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第一話

「このあとってちょっと時間あります?」


 そう遠慮がちに声をかけられたのは、仕事を終えてふたりで事務所を出たときだった。


 泉谷太陽はちょっとドキリとして、となりに居る吉川美穂の顔を見つめた。


 吉川美穂は三ヶ月程前から太陽の勤めている建築事務所で働いてくれている。彼女は大手派遣会社の社員で、べつに同僚というわけではない。確か歳は太陽よりも三つ下で、二十四歳だったはすだ。


「べつに大丈夫やけど、でも、なんで?」

 と、太陽は平静を装って彼女の言葉に答えた。


 吉川美穂は、太陽の好みのタイプだった。その色が白くて、華奢な身体つきや、円らで優しそうな瞳は、太陽が大学生のときに片思いをしていたひとを彷彿とさせる。だから、太陽はどうしても彼女と接していると、まるで昔好きだったひとと一緒に居るようで落ち着かない気持ちになってしまう。こんな女の子とつき合えたらいいのにな、と、思ってしまわずにはいられない。


 自分には付き合ってから四年目になる恋人がいるというのに、こんなことを思ってしまうなんて間違っているな、とは思うのだが、しかし、太陽はそんな自分の気持ちをどうすることもできなかった。


「ちょっと泉谷さんに相談したいことがあって。・・・だから、もし良かったらこのあとご飯でもどうですか?この前ボーナス入ったし、相談に乗ってくれたら、わたしおごりますよ」

 と、彼女は小さく笑って言った。


「マジで!?」

 と、太陽は大袈裟にリアクションを取ると、

「じゃあ、何奢ってもらおうかな」

 と、冗談めかしていいながら、彼女の誘いに応じることにした。


 少し、今つき合っている恋人に対して後ろめたい気持ちにならないわけではなかったが、しかし、これくらいのことは許容範囲の内だろうと判断した。それに、吉川美穂が相談したいことがあると言っているのに、それを断ってしまうなんて冷たいじゃないか、と太陽は自分の気持ちにいいわけした。べつに疚しいことをするわけじゃないのだから、と。





 太陽が勤めている建築事務所は、ケータイ販売店店舗の図面を書くことを主に手がけている。太陽はまだこの会社に入って三年目だ。以前は大学の先輩に紹介されて入った小さな建築事務所で働いていた。が、太陽が働きはじめて一年あまりでその事務所は倒産してしまい、その後、太陽は半年あまり無職の状態を経て今の会社に再就職した。


 今の会社の仕事は、以前勤めていた会社の仕事に比べるとはっきり言って楽だ。営業が取ってくる店舗の図面をただこなすだけでいいので、納期さえ守っていればかなり余裕を持って仕事をすることができる。しかも、店舗の図面というのはおおよそのパターンが決まっているので、あれこれ頭を悩ませる必要がない。


 以前勤めていた事務所は小さいがらも個人の家を扱っていたので、色々と難しい部分が多かったし、少人数で仕事をするのでどうしても徹夜の作業になることが多かった。しかし、今の会社では全くそういうことがない。


 むしろ、真面目に仕事をするとすぐに仕事が終わってしまうので、経営側に暇だと思われないために、わざと仕事をのろのろとやったりするくらいだ。


 ただ、時期によっては、今の吉川美穂のように、派遣会社からひとを借りてきて手伝ってもらわないと業務をこなせない場合もある。


 今日は来週までに仕上げなければならない図面が思うように進んでいなくて残業になってしまった。ふと太陽が気がついたときには他の同僚はみんなさきに帰っていなくなってしまっていた。吉川美穂だけがひとり残って仕事をしていた。


 吉川さんも残業?と太陽が不思議に思って声をかけてみると、彼女は、ほんとうはもっと早く帰れるはずだったのだが、途中で自分のミスに気がついて、仕事をいちからやり直さなければならなかったのだ、と、苦笑まじりに説明した。


 太陽は彼女の科白に頷くと、自分はもう帰るけどどうするかと訊いた。すると、彼女は、自分も今日はもう切がいいところまで終わったので帰ることにすると言った。


 そういう経緯でふたりは今日一緒に事務所を出ることになったのだが、その帰り際に、太陽はまさか吉川に相談をもちかけられるとは思ってもみなかった。



 ふたりは事務所を出ると、少し歩いて深夜まで営業しているカフェに入った。


 太陽は注文を取りにきた店員にハンバーグのセットを注文し、吉川は軽く悩んでからドライカレーのセットを注文した。


 ふたりは程なくして運ばれてきた料理を口にしながらなんでもない世間話のようなことを話した。最近急に暖かくなってきてもうすぐ夏だねといった話や、この前見たDVDの感想。


 考えてみると、太陽が吉川とこんなにたくさん話したのははじめてのことだった。会社の飲み会や仕事中に何度か言葉を交わしたことはあったものの、今のようにゆっくり話しをたことはなかった。


「それで、俺に相談したいことってなんなん?」

 太陽は料理を食べ終わり、食後のコーヒーが運ばれてくると、頃合を見計らって冗談めかして言った。いつまで待っても吉川が相談ごとを口にする様子がないので、自分の方から話しを振った方が吉川としても切り出しやすいのかなと太陽は思ったのだ。


「仕事のこと?」

 と、太陽が訊くと、吉川は軽く首を振った。そしてちょっと躊躇ってから、

「実は恋愛のことでちょっと相談したいことがあって・・・」

 と、いくらか話しづらそうに言った。


「仕事のことじゃないんや」

 と、太陽が意外に思って呟くように言うと、

「あの、こういうのって迷惑ですか?」

 と、吉川は不安そうに太陽の顔を見つめて言った。

 太陽は軽く笑うと、俺でよかったらいくらでも相談に乗るで、と、おどけた口調で言った。


 すると、吉川は少し安心したように微笑して頷いて、

「わたし、昔、泉谷さんに彼氏居るって話したことありましたよね?」

 と、言った。

 

 太陽は彼女の言葉に頷いた。いつだったかそんな話をしたことがあった。会社の休憩時間中に世間話をしていると、同僚の一人がみんなは恋人はいるの?と突然言い出して、お互い恋人がいる、いない、といった話をしことがあった。


 そのとき、自分には大学のときから長く付き合っている恋人がいると吉川が話していたことを太陽は覚えていた。


「もしかして彼氏と上手くいってへんの?」

 と、太陽は吉川の顔に視線を向けると、からかうように言った。

 すると、吉川は苦笑するように小さく口元を綻ばせて、

「実はそうなんですよね」

 と、いくらか寂しそうな声で太陽の問を肯定した。


「そうなんや」

 と、太陽は相槌を打つと、洋服の胸ポケットからくしゃくしゃになったタバコの箱を取り出して、そこから一本タバコを取り出して口にくわえた。

「なんでなん?」

 と、太陽は尋ねてみた。

「もしかして喧嘩とか?」

 喧嘩なら太陽もしょっちゅうしている。


 すると、吉川は軽く首を振って答えた。

「べつにそういうわけじゃないんです。・・・ただ、なんとなく、最近彼氏が冷たいような気がして」

 吉川は伏し目がちに眼差しを落として言った。


 太陽はどう答えたらいいのかわからなくて曖昧に相槌を打った。


「もしかしたらただの気のせいかもしれないんですけど、でも、なんか不安なんですよね」

 と、吉川は太陽が黙っていると続けて言った。

「・・・このまま彼氏との距離が開いていって、それで終わっちゃうのかなって思うと」

「そうなんや」

 と、太陽は頷いた。沈んでいる吉川の顔を見ていると、太陽は彼女のことがかわいそうになってきた。

「でも、ただの気のせいやと思うけどな」

 と、太陽はなんとか吉川を元気づけてあげたくて言った。


「吉川さんって今の彼氏と付き合いはじめてから何年目やったけ?」

 太陽は少し間隔をおいてから訊ねてみた。すると、吉川は、

「もう、四年目ですね」

 と、短く答えた。

「それやったら倦怠期なんかもな」

 と、太陽は言った。

 すると、吉川は表情を曇らせて、

「でもなんか、そういう感じとも違う気がするんですよね」

 と、心細そうな声で言った。


「彼氏とはもう付き合ってから長いから何回も倦怠期みたいなのはあったけど、でも、今回はそういう雰囲気とは違う気がして」


「そっか」

 太陽は頷くと、口にくわえていたタバコにライターで火を点けて吸った。吐き出した煙は何かを探し求めるようにゆっくりと店内に広がっていく。太陽はなんとなく自分の吐き出した煙の行方を目で追った。


「でも、そんなに悩んでるんやったら、思い切って彼氏に言ってみたら?」

 太陽はしばらくしてから言った。

「最近、なんか冷たくないって?そしたら原因がはっきりしてすっきりするんちゃう?」

「・・・そうなんですけどね」

 と、彼女は太陽の意見に少し顔を俯けて頷いた。そして五秒間ほど黙っていてから、

「でも、なんかい怖いんですよね」

 と、ポツリと言った。


「・・・わたし、彼氏のことが結構本気で好きだから、もしそうやって言って、別れが確定的なものになっちゃったらって思うと。だから、怖くて言えないんですよね」


「なるほどなぁ」

 と、太陽は頷いた。どう返事をしたらいいのかよくわからなかった。太陽は自分が手にしているタバコから立ち上っていく煙の行くへをぼんやりと見つめていた。


「・・・だけど、なんかおかしなものですよね」

 太陽が黙ってアドバイトを考えていると、吉川は自嘲気味な笑みを浮かべて言った。太陽は自分の手元に落としていた視線を吉川の顔に戻した。


「わたし、最初、今の彼氏のことそんなに好きじゃなかったんです。だから、最初に彼氏に告白されたときとか全然付き合う気とかなくて・・・でも、彼、わたしが振っても、何回もわたしに告白してきてくれて・・・それでそのうち段々なんか彼のことがかわいそうになってきちゃって」


「それで付き合うことにしたんや?」

 と、太陽が微笑して尋ねると、吉川は苦笑するように笑って頷いた。

「でも、いつ間にか立場が逆になっちゃってるんですよね」

 と、吉川は付け加えて言うと寂しそうに少し笑った。


 店の自動のドアが開いて、新しく客が入ってくるのが見えた。社会人風の男女のカップルだった。


 太陽はタバコをもう一口だけ吸うと、その手にしていたタバコの火を灰皿で押しつぶす

ようにして消した。そしてもう残り僅かになっていたコーヒーの残りを飲み干してしまうと、

「でも、やっぱり彼氏に確認してみた方がいいと思けどな」

 と、太陽はできるだけ優しい口調でさっきと同じことを繰り返して言った。


「吉川さんが怖いと思う気持ちはわかるけど、でも、今みたいに中途半端な状態でだらだら続くのも辛いと思うし、もしかしたら単純に吉川さんの勘違いかもしれへんし。いずれにしても訊いてみないことにはなにもはじまらへんと思うで」

 と、太陽は率直な意見を述べた。


 すると、吉川は、

「・・・やっぱりそうですね」

 と、何かを諦めるように微笑して頷いた。それから彼女は顔を俯けると自分の想いをまとめるように黙っていたけれど、やがて顔をあげると、

「なんか今日はありがとうございました」

 と、いくらか改まった口調で言った。そう言った彼女の顔には何か決意にも似たさわやかな表情が浮かんでいるように太陽には感じられた。

「泉谷さんに話してちょっとすっきりした気がする」

 と、吉川は微笑んで言った。

「泉谷さんってなんか話しやすいですよね」

 と、吉川は親しみのこもった微笑を口元に広げて続けて言った。


「いや、べつにそんなこともないけどな」

 と、太陽はちょっと照れ臭くなって曖昧に笑って答えた。

「とりあえず、わたし、今度思い切って彼氏に訊いてみることにします」

 吉川は迷いのなくなった明るい表情でそう宣言した。


 


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