保健室であなたを
小さな頃から、それは僕の世界に存在していた。あそこにある花、かわいいね。そう言って指さした先を母親は不可思議な顔をして見つめた。花なんて、どこにあるの。そう言って母は僕の腕を強い力で引っ張ったのだった。
同年代の子たちと同じ様にミニカーや戦隊アニメにハマっても、その花は視界の端に確かにあった。それを何故か僕は毎回目に留めてしまうし、だんだんとそれが他の花と違うことも悟った。小学生になると、僕は誰にもその花を見ても誰にも言わなくなった。自分以外誰にも見えないその花を、なぜ自分だけが見ることができるのか、その不可解さだけがずっと心に刺さっていた。
花は、常に同じ見た目をしているというわけではなかった。むしろ、図鑑で見るような花であることも多かった。家の前に咲いているシロツメクサを見つけ、これなら皆にも見えるだろうと思って弟に言ったところ、何も生えていないよと不審そうにされたことを思い出す。
あ、このシロツメクサも僕以外には見えないんだ。なんでだろう。小さい頃は怖くて、その花に触れようとは思わなかった。中学生になると、忙しさでその花たちの存在をあまり気にしなくなった。
次に僕がそれを見たのは、高校一年生の時だった。
部活の先輩に恋をして、でもその先輩に彼氏がいたことを友人から聞いてしまった、そんな夏の日だった。僕だってそりゃあ健全な男子高校生だし、普通にめちゃくちゃ落ち込んだし、正直泣きかけた。あっけなく終わった初恋の後に、むしゃくしゃを吹き飛ばすために一番遅くまで居残り練をした。最後になったので部室に鍵をかけて、職員室に返して、その帰りだった。
紫の綺麗なラベンダーに、目をひかれたのだった。
直感した。これは、僕にしか見えないあの花の類なのだと。小学校時代に図書館で花の図鑑をあさっていたので、ラベンダーの時期からは八月が少しずれていることも知っていた。
久しぶりに見た気がして、僕は思わずそのラベンダーに近づいていた。花言葉は、なんだっけ。忘れてしまった。初めて、僕はその花に触れた。そして灼けるような痛みに反射的に手を離した。なんだこれ、慌てて手を見ると、赤く腫れていた。火傷みたいだ。なんだこれ。
ひりひりと痛む左手をさすっていると、不意に教室の窓がガラッと開いた。やべ、下校時刻過ぎてるって怒られるかも。急いで背を向けようとすると、それを引き留めるような声がかけられた。
「待って!君・・・怪我、してない?」
それで、僕はその白衣の人を視界に入れた。ああ、保健室の先生かな。それが僕とその人との出会いだった。
「もう、どんなところで火傷なんてしたんだか」
「・・・ちょっと、色々あって」
まさか「花を触って火傷しました」なんて言えるわけもなく、僕はその保健室の先生に大人しく手当をされた。入学してから四か月、怪我をしたことがなかったのでこんな校舎の外れに保健室があったと知らなかったのだ。
先生は、優しそうな風貌に黒縁眼鏡をかけていて、立ち上がると思ったより背が高く、それによく似合う白衣が目を引いた。いかにも、な保健室の先生である。
先生は手早く僕の左手の火傷を手当してくれた。痛みも治まり、そこに冷えピタを貼られる。
「そんなにひどくはないから、家に帰ったらこれは剥がしてね。大丈夫だとは思うけど、痛みがぶりかえしてきたりしたら、無理せずに病院に行って」
「ありがとうございました、あの・・・」
「ああ、下校時刻?怒らないよ。先生にも黙っててあげるから」
そう言っていたずらっぽく唇に指をあてて、先生は笑って見せた。笑うと目が細まって、子どもみたいに見えた。再度僕は頭を下げて、保健室を後にした。
振り返ると、やっぱり僕にしか見えないラベンダーはそこに咲いていた。
次の日保健室に忘れ物をしていたことに気が付いた僕は、部活後ラベンダーを目印にまた先生に会いに行った。案の定先生には少し笑われてしまったが、今は他に生徒がいないからといってお茶までいれてくれた。
今日は最終下校時刻まで時間があるから、と先生は言った。僕はなんとなく安心できる先生の空気にのまれて、ぽつぽつととりとめのない話をした。時折頷きながら聞いてくれるのに話をどんどん引き出されてしまっていた。保健室の先生は、すごいなあ。
ふと窓の外を見ると、ラベンダーが目に入った。触れただけで僕の手を焼いたあの花は、素知らぬ顔で風に揺れている。
「先生」
「ん、なに?」
「あの・・・ラベンダーって、好きですか」
突拍子もなさすぎる質問だ。なんでこんなことを言ってしまったんだろう。先生もびっくりしたように目を見開いて、それからまたすぐ穏やかな表情になって窓の外をぼんやりと見やった。
「そうだね・・・匂いは好きだよ。実家の母がそういうのが好きだから、たまに芳香剤が送られてくるし」
そういえば、うちのトイレもラベンダーの香りだなあ、なんてふと思い出した。
「花っていうのは・・・何かを引き付けるために、呼び寄せるために造られているんだよ」
「虫に花粉を運ばせるため、ですよね」
「それに惹かれるのは虫だけじゃなくて人間も、だなんてなんだか自分たちが虫になっちゃったみたいだね」
「別に・・・花を綺麗だと思ってもいいと思います」
先生は僕のほうに目をやった。
「君は・・・花は好き?」
「嫌いじゃ、ないです」
まあ、火傷はさせられたけど。不思議と嫌悪感は抱かない。
「そう、」
先生はそう言ってふわりとほほ笑んだ。
僕はそれから、用もないのに保健室にたびたび通うようになった。登校途中、下校途中に花たちを見つけるたびに、自分が他の人とは違うとますます認識していってしまい、失恋も相まって孤独を感じていったからかもしれない。
先生はいつも、お菓子とお茶を用意して待っていてくれた。僕が保健室に行くのは決まって下校時刻ギリギリだったのだが、そのせいか他の生徒と鉢合わせることは一度もなかった。なんとなくそのことは友人に言うことも憚られた。
「先生こんにちは、あの、この間帰郷して、そのお土産なんですけど」
礼を言われて僕は席についた。これに合うお茶は何かな、と先生は机の引き出しを漁る。ポットの電子画面を見るとちょうどお湯が沸いたところだし、きっと今日は紅茶でもいれてくれるのだろう。
今日は、雨が降りそうだ。
「先生、今日は一緒に帰りませんか。駅までは少なくとも同じ道ですし」
何の気なしに言ったことだった。保健室の先生にあまり残業は無さそうだし、たまにはそんなことがあってもいいのかな、と思ったのだ。
しかし先生は、困ったように眉を下げた。
「ごめんね、一緒には帰れないよ」
「・・・いや、すみません。全然大丈夫です」
なんで、なんでこの人はこんなに悲しそうな表情をしているのだろう。
冬なのに相変わらず咲いているラベンダーは、その日も一人で保健室を後にする僕を見送っていた。
帰る途中に、交差点にやたらと桜が咲いているのを見つけた。いや待て、おかしい。だって今は、僕が高校に入ってから二回目の秋なのだ。なんでこんな満開、しかも僕以外にその桜に気が付いている人はいない。
今までにこんなに大規模なものは見たことがなかった。僕以外に見えない花が、こんなに咲いているなんて。
そしてなぜか、そこには大勢の人々が集っていた。そのうちの一人に話を聞くと、どうやらここで数時間前に交通事故があったそうだ。血痕はすでに掃除されていたが、マスコミやらなんやらで人がごった返している。事故を起こしたのであろう車はまだそこにあって、前の方が損壊していた。
僕は、悟らざるを得なかった。この事故の被害者は、亡くなったのだと。この一面の桜を咲かせたのは、恐らく彼、もしくは彼女なのだと。僕にしか見えない花は、きっと人の想いを反映して咲くのだと。
僕は火傷のことを思い出しつつも、そっとその降ってきた花弁に触れた。今回はなぜか、火傷はしなかった。じんわりと優しいぬくもりが伝わってくるだけだった。
家に帰って夕飯を食べながらニュースを見ていると、今日の事故が流れていた。やはり被害者の方は病院で亡くなってしまっていた。中学生の少女だという。
なぜ交通事故で死んだ人間が、あんなに綺麗な桜を咲かせられるのだろう、と疑問が浮かぶ。しかしニュースは、少女は飛び出そうとした幼稚園児を庇ってひかれたのだと言った。そうか、彼女は自分の死を恨んではいないのだ。強い人の想いが花を咲かせるのなら、轢かれた少女は子どもを助けられたことを、心から嬉しく思って死んでいったのだろう。
布団にもぐってからも考えは尽きなかった。そのへんに咲いて、次の日に消えてしまうようななんてことのない花は、きっとそれほど強い想いではなかったのだろう。死んだ人間に限らず、生きている人間もきっと花を咲かせることがあるに違いない。家の前にシロツメクサが咲いたのは、母さんが懸賞で伊豆への二泊旅行を当てた次の日だったのだ。
なんだか凄いことがわかってしまったなあ。僕はなんで、僕だけがなんであの花たちを見ることができてしまうんだろう。
ふとあのラベンダーのことを思い出した。においのしないあの花は、どういう想いで咲いたのだろう。誰が咲かせたものなのだろう。触れた瞬間、なぜあんなにも熱かったのだろう。
勿論、考えるだけでそれがわかったら苦労しない。悶々とするうちに、いつの間にか意識は眠りにおちていた。
三度目の季節が巡って、春が来た。僕は特に何のドラマも無く県外の大学に進学を決めていた。ぼんやりとやりたいこともあったし、寮生活も少しだけ楽しみにしていた。卒業式の後も部活の仲間と駄弁って、後輩にかつをいれて、それで受験中はすっかりご無沙汰だった、あの保健室のことを思い出した。
「そういや俺、行かないといけないんだ」
仲間は案の定不思議そうな顔をした。
「どこに?」
「北校舎一階の保健室だよ。俺、あそこの先生にずっとお世話になってたんだ。色々と相談とかも乗ってもらってて」
得意げに語るも、仲間の表情は変わらなかった。それに、覚えがあった。「花が見える」と言ったときの、あの母の表情に、
「何言ってんだ、お前」
よく似ている。
「保健室は南校舎だし、そもそも三階だぞ?しかも先生は滅茶苦茶怖いクソババアだし」
僕は、弾かれるように部室を飛び出していた。
先生、先生、
どこだ、あの花は。
僕を呼んだ、惹きつけた、あの花は。
どこからか、強い香りがした。僕は、なぜ今まで気が付かなかったのだろう。きっと先生は、ずっと、そうだったのだ。長く、強く、先生は。
「先生、先生、先生!」
息が切れた。やっと見つけたそのラベンダーは、いつものようにそこに咲いていた。ひとつだけ違うのは、すぐそこの教室には何の痕跡もなかった。そこに保健室があったことなんて、嘘みたいに何もなかった。
「先生、先生、どこですか先生!」
あの焼けるようにあつく強い想いに触れておきながら、僕はなぜ気が付かなかったのだろう。
僕だけがその花を見れる理由。その花が、そこに咲いている理由。
先生の面影を探して部屋をかきまわした。窓は開いていないはずなのに、ラベンダーの香りがした。外を見ると、あの日の様に白いカーテンがひらめいている。あの時のように、先生は黒縁眼鏡の奥で目を細めて笑っていた。
「あなたを、待っています」
清潔、優美、期待、そして。