第三話
寺西浩二はさっきからずっと仕事をサボッてネットサーフィンを続けている。そして時折となりのデスクにいる太陽に意味もなく話しかけてくる。
太陽は段々イライラしてくる。こっちは納期が迫っている図面が思うように進んでいなくて焦っているのだ。そんなくだらないことでいちいち話しかけてくるなと太陽は心のなかで思う。しかし、そんなことはとても口に出しては言えない。かりにも寺西浩二は先輩にあたる人間だ。寺西の話しにそうですねと適当に頷いて愛想を振りまくしかない。
しかし、それにしても、と、太陽は思う。このひとはいつ見てもちゃんと仕事をしているときがないな、と。いい加減にしか仕事をしないイメージがある。そして何かにつけて自分の仕事を太陽に押し付けてくる。悪いけど、ちょっとこれやっておいてくれよ、と。
今の図面が思うように進んでいないのも、もとはといえば寺西のミスが原因なのだ、と、太陽は腹が立つ。
だいたい寺西は太陽よりも五つ年上で妻と子供がいる。そんなことでいいのか、と、太陽は寺西に説教したくなる。もっと下の人間の見本となるような行動を取らなければいけないんじゃないのか。
だけど、こんなふうに寺西のことを不愉快に感じてしまうのは、何も寺西のせいばかりではないな、と、太陽は一方でわかっていた。
寺西が仕事をしないのはいつものことだし、それに太陽はべつに寺西のことが嫌いというわけではない。勤務態度はあまり褒められたものではないけれど、ひととしてはいいひとだ。親しみが持てると思う。
たぶん、こんなふうに感情が泡だってしまうのは、昨日の由梨のせいだ、と、太陽は思った。昨日あれから太陽は結局由梨とは何も口をきかないまま朝を迎えてしまった。その後味の悪さというか、釈然としかない気持ちが太陽は今もずっと続いていた。
太陽はパソコンに向かって仕事を続けながら、次第に思うように仕事に集中することができなくなってきた。太陽はとなりでアダルトサイトを見ている寺西にちょっと一服してきますと声をかけると、座っていた椅子から立ち上がって、屋上に向かった。
太陽は屋上に出ると、洋服の胸ボケットからタバコの箱を取り出した。そしてそこからタバコを一本取り出して口にくわえると、ライターで火を点けて一口吸った。
一応事務所内は禁煙になっているので、タバコを吸うときはこうして屋上にでなければならない。
屋上からは大阪の街のはずれの景色を望むことができる。それほど背の高くない、どちらかといえば地味でくすんだ色をした建物が思い思いの場所に散らばって立っている。
天気はよく晴れていて、薄く、優しい水色をした空に、小さな雲がぽつんとぽつんと間隔をあけて浮かんでいた。
思えば、こうしてゆっくりと空を眺めてみたのは久しぶりのことだった。空気を吸い込むと、微かに甘いような匂いがする。夏の匂いだ、と、太陽は思った。
太陽は少し、大学生だった頃のことを思い出した。
あの頃は楽しいことがたくさんあった。はじめて誰のことを真剣に好きになったのも大学生のときだった。結局、その恋は実らず、片思いのままに終わってしまったのだけれど。
そういえば自分がタバコを吸い始めたのは、その失恋が原因だった、と、太陽はほろ苦い気持ちで思い出した。どんなに太陽が相手のことを思ってもその気持ちは届かず、太陽が落ち込んでいると、友達がタバコを進めてくれたのだ。ちょっとは気持ちが楽になるよ、と。
それまで太陽はタバコを吸いたいと思ったことなんて一度もなかったのだが、そのときからやめることができなくなってしまった。
と、太陽がそんなふうに思い出に浸っていると、背後にある屋上のドアが開いて誰かが歩いてきた。振り向いた太陽は一瞬ドキリとした。そこに一瞬、昔自分が片思いしていたひとが立っているような気がしたからだ。
でも、それはもちろん錯覚で、そこに立っていたのは吉川美穂だった。
「泉谷さんもここだったんですか」
と、吉川は太陽の顔を見ると、笑顔で言った。
太陽は咄嗟に上手いリアクショクが取れずに曖昧な返事を返した。
吉川は太陽のとなりまで歩いてくると、洋服のポケットからタバコの箱を取りしだした。
「吉川さんもタバコ吸うんや」
と、太陽が意外に思って呟くように言うと、吉川は苦笑するように小さく笑って、
「最近、ムシャクシャすることが多くて」
と、言い訳するように答えた。
吉川はタバコの箱からタバコを一本取り出すと、口にくわえてライターで火をつけた。そしてそれから美味しそうに軽く目を細めて一口吸った。
「ムシャクシャするってやっぱり彼氏のことが原因なん?」
と、太陽は自分もタバコを口元に運びながらなんとなく尋ねてみた。すると、吉川は横目で太陽の顔を見て、
「そうですね」
と、苦笑するように笑って頷いた。
「・・・あとそれ以外にも色々」
と、吉川はタバコを吸いながら付け加えて言った。
「色々って?」
と、太陽が気になって尋ねてみると、
「うーん」
と、吉川はどう答えたらいいのか迷うにように唸った。そしてそれから少しのあいだ考えるように黙っていたけれど、
「たとえばこのままでいいのかなって」
と、口を開いて言った。そう言った彼女の声はどことなく寂しそうにも響いた。
「わたしいま派遣社員だけど、でも、ずっと派遣社員を続けていくつもりはなくて・・・ほんとうはもっと大きな建築事務所で働くのが夢なんですよね」
と、吉川はそう言うと、自分の言葉を冗談に紛らわすように微かに笑った。
「彼氏が大阪の会社に就職したから、わたしもなんとなく大阪の会社に就職したんですけど、でも、わたし東京にある大きな会社で働いてみたいんですよね。東京の方が色々チャンスもありそうな気がするし・・それにもともとわたし関東圏の出身だし」
「そうなんや」
と、太陽は吉川の話に相槌を打ちながら、いつだったか彼女が自分は茨城県出身だと話していたことを思い出した。大阪には大学進学で出てきたと彼女は話していた。
「でも、そう言われると、俺もこままでいいのかなって思ってしまうな」
と、太陽は吉川の科白に共感するでもなく微笑して言った。
「結構今の仕事って楽やし、それなりの給料もらえるから、ついそれに甘えてしまってる自分がいる気がするな」
と、太陽は苦笑して言った。
「ほんとうは今頃有名な建築家になってる予定やってんけどな」
と、太陽は冗談めかして言うと少し笑った。
その太陽の笑い声に誘われるようにして吉川も少し笑うと、
「でも、今からでも遅くないんじゃないですか?」
と、明るい表情で太陽の顔を見て言った。
「今からでも頑張ったら有名な建築家になれるかもしれませんよ」
「そうやなぁ」
と、太陽は曖昧に頷いてタバコを吸った。
「でも、最近はほんまに何も勉強してへんからなぁ」
太陽は自嘲気味な笑みを浮かべて言った。
いつの間にそうなってしまったのか、かつて大学生くらいの頃まであった夢や理想を追う気持ちが、今ではほとんど消えかかってしまっていることに、太陽は自分で気がつかないわけにはいかなかった。
ただ日々の、目の前のことをこなすことだけで精一杯で、いつの間にか建築家になりたいという夢がどうでもよくなってきている。太陽の本来の予定であれば、今頃は一級建築士の資格を取っているはずだった。それが現実は一級建築士の資格を取るどころか、その勉強さえしていない。太陽は何か後ろめたい気持ちになるのと同時に、焦りを覚えた。
「・・・俺も吉川さんを見習わんとあかんな」
と、太陽は少しの沈黙のあとで微笑して呟くように言った。
吉川はそう言った太陽の顔を振り向くと、
「って、わたしもまだ何もしてないですけどね」
と、言ってから可笑しそう軽く笑った。
それから吉川はふいに表情を消して正面に向き直ると、
「・・・今度の日曜日、彼氏に会うことにしました」
と、吉川はいくらか唐突に宣言した。
太陽が何の話だろうと思って吉川の言葉の続きを待っていると、
「昨日、泉谷さんに相談したとき、泉谷さん、彼氏にちゃんと言った方がいいって言ったじゃないですか?だから、今度会ったとき言ってみるつもりなんです。わたしのことどう思ってるか・・・」
吉川はそこまで言葉を続けると、太陽の方を振り向いて、
「・・・でも、たぶん、答えははじめからわかってるんですけどね」
吉川は続けて言って、いくらか寂しそうに小さく笑った。
「彼氏に会うのは一ヶ月半ぶりくらいだし、最近はあんまり連絡とかも取ってないし・・・だから、はじめから答えはわかってるようなものなんですけど・・・でも、その方が自分としても気持ちがすっきりしていいかなって思って」
吉川はそう言ってから、口元でいくらかぎこちなく微笑んだ。
太陽はどう言うべきかわからなかったので黙っていた。
「・・・それで自分の気持ちに区切りをつけることができたら」
と、太陽が黙っていると、吉川は言葉を続けた。
「わたし、東京に行こうと思ってるんです。今の会社辞めて、最初から頑張ってみようかなって」
「そっか」
と、太陽は頷いた。
弱い風が吹きすぎていった。
それは顔を俯けた吉川の髪の毛をそっと靡かせていった。
「でも、まだわからへんやん」
と、太陽は少し経ってからからかうように言った。
「彼氏と別れることになるかどうか」
太陽がそう言うと、吉川は俯けていた顔をあげて、いくらか怪訝そうに太陽の顔を見つめた。
「東京に行くのを決めるのは、今度彼氏と話をしてからでもいいんちゃう?」
と、太陽は吉川の顔を見てできるだけ優しい口調で言った。
すると、吉川は、
「そうですね」
と、少し寂しそうな、でも、いくからは救われたような小さな笑みを浮かべて静かに頷いた。
「いずれにしても、吉川さんにとっていい結果がでるように祈ってるわ」
と、太陽は微笑みかけて言った。