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八十五話

 これに大きくこたえたのが、副官殿であった。


 「何をなさっているのです!」


 かつてないほどの速さで私とサトヤマさんの間に割って入り、下げた私の頭をわっしと掴まれた。

 (ちょ、副官殿。目に指……)

そして、彼女の尋常ならざる指圧力が私の瞼あたりを刺激しつつ、垂直にしようと四苦八苦し始めた。

 (目が、目が) 

離してもらおうと彼女の手を掴むも、あまりにも女子力が強かった。


 「騎士団長たるあなたが下げるべき方は、あのお方だけ!

  上に立つ者にのみ、捧げる尊い行為です!」

 「ダリア、やめろ」

 「いいえ! やめませんとも!」


 正式名はダリア・マリアンという副官殿は、悲痛なほどの叫びを耳元で発してまでも、私の行動を否定した。

 

 「わたしは、貴方の部下です。

  部下は、上司が間違ったことをしていたのなら、

  その身を持って諌めるべし。

  そうでしょう? 団長!」

 「そうだ、そうだがな、ダリア、私は跪いていな……」

 「それでもです!」


 今回の場合、私は腰を落としてまではしていない。

だのに、日本式低頭はまったくもって、アーディ王国の副官殿に通じていなかった。仕方なく下げた頭を戻すと、ようやく彼女はその手を離してくれたが、目の奥が痛い……。


 「な、何が何やらわかりませんが……、その。リディさん。

  大丈夫ですか?」

 「あ、ああ……なんとか、な」


 軽傷で済んだらよかったんだが。

なんというか、目元が痒くて仕方ない。涙目である。おまけに、誰かの視線を感じる。気のせいで済ませたいが、そうはならないだろう。公務を一応、優先してくれているらしいが、サファイアの国宝が仄かに光を帯びているのである。

 私は目元を覆いながらも、それでも日本人少女に嘆願する。

事実、このまま終わってしまったら、この国の住民はアーディ王国の好きなようにされてしまうだろう。その仕組みは強固になり、誰も手を出せなくなる。

 (自由主義を教えたはずなんだがなあ)

 リヒター王太子殿下は、私の知識を逆に吸収してしまったようである。

 

 「とにかく、その、サトヤマさん。

  この金環国の将来のためにも、

  どうか……」

 「わかりました」

 「え」


 言うや、彼女はきりっとした顔つきで私を見上げてきた。

心なしか、真っ直ぐに脇に下げている両の手の拳も強く握りしめているではないか。


 「わたし、その金環国の王子と会います。

  それで、協力するかどうか。

  蕎麦屋のお爺さんを説得するかどうか。決めます」

 「サトヤマさん……」

 

 彼女は、私が想像していた以上に、賢い少女だった。

ふ、と弱弱しい笑みを浮かべ。


 「ですから、そう、悲しまないでくださいね。

  それもこれも、リディさんが頼んでくるからいけないんですよ」


  


 「リディ」

 「は」


 私はしれっとした表情を取り繕っているが、内心は戦々恐々である。

リヒター王太子殿下が立ちふさがっておられる。椅子に座るよう命じられ、私は腰を下ろした。


 「何か、申し開きはあるか?」


 夕暮れどきの金環国の一室。

王太子殿下にあてがわれたこの部屋は、貴賓室としても見事にどこもかしこも一級品で、あちこちにあるもの一つ売るだけで相当なお屋敷が建つだろうと思われる。


 「……ございません」

 「ほう」

 

 ぴくり、と殿下の麗しい柳眉が動いた。

暮れなずむ夕闇がかのお方の目鼻立ちに陰りを落とし、際立つ美貌が末恐ろしい。


 「無い、とな」

 「は」

 「嘘を申すな」

 「……は」


 仁王立ちの殿下を恐々と見上げる。

 ――――まあ、副官殿曰く、上司が間違っていたら部下が正さねばならんからな。

 

 「何故、ハルカ・サトヤマを呼び出す?」

 「それは、リヒター王太子殿下が出された条件を、

  クリアするために必要なことだからです」

 「……あの犬のためか」


 青い眼差しが、私を射すくめるように見つめ続けていた。

 だが、私だって、二十歳の若造にしてやられる訳にはいかん。

負けじと見返す。怒気が膨れ上がっていくような気配を感じた。

  

 「リディ。

  お前は、誰のための騎士だ」

 「無論、貴方の」

 「……なら、何故捨て置かぬ」

 「王太子殿下。

  貴方が出された問題が、あまりにも手ひどいからです。

  私は、その手助けをほんの少しだけ、したに過ぎません」

 「で、あの言語は何か」

 「日本語、です」

 

 青い宝玉とも称される双眸が細くなる。 


 「……俺でも未だに把握しきれておらぬ、

  未知なる言語を使ってまで、

  日本人を助けようと試みたか。

  殴られ、牢屋に入れられてでも、お前は」

 「は」

 「は、ではない。

  申せ。お前の、本音を」

 「リヒター殿下。

  貴方は、私の大事なお方。主君であられる。

  だからこそ、申し上げる」

 

 王威ある彼の、どこまでも透明な青き瞳は、私のすべてを見透かそうとますますプレッシャーをかけてくる。であればこそ、大概の人はそこでこの王族の威圧から逃れるために本当のことを話さざるを得ない。だが、だからこそ、私は。

 意を決し、過去の話を。唇を舐め、殿下の御心に届くよう、辛い話をあえてぶつけた。


 「殿下。どうか、金環国の住民が蹂躙されるような、

  そのような目には遭わせないでください。

  赤子や、子供、老人。老若男女。

  リヒター殿下も、ご覧になられたでありましょう。

  この国には、様々な人々が住まれている。

  我々と同じく、同じように血を流す、人間がいて。

  私たちと同じ物を食べ、排出して生きているのです。

  ……私には、彼らが、我々の都合で悲劇に合うのを、

  看過できんのです」

 「……つまりは?」

 「焼尽千夜の紛争を、生み出さないでください」


 言うや、殿下は私の頬を打った。

視界が一瞬にして飛ぶ。


 「殿下……」


 顔を前に戻すと、怒りに身を震わす殿下がおられた。


 「リディ……、

  俺は相当、譲歩したぞ?」    


 起立したまま、握りしめる拳が痛々しい。

 息を呑む。だが、このままでは金環国が、かつてのアーディ王国の二の舞になる。私は、必死に言葉を紡ぐ。


 「殿下、叱責はごもっともです。

  ですが、同じことをしようとしているのです。

  いけません。

  ……あの金環の王子に、リヒター殿下が受けた苦しみを、

  与えるおつもりですか?

  そうでは、ないでしょう、殿下……」


 キラキラと輝く宝玉に、どれだけその御身を彩られようとも。

国宝を世界で一番集められようとも。世界でもっとも、遺品を扱える勇者の末裔だとしても。

 リヒター殿下の中身は変わらない。

あの時、悲しみに彩られた横たわる彼の涙に、私は何度も励ましの言葉や、慰めの言葉をおくったものである。

 だが。

 私の期待は、あっさりと捨て去られた。

目を瞑り、己が去来する感情を耐えきったリヒター殿下、今にも心が折れるかのようなか細い声で、私の願いを拒絶した。


 「……駄目だ」

 「殿下」

 「あいつは、お前を求めるだろう」

 「殿下……」

 「……駄目だ。ほんの僅かでも、渡したくはない」


 息を呑んだ。

 まさか、ここまで癇癪起こされるとは、露ほどにも思わなかった。

 

 「殿下……」 

 「……リディ」


 部下や同僚らも、私の名前ばかりを呼ぶ王太子殿下の振る舞いに、なんとも生暖かい視線を投げかけていたが。リディ狂い、と称された意味を改めて目の当たりにした心地である。

 怖気が走った。

 私は、とんでもないことを、王太子たる彼に施してしまったのやもしれん、と。 

 殿下は、見つめ合う私の顔をじっと眺め、そうして伏せた。艶やかな赤糸が、殿下の頬をさらりと撫で落ちる。私は、そんな殿下のご様子を、椅子の上から仰ぎ見続けた。沈黙を保ったままに。


 「……部下は、上司が間違ったことをしていたのなら、

  その身を持って諌めるべし、だったか。

  お前の副官が口にしていた言葉は」


 静寂なる室内にて、ぽつりと呟く声で……何やら、諦めのため息をつきながらも、妥協点を探る素振りをしてみせた。


 「……は」

 「なら、君は俺のために、

  何を差し出す」


 (なんだ、そんなことか)

今後のことについて考え巡らせていたらしい王太子殿下に、私はようやっとこの金環国の危機を払うことができると安堵した。


 「……すべてを」

 

 すると、すっと殿下は、手の甲を私に差し出した。

 私はありあがたく、その手に口づけを施す。

骨のあるところに、指の節に、爪先に。滑らかな肌を傷つけないよう、ゆっくりと、唾液がつかぬように気を使うが、実に私には苦手な行為だった。この歳になっても。

 これでいいだろうと、たったこれだけの事でくたびれた私は殿下を仰ぎ見るが、殿下、何故か不満げに唇を舐めとっていた。真っ赤な舌がやけに淫靡で、さすがは数多の人間を落としてきた方だと感心した。


 「リディ」 

 「は」

 「足りない」 

 「……は?」


 同僚や社交の場での、こういった慰めのキスのような、そういった願い事をするときのキスの要領はこのようなものでよかったはずである。

だが、それでも、足りない、とは。

どういうことか。

 (……私は、何かたがえたか?)


 「……リディ、分かっているだろう?

  こういう場は、それだけに留まらぬことぐらいは」

 

 私の座る椅子には肘掛けがある。

 そこに両の手を置き、私を挟みこむように姿勢を低くした殿下はじろり、と挑むような視線を向けてきた。

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