第01話 ふみ出せば異世界(1)
加我戸真昼は、人はどんな環境でも適応することが出来るというのは本当なのだなと最近思うようになってきていた。
家の事情で生活するようになった祖父の家は、テレビなどで富豪が住んでいる屋敷そのもので、実家にいるときにはこんな家だと絶対に落ち着かないだろうと思っていた。
しかし、すでに一年以上も住み続けていれば慣れるというもので、今歩いている廊下も、その脇に飾られた値段のわからないツボや絵画や装飾も見慣れ、感想を求められてもきっと何も出てこないに違いなかった。
真昼は目的地である部屋の扉をノックして中へ入ると一人の女性に出迎えられた。
「真昼様、お誕生日おめでとうございます」
言葉の内容にそぐわず、一切祝っている雰囲気が見えないまま、眼鏡をかけた女性――眞麗は言う。
「……そういえば今日、僕の誕生日だったっけ」
真昼は今日が自分の十七回目の誕生日であったことを思い出す。とはいっても特別嬉しいことではないので、どうも、と素っ気なく返した。
眞麗は真昼のことを様付けで呼ぶがこれは元を辿れば祖父からの要望であり、祖父のことを様付けで呼ぶ延長線上で、真昼のことも様付けで呼んでいると眞麗は言う。真昼はその呼ばれ慣れない言葉にやめるよう頼んだが、眞麗は頑なに真昼様と呼び続けている。
「で、用ってなに? まさかその言葉を言うためにここに呼び出したわけじゃないんだろ?」
「真昼様は今日で十七歳ですね。十七歳というと青春真っ只中ですね。同い年の子たちは勉強に部活に汗を流しているというのに、真昼様はというとニート生活を送っている」
「そのニートっていうのやめろよな。僕はまだ十六――じゃなかった今日で十七か。ともかくまだ十七歳なんだぞ」
「何歳であろうと、学校に行かず、定職にもつかず、その努力も行っていない人はニートなんです。……あれ、もしかして私の知らないところで真昼様は受験勉強でもしていたのですか?」
「……」
ニートという呼ばれ方には不本意だが、確かに真昼は勉強も仕事もしていない。去年高校受験に失敗し、もう進学への興味も何もかも失って今年の入試は受験すらしていない。そのため眞麗の言葉は正しいが、何もわざわざそういういい方しなくてもと真昼は思う。
見た目は、少し吊り上がった目じりがきつめの印象を与えるが、誰もが美人との判断を下す容姿をしている。しかし、一度口を開けば精神攻撃の修行でもしたのかと思わせるほどの言葉の暴力に真昼が眞麗のことが苦手と思うには十分だった。
「――お説教を言うだけなら僕は部屋に戻るぞ」
これ以上の責め苦を受けてなるものかと真昼は踵を返し、部屋を出行こうとする。
「お待ちください、真昼様。実は今日、十七歳の誕生日に樹里男様の遺言によりあることを伝えなくてはならないのです」
樹里男というのは、真昼の祖父の名前である。フルネームは戸渡樹里男、読みは「とわたりじゅりお」で紛れもなく本名である。
既に樹里男が死んでから一年以上が経過したが、まだ自分に向けられた遺言があることに真昼は驚く。
「祖父さんからの遺言? まだそんなのがあったのか?」
真昼が知らないのも無理はなく、遺言状はすべて眞麗が管理しており、真昼宛て以外のものに関してはその内容も何個あったのかも知らなかった。
「はい。これは樹里男様からの遺言により、真昼様が十七歳になった際に伝えるよう指示されたものです。そしてそれは真昼様の今後を決める内容になります」
「もったいつけた言い方するなよ。さっさと内容を話してくれ」
「では、言います。ただし、遺言の内容をそのまま伝えてもきっと真昼様には到底理解できないので、私のほうで真昼様でも解るように説明させていただきます」
真昼はその引っかかる物言いに反論しようとするが、眞麗は無視して続きを話す。
「――真昼様には異世界へ行き、その世界からすんごいエネルギーが詰まった石を運ぶお仕事をしていただきます」
「……は?」
言っている意味が分からなかった。確かに真昼は漫画やゲームが好きで今学校に行っていないことをいいことに多くの時間をそれに費やしているが、だからといって現実との区別ぐらいはついている。それぐらいの常識はあると思っていた。
今度こそ文句を言ってやろうと口開きかけると、眞麗がそれを制す。まずはすべて聞けと言っていた。
眞麗の言葉は到底信じられるものでは無かった。
樹里男はこの世界とは異なる別の世界イルヴァレースへ行くことに成功し、そちらの世界とこちらの世界をいつでも行き来できる道を作った。そしてその世界、イルヴァレースにしか存在していない、エネルギーが詰まった鉱石を日本に持ち帰ることで、今の財を為した。
樹里男亡き後、真昼には今までの樹里男の仕事を継いで、その鉱石を異世界から持ち帰って来てほしいとのことだった。
「……信じられるとでも思ってんのか? そんな小学生の妄想みたいなの」
その感想は至極もっともなもので、眞麗もうなずく。
「まぁ、そうですよね。ですが、実際にその世界へ行ってみれば信じるしかなくなると思います」
眞麗はそう言うと、ある扉の前に立つ。それは真昼がこの部屋に入ってくるために使った、この部屋と廊下とを行き来するための扉ではなく、隣の部屋へ続くであろうものだった。しかしそれはこの屋敷にあるどの扉とも違っており、縁が厚く見た目は木製であるが色は薄い水色のようなで、装飾が凝っており見ただけで他の扉より豪華だと思わせる作りになっていた。
それを見て真昼は違和感を覚える。今自分たちがいる部屋は屋敷の一番端にあり、その扉は外壁に当たる壁についていた。この扉を開けたらそこは屋敷の外につながっているはずだが、屋敷の外壁にこんな扉が付いているのを見たことが無い。
さらに言えばその扉自体を見るのが初めてで、今いるこの部屋は樹里男から入室を固く禁じられており、そもそもこの部屋に入ることすら今日が初めてだった。
「では真昼様。この扉をお開けください。そうすれば今話したことの真偽が分かります」
「な、なんで僕なんだよ。眞麗さんが開ければいいだろ」
その異質な様子の扉に真昼は躊躇する。
「――まさか、真昼様は扉を開ける、そんな簡単なこともできないのですか? この世界のすべてが自動ドアでなければ生きていけないのですか? ああ、嘆かわしい……」
「だー! わかったよ、やればいいんだろ! これくらいなんでもないっての!」
そんなこと言われてやらないわけにはいかない。少しためらった後ドアノブへ手を伸ばすと思い切って手前に引いた。
「なんだ……これ」
扉を開けたその先に会ったのは屋敷の外の景色ではなく、それはまるで虹のそれぞれの色の境界をなくし、各色が勝手に渦を巻いているような光景だった。向こう側は一切見えず、ただ色が勝手に動く様子しか見えない。
「そこを通るとあちらの世界へと続いています。一見通れないように見えますが、すり抜けて向こう側へと行くことが出来るのです」
嘘だろ……、と真昼は思った。通れると言われても行く気にはならず、ただじっと見ていたら渦を巻く色に当てられ少しばかり気分が悪くなった。
「何をしているのです? はやく通ってください」
「ちょっとまて、行くって今? 今はちょっと心の準備が……ほらなんか体調も悪いし――」
「いいから、さっさと行ってこい」
眞麗から思いっきり背中を蹴っ飛ばされ、真昼はよろける。これ以上進む虹の渦に触れてしまうと必死に耐えているところに、眞麗は再度蹴りをお見舞いする。その容赦ない一撃に真昼は転がると、虹色渦巻く壁をすり抜ける。
ゴロゴロと何回転かした後仰向けに倒れた。
「いってー……なにするんだよ!」
怒りに任せて体を起こしてみれば、そこは見たこともない場所だった。
眞麗の言葉を信じれば、ここは異世界ということになるが、上を向けば見える天井も四角く囲っている壁も今立っている床も、異世界という言葉ほど異質さを感じなかった。
背後を振り向けば、屋敷にあったものと同じ扉があり、同じように虹色が渦巻いている。
元の世界側から引いて開けた扉は、こちら側でも引く形で開けられており、普通の扉ではありえない状態になっていたが、今の真昼にはそれより大事なことがあった。
「お前、なに人の背中蹴ってんだよ! いてぇーだろーが!」
部屋に真昼の声だけが響く。この距離で扉の向こうにいる眞麗に聞こえないはずはないが、返答はなく虹色渦巻は沈黙を守っていた。
眞麗からの返事がない事を疑問に思っていると、突然思い出したかのように気分が悪くなる。吐くほどでない軽い吐き気と、立っていられないほどではない軽い眩暈が同時に襲ってきた。
「おえ……気持ちわる……」
大したことは無いが気分が悪くなったことで急に恐怖が襲ってきた。もう帰りたいと扉を見るが、一度通って大丈夫であることが分かっているとはいえ、この虹色渦巻を通るのは若干の抵抗があった。
しかし、そんなことを言ってはいられないと、意を決し扉を通ると、そこは先ほどまでいた部屋で眞麗も変わらず部屋にいた。
「おや、お帰りなさいませ。あちらの世界はいかがでしたか」
言葉と目線だけで出迎えた眞麗は、ティータイムを嗜んでいた。眞麗はお茶の作法にも精通しており、優雅にティーカップを傾けるその光景は男女問わず思わずため息をつくものだった。
しかし、その光景を見た真昼は気分の悪さより、腹立たしさを上回る要因でしかなかった。
「何やってんだよ! なんで何も言わないんだよ!」
「――何を言っているのです? いまお帰りなさいといったではありませんか」
「違う! 僕がさっき向こうの世界で叫んでただろ!」
「……ああ。なるほど」
眞麗は手に持っていたティーカップをテーブルに置くと、同じテーブルに置かれていたトランクを手に、すっと立ち上がり真昼に近づく。
「この扉は、光も音も通さないみたいなんですよ。だからいくら真昼様が叫んでも私には聞こえないのです。つまり無駄な頑張りだったわけですね」
「なんだ、そうだったのか……。それもっと早く言ってくれよ」
「だって言う前に真昼様が先に行くから」
「それはお前が蹴ったからだろうが!」
くだらないやり取りをしている間に気分の悪さが収まってきた。冷静に考えれば口喧嘩で眞麗に勝てるわけがないと思った真昼は蹴られたことも取り敢えず置いておくことにした。
それより気になるのは――
「なぁ、さっき気分が急に悪くなったんだが、やっぱりこれその扉のせいなのか?」
「そうですね。その扉をくぐったことによるものです。こちらとあちらの世界を行き来するたびに体調に若干の不調が現れるようです」
「……そういう事、初めに言っておけよな」
「だって言う前に真昼様が先に行くから」
「だから! お前が蹴ったからだろうが!」
真昼の言葉は気に止めず、眞麗が手に持っていたトランクを真昼に向けて開く。トランクの中には手のひらサイズの長方形の箱のようなものが一つだけ入っていた。
「真昼様これをお手にお取りください」
「……なにこれ?」
「これは樹里男様が真昼様にと残されたもので、あちらの世界でとても役に立つものです。真昼様があちらへ行く際には持たせるようにと言われております」
「そんなものがあるんなら初めから教えてくれよ」
「だって言う前に真昼様が先に行くから」
「それはもういいっての!」
トランクの中のそれは、真昼の第一印象ではスマートフォンのようだと思った。それを手に取って色々な角度から眺めてみると、片方の面は電源の入っていない液晶画面のように黒く、ほかの面は薄い水色のような色をしていた。見れば見るほどスマホのように見える。
違う点があるとすれば、それはどこにも物理的なボタンは無く、また真昼が使っているものと比べ一回り大きかった。厚さは文庫本くらいだろうか。
「なぁ、これなんなんだ? まるでスマホみたいだけど、どうやって使うんだ?」
「それはスマホだと聞いています」
「これやっぱりスマホなのか。でも電源を入れるところが無いみたいだけど」
「何を言ってるんです。そんなスマホじゃないんですから」
「いや、今お前がスマホだって言ったんだろうが」
「違いますよ。それはスマホですがスマホではありません」
「はぁ?」
眞麗は、これでは全く話しが進みませんね、と言うと咳ばらいを一つつく。
お前のせいだろ、と真昼は思ったが本当に話しが進まなさそうなので、思うだけに留めた。
「これは今主流の携帯電話、いわいるスマートフォンに似ておりますが、全くの別物です。名前を『スーパーマジカルほんとすごいもの』略してスマホと言います」
「……何その頭悪いネーミングセンス」
その点に関しては眞麗も同意なのか、そうですねと頷く。
「名前は確かに胡散臭いですが、これは本当にすごいものだと聞いています。あの樹里男様が自ら何年もかけて作られ、ご自分で大絶賛されていたものですので」
ますます胡散臭いと真昼は思った。真昼の樹里男への印象と言えば悪いものしかなく、かなり適当で大雑把で雑な性格の持ち主だと感じていた。少なくともこんな性格の眞麗を雇い続けていることからも、普通の感性の持ち主ではないと思っている。
「それで? これどうやって使うんだ?」
「あちらの世界に行きますと勝手に使えるようになるとの事です。あとはスマホにマニュアルが内蔵されているので、そちらをご覧ください」
今は使えないのであればいつまでもにらめっこしていても仕方がない。
正直なぜこんなことをしないといけないのか、という気持ちが無いわけではないが、樹里男のおかげで、何不自由することなく今は生活している。
「……さすがに遺言を無視するってのはあまり気持ちがいいものでは無いか」
真昼はそうつぶやくと顔を上げ、扉を見る。取り敢えずやるだけやってみようと思う。
眞麗がいつになくかしこまると真面目なトーンで話し始める。
「真昼様。よく聞いてください。真昼様がやるべきことはあちらの世界にて、エネルギーを内包した鉱石マギカルト鉱石何とかして手に入れ持ち帰ることです。――私は残念ながら樹里男様がどのようにしてその鉱石を手に入れていたのかは存じておりません。しかし、向こうの世界に一人使用人を用意していると聞いています。まずはその者から話しを聞いてください。名前はフィルネアというそうです」
必要なものはマギカルト鉱石。真昼はしっかりとその名前を頭に刻む。使用人とかいう人の名前もしっかりと記憶しておく。まずはその人物と会うことが初めの目標だろう。
「とても大変なこととなりますが、どうぞ頑張ってください」
眞麗は一度深くお辞儀をする。真昼はこんな眞麗を見るのは初めてだった。
「まぁ、なんとかやってみるよ。祖父さんが作ったっていうなんかすごいものもあるし」
真昼は眞麗に、そして自分に言い聞かせるように言うと、扉の前に立つ。
そこで疑問に思った。
「あれ? もしかして眞麗さんは来ないの?」
「私は行きません」
「……なんで?」
「私は行かないからです」
頑なだった。その言動から絶対に行かないオーラが出ていた。
腑に落ちない真昼に、眞麗はいつの間にか玄関から持ってきた真昼の靴を渡す。
「真昼様頑張ってください。じゃないとまたニート生活に逆戻りですよ。仕事が自分からやってくるなんて、そうそうない事なんですから死ぬ気で頑張ってください」
「うるせーよ! お前は一言多いんだよ!」
手渡された靴を履くと、真昼は再度異世界に足を踏み入れた。