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【人】中納言の恋心

 並ぶ者のない権力者である左大臣家の嫡男に産まれた中納言には、思い通りにならないことはなかった。

 妹の女御に似た美しい容姿をもち、漢詩なども軽々と口からこぼれる。その華々しさゆえに当代一の公達とまで言われていたのだ。

 そんな中納言は、なんでも己の望むままだった。

 たった一つ、行方のしれぬ乙女の事以外は。



 それは、中納言が乳母の庵に見舞いに行った時のことだった。

 ここ数日、立春をすぎたというのに冷え込んだ日が続いていた。そのため、老いた乳母は体調をくずして寝込んでしまったというのだ。その話を乳兄弟から聞いた中納言は出仕を終えるや否や、たっぷりの見舞いの品とともに乳母の庵を訪ねたのだった。

 幸いにも命にかかわるような大病ではなく、顔色も悪くない様子に、中納言は安堵したのだった。

 最近の不精をわび、宮中の出来事を面白おかしく語っているうちに、いつしか長い時間がたってしまった。


「ご結婚がお決まりと聞きました。相手は太政大臣の大君とか。本当によろしゅございました。

 わたしの若様がこれほどごりっぱにおなりとは……日々、御仏に祈り申し上げたかいがあるというものです」


 言葉のとおり、数年前に乳母は出家してしまっている。

 乳母の子──中納言にとっては乳兄弟となる竹光が、中納言をからかって言った。


「とはいえお相手がお相手なので、若様は女遊びを咎められておいでなのです。夜をもて余しておいでのようで」

「あぁ、もう。竹光よ、恥をさらすな。

 私は今、葵の上を妻にした光君(光源氏)の気分なのだ。婚家に気を使うこと甚だしく……あまり主人の気を鬱ぐことを言うなよ」


 せっかく羽根を伸ばしに来ているのに──うるさい家人のいないところで、のびのびとしたいのだよ、と中納言は乳兄弟をなじった。


「若様の噂は、わたしにも届いておりますよ。

 宮の中将殿と並んで、主上の覚えめでたい公達でいらっしゃるとか……女性関係も派手なようですわね。いたるところで浮き名を流していらっしゃるそうではありませんか」


 きまずげに、中納言は乳母から顔を背けた。


「その宮の中将殿を出し抜けたので、若様は満足なのですよね。なんといっても、太政大臣家に選ばれたのは若様なんですから」


 宮の中将は、先帝──院の同母弟である式部卿宮の子だった。

 式部卿宮は娘を入内させていて、弘徽殿を賜っている。主上の寵愛あつく、左大臣家の──中納言の妹の藤壺女御の競争相手であった。


 父は左大臣と式部卿宮。

 娘は藤壺女御と弘徽殿女御。

 息子は中納言と中将。


 これだけ比較される中納言と宮の中将を比べて、太政大臣は中納言を選んだのだ。

 左大臣家がこの結婚に気を良くし、中納言の女遊びを止めさせたのも当然の事だった。

 中納言もそれを理解しているから、文句を言いながらも家に従っている。無事に婚儀を終えるまでは、正妻になる姫が長子を身籠るまでは、今までのように遊ぶことはできない。

 若い中納言には厳しい事だった。


「その太政大臣家の大君が、好きになれる方でしたらよろしいですね」

「ええ。まだ直接のお返事をいただけていないのですよ。ああ、でも良い香を焚き染めていらした」


 文を交わして日も浅く、大君側の返事は女房の代筆であった。

 けれどもその文に移った香は良いものだったと、中納言は思い出す。

 どんな方でしょうね、と三人は文字すら知らない相手のことをあれこれと想像した。



 時がたつのを忘れて話し込んだ結果、中納言達は夕食と酒を振る舞われることとなった。酒を飲んだ後の良い気分で乳母の庵を出たときには、西の空は赤く染まりかけていた。

 中納言の横で、乳兄弟は体を震わせた。


「春先とはいえ、夕暮れになると冷えますね。牛車を帰したのは間違いでした」

「そう言うな。天を見てみろ、冴え冴えとした美しい月が出ているではないか」


 中納言が見上げる天空には、群青の空に半月に近い三日月が白い光を放っていた。肌を刺すような冷たい空気の中、かすかに甘い梅の香がかぎとれる。

 心を引き付ける、華やかな音楽すら中納言の耳に届いてきた。


 それは複数の奏者による合奏だった。


 琴と琵琶──特に琵琶の音たるや、名人と呼んでも良いほどの音だ。その琵琶の音を聞き逃さないように、中納言は耳を澄ました。


「これは見事な腕前ではないか。こんな都のはずれでこのような音色を聴こうとは思わなかった。

 なあ、竹光。ここはどなたのお邸だ」


 かすかな音は、呉竹が並ぶ壁の向こうから聞こえている。


「ここは法性寺の僧都殿の家ですね。姪の丹波守の末の姫が住んでいると聞いています。

 先日は、ご縁のある太政大臣家から、多くの荷物が運び込まれていたそうで。なんでも結婚を控えているとか。

 目出度い事、と女房達が話をしておりました」

「丹波守の娘──んん?」


 中納言が記憶をたどる。聞いたことのある名だった。

 それは、宮の中将の口からだった。宮の中将がどこかの山寺に参拝した折に出会った恋人の名ではなかったか。


「その娘は、確か宮の中将の恋人ではなかったかな。相当な美女だと、言っていたぞ」

「ええ、その姫君です。ですが、まぁ、いくら美女とはいえ受領の娘ですからね。宮様のご子息の正妻にはなれません。

 色好みな宮の中将の恋人の一人であるよりは、将来有望な公達の妻のほうが幸せだろうと、丹波守殿が結婚相手を決めたはずです」

「ふぅ……ん」


 つらつらと語っていた竹光は、中納言の目に面白そうな光が宿るのを見て──しまったと呟いた。

 その言葉を中納言は聞き咎める。


「多くの女を見てきた宮の中将の言う美女だぞ。おまえだって見てみたいと思わないか? 思うだろう!」

「いいえ。さ、若様。寒いですから、帰りましょう」

「い、や、だ」

「若様……」


 ごそごそと中納言が竹をかき分ける。


「香をとめて誰折らざらん梅の花(むめのはな) あやなし霞立ちな隠しそ──と言うだろう? これほど甘く香る梅の花を見ずに帰れようか」


 夕暮れ(この時間)に、音楽をかき鳴らすということは男を──宮の中将でも呼んでいるのだろうよ。なに、訪れる男が違うだけだ。大事なかろう。

 そう中納言は言いきる。

 自重されるのではなかったのですか──と、光竹は主人に注意した。

 時は夕暮れ──月が満ちるのはまだ先だが、すでに半月が目である。気の早い男達ならば女の元を訪ね始める時間だった。

 誰かを──宮の中将を──待っているかもしれない相手に手をだすなど、結婚を控えている身としてはあまりにも不相応な行いだ。


「ご結婚までは身を清めると、ついさきほど母に言っておられたのに」

「ははは。小言はいらん」


 ようやく作り上げた隙間から、中納言が中を伺う。

 よく見えないと言いながら、竹藪へと体を割り込ませてゆく。仕方なく竹光もそれを追った。

 ごそごそと進んでいった先に、寝殿造りともいえないような小さな家があった。中納言の乳母の家と同じか小さいかもしれない。


 綺麗に手入れされている家の、庭に向かって三人の少女が座っていた。


 一人は少々年かさであるものの、和琴をひく手つきに戸惑いはなく、隠しようのない高貴さが見てとれた。

 その向かいに座る少女は愛らしかった。薄紅の衣が肌の白さを際立たせている。奏でる箏の琴は頼りなく、か細く響き、男の庇護欲をくすぐるかのようであった。


 確かに二人は美しかった。

 けれど、最後の一人。一番奥まった場所に座る乙女の神々しさにくらべると、多少の美女など十人並みでしかない──と、中納言は思った。


 そこにいたのは、内から輝くような美しい乙女だった。多くの美女を渡り歩く中納言ですら、始めて見るほどの輝かしさだった。

 月の光を集めたような肌、黒々とした髪には漆のような艶があり、とぐろを巻くかのように床をうねっていた。遠目ではあるが、ぱっちりとした小さな目と、雪のように白い手を彩る紅梅のような爪が見えた気がした。


 そして──その愛くるしい小さな手から紡がれる琵琶の音が素晴らしかった。迦陵頻伽(かりょうびんが)かくあるべしという音。心を、魂を揺さぶられるとはこのようなことをいうのだろう。心の奥底にたまっている情熱が揺さぶられ、吹き上げられるような感じすらした。


 どくんどくんと心の臓が脈を打ち、まるで乙女の他は闇に紛れるかのようだった。と同時に、悔しいという気持ちが溢れてくる。

 この最も愛らしい乙女こそ、宮の中将をして「美しい」と言わしめた末の娘だろう。この人を見初めたのが己ではないという、宮の中将に先じられたという悔しさと嫉妬が中納言の心を焼くようだった。


「竹光──待っていろ」

「はい……」


 しかし、どれほど美しくとも、しょせんは受領の娘である。左大臣家にかかれば、如何様にでもなる相手だ。

 それを知っているからこそ、竹光に申し付ける声に戸惑いはなかった。相手の沈んだ声など、中納言の耳には届かない。

 とはいえ中納言が受領の家を訪れたなど、恥以外の何物でもない。ならば、宮の中将の名を騙ってやろうと決める。

 どうせ中将を待っているのだから、捨てられた恋人が一夜だけでも戻ってきたというなら、何の問題があるだろうか。


「そんなに私をお厭いですか。この私を──宮の中将(・・・・)と呼ばれた私を」


 その夜、中納言は思うままに乙女をむさぼった。それは、中納言にとって夢のような最高の時間だった。

 けれど、至福の時をすぎると、乙女はまるで幻のように姿を消してしまった。何度屋敷前を通っても、乙女の影も見つけることはできなくなっていることに、中納言はうちひしがれた。


 けれどそれも過去の事。手に入らないからこそ、乙女は中納言にとって特別となった。すでに受領の娘ということは記憶の彼方である。

 現在は妹である藤壺女御をそそのかし、三の姫を女房に召し抱えようとしているところである。


 前後して、太政大臣家への婿入りが延期になってしまったのは残念だった。この先のこともあり、太政大臣家の後見を確実にしておきたかったのだ。

 なんでも婚約者の妹君が物の怪(もののけ)に憑かれてしまったとか。寝所に臥せったまま、毎日をうなされ続けているのだという。かと思うと、いきなり暴れだすため、女房達の手には負えないのだという。宥められるのはただ、姉姫一人だというのだ。

 物の怪が憑いた娘など放っておけばよいのだ──と、中納言は思う。

 中納言にとって、今の状態は物の怪姫に負けたようなものだった。何の非のない己を置いて、物の怪姫(たにん)が注目されるのが気に入らないのだ。

 いや、と中納言は思う。

 太政大臣のやりようが気に入らないのは、決して己の我が儘ではない。

 中納言(おのれ)は左大臣家嫡男である。己が軽んじられるというのは、すなわち左大臣家が軽んじられているということだ。太政大臣としても、優先順位の一番を間違えるのは失態であろう。それを指摘するだけの事だ。


 それから二ヶ月の時間がたっても、結婚の話は進まなかった。

 かわらず物の怪姫(いもうとひめ)は臥せっており、憑き物が落ちないかぎり文を交わしてはならないと、中納言は両親に厳命されている。

 文を通じて、祟りが左大臣家に向いても困るからだ。

 つまらないが仕方がない──と、この時になると中納言は理解を見せていた。

 結婚がのばしのばしになるのは面白くないが、結局は家の事。白紙にできることでもない。


 それよりは乙女だった。幻の乙女とようやく会えるのだから。

 中納言が気を良くしているのは、ようやく三の姫の出仕が叶ったからだった。この時を指折り待ち構えていた中納言は、急く心のまま妹の局である藤壺を訪れていた。

 妹の女房ならば、戯れの相手としても誰にも文句は言われない、との下心もある。宮の中将を出し抜けた満足感もあったかもしれない。

 高みに高まった期待は、しかし本人を前に打ち砕かれることとなる。


 そこにいた少女は、夢見た乙女ではなかった。

 確かに器量は悪くない。慎ましく笑みを浮かべる口元の、えくぼが可愛いと思えば可愛いかもしれない。

 だが、それだけだ。

 夢の乙女とは繋がらない、なんとも平凡な少女だった。


「こ……れは。今日が初出仕ですね。しっかり女御にお仕えするように」

兄様(あにさま)がわざわざ声をおかけになった女房ですからね。今後は鶯少将と呼ぶことにしましたのよ。春を呼ぶ鶯のように、兄様を呼んでくれないかと、ね。

 なんともかわいらしい、純粋なお子ですこと」


 御簾を隔てて女御の笑い声がする。鶯少将は恥ずかしがって袖で顔を隠してしまった。

 今をときめく中納言の口利きで参内したのが、十人並の少女である。なんと無様なことだろうか──中納言は恥じらう少女を怨めしげに見た。

 まさか、幻の乙女が丹波守の娘ではなかったとは。──いや、だが、なるほど。思えば当然ではある。

 あれだけ美しく、教養のある乙女が受領の娘でなどあるはずもない。

 恥じらい恐縮する少女は、よく思い出すと箏の琴を弾いていた娘だった。

 この娘しか幻の乙女に繋がる縁はない。ならば娘の口から、乙女の名を聞き出せば良いだけのこと。


「鶯少将ですか。良い名前をいただきましたね。初音の鶯のような愛らしい楽の音を、また聞かせてもらいたいものですね」

「お、お、おそれ、いりまして」


 かちこちと身を固まらせたまま、鶯少将が返答する。

 初々しいこと──と女御や女房達は声をあげた。


「兄様のお願いを聞いて差し上げたのですもの。今後は頻繁に局に来てくださるでしょう?

 わたくしが入内しましたら、毎日来ると言って下さったのに嘘ばかり。ひどい嘘つきでいらっしゃるもの」


 女御の声は弾んでいた。

 その声が、まるで己を嗤っているかように聞こえて、中納言は不満と失望を笑顔の下に隠したのだった。

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