゃないか。操られてるようには見えないよ」
「それはミーを操る必要がないからだ。ミーは、このアポストロスと共犯しているのだから」
「……自分から望んでアポストロスに協力を?」
「そうだ」
「何でだよ……。あんた、俺に言ったよな。人類を救うために、世界を救ってくれって。あの言葉は、嘘だったのかい?」
俺は忘れていなかった。
神父の泣いたあの時の顔を。
悲しみを帯びた声を。
「……嘘じゃないよ。でも、もう疲れたんだ」
神父の目が濁っていた。
綺麗な水が、やがて汚染されていくように。
隔離されない限り、外部からの影響を受けざる負えないからだ。
ああ、そういえば。
悲しかったんだな。
悲しいから、人類を救いたがっていたんだな。
「……ミーは元々悲観論者だ。ミーの中のアポストロスは、世界に慨嘆した者の心に入り込む。貴様と戦ったのは、全て生きることを諦めた者達だ」
「なら、ビスケは……」
「あの子は強かだ。生きる強さを感じる。だから、あの子だけは生かすよ。もし詩で操られていたなら、人類が滅びたその後で心中するつもりだったが……」
「あんたは……自分に負けたんだな」
これも、否定しなかった。
この会話から、流れ作業のような虚しさを感じる。
「……このアポストロスに実体はない。意識だけで活動する生命体だ。世界中に残存した九割九分の人々を操作し、一か月の期間を得て東京に呼び寄せた。……辛かったろう?敵になった人々を殺したのは」
「ああ、死ぬほどな」
「なら、死んで早く楽になろう。世界のことは、次に生まれる生命体に任せておけばいい」
「でも、俺は諦めてないよ。負けてない」
「……強いな。だが、貴様みたいに強く生きられる者は多くない。弱い人の方が多いのだ、この世界には。ミー達に、生きることを強制しないでくれるか?安息を願うこの心を、土足で踏みにじらないでくれるか?」
「……嫌だね」
神父が厳めしい表情を見せる。
「人は開拓する生き物だ。未開の土地、海、空、人、心、そして自分……土足で踏み荒らして、理解して、今まで生きてきたんだから。そういう暴力的な生き方を、今更否定するなよ」
「そんな人類の果てがこれだろうに」
「……人間が嫌いか?」
「嫌いだ。特に、貴様のような弱者の上に立つ強者は」
「だよな。だって、あんたの話から考えると、俺が生まれた時から今まで、そのアポストロスに協力してたってことになるもんな。ずっと、嫌いな俺に隠しながら」
神父の顔が強張る。
言葉の毒を浴びたからだ。
「……このアポストロスによれば、ミーは人の滅びを望む願望が一番強いらしいからな」
「疲れた、だけじゃあ人類を滅ぼそうなんて思わないものだけどな。もしあんたの言ってることが本当なら、そこらの人間と同じように何もせず日々を過ごしていただろうから」
「……だから?」
「だから、本当のことが聞きたい。あんたはまだ、話してないことがあるんじゃないのか?」
この言葉こそ、開拓だと思った。
人の心を探求し、踏み荒らすエゴ。
でも、必要なことだ。
人が生きる為には。
「……ミーを救おうだなんて思うなよ」
殺意がこの場を支配する。
神父が背後の巨大な十字架を片手で握り、壁から引き剥がす。
人々の信仰を一身に受けた、礼拝の対象であり象徴。
そんな十メートル近い代物を、重機めいた力で軽々と持ち上げる
圧倒的な怪力だった。
「ミーはエヴォル・チルドレン……超能力者だ。元研究者として、強靭な脳を有している。更にアポストロスによって脳のリミットも解除されている。今のミーはどんな超人よりも強いと思え……!!」
今、この時を以って戦闘以外の選択肢は絶たれた。
仲間との……家族との殺し合いが、始まった。
「……!!!」
十字架を持った神父が一歩で俺の至近まで迫ってくる。
俺を狙い、身の丈数倍の十字架を隙なく振り回してきた。
触れたら肉が爆ぜる……!!
野性的感覚に従い、後方に下がりながら回避していく。
今の俺では、発生条件の緩い単純な自然現象か、簡単な武具程度しか創り出すことくらいしかできない。
筋力やウェイトでは今一歩及ばず、真正面からの力勝負は死に直結する。
普通なら、ここで退く。
けど、逃げることのできない戦いだ。
提示された条件で勝機を掴み取るしかない。
俺は炎の球を両手に生み出し、次々と投じていく。
爆発性のあるものだと瞬時に見抜いたらしい神父は、それを迎撃せず、凄まじい反応速度で横に躱していく。
爆炎が舞う中、神父は巨大な十字架をブーメランのように回転を加えて豪快に放った。
回帰型のブーメランとは違い、直線的な運動エネルギーを持ちながら俺を襲う。
回避一択。
反射的に屈んで攻撃を躱す。
轟音と共に十字架が壁に突き刺さった。
直後、前方から射貫くような脅威を感じ取る。
見ると、神父が大型拳銃を構えていた。
思考より先に横に転がる。
俺のいた場所から、発砲による炸裂音が響き渡る。
固い床が抉れるほどの威力と銃の形状から、デザートイーグルを使用していると判断。
前世紀における、世界でも有名な自動拳銃。
盾を作って受けたとして、貫通するのがオチだろう。
もし判断するのが遅れていたら、額に風穴が開くところだった。
全力で横に馳せて躱し、弾を撃ち尽くしたことを目視した。
俺は刀を一本紡ぎ、真っ直ぐ走り出す。
だが、神父はこれを狙っていたように銃を捨て、二丁目のデザートイーグルを即座に取り出す。
止まって回避するにはあまりにも突然過ぎた。
避けようとすれば、隙を作り致命傷を負うだけだ。
盾による防御も期待出できない。
ならば……
俺はあえて力強く足を踏み込む。
刀を握り締め、感覚を研ぎ澄ませていく。
俺の感覚能力が極限まで高められ、時間認識が延長されていく。
体感速度が異常に遅く感じられた。
それでも、銃撃に対応出来るレベルには届かない。
気休め程度のものだ。
俺は、命を懸けて神父に接近しなければならない。
「うおおおおおおおッッ!!!!」
叫ぶ。
自分を奮い立たせるために。
覚悟を、追及し続けるのだ。
銃から弾が放たれる。
同時に、最速で刀を斬り上げる。
わずかでも弾を切断するタイミングを見誤れば、俺は死に至るだろう。
生と死の確率変動が、これ以上なくブレていく。
揺らいだ可能性が潜む方向に、俺の持てる資質を全て注いだ。
弾が……斬れた。
「なに……!?」
想定外だったのか、神父が顔を歪める。
そこに生存への光を見出した。
俺は、光が照らす可能性へ突き進む。
刀を投げつける。
銃弾で正確に刀を弾かれるが、その隙に俺は神父へと肉薄した。
神父は俺の猛打をまともに食らった。
数発の打撃に耐え、内臓損傷による血反吐を吐きながらバックステップで後方へと下がる。
俺は追いすがり、追撃を加えようと接近した。
神父はそのまま慣性の法則に従わず、人外の脚力を発揮し途中でステップをキャンセル。
追撃を寸での所で見切り、カウンターとして掌底を突き出してきた。
拳が俺の腹にめり込み、意識が白む。
だが、このまま距離を取られることを許す俺ではない。
衝撃で後ろに数メートル吹っ飛ばされる。
反射的に受け身を取るが、ダメージは大きかった。
動けるには動けるが、超人級の強さを誇る神父に対応はできそうにない。
だから、ダメージを負う時に奪ったのだ。
デザートイーグルを。
神父に向かって照準を合わせる。
傷付いた彼に、この銃撃を回避する余裕はない。
ここで銃撃を躊躇えば、次の瞬間には俺の首が飛ぶだろう。
人類だって助からない。
ここで家族を……殺さなければならない。
引き金を引く時、ビスケの姿が頭をよぎった。
彼の娘の姿を……
そして、俺は……神父を撃った。
大口径の銃撃をまともに受けて、胸にぽっかりと穴が開く。
明らかに、致命傷。
なのに、神父の顔はとても穏やかで。
まるで苦痛から解放されたような……
神父がパタリと倒れる。
もう敵意を感じられない。
だから駆け寄った。
神父は仰向けで倒れていた。
息はある。
けど、長くはない。
胸から湧き水の如く、血が流れ出ていたからだ。
「どうして……」
俺は膝をつく。
勝負に勝ったのに、ただただ悲しい。
頬に熱いものが流れた。
涙だった。
「……貴様が勝ったな」
「ああ……勝ったよ。勝っちまったよ、ちくしょう……」
「勝ったのに泣くのか。勝者らしくもない」
「当たり前だよ。何であんたを殺さなくちゃいけない?俺は……本当なら俺は、あんたと戦いたくなかった。どうして……」
神父のことをほんの少しだって憎んだことはない。
家族だと今も思ってる。
それなのに、俺達は戦って……
こんなの納得出来るわけがないじゃないか。
「……愛する人がいたのだ」
ぽつりと。
雫が落ちるように、言葉を吐き出す。
「とても愛していた。結婚もしていた。同じ研究者として、『超能力者』として、尊敬していた。だが……彼女が死にたいと【墜落の日】に言いだして……ミーは死なせたくなくて、自殺を止めた。説得して、説得して、説得してっ……!!!それでも彼女は生きたいのだと言ってくれなかった!!生に苦しむ大切な人を、ずっと見ていられるわけがない!!苦しかった!辛かった!だから……彼女が喜んでくれるのなら、ミーはどんなことだってできた!!だから、彼女の願いを……叶えたんだ」
「……殺したんだな」
「あいつは、まだ生きる意欲があったミーに謝って……渡した毒を飲んで、あっさり死んだよ。笑ってた。あんなに苦しそうだったのに……静かで、とてもきれいで……何だか彼女が、救われたような気がしたんだ」
悲劇だった。
どうしようもなかった。
どうしようもないことだったのだ。
「でも、ミーは寂しかった。だから、あいつの細胞から……創ったのだ。ミーの娘を」
……血の繋がらない父親と娘。
敬語での会話。
懺悔の対象。
無性生殖研究の第一人者。
全て、繋がった気がした。
「あんたは、罪悪感をあいつにずっと抱きながら生きてきたのか。自分の感情任せに、愛した女性の死体から命を一つ、創ったことを」
「創った赤ん坊を抱いた時、初めて死にたいと思ったよ。だが、死ねなかった。ミーが死んだら、腕の中の子はどうなる?ミーが勝手に生み出し、そして勝手に死なせるのか?罪深いにもほどがあるではないか」
……言い返すこともできなかった。
もう、死にかけている。
命の灯火が……温度が失われていく。
そこに追い打ちをかけるなんてことは……
「ずっと、死にたいと思っていた。彼女を、追いかけたかった。でも、自分で自殺する勇気もない。ミーは、本当は臆病者なんだよ」
「俺は……本当にあんたのこと、何も分かってなかったんだな」
悲しかった。
神父の全てを理解したつもりはない。
でも、こんなにも多くのことを知らなかった。
知ることができなかった。
「マーブル……ビスケットのことを、よろしく頼む。あいつは、一番若い……最後の光だから……あいつの面影が残っているから……」
「あんたも、本当に勝手だな」
「……貴様だって勝手だろうに。それに、死にゆく人の最後の頼みだ。それくらい、聞いてくれるだろう?」
「無責任でも、勝手でも……聞くしかないだろ!!だって、家族なんだから!!今まで一緒に生きてきたんだから!!!」
身の内に、熱い感情が渦巻く。
激情だった。
心が荒立つ。
視界が揺らぐ。
涙が……止まらない。
「どうして……どうしてあんたらは、そうやって生きることを諦めるんだっ!!せっかく生きてるんだから、しっかり生きてみせろよ!!!冷たい世界に抗って見せろよ!!!人間が……人間こそが、命の可能性を切り開く種の代表だってことを、今こそこの星に証明しなきゃいけないんだろうが!!!!」
「はは……貴様は、最後まで貴様なのだな。ちっとも変わらない……羨ましいよ」
神父は俺の言葉に満足したのか、少しだけ笑った。
咳と共に口から血を流す。
あと、少しだ。
それでも神父の顔は、酷く安らかで。
死を、受け入れていた。
「やっと……やっと、逝けるのか。長かったなぁ……ビスケ」
手を、上に伸ばす。
何かを求めるように。
「地球……ああ、やっぱりその名前が、一番似合ってるよ……貴様は」
神父が突然、呻いた。
一瞬だけ痙攣して、力が抜ける。
手が、落ちて。
神父が死んだ。
「……ぁぁ」
冷たかった。
神父のどこからも、温かさを感じない。
もう二度と、動かない。
話せない。
笑い合えない。
もう、二度と。
「ああああああああああああああっ!!!!」
泣きながら叫ぶ。
身を引き裂かれそうな苦痛を感じる。
心臓が、痛い。
心の痛みだった。
叫んだところで、どうにもならないことは分かっている。
でも、止まれない。
叫ばずにはいられない。
ボロボロの体で走る。
何も考えず、外へと飛び出す。
目の前には、数万の武装した人々。
まだ、戦いは終わっていなかった。
本体が死んでも、残ったこいつらは戦い続けるのか……
「…………」
数秒だけ、茫然とする。
カチリと。
頭の中で、切り替えた。
ひたすら戦う為に。
ビスケを、守るんだ。
大切な人を。
何にも代え難い人を。
殺させない。
人を想うってことが、どれだけ俺に勇気を与えてくれたのか。
この感情には、嘘を吐きたくない。
だから。
もう一度だけ。
俺は。
人外らしく。
機械的な怪物になることを。
……決意した。
刀を創り、真正面から人海に突っ込む。
人の首を斬る。
斬り続ける。
血飛沫が舞う。
血の付いた顔を拭うこともしない。
ただただ、俺は精密に人を殺すのだ。
殺しても、殺しても人。
人しか見えない。
ひしめいている。
極限状態だった。
殺す度に、力を失っていく。
初めて、背中に打撃を食らった。
痛みを無視して、攻撃した者を殺す。
途中、刀が折れる。
拳を握り、殴り殺す。
目に前に『超人』。
横から体を蹴られ、助骨が数本折れる。
代わりに手刀で突き殺す。
更に複数の超人。
攻撃を躱して、首をねじ切っていく。
途中で左目を潰され、失明する。
……どうでもいい。
前から、横から、後ろから、敵、敵、敵。
手刀を使って強引に前進。
代償に指を数本引きちぎられる。
……構わず殺す。
殴り殺す。
蹴り殺す。
突き殺す。
意識が朦朧とし始める。
体が、重い。
全身が悲鳴を上げている。
痛みに俺の全神経が慟哭していた。
もはや攻撃も躱さず殺していく。
肩が抉れる。
左腕がひしゃげる。
耳が裂かれる。
首筋を噛みちぎられる。
ふと、右腕の感覚がぷつんと途切れる。
……上腕から先が切断されていた。
続けて、両足の腱を斬られる。
ガクンと膝を突く。
いつの間にか左腕も失っていた。
片足を上下左右に好き放題振り回される。
関節があらぬ方向に曲がり、骨が粉砕した。
投げられ、体が岩に衝突する。
背骨に響き、土に露出した肉が付着。
もう、痛みさえも感じない。
体を引きずる。
まだ、休むわけにはいかない。
でも、上から熱いナニカが一斉にのしかかってくる。
……人間達だ。
ああ……純然たる淘汰が始まる。
そう思った。
体中が荒らされていく。
俺がバラバラに壊されていく。
辺りが血で染まっていく。
でも……俺はまだ……やれるんだ。
彼女を……ビスケを……守る……
だから……戦って……
まだ……まだ……
……あ……ぁ……
……ビ、ス……ケ……
ビ……ス……
……俺の意識が消えゆく瞬間。
どこかで見たことのある、光の柱が見えた気がした。
---
「目を覚まして……」
……“みんな”の声ではなかった。
たった一人の呼びかけ。
一番最初の声だった。
俺は目を開ける。
声の主は……ビスケだった。
「よぉ……」
「マーブル……なんで、こんなになるまで……」
彼女は泣いていた。
泣かないでほしかった。
笑っていてほしかった。
でも、俺の為に泣いてくれているんだなって思うと、嬉しくもあった。
「俺、頑張ったよ。お前を守りたくって……」
本当に、頑張った。
俺の全てを懸けて。
「お前、無事だったんだな」
「……ごめんなさい」
「なんで……謝るんだよ」
「私、何もできなくて……」
「いいんだ。敵を倒すのは、俺の役目だから。お前は、人を導いて進むんだ。まだ見ぬ世界へ……」
俺のように、大勢の人々を殺してでも。
自分の命すら失ったとしても。
人は、旅立たなければならない。
でもと思う。
何故、彼女なのだろう。
何故、俺は最初に彼女を選んだのだろう。
人を好きになる。
そこに理由はいらないと、思考を止めるのは簡単だ。
だって、種が生き抜く為の欲求……本能なのだから。
でも、何故だろう?
本能とは違う、心の奥底にあるなにかが……
……そこで、俺は思い出した。
今までのことを。
俺の記憶が、ふと。
扉が開いたかのように。
ああ、そうか。
そうだった。
地球は、自分の子供であるヒトを愛していた。
ヒトが種の進化を諦めて、滅びの道を歩むことを決めた時。
地球だけは、諦めていなかったんだ。
ヒトが、旅支度を始められるように。
アポストロスを呼んで、種が再び一つになるよう試練を乗り越えさせて。
強く、在れるように。
ヒトは、試練がないと成長もできないか弱い種なのだから。
俺はそれらを後押しするために創られた。
俺を中心として、“みんな”が結束できるように。
だから俺は、全てのヒトと繋がっていたんだ。
ビスケは【墜落の日】以降に生まれた、もっとも若い命だ。
そこに地球は可能性を見出した。
俺が彼女のすぐ傍で生まれた原因。
そして、生まれる前から彼女にどうしようもなく惹かれた理由。
俺は、繋がった全ての人の心に影響される。
一番最初に俺が繋がった人はビスケだ。
ビスケは、人を諦めていなかった。
でも、それだけじゃあ全ての人々の諦念に圧し潰されて、俺は悪鬼と成り果てていただろう。
俺が人類を救いたいと思ったのは……本当は、人々が意味もなく滅びたくないと心の底では願っていて。
どこかの誰かが、このどうしようもなく冷たい世界に火を灯すことを望んだからじゃないだろうか。
ああ、なんだ……分かってしまえば、簡単なことじゃないか。
母なる星は、俺達を愛しているんじゃないか。
愛されるに足る心が、俺達にはまだ残されているんじゃないか。
今まで、暗い道のりを一人で走っている気がした。
後ろの“みんな”を引っ張っていけるようにと。
それをすぐ後ろで支えてくれていたのは……ビスケだった。
そう……出会いのきっかけは、星の意思によるものだったけれど。
確かに俺は、ビスケのことを愛している。
「あなたは、いつだって強くて優しいですね。やっぱり私、そんなマーブルのことが好きです」
「俺も……好きだ。一生傍にいたいくらい、ビスケのことが大好きだ」
彼女を抱きしめたい気持ちに駆られる。
でも、動かない。
体がちっとも動きやしない。
ああ……もう、体が半分ないんだ。
人類を殆ど殺してしまったから、傷もふさがらない。
もう、時間もないんだな……
「ビスケ……お前がここにいてくれて、嬉しいよ」
「……これから死に行く人みたいに言わないでください……」
「お前、ちょっと心が弱いところがあるからなぁ……でも、仲間がいればきっと大丈夫だよ」
ビスケの後ろには、バニラとプラムの姿があった。
みんな、泣いていた。
だから、俺だけが心安らかなんだと思う。
「バニラ、プラム……お前らが、死にかけの俺を助けてくれたんだろう?」
「敵が来て……あたし、すぐに君達の所に行ったけど……間に合わなかった。人類に希望がないって思ったら、足が動かなかったのに……君達のことが心配になった途端、走れたの」
「……私も、すまなかった。もっと早く、駆け付けてやれなくて」
「みんな、やっぱり優しいな」
悲しいことなど、なにもなかった。
後悔なんて、あるはずもない。
なのに涙が出た。
こういう時の覚悟は、とっくのとうに済ませていたはずなのに。
俺は孤独な化け物なのだと、今まで思っていた。
でも、違った。
こんな俺でも……人間だったんだと。
今、実感した。
「……ありがとう」
あと……あと、少しで終わる。
ほんの、十数秒だ。
それで、俺が終わる。
ああ……走馬灯のように今までの記憶が思い起こされていく。
たった一か月の人生。
……必死に、生き抜いた。
思い残すことはない。
恨みも、悲しみも。
代わりに充足があった。
満足だった。
喜びも。
徐々に思い出が抜け落ちていく。
何も、見えない。
苦しい。
冷たい。
こんなにも、心臓の鼓動が聞こえるのに。
死の瞬間は、こんなにも過酷だ。
熱が、消えていく。
暗くなっていく。
散っていく。
命しか残らない。
その命も消えていく。
吹き消した火は、どこへ行くのか。
……どこへも行かない。
それはどこへも行かず、消えるのだ。
ああ……世界とは、なんと優しいのだろう。
始まりがあれば終わりがある。
永遠という長い時間に人は耐えることができない。
だから。
これで。
いいんだ……
「そんなに泣くなよ……きっとまた、会えるから」
微かに聞こえる泣き声に、別れの言葉を残して。
俺とビスケは、最後のキスをした。
そして俺は静かに、家族の優しさに包まれながら……
小さな火のように消えていった。