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七十二話

 「リディから貰うなんて。

  ……久しぶりだ」

 「そう、でしょうか」

 「ああ」


 ご満悦になられた。きつくなっていた目元を和らげている。

 ゆっくりと手を離せば、殿下は口づけされた指を気にしているようある。

整った爪先をまじまじと眺めておられるが、私は恥ずかしさのあまり気が遠くなりそうだ。

 今回私が送った親愛のキスなんて相手を宥めるもので、冗談でやったりもする。こればかりは感覚的なものなのでどういった場合にキスを送るのか、という判断はアーディ王国の民ならではの習慣のようなものなので表現しづらいけれども……前述したように、仲良しな間柄ではよくやる仕草だ。

 他、王太子などの貴族や目上の者へ送るような敬愛の示しとなるキスもある。こちらの場合は私の前世において、欧州でいう貴婦人が手を出すと紳士が柔らかく手を覆って数秒で口づけをする挨拶、などという意味合いに近い。が、男性女性関わらず不特定多数の目下が目上の人間にやるあたりが異なるけれども……案外と失敗する者も多数いて、例を挙げるとするならば生まれて初めて貴族社会に入り込んだ子息令嬢らのことである。彼らは緊張覚めやらぬ期待に胸膨らませながらの社交界デビューを果たすこととなるが、その際、美貌の塊であられる王太子殿下という最大の門番と対面せねばならぬ。ある意味幸せなのか罰なのか。私としては何ともいいようがないが、初デビュー失敗すると、大学・あるいは高校デビュー失敗した人みたいな感じになるので、訓練を重ねる若者が多い。そういった彼ら相手にお金を巻き上げる麗しい見た目詐欺の詩人みたいな輩もいるが――――

そう考えると私がしたものは、それら二つが混ざり合ったもの、と言えるかもしれない。

 やると、大概は相手の気持ちを落ち着かせることができるし、私は真剣だという意志表示になる。つまりは、その。ううむ、表現がしづらいが、私を見て欲しい、といったものに近い、か。だからこそ気恥ずかしいのだ、普段やらないから。

 ただ、そのお蔭か、結果的に王太子殿下の目は逸らせた。成功したと言えるだろう。

 ……けれども。

 ふと視線を巡らせた眼下には、私の同僚たちがいらっしゃる。

にやにやとした笑みを湛える黄金世代の奴らを始め、呆気にとられている騎士のみなさんが多数、ちら、と見やれば私の視界に飛び込んでくるではないか。彼らは立派な体躯である私がこのようなことをしているのを目の当たりにし野次馬根性ゆえか、大層、興味深そうにしていた。

 意図的とはいえ。身が竦む。

 (くそ、絶対、言われるな……)

 冷や汗が出そうだ。

 ……私と王太子殿下の仲は、昔っから言われ続けていることだった。これでまた、その噂に加速がつき、賭け事のネタ上積みされるのは間違いなかった。見つけ次第、無言で追い詰めて壁ドンをするのが一番効果てき面だが、やればやるほど影に沈み、泥沼になってしまった経緯がある。これまた中々に撲滅できず、以前、違法賭け事の泥場に入り込んだときに発見した帳簿に書かれた、妙にオッズの高い摘要欄。そこには、私と殿下のどちらがどっち役か、なんてすでに出来上がっている表であった。リヒター殿下は面白がって執務室の壁に飾っていたりしたが、私はといえば寿命が縮んだ思いである。

なんせ、赤子の殿下をずっとお守りし、必要な教育を任されていた部分もあったのだ、教育係としての失敗であると烙印を押されたも同然だった。また、殿下は色好み過ぎた。ますます私の寿命が短縮する。アーディ王国の王陛下からの含みある視線は、時折、申し訳なさ過ぎて故郷的土下座を開催したくなるぐらいであった、もうこれ以上、ホモ情報で私を追い詰めないで欲しい。

 そんな私の祈りを天が認めたものか、騒がしい響きが、玉座の方で上がった。


 「む」


 言わずと知れた、番犬王子。立派な身なりとなった、金環国の王子様である。

 彼は、王を捕えた。

荒縄でひっ捕らえ、まさかの亀甲縛り……はしなかったようだったが、しっかと背中に両手が括られているのはこの高台からも丸わかりであった。

 曲がりなりにもこの金環国の王である。

周囲の豪族や立場ある人間はこぞって王子様に詰め寄ろうとしたり、あるいは戦いを挑む者もいたりはした、だが。基本イエスマンしか侍らすことのなかった金環国の王である、気骨ある豪族は遠い場所に追いやられてそこから私の処刑を眺めるような指定をされていたし、護衛である番犬の部隊は王子様に忠実。

 はっきりいって、最初っから、勝ち目はなかったのだ。

さらに押しの一手とばかりに、この金環国の首都に、隣国アーディ王国の精強なる騎士団と、奇跡を引き起こす国宝使いのリヒター・アーディ・アーリィ王太子殿下がおられるのだ、もはやどこにも逃げも隠れもできぬ。

 

 「……ほう」


 金環国の番犬殿が引き起こしたクーデターとも言うべき、この珍事に王太子殿下もことのほか驚きを隠せないでいる。


 「あの地獄の犬が、飼い主に噛みついたか」


 さすがに、リヒター殿下は手の者をこの金環国に置いてあるだけあって、この国の事情をよくよくご存知だった。直属の部下である情報部長官も忍ばせていたくらいだ、これぐらい知って当然か。


 「しかし、あまりにもスピードが速い、な」

 「スピード、ですか」

 「ああ。

  まるで、誰かの入れ知恵でも働いたかのように」


 ひた、と。

リヒター殿下は流し目をして私を捕捉する。


 「御冗談を」

 

 私はくすりと意図的にほほ笑むと、殿下もまた返してくる。


 「……まあ、良い」


 不問にふされた。

良かった。私はこれで、国に戻ってもすごく怒られずに済むぞ、とほっとする。叱られるのには違いないが……。

 王太子殿下は、その腰に据えられた剣から決して手を離さずにじっと、彼ら金環国ら中枢の諍いを眺めている。理知的な青い瞳が幾度か瞬く。


 「いずれにせよ、王位交代は必須であった。

  あの金環国の王は、我が国への占領を考えていたようだったからな」

 「なんと」


 驚いた。

確かに、あのバージルの王は我が国を、かなり舐めていたが。それほどまでに、弱いと思われていたのか。

 殿下は、私のびっくりまなこな様子に、ふふ、と、紅をつけてもいないのに優艶な唇を微笑される。


 「あの王は、我が国に貿易拠点を作りたがっていたからな。

  もともと野心家でもあったのだ。

  今まで力を入れようとしなかった本腰の外交は、

  悉く失敗したようだったが……、

  ……我がアーディを手中に収めたあと、

  最終的にはアリューシャンまで、と考えていたようだ」

 「……信じられませんな。

  あの大帝国にまで、己の力でなんとかなるとでも」

 「そうだ、それこそ不思議な自信よ。

  元来、小心者の男だという報告が上がっていたが」


 殿下は首を捻っているが、多分、それらは、この王太子殿下の貴重な血筋、を自分のものにすることで成り立っているのだろうと、脳を働かせた。

 

 「……殿下、私は、かの王と謁見したことがあります。

  恐らくですが、挫折を知らなかったのでしょう」

 「ほう、挫折、とな」

 「は。

  ……勇者に国を任せられた宰相一族の直系でありながら、

  勇者に認められたという、

  勇者信仰の強いこの国家の成り立ちからして、

  誰もが従順なのを良いことに、胡坐をかいたのでありましょう」

 「ふむ……」


 殿下は、面白そうに私の説に耳を傾ける。


 「……ならばこそ、王位を二人の若者に、という訳か」

 「はい。

  リヒター殿下、どうか、彼らにこの国をお任せできませんでしょうか。

  ハルカ・サトヤマの存在は、この国にとって信仰の証になります。

  金環国の王子たる番犬には、文字通り番犬になってもらいましょう」

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