第五話
次の週の月曜日、吉川美穂は事務所を休んだ。
太陽がとなりのデスクの寺西浩二に彼女が何故会社を休んでいるのかと尋ねてみると、寺西はパソコンの画面を観たまま「なんか風邪ひいたみたいやで」と、どうで良さそうに答えた。
太陽は吉川が風邪で休んでいるという話をきいてひとまず納得したものの、少し気がかりだった。先週、吉川は今度の日曜日、つまり昨日だが、恋人に会うと言っていた。そしてそのときに彼女は恋人が自分のことをどう思っているか訊いてみると話していた。だから、もしかしたら、そのことと、彼女が今日事務所を休んでいることとは何か関係があるかもしれないと太陽は心配になったのだ。
吉川に自分のことをどう思っているか恋人に訊いてみた方がいいとアドバイトをしたのは太陽だ。だから、そのことで彼女が精神的に傷つくような結果になってしまったのだとしたら、太陽は自分のせいだと申しわけなく感じた。あんな余計なアドバイスなんてするべきじゃなかったかもしれない、と、太陽は後悔した。
太陽はよっぽど、吉川に確認の電話を入れようかとも思ったのだが、しかし、彼女はほんとうに風邪で休んでいるだけかもしれないと思ったので思いとどまった。もう少し様子を見てみようと太陽は考え直した。
しかし、次の日になっても彼女は出勤してこなかった。寺西は風邪が長引いているくらいにしか考えていないようだったが、太陽はますます落ち着かない気持ちになった。
そしてその次の日もまた彼女は事務所を休んだ。
心配なった太陽は思い切って彼女に電話をかけてみることにした。さすがに三日続けて休むということは彼女に何かあったんじゃないかと太陽は不安だったのだ。
太陽が吉川に電話をかけると、吉川はほんとうに風邪で喉が枯れたような弱々しい声で電話にでた。
「もしもし。吉川さん?俺、泉谷やけど。事務所の連絡網を見ていま電話してんねんけどな。大丈夫?」
太陽が電話口でそう言うと、わずかな間があって、
「すみません」
と、彼女は申し訳なさそうに謝った。
「今、忙しい時期なのに休んじゃって・・・みんなに迷惑かけてしまって」
「そんなことやったら大丈夫やで」
と、太陽は彼女の科白に笑って答えた。
「もうだいたいピークは過ぎてるし、あとはなんとかなるって」
太陽は彼女に気を使わせないようにと思ってできるだけ明るい声で言った。
「それより、風邪は大丈夫なん?」
と、太陽は続けて言ってみた。
「もしかして風邪で死んでるんちゃう?」
と、太陽が冗談めかして言うと、
「ありがとうございます。でも、なんとか大丈夫です」
吉川は微かに苦笑するように笑って答えた。
「一人暮らしだから、色々大変な部分もあるけど、なんとか生きてますよ」
「吉川さん一人暮らしなんや」
太陽は吉川に同情して言った。太陽も一人暮らしをしていた経験があるので、一人暮らしで風邪をひいたときの辛さはよくわかった。
「あれやったら会社帰りに必要なもの買っていってもいいけどな」
太陽が心配になってそう申し出ると、吉川は、
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
と、穏やかな声で答えた。
「それに泉谷さん、わたしの家、わからないですよね」
と、吉川は付け加えて言うと、少し可笑しそうに笑った。
「それもそうやな」
と、太陽は吉川につられるようにして少し笑った。
それから、わずかな沈黙のあと、
「今日はわざわざ電話してくれありがとうございます」
と、吉川はいくぶん改まった口調で言った。
「泉谷さんのおかげでちょっと元気でた気がする」
吉川は微笑みを含んだような明るい声で言った。
「たぶん明日には出勤できると思います。ほんとに、今忙しいときなのに迷惑かけてすみませんでした」
「いや、そんなかしこまらんでもええで」
と、太陽は軽く笑って答えると、お大事にと言って電話を切った。
吉川が思っていたよりも元気そうだったので太陽は少し安心した。太陽は吉川が失恋のショックでもう二度と立ち上がれないほど激しく落ち込んでしまっているんじゃないかと心配だったのだ。でも、それはどうやら自分の思い込みだったようだと太陽はホッとした。
吉川は昨日電話で話していた通り、翌日には事務所に出勤してきた。風邪のせいで頬のあたりがやつれてしまったような印象はあったが、それでもだいぶ回復したようでその表情は明るかった。
吉川はまるで休んでいたぶんの遅れを取り戻そうとするようにバリバリと仕事をこなした。吉川はもともと優秀な人間だったが、その日は寺西の三倍くらいのスピードで仕事をこなした。
吉川はほかの事務所の人間が帰ってしまってもなかなか帰ろうとはしなかった。三日間仕事を休んでしまったことに負い目を感じているのか、吉川はこちらか不安になってしまほどもくもくと仕事をこなした。
太陽もその日はひとつ片付いていない仕事があって残業をしていたのだが、吉川があまりも熱心に仕事をしているので心配になって声をかけた。
「吉川さん、まだ病み上がりやのにそんなに仕事したら、また風邪ぶりかえすで」
と、太陽が笑って声をかけると、吉川ははじめて太陽がそこにいることに気がついたように顔をあげて太陽の顔を見ると、
「でも、わたしずっと休んじゃってたから、そのぶん働かないと」
と、口元を少し綻ばせて答えた。
「そんな頑張らんくても大丈夫やって」
と、太陽は吉川を安心させるように微笑して言った。
「続きはまた明日やっても大丈夫やって」
と、太陽は続けて声をかけると、
「俺も切のいいところまで仕事終わったし、今日はもう帰ろうや」
と、太陽は声をかけた。
すると、吉川は迷うようにパソコンの画面に視線を戻すと、しばらくしてからまた太陽の顔に視線を戻して、
「そうですね」
と、苦笑するように微笑して頷いた。
太陽と吉川は一緒に事務所を出ると、駅までの道を一緒に歩いた。
穏やかな夜風が吹いていて気持ち良かった。
最近は夜になってもそれほど気温が下がることがない。適度に暖かい夜はどことなく親密で優しく感じられる気がする。もうすぐそこまで夏が近づいてきているように感じて、太陽はわくわくした。それは子供の頃感じた、夏休みが待ち遠しいような感覚に似ている気がする。特に何の根拠もなく、これから何か楽しいことがはじまりそうな予感がする。
「もうすぐ夏やな」
と、太陽は歩きながら吉川に話かけた。すると、吉川は太陽の方を振り向いて、
「そうですね」
と、微笑んで頷いた。
「わたし、夏って暑いけど、何か楽しいことがありそう気がして、好きなんですよね。だから、早く夏にならないかなって待ち遠しい」
吉川は楽しそうな笑顔で続けてそう言った。
二人は途中にある公園を抜けていくことにした。途中に小さ公園があるのだが、そこを抜けていくと駅までの距離を短縮できるのだ。
公園には人影はなかった。
いくから強い風が吹いて、公園の木々の葉が風にそよぐ音が聞こえた。足元には何日か前に降った雨のせいで水たまりができていた。その水たまりには水銀灯の冷たいような白い光が静かに溶け込んでいた。
「夏になったら、ここで花火したいよな」
と、太陽は歩きながらふと思いついて何気なくそんなことを口にした。すると、吉川は振り向いて太陽の顔を見ると、
「でも、こんなところで花火したら警察に怒られませんか?」
と、可笑しそうに口元を綻ばせて言った。
「ここって結構街なかだし」
「大丈夫やって」
と、太陽は特に根拠もなく笑って断言した。
「でも、いいですね。花火。やりたいかも」
吉川は歩きながら微笑んで言った。
「花火っていったら線香花火やよな」
と、太陽は言った。
「線香花火か」
と、吉川は小さな声で太陽の言葉を反芻すると、
「でも、線香花火って静かできれいだけど、何か寂しい感じがしますよね」
と、言った。
「残された最後の何かが少しずつ燃え尽きていこうって感じがする」
「確かな」
と、太陽は吉川の言葉に軽く頷きながら、線香花火が夜の暗闇のなかに吸い込まれるように静かに消えていく光景を想像した。
それから、少しの沈黙があって、その沈黙のなかに公園を歩くふたりの足音がただ静かに響いた。
「大阪って、ホタル、見ることってできますか?」
いくらかの沈黙のあとで、吉川は口を開くとふと思いついたように言った。
「ホタル?」
と、太陽は吉川が口にした単語があまりにも唐突だったので、少し奇異に思って尋ね返した。すると、吉川は、
「いや、わたしの地元だと夏になるとホタルが見れるんです。わたしの地元ってかなり田舎だから。だから、ここでももしかしたらホタルって見れるのかなって思いついて」
と、いいわけするよう微笑して続けて言った。
「残念ながらここらへんでは見られへんなぁ」
と、太陽は吉川の科白に笑って答えた。
「でも、田舎の方にいけば少しは見れるで」
と、太陽はしばらくしてから思いついて答えた。実際に太陽が通っていた大学の近くではホタルを目にすることができた。
「見てみたいなぁ」
と、吉川はホタルが目の前を飛んでいるところを想像しているのか、どこか遠い場所を見るような目つきをして言った。
「じゃあ、いつか連れてたってもいいけどなぁ」
と、太陽が微笑して言うと、
「ほんとですか!?」
と、吉川はお愛想なのか、それとも本気で言っているのか、はしゃいだ声を出した。
そのうちにふたりは駅に辿り着いた。太陽と吉川は乗る電車がそれぞれ異なるので中央改札口の前で別れることになった。
太陽が吉川に「じゃあ」と、言って背を向けて歩いていこうとしたところで、吉川がいくらか唐突に、
「この前、彼氏と別れることになりました」
と、告げた。
太陽が突然の告白に驚いて吉川の顔を振り返ると、
「やっぱり彼氏、もうあんまりわたしのこと好きじゃないみたいです」
と、吉川は哀しそうな笑顔で言った。
太陽がどう答えたらいいのかわからなくて戸惑っていると、
「泉谷さんには相談に乗ってもらったから、ちゃんと報告しておいた方がいいかなと思って」
と、吉川は弁解するように微笑して付け足して言った。
それらから、いくらかの沈黙があって、たくさんのひとが慌ただしく行きかう音が周囲に聞こえた。太陽はしばらくしてから、
「もしかして彼氏と別れたから、この前休んでたん?」
と、気になって尋ねてみた。すると、吉川は、
「正直、それもありますね」
と、苦笑するように微かに口元を綻ばせて答えた。
「覚悟はしてたつもりだったんですけど、やっぱりちょっとショックが大きくて」
「ごめん。俺が余計なアドバイスせんかったら良かったな」
と、太陽は申しわけなくなって言った。すると、吉川は微かに首を振った。それから、吉川は太陽の顔を見て、
「いいんです。これでスッキリしたし」
と、いくらか無理に笑顔を作って答えた。
それから、吉川は少しのあいだ黙っていから、
「わたし、この前も話したと思うけど、やっぱり東京に行こうと思います。今の会社辞めて」
と、続けて話した。
「そうなんや」
と、太陽はただ頷いた。突然のことに上手く言葉がでてこなかった。
「といっても、会社にはまだ何も言ってないから、実際に東京に行くのはまださきのことになりそうですけどね」
吉川は付け足して言うと、軽く笑った。
太陽は吉川の言葉にしばらくのあいだ黙っていてから、
「じゃあ、今度吉川さんの送別会せんとかあかんな」
と、冗談めかして言った。
すると、吉川はそうですねと、どこか寂しそうに微笑して頷いた。それから吉川は「それじゃあまた」と、言って、太陽に軽く会釈をすると、背を向けてそのまま歩いていった。
太陽はしばらくのあいだ遠ざかっていく吉川の背中をぼんやりと見送っていた。