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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

女騎士さん「暗殺を頼まれたが見も心も奪われていた」

作者: きらと

登場人物


レオナルド・ディ・マルシアーノ

若くして王位継承権を持つ残酷な獣王の素質を秘めた王子。


イザベラ・デ・カステリオーネ

名門カステリオーネ家の出で、戦場に名を馳せた女騎士。強靭な誇りを持つ。


ヴァレンティーナ・ディ・マルシアーノ

先王の后で、レオナルドの義母。

冷酷な野心家であり、美貌と妖艶さで多くの貴族を手玉に取る。


ロドルフォ・ベルフィオーレ

王妃に忠誠を誓う老宰相。

策士だが最後は王妃と共に粛清される。






 イザベラ・デ・カステリオーネが、まだ騎士として叙任される以前のことだ。

 陽だまりの中で剣を握る少年――幼き王太子、レオナルド・ディ・マルシアーノの背を遠巻きに見守っていた少女は他でもない、イザベラだった。

 彼女は生まれながらにして剣を握る宿命を与えられた名門の令嬢であり、幼き王太子の影として仕えるべく養育されてきた。

 薄青い瞳に映る王家の血脈を、誰よりも純粋に美しいものだと信じていたのだ。

 小さな手に革巻きの木剣を握り締め、初めての構えを見せたあの日──

 王太子の金糸の髪が風に揺れ、その横顔がふとこちらを見たときイザベラの心はわずかに高鳴った。

「……イザベラ、剣の構えはこうで良いのか?」

 振り返った声が、まだ幼いのに堂々としていて、可愛らしくも恐ろしいほどの威を宿していた。

 イザベラは咄嗟に膝を折り首を垂れる。


「はい、レオナルド様。その御構えは大変お見事にございます……」

 唇が自然に敬語を紡ぐ。

 生まれた時からそう叩き込まれたのだと、思えば滑稽だった。

 しかし、その時のイザベラの胸には確かに、柔らかな陽光のような忠誠と、女として言い表せぬ微かな期待が芽生えていた。

 ――この御方の剣となり、御方の盾となり、

 ――いつか、ただ一度でいい、あの小さな手に触れて頂けたなら。

 それは叶わぬ乙女の戯言であり、女騎士の誇りにとっては毒であった。

 だが彼女の物語はもうすでに、この幼き王太子の眼差しによって運命づけられていたのだ。

 二人が初めて顔を合わせたあの日から、はや六年の歳月が流れ去った。

 かつて金の巻き毛を汗で濡らしながら木剣を振るっていた小さな王太子──レオナルド・ディ・マルシアーノは、今では臣下を睥睨する若狼の瞳を隠しもしない。

 一方で、イザベラ・デ・カステリオーネもまた少女を卒業した。

 あの春、十六の年を迎え、今や誰の目にも立派な娘盛りである。

 王都では十で嫁ぐ娘も珍しくない。

 士族の女とて、二十を迎える前に跡継ぎを産めなければ行き遅れと囁かれ、密やかな憐れみの視線が向けられる。

 ――わたくしも、いつかは誰かの妻となるのだろうか。

 鎧を脱ぎ捨て、たった一人の夜伽をする自分の姿をイザベラは想像したことがない。

 いや想像できないほどに、彼女の血肉は主君であるレオナルドに捧げられていた。

 その御方を差し置いて、誰の腕に抱かれよう。

 そんな思いが胸を焦がし、膨らみ始めた乳房が鎧の下で密かに疼くたびに、誰にも言えない小さな罪悪感が彼女を苛んだ。

「……いけない、わたくしはただの剣。御方の剣であれば、それで……」

 誇りを守るために幾度となく胸を叩き、夜半に口を噤む。

 けれど遠く玉座の間で、少年から男へと成長したレオナルドが他の娘と笑みを交わすのを見れば――

 彼女の奥底で、白く熱い何かが密かに芽吹いていくのだった。

 レオナルド・ディ・マルシアーノは、甘い言葉を弄ぶ王子ではなかった。

 美しい唇から恋の囁きを受けたことは一度もない。

 だがイザベラ・デ・カステリオーネは、それでこそ御方だと誇りを抱いていた。

 彼女はただの女ではない。

 王太子が剣を振るう時、盾となり、刺客が忍び寄る夜には一歩先んじて刃を捨てさせた。

 どの臣下よりも近くでその威厳と冷徹を知る者として――

 愛の言葉など不要だった。

「イザベラ、お前に任せれば間違いはない」

 その一言がどんな恋の吐息よりも甘く、騎士としての血肉を震わせた。

 実家のカステリオーネ家は、さすがに伊達に名門を名乗ってはいない。

 娘が若く王太子の側に侍る。それだけで家の威信は絶えず磨かれ続けた。

 娘が側室の座を得れば――と、誰もがどこかで望んでいたに違いない。

 だが誰も口にはしなかった。

 家族も、親族も、イザベラ自身も。

 彼女がまだ一度も花嫁衣裳を着ていないことなど、あたかも小さな誇りとして誰も咎めはしなかった。

 ――わたくしは、御方にとって何なのでしょう。

 その問いだけが夜更けの甲冑の下、少女の心を蝕む毒であった。

 先王が崩御してから、王都の奥深くでは、静かに毒のような噂が流れ始めていた。

 ――王妃ヴァレンティーナ・ディ・マルシアーノは、老宰相ロドルフォ・ベルフィオーレを愛人として抱えている――

 貴族の奥方が後添えも持たずに愛人を囲うことなど、帝国では珍しい話ではない。

 だが、よりにもよって相手が宰相。

 亡き王の代わりに執政を支えるべき者が、夜ごと玉座の寵を貪っているとあれば――

 それは臣下たちの忠誠を揺らがせる、甘く危うい火種であった。

 イザベラ・デ・カステリオーネの耳にも、侍女や下働きの陰口は届いていた。

 王妃の寝所から夜更けに男が密かに出入りする姿を見た者がいるだの、王妃が枕元で漏らした情事の声が階下の廊下に響いただの――

 真偽は霧の中だったが、そんな噂すら、もはや権力闘争の序章に過ぎなかった。

「……いよいよ御方と王妃様の刃が交わるのだわ」

 冬の朝、城壁の上で白い吐息を零しながら、イザベラはそっと唇を噛んだ。

 玉座を巡り、血の証を持たぬ義母と正統なる王太子。

 選ぶまでもない。

 彼女はいつかレオナルドの剣として、王妃の血を刃に宿すことになるのだろう。

 胸の奥の微かな恐怖は、吹き付ける冷たい風に攫われた。

 その代わりに確かに芽生えていたのは――

 ――御方を奪われはしない。

 そんな、女としての浅ましい執着だった。




 冬の終わりの冷たい曇り空の下。

 王城の奥庭に足を踏み入れたイザベラ・デ・カステリオーネは、背後に落ちる靴音に微かに眉を動かした。

「――イザベラ」

 艶のある低い女声が、背を撫でるように響く。

 振り返れば、緋色のベルベットを纏った王妃ヴァレンティーナ・ディ・マルシアーノが、冬薔薇の咲き残る垣根の前に立っていた。

 彼女は相変わらず年齢を感じさせぬ麗しさをまとい、噂通り、瞳の奥には妖しい湿り気が滲んでいた。

「王妃様……何か御用にございますか?」

 すぐさま膝を折ろうとしたイザベラの手首を王妃の白い指がするりと掴む。

「いいのよ、今は二人だけ。そんなかたくならずとも……貴女も女でしょう?」

 耳許に吐息を落とされイザベラは息を呑んだ。

 いつも遠巻きに仰ぎ見る高貴な后が、間近で香水の甘さを纏わせている。

 胸元の開いたドレスの奥、滑らかな白い胸の谷間が不自然に熱を帯びて見えた。

「……お戯れを」

「ふふ……。可愛い子」

 王妃は柔らかくイザベラの頬を撫で、そこから声を潜めた。

「レオナルドは貴女を信頼しているわね。私には手を触れさせもしないのに……」

 その指が頬から首筋へ滑り落ちるたび、背骨に薄い寒気が這い登る。

「……イザベラ。王太子を……狩りなさい」

 吐息混じりの言葉が胸の奥に突き刺さった。

「……な、何を仰せに……?」

「私の願いを聞いてくれるのなら、貴女の望みをすべて与えてあげるわ。側室の座でも、私の後ろ盾でも……何だって。」

 甘い毒を含んだ囁きは、冬の冷気さえ熱く溶かすようだった。

 イザベラの指先が微かに震える。

 心のどこかであり得ないとわかっていた。

 だが――

(……もし、御方を失えば、わたくしは……)

 王妃は、その弱さを鋭く見抜いていたのかもしれない。

 冬の朝霧が森の奥をうっすらと覆っていた。

 遠くで猟犬の声が微かに響いては、白い息の中に溶けていく。

 狩りの名目で森へ分け入ったレオナルド・ディ・マルシアーノと従うはただ一人――

 銀鎧に獣皮を纏った女騎士、イザベラ・デ・カステリオーネだけだった。

「子供の頃を思い出さないか」

「はい。そうですね」

 鹿の影を追い、深い木立の奥へ。

 やがて二人の吐息だけが世界の音になる。

「……殿下」

 矢筒に手を掛けたままイザベラは、背中に声を掛けた。

 レオナルドが振り向く。その金の髪が光を帯び鋭い蒼の双眸が彼女を射抜く。

「……イザベラ、どうした」

 誰もいない。誰も見ていない。

 これほど近くにいるのに、これほど遠い御方へ――

 言葉が喉で熱く渦巻き、震えた唇から溢れた。

「……わたくし、殿下を……御方を……お慕い申し上げております」

 一瞬、レオナルドの眉が僅かに動く。

 女騎士は怯まず、深く頭を下げた。

「そして、もう一つ。……王妃様から、御方を狩れと命じられました」

 風が止む。

 森の奥で囀る小鳥の声さえ途切れた気がした。

「……何?」

「はい。ですが――わたくしは、命を曲解いたします」

 イザベラはゆっくりと近づき、鎧の手袋を外し白い指で御方の胸元にそっと触れた。

「御方を……女として、狩ります」

 震える吐息を纏いながら、見上げる瞳は決して嘘を孕まない。

「そして戻り、王妃様にご報告申し上げます。御方を狩り果たしたと……そうお伝えして」

 そこまで言い切ったとき、イザベラの背筋を強く抱き寄せる腕が伸びた。

 レオナルドの指先が彼女の顎を掬い、吐息が触れ合うほど近くで低く囁かれる。

「それが……お前の忠か」

「……はい。殿下は、近衛を率いてあの女の下へ。その瞬間に王妃様の陰謀は潰え、すべて御方のお手で捕縛できます……」

 彼の唇が微かに歪む。それは獣のような笑みだった。

「……面白い。女として、俺を狩る? なら、ここでその忠を示せ」

 霧深い森の奥で、女騎士の誇りは静かに剣ではなく、甘やかな裏切りに変わろうとしていた。

 霧が深く沈む森の奥。

 イザベラ・デ・カステリオーネは、目の前にいるただ一人の王を見つめたまま、そっと長い睫毛を伏せた。

 胸の奥が焼けるほどに熱い。

 けれど震える声だけはまっすぐに、御方の前で誇りを失わぬように。

「――殿下……」

 ごくりと息を飲む音が二人だけの世界にやわく溶けていく。

「わたくしは……ずっと……御方を、愛しておりました」

 白い吐息が零れ、唇がかすかに戦ぐ。

 柔らかな鎧の下、剣を握ってきた手が、今はただ御方の胸元を掴んで離さない。

「この命……兄が家を継ぎますゆえ、わたくしは……殿下の剣として、また……女として……」

 瞳を閉じ、伏せた睫毛から透明な雫が落ちる。

「いかようにでも……お使いくださいませ……」

 言い切った刹那。

 レオナルドの冷たい指先が頬を撫で、顎を掬う。

 震える吐息ごと唇が奪われた。

 甘く、苦しく、刹那に背骨まで熱が駆け抜ける。

「――忠義も、女も。お前は最初から俺のものだ」

 熱く噛むような唇が重なり、森の奥で獣の咆哮にも似た愛が交わされようとしていた。

 唇を塞がれたままイザベラ・デ・カステリオーネの両の腕が、鎧越しにレオナルド・ディ・マルシアーノの背にそっと絡んだ。

 これまで幾度も、この御方を背に守ってきた。

 剣を構え血を浴び、誰よりも近くにいた――

 けれど、こうして御方の熱を肌に受けるのは初めてのことだった。

「……殿下……」

 甘い吐息が漏れる。

 唇が離れ、薄く開いた瞳に王太子の鋭い青が静かに笑んだ。

「……嬉しいか?」

 低く囁かれるだけで、イザベラの喉奥が熱を帯びて震える。

「……はい……」

 短い返事は剣としての言葉ではなく、一人の娘の素直な声だった。

 剣ではなく、盾ではなく――ただの女として。

「……嬉しゅうございます……」

 頬を濡らした雫が、レオナルドの指先で拭われる。

 その瞬間、鋭い支配も残酷な命令もなかった。

 あるのはただ二人だけの絆。

 イザベラは初めてこの御方の腕の中で、騎士ではなく女として震えすべてを委ねた。

 夜ではなく、まだ朝の霧の奥――

 けれど彼女には、いまこの瞬間がどの戦場よりも甘美で、そして生涯忘れ得ぬ戦いのように感じられたのだった。

 白い霧がゆっくりと溶けていく森の奥で、イザベラ・デ・カステリオーネはまだ少し熱の残る体を細く震わせていた。

 若き王太子――レオナルド・ディ・マルシアーノの胸に抱かれたまま、乱れた髪を耳にかき寄せそっと唇を落とす。

 御方の鼓動が鎧ではなく裸の胸を通して確かに伝わる。

 ずっと夢のように憧れた場所。

 いつか盾として命を落とすことしか想像できなかったのに――

 今は彼の腕に抱かれ、生きて愛されている。

「……嬉しい……」

 小さく、誰にも聞こえないほどの声で呟く。

 まるで御方にすがるように、ぬくもりを胸に刻んだ。

 やがてレオナルドがゆっくりと体を起こす。

 鎧の下で再び王の顔を取り戻しつつある姿に、イザベラの胸はまた熱くなった。

「……殿下、お待ちくださいませ」

 彼女はすぐさま身を起こすと、木の幹に掛けてあった王太子の上衣を手に取り、膝立ちで主の肩へそっと掛ける。

 冷えた指先が少しでも御方の肌を冷やさぬように。

「……お一人でお召しになられてはなりませぬ。これより御方の近衛として、また……侍女同然の心でわたくしがお仕えいたします」

 衣を整え、緩んだ帯を結び直し、髪のほつれを指で梳いていく。

 甲斐甲斐しくも慎ましく――だが、その指先には誇らかな愛が宿っていた。

 レオナルドはそんな彼女をじっと見下ろしていたが、やがて低く笑った。

「……可愛い獣だ。イザベラ、お前がこうして俺を整える姿が、一番いい」

 その言葉にイザベラは恥じらいと幸福を頬に滲ませた。

 ――この身は剣であり、御方の獣であり、そして今はたった一人の女として。

 イザベラ・デ・カステリオーネの新たな誓いが、静かに霧の森に溶けていった。





 王宮の奥、陽の射さぬ謁見の小間。

 白い壁に重く垂れる緋の幕が女の背徳を覆い隠していた。

 イザベラ・デ・カステリオーネは、その部屋の中央で跪いていた。

 掌には赤黒く血に染まった王太子の上衣――

 もちろんその血は鶏のもの。

 しかし遠目には疑いようもなく、王子の生血の証だった。

 その前に座すのは、妖艶な微笑を浮かべた王妃ヴァレンティーナ・ディ・マルシアーノ。

「……して、終わったのね?」

 絹の声が、底冷えのようにひややかだった。

 イザベラは瞳を伏せ、そっと血染めの衣を捧げ持つ。

「御意にございます。御方は、もうこの世には」

 わずかに肩を震わせる演技も忘れない。

 王妃の瞳が息を呑むように一瞬揺らいだ。

 だが次の瞬間、その奥に隠しきれぬ熱と狂気が滲んだ。

 「……ふふ……そう。……そう……これで、すべて私のもの」

 白い指がゆっくりと血の匂いに濡れた衣を撫でた。

 陶酔するように目を細め、やがて瞳を開く。

「イザベラ。貴女は知らぬでしょう。あの子は私を欲さなかった。王の死後、どれだけ床を共にしようと求めたことか……それでもあの子の心には別の女がいたのよ」

 声が艶を帯びて震える。

「許せなかった。王の血を継ぐあの子が、私を女として見ないなど。代わりに私を見下す男達には、すべて与えてやったのに……」

 イザベラの胸が淡く疼く。

 その女の執念がどれほど冷たい権力よりも粘ついていたかを、目の前でまざまざと突き付けられていた。

「……陛下が私を拒んだのも、貴女のせいでしょう? 貴女がいたから……! ……殺して正解だったわ」

 その瞬間、王妃の指先がイザベラの顎を掴む。

 真珠のように白い指先が血の衣を触ったまま彼女の頬を汚す。

「可愛い騎士さん……お前も、今宵が最後」

 妖艶な微笑みが毒牙のように迫る、その刹那、廊下の向こうから甲冑の軋む音が響き始めた。

 指先にべっとりと付いた血の赤を、王妃ヴァレンティーナ・ディ・マルシアーノは舌先で舐め取るように拭った。

「――あの子が最後まで求めていたのは、貴女なのよ、イザベラ」

 低くくぐもった声が蝋燭の影のように床に染み込む。

 イザベラ・デ・カステリオーネは、演技の面を張り付けたまま目を瞬かせた。

「……え……?」

 喉がひくりと鳴った。

 堅牢な騎士の仮面が一瞬で崩れ、少女の素顔が形もなく滲み出す。

「殿下が……わたくしを……?」

 唇が震え、赤い瞳孔がわずかに揺れた。

 これだけは演じることなどできなかった。

 主の心が己に向けられていたと――

 いくら愛を交わした後であっても、その真実はなお信じがたいほど甘く、痛いほど信じたかったものだった。

 王妃はその狼狽を見て喉奥で妖艶に笑った。

「……あぁ、可愛い。忠義の仮面の下には、滑稽な夢見る娘が隠れていたのね」

 白い指が血の付いた顎を掬い上げる。

「良い顔だわ。……その顔が、あの子の血を以て泣き崩れる様を見たかったのに……残念ね……」

 細く笑む紅い唇。

 その笑い声は、獲物を追い詰めた女狐の、それだった。

 だが――

 その背後の扉が、甲冑の金属音を伴って重く開かれる音がした。

 女騎士の紅い瞳に揺るぎない青が映る。

 血に濡れた衣がひたりと床に落ちた。

 紅い絨毯を踏みしめる甲冑の音が玉座の間を貫く剣のように響く。

「――母上、随分とお楽しみのようだな」

 低く、しかし絶対の威圧を孕んだ声。

 王妃ヴァレンティーナ・ディ・マルシアーノの白い頬から笑みがごそりと剝がれ落ちた。

「れ、レオナルド……!? まさか……まさか……!」

 揺れる視線の先で、王太子レオナルド・ディ・マルシアーノは一歩ずつ玉座の前へ進む。

 黒革の手袋を外し、その右手をそっと差し出した。

「イザベラ」

 名を呼ばれた女騎士は、まだ跪いたまま動けなかった。

 血の偽装も芝居も、全てが霧散した瞬間――

 御方が生きて在るだけで胸が詰まる。

 しかしその手は騎士をただの女としても、また忠実なる剣としても温かく掬い上げる。

「――立て。お前が膝を屈するなど誰が許した」

 その言葉にイザベラの頬を涙が伝った。

 主の手に導かれ、膝をついていた体が静かに起き上がる。

 そしてレオナルドは、見下ろす王妃に向けて氷のような声を落とした。

「膝をつくべきは忠義を知る騎士ではない」

 玉座の間に近衛の剣が煌めく。

「膝をつき、這いつくばるべきは……欲に溺れた下衆な淫売の方だ」

 王妃の唇が震え、糸を引くような嗚咽が漏れた。

 その時、玉座の獣は、もはや誰にも従わぬ王となった。

 王妃ヴァレンティーナ・ディ・マルシアーノは、その名を残したまま王妃の地位を剥奪された。

 高い石造りの塔。

 かつては先王の隠れ家だったその場所が、いまや彼女の終の棲み家となった。

 絹の衣も宝石も奪われ、錠を下ろされた小さな窓から、彼女は遠い王都の光をもう二度と手にできぬものとして眺める。

 誰も慰めに訪れず、誰も涙を注がない。

 それは誰の記憶にも残らぬ孤独だった。

 一方で新たな王、レオナルド・ディ・マルシアーノは、あらゆる陰謀の根を断つために粛々と取り調べを行い、腐り切った宰相も、口先だけの忠臣も一人残らず剣の下に沈めた。

 その傍らには、いつも銀の騎士――

 いや、いまは正妃となったイザベラ・デ・カステリオーネが寄り添っていた。

 重ねた夜は幾度あったか。

 剣を手放した柔らかな指が、今では王の書簡に花を添え、夜毎、王の胸を撫でて眠りに落ちる。

「……殿下……いいえ、陛下……お身体を冷やされませぬよう……」

 微笑む銀の妃にレオナルドは疲れを滲ませぬ強い腕で応えた。

「……お前がいれば余は冷えぬ。」

 小さな寝室に、子供の小さな寝息が重なる頃。

 王国は血ではなく、温かな絆の中で新たな朝を迎えていった。

 塔の奥で朽ちゆく元王妃のことなど、誰一人として思い出すことはなかった。

 それが、かつての獣王と銀の騎士が選び取った甘く、優しく、誇り高い、幸福の形だった。




 高く閉ざされた石の塔。

 かつて玉座を支配した女の華は、今や孤独と冷たい夜気に濡れていた。

 誰も慰めに来ない。

 誰も王妃と呼ばぬ。

 けれど――ただ一人だけが、その扉を開ける。

 レオナルド・ディ・マルシアーノ。

 かつて我が子と呼んだ獣王が、夜更けに忍び込むたび、ヴァレンティーナ・ディ・マルシアーノの白い肌は熱を取り戻す。

「……レオ……今宵も……来てくれたのね……」

 囁きは、もう后の誇りなど欠片も無い。

 荒く吐息を漏らし、乱れた髪を爪で梳きながら、彼女はただ獣の欲望を受け入れる。

 だがその熱に愛はなかった。

 王太子――いや、すでに王となった獣は、彼女を愛でるために来るのではない。

 欲望を捨て、罰を与えるために来るのだ。

 その冷たく硬い腕に抱かれるたび、彼女は夢のような幸福に縋る。

 この胸に愛が戻るのだと、都合よく信じたふりをして。

 だが終われば獣王は無言で衣を纏い、振り向きもせずに扉を閉ざす。

 この幽閉こそが裏切りの報い。

 この褥こそが彼の慈悲なき罰。

 ヴァレンティーナは今宵も塔の窓辺で月を仰ぐ。

 鍵の開く音だけを狂おしく待ち続けながら。

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