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第九話

 翌日の夕方、太陽は吉川のアパートまで車で向かえに行った。車は実家の車を借りた。


 吉川は事務所に来るときは違って私服でアパートから出てきたので、太陽はまるで見知らぬひとに会ったときのような気恥ずかしさと緊張を覚えた。


 目的地に着いたのは、吉川のアパートを出てからだいたい二時間半くらいが過ぎた頃だった。途中で思わぬ渋滞に巻き込まれてしまって予定よりもかなり時間がかかってしまったのだ。おまけに目的地に着く直前になって太陽は道に迷ってしまった。太陽もこうしてホタルを観に行くのはかなり久しぶりのことだったので、記憶がかなりあやふやになっていたのだ。


 太陽はやっと思いで目的地に辿り着くと、道端の隅に車を停車した。そして予定していたよりもかなり時間がかかってしまったことを吉川にまず謝った。すると、吉川は小さく笑って、

「そんな謝らなくてもいいですよ」

 と、言った。

「車のなかで泉谷さんと色々話せて楽しかったし」

 太陽はもう一度謝ってから車を降りた。


 車を降りると、微かに緑の匂いがした。それ一緒に川の流れる音も聞こえた。


 太陽と吉川が今居る場所は、ダムの入り口の手前にあるちょっとした山のなかだ。未舗装の道の両側には鬱蒼とした木々が生い茂っている。右側の斜面の下には小さな川が流れているのが見えた。


 太陽と吉川は少し道を歩いて川辺まで降りると、川沿いに沿ってしばらく歩いていった。確か太陽の記憶ではここからもうちょっと歩いたさきにホタルを目にすることができる場所があるはずだった。


 やがてふたりはその場所に辿り着くと、川辺に腰を下ろした。


 もうすっかり日は暮れてしまっていて、ホタルが飛んでいればすぐにわかるはずだった。


 が、いくら待ってもそれらしき光はひとつも現れなかった。


 そのうちに太陽はだんだん不安になってきた。自分がこの場所でホタルを目にしてからもうかなりの歳月が流れてしまっている。だから、もしかしたらそのあいだにホタルはいなくなってしまったんじゃないか、と、太陽は心配になった。


 それから五分ほどの時間が経過したが、やはり闇に変化は見られなかった。


「もしかしたらもうおらんくなってしまったのかもしれへんな」

 と、太陽はとなりに座っている吉川の横顔に視線を向けると苦笑して言った。


「・・・もう帰ろうか?」

 と、太陽は申し訳なくなって座っていた川辺から腰を浮かして言った。わざわざ時間をかけてここまで来てもらってそれでホタルを見ることができないなんて悪いことをしたな、と、太陽は後ろめたくなった。


 すると、吉川は腰を浮かしかけた太陽の顔に視線を向けて、

「もうちょっと様子を見てみましょうよ」

 と、笑顔で言った。

「わたし、子供の頃に何回も観にいったことがあるからわかるんですけど、ホタルって見に行ってすぐに見ることができるのじゃないんですよ。そのときどきによってタイミングがあって」


 太陽は吉川の言葉を聞いて、立ち上がりかけていた態勢から再び川辺に腰を下ろした。


 それから太陽と吉川はしばらくのあいだ黙って闇を見つめていた。静けさのなかに蛙の鳴き声や虫の鳴き声がくっきりと聞こえた。夜空を見上げると、大阪の都心に比べて暗い空に、小さな星たちが何かを囁き合うように淡い光を放っているのが見えた。そんな光を見ているうちに太陽はふと昔のことを思い出しそうになった。それは遠い昔の何かだったけれど、具体的にそれがなんなんのか太陽は結局思い出すことはできなかった。


「・・・お兄ちゃんって今頃なにしてるんだろう」

 吉川がそう言ったのは、それからたいぶ経ってからのことだった。それは太陽に話しかけているというよりも、心に思ったことをそのまま口にしただけのように感じられた。だから、太陽は黙っていた。太陽が黙っていると、吉川は静かな口調で話続けた。

「ここでこうしてると、最後にお兄ちゃんとふたりでホタルを見に行ったときのことを思い出すんですよね」

 と、吉川は口元に思い出の名残のような微かな微笑を浮かべて話した。


「あのときもなかなかホタルは見られなくて・・・それでずうっとふたりで何も見えない暗闇を眺めてたんです」

「そうなんや」

 と、太陽は答えようがなかったのでただ相槌を打った。


 それからまたしばらくの沈黙があって、その沈黙のなかに川の水の流れる音が淡々と響いた。ときとぎ川沿いの木々の葉が風にそよぐ音も聞こえた。


「実はわたし、お兄ちゃんが家を出て行く直前にお兄ちゃんと喧嘩しちゃったんですよね」

 と、いくらかの沈黙のあとで吉川は苦笑するように口元を綻ばせて言った。

「なんで喧嘩したん?」

 と、太陽は吉川の顔に視線を向けると、微笑して訊ねてみた。すると、吉川は振り向いて太陽の顔を見ると、困ったように軽く笑った。そしてそれから、

「大したことじゃないんです」

 と、短く答えた。

「確かわたしがその当時大事にしてた玩具をお兄ちゃんが誤って壊しちゃったとかそんなことで」

「それで喧嘩になったん?」

 と、太陽が水を向けると、

「喧嘩になったっていうか、わたしが一方的にふてくされただけ」

 と、吉川は視線を正面に戻しながら微苦笑して答えた。


 それから、吉川は軽く目を伏せるようにして話続けた。少し哀しそうな声だった。

「お兄ちゃんはちゃんと謝ってくれたんですけど、でも、わたしなぜかそのときむきになっちゃって・・・お兄ちゃんのことを許してあげなかったんですよね。一週間くらい口をきかなくて」


 太陽は黙って吉川の話に耳を傾けながら、自分も過去に何度か経験したことのある兄妹喧嘩を思い出した。太陽もひとり妹がいて、幼い頃はよく喧嘩した。


 太陽の思考の外で吉川は話続けた。

「それでいい加減、もうお兄ちゃんのことを許してあげようかなって思った頃、お兄ちゃんは家からいなくなっちゃったんです。昨日も話したと思うけど、お兄ちゃん、お父さんと喧嘩してそれで・・・」

 吉川は眼差しを伏せたままそう語った。彼女の瞳のなかにはそのときの状況を思い出しているかのような淡い光があるように太陽には思えた。


「・・・だから、すごく心残りなんですよね」

 と、吉川は言った。

「なんであのときもっと違う接し方ができなかったんだろうって思う」

 と、吉川は小さな声で言った。


 太陽は吉川の科白にどう返事をしていいのかわからなくてただ曖昧に相槌を打っただけだった。

「わたし、最近、ときどき、意味もなくそういうことを考えちゃうんですよね」

 と、吉川はしばらくのあいだ黙っていてからポツリと言った。

「・・・たぶん、寂しいんでしょうね」

 と、吉川は言ってから自嘲気味に弱く笑った。

「彼氏と別れちゃったし・・あとそれ以外にも色々・・仕事のこととか」


 太陽はそう言った吉川の言葉に何か答えようと思って口を開きかけたけれど、でも、それは上手く言葉になっていかなかった。


「たまに」

 と、吉川は続けた。

「すごく苦しくなることがあるんです。自分っていう存在がばらばらにほどけてなくなってしまうような・・上手くいえないけど、そんな大袈裟な孤独感みたいなのがあって・・結局、それは自分に同情してるだけだし、甘えているだけなんだってわかってるんだけど・・でも、どうしようもなくて」


「なるほどな」

 と、太陽は吉川の言葉に頷いた。吉川の言っていることは太陽にもわからなくはなかった。太陽も吉川ほどではないにしても、そういった上手く言葉にすることできない不安や孤独感を感じることはしばしばあった。


 この先の自分の将来のことや、生き方について考えると、太陽は自信が持てなくなってしまうことがよくあった。この先自分はどうしていけばいいのだろうと途方に暮れてしまうことがあった。


 ただ太陽の場合は家に由梨がいて、ひとりきりになるということがないので、そこまで極端に気持ちが沈みこんでしまうといことはなかった。くだらないことで言い争いになったりして一緒にいて楽しいことよりもむしろ煩わしいことの方が多いような気もするのだけれど、しかし、そういった煩わしいことさえも、どこかである種の救いとなっているような気が、太陽はした。仕事のストレスや意味のない孤独感から、由梨との日常が、自分を守ってくれているように太陽は感じた。


 考えてみると、自分は知らないところで随分と由梨という存在に救われているんだな、と、太陽は今はじめてそのことに気がつかされた気がした。太陽はふと久しぶりに由梨の顔が見てみたくなった。由梨の声が聞きたいなと思った。


「・・・すみません。突然わけのわからないこといって」

 吉川はふと何か気がついたように俯けていた顔を上げて太陽の顔を見ると、いくらかぎこちなく口元を笑みの形に変えて言った。

「いや、そんなことないで」

 太陽は笑って答えた。

「俺も吉川さんみたいに落ち込むことはあるし、吉川さんの気持ちは少しはわかるで」

 と、太陽は吉川の顔に視線を向けると、微笑みかけて言った。


「でも、大丈夫やって」

 と、太陽は特に根拠もなく笑って断言した。

「吉川さんは今彼氏と別れたばっかりで色々寂しいと思うけどや、またすぐいいことあるって。たぶん、そのうちにお兄ちゃんもなんでもない顔して帰ってくるで」


 吉川はそう言った太陽の顔を少しのあいだいくらか不思議そうに見つめていたけれど、やがて小さく口元を綻ばせて頷いた。

「ありがとうございます」

 と、吉川は静かな声で言った。

「ほんとにそうなるといいけど」

 と、吉川は淡く哀しみが透けて見えるような、それでもいくらかは救われたような小さな笑みを浮かべて頷いた。

 



 ホタルが現れたのは、それから少し経ってからだった。


 それまで何も見えなかった暗闇のなかに、突然、淡い緑色の、小さな光が二つ現れたのだ。


 それは掌にそっと包んで守りたくなるような、とても静かで優しい光だった。まるで生まれたての希望のような。


 ふたつの光は互いに重なり合ったり、すれ違ったりしながら、どこかぎこちなく、何かを捜し求めるように闇のなかをしばらくのあいだ彷徨っていた。二匹のホタルが通り過ぎたあとには、束の間、まるで闇のなかににじむようにうっすらと光の奇跡が残った。


 やがてホタルが林のあいだに姿を消してしまったあとでも、そのホタルが闇に描いた美しい光の奇跡は、太陽と吉川の意識のなかに、何かこだまするように余韻を伴って留まり続けた。







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