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第八話

 吉川美穂が事務所を去る日がいよいよ三日後に迫り、その日の夜は彼女のために少し早めの送別会を開くことになった。


 事務所の近くにある居酒屋で飲み、終電の時間もあるので、十二時少し前には送別会はお開きになった。


 吉川はその日は少し飲みすぎたようで足元がおぼつかなかった。吉川は笑って平気だと言ったが、心配になった太陽は彼女を家の近くまで送っていくことにした。彼女をアパートまで送っていくと、自分のアパートまで戻る電車はなくなってしまうのだが、幸い、彼女の住んでいる駅から少し離れた場所には自分の実家があった。そこまでなら歩いていける。最悪タクシーを使うこともできるだろうと太陽は考えた。


「今日はちょっと飲み過ぎちゃいましたね」

 と、吉川はアパートまでの道を歩きながら、酔って赤くなった顔で微笑して言った。

「みんなに飲まされとったもんな」

 と、太陽は吉川の側について歩きながら微笑して答えた。


 涼しい夜風が吹いていて気持ちが良かった。


「引越しの準備とかは順調に進んでんの?」

 と、太陽はふと思いついて尋ねてみた。すると、吉川は太陽の顔を見て、

「一応なんとか」

 と、微かに口元を綻ばせて答えた。

「だから、今、すごく部屋汚いんですけどね」

 と、彼女は続けて言うと少し笑った。

 それに合わせて太陽も軽く笑った。


「でも、なんか引越しに合わせてちょっとずつ部屋が片付いていくと寂しくなりますよね。この部屋で色んなことがあったなぁって」

 と、彼女は静かな口調で語った。


 太陽は彼女の言葉に相槌を打ちながら、自分も過去に何度か経験したことのある引越しのことを思い出した。がらんと荷物のなくなってしまった部屋と、そこで過ごしたたくさんの時間。


「・・・東京に行っても頑張ってな」

 と、太陽は数秒間黙っていてから言った。

 そう言った太陽の言葉に吉川は、

「ありがとうこざいます」

 と、口角を微かに持ち上げて淡い笑みを作って礼を述べた。


 それからしばらくのあいだふたりは黙って並んで通りを歩いた。住宅街のなかの静かな通りを水銀灯の光がぽつんぽつんと間隔をあけて照らしていた。途中に空き地があって、そこに生い茂った草が風に揺れる音が聞こえた。夜空には明るい月が浮かんでいた。淡い黄色の、目に優しいような光だった。


「泉谷さんとこうして一緒に歩いてると、昔、家出して、それでそのあとにお兄ちゃんに向かえに来てもらったときのことを思い出しますね」

 と、いくらかの沈黙のあとで、吉川は口を開くと懐かしそうな口調で話し出した。


「わたし、小さいときに、親と喧嘩して、それで家の近くの公園でずっと何時間もひとりで過ごしたことがあったんです。そのうちだんだん暗くなってきて、心細くなってきて。そしたら親に言われたのか、お兄ちゃんが向かえに来てくれて。わたし、泣きながら今みたいにお兄ちゃんと一緒に並んで家まで帰ったことがあるんです。・・・だから、そのときのことを思い出しますね」

 と、吉川は口元にいいわけするような小さな笑みを浮かべて話した。


「吉川さんってお兄ちゃんおったんや」

 と、太陽が訊くと、

「ひとりいます。七つ年上のお兄ちゃんが」

 と、吉川は短く答えた。何故か、そう答えた彼女の口調はどことなく寂しそうにも感じられた。


「なんとなく似てるんですよね。泉谷さんって。お兄ちゃんに」

 と、吉川はそう言うと、何かが可笑しいというように軽く笑った。

「顔が似てるっていうんじゃなくて・・・その受け答えの仕方とか、雰囲気とか」

「そうなんや」

 と、太陽は答えようがなかったのでただ頷いた。それから、

「その吉川さんのお兄ちゃんっていまどうしてんの?」

 と、ふと気になって尋ねてみた。

「茨城におんの?」


 そう言った太陽の言葉に、吉川は小さく頭を振った。そして少しのあいだ黙っていてから、

「わたし、お兄ちゃんが今どこで何してるのか全然知らないんですよね」

 と、吉川は心持眼差しを伏せるようにして告げた。

「お兄ちゃん、わたしが小学校六年生のときに、父親と大喧嘩して、それで家を飛び出していっちゃったんです。それでそれっきり・・・」


「そうなんや」

 と、太陽は驚いて頷いた。それから、何が原因でそんな家を飛び出していくような大喧嘩になってしまったのだろうと気になった。でも、そんなことを訊いてもいいかどうかわからなかったので太陽は黙っていた。すると、吉川はそんな太陽の疑問を察したように、

「お兄ちゃん、進路のことで親ともめてたみたいなんです」

 と、説明した。


「これはあとになって、親から聞いたんですけどね」

 と、吉川は付け足して言った。

「うちの家って自営業やってて、でも兄は他にやりたいことがあったみたいで・・・だから、意見がどうしても合わなかったみたいで」


「なんかドラマみたいな話やな」

 と、太陽は微笑して感想を述べた。

「そうですね」

 と、吉川は太陽の感想に小さく笑って頷いた。


 それから、吉川は夜空に浮かんでいるもの静かな月の光に目を向けると、

「お兄ちゃんと一緒に過ごした時間のなかで今でも印象に残ってるのは夏休みがはじまる少し前の夜ですね」 

 と、少ししんみりとした口調で言った。

「わたし、夏休み前に、お兄ちゃんに、家の近くの、ホタルが見れるところまで連れていってもらったんです。・・・その少しあとにお兄ちゃんいなくなっちゃたから。だから、きっと印象に残ってるんだと思うんですけど」


 そう言った吉川の言葉をやわらかく包むように少し冷たい風が吹き抜けて行った。また空き地の草が風に揺れる音が聞こえた。


 太陽は吉川の話に何て感想を述べたらいいのかわからなかった。だから、太陽は言葉を探して黙っていたけれど、やがて吉川が口にしたホタルという単語からふと思いついて言った。


「この前の話やないけど、明日や、ほんまにホタル観にいかへん?」

 と、太陽は感想を述べる代わりにそんなことを口にした。太陽は吉川の話を聞いているうちに、本当に彼女にホタルを見せてあげたくなったのだ。

「吉川さんの地元みたいにたくさんのホタルは見られへんかもしれへんけど、でも、ちょっとやったら見れるし」


 吉川は太陽の突然の提案にちょっと驚いた様子だったけれど、やがて、

「いいですね」

 と、太陽の顔を見ると、笑顔で頷いた。






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