四十七話
ベッドの上はぎしぎしと五月蠅く、かけ布は仄かにゴミ臭い。
窓がないから牢屋内は常に薄暗く、生暖かい生臭さが鼻をつき、どこからか誰かの呻きが絶えず聞こえてきて気持ち悪い。なんと不衛生な環境か。
体を横たえ、天井を仰ぎ見た。
牢屋内を照らすロウソクにより、うねうねとうねる何らかの陰影。それは果たして人なのか、何なのか。深くは考えないようにするのが平静になるためのコツである。
顔を指で拭き、固まった血がとれたのを目の当たりにして、久しぶりに血を見たなあ、なんて思う。鼻筋を触るとあまり痛みはないことから、鼻骨はやられていないんだろう。曲がってもいないようだった。
(あと……)
手を伸ばし、腫れた部分をみる。
見れば見るほど太ましい腕だが、この筋肉があったからこそ、俊敏な動きが可能なのだ。つるつるで細い二の腕、を常に意識せねばならなかったかつての自分を思い返すと、なんとも真逆で滑稽でさえあった。括目せよ、このなんとも骨太な橈骨のほどを。我ながらなんとも惚れ惚れとするものだ、私の死後燃やされることでもあったのなら、きっと、ぶっとい骨が生えるんだろうな。アーディ王国は棺桶にまんま遺体を入れて埋めるタイプだが。
ふぅ、と嘆息する。
身体はなんとか、概ね無事のようだった。年齢が年齢だからか、踏みつけられた臀部や背筋がじわじわと私を苛むが、脛を蹴られないように身を守ったのは我ながら偉いと言える。手首や足首、指回りはなんとか折られずに済んだし、肋骨も無事に肺を収めて呼吸を健やかに行っている。
(切りつけられず、急所をあまり責められずに済んだのは、
やっぱ、あの犬様のお蔭、か?)
もっとボコボコにされててもおかしくはなかったが、妙に大人しく感じられた。股の急所を思いっきりヤられてもおかしくはなかったのに、それをされなかったのは、せめてもの温情だったのかもしれない。
なんとも不思議な思いを抱きつつ、とりあえず今日は眠ろうと目を閉じた。
誰もいない、という訳ではないが、ここまで独りでいられる場所で息をするなんて、それも牢屋の内部なんて、珍しいことだった。
ましてや、隣国の騎士団長が、だ。
(降格処分かな……)
あるいは、首になるかもしれない。物理的に、はさすがに今までの功績を考慮するとあまりに迂闊すぎるし反発も在り得ることなので、そこまでには至らないであろう。
(……黄金時代の騎士が、こんな惨めな姿でいるなんて)
アーディ王国の人間には、刺激が強すぎる、かもわからないな、なんて。
荒縄の跡のついた手首に温かい吐息を吹きつけながら、苦笑する。
(隣の住人たるお年寄りも、もぞもぞと生きているようだし)
なんとかなるだろう。
そう考えながら、うつら、うつらと。眠りの体勢に入った。
夢の世界では、子供時代である少年で。
当たり前のように剣を振るい、なかなか憶えづらいこの異世界の言語に苦労していた。日本語を頭に修めている、ということが、これほどまでに私を追い詰めるとは。
ぼんやりと、意識を真綿に包まれながらも、
(嗚呼、そうか。
またこの夢、ガキの頃の。
……一番、苦しかったものなあ)
何度も、何度も夢の世界で繰り返し、同じ光景を見続けていた。
場面は変わり、時期もずれてたり、出てくる人々の顔もまたそれぞれだったが、いずれも私をその彫の深い顔で見下ろしては、繰り返し、繰り返し、私の名前を呼んでいた。
私は、格別、自分が記憶力が良いとは思ってなぞいない。
だからか、この世界の名前で乞われても、振り向くのに何秒か脳内認識するための時間が必要だった。
「リディール様」
「ご子息様」
「坊ちゃま」
「リディ、わたくしの可愛いリディ」
「リディや」
笑顔でいるのは慣れたものである。
だが、言葉遣いだけはいつまでたっても舌ったらずで、怪訝な顔をされるたびに、卑屈な感情を散々に抱かされたものだった。
「リディ」
男の声が、ふいに聞こえた気がした。
金髪の、緑の瞳をした子供時代の私が横を向く。気付けば、辺りには妙な霧に包まれていた。子供の私は戸惑う。がきんちょな私は、剣術か、草花を愛でていたようだったから。いきなりの場面転換に恐怖を覚えるのも無理はない。
きょろきょろと見回し、なんだ気のせいかと、前に向き直る。
途端、そこに誰かが立っているのに気付く。ぱちぱちと瞬く。
肝心の顔がモザイクがかっているので、性別と年齢が若いというぐらいしか判別できなかったが、心臓がどくりと脈打つ。
――――真っ赤な赤毛の青年。
(なんだ……?)
彼の顔はまったくもって見えなかったが、なんとはなしに、彼は大事な人なんだということは、夢うつつでもはっきりと把握できた。
金髪碧眼の私は、まさに貴族のお坊ちゃまともいうべき少年らしい恰好でいた。
対する青年は、顔だけは分からないけれど貴族然とした装いではあった。洒落っけがあるというか。高値のつきそうな服を纏い、その赤毛をさらりと揺らしている。互いに向き合うと、その薄い唇をうっすらとあけて、
「困ったヤツだ」
などと、囁く。
その美しい声は、やけのこの空間に響いた。
「……殿下?」
私は、尋ねる。
と、彼は頷いてみせたものである。
「俺を置いていくとは。
こんな、馬鹿なことをしでかすとは。
……万死に値する」
目を覚まし、気付けば薄暗い牢屋内。
はあ、はあ、と。息を殺し、周囲の物音に耳をそばだてる。
(大丈夫だ、問題、ない)
夢の内容は、大問題だったが。
冷や汗を拭い、仰向けになったまま、あの夢の内容を反芻する。
酷い夢だった。
子供時代の夢は、苦労のし通しだったせいか、よくみる。
日本語という言語の基軸が頭に座っていたので、逆に防壁になっていたのだ。自我が芽生えてからずっと日本語で異世界言語を脳内翻訳をする癖がついてしまっていたため、この異世界の言葉を覚えるのは大層な苦痛であった。
なんせ辞書も何も手がかりさえない。
すべてを、自分でやらねばならなかった。指差し確認は基本である。おかげで児童教育は大いに遅れをとり、同世代でもっとも人生経験は豊富なくせして、幼少の頃の勉学は最低点という結果を生み出すことになった。
そのため人一倍学ぶ羽目になり、かえって前世というものはないほうが、スムーズに生きてこれた可能性が高い。
せっかく伯爵家唯一の嫡男という、非常に有利な、顔も形もそこそこな生まれ方をしたというのに、なんとも残念な40代のおっさんに仕上がったものである。老後を心配しているあたり、もはや手遅れではあるが。
ただ、立場や地位を得るほどの努力はしてきたつもりだ。
騎士として職務に励むことができたし、何より、私はお会いすることができたのだ、かの美貌王子、王太子――――
と、それよりも、問題はあの夢の内容の、殿下、だ。
赤毛の、青年。
(妙に、質量があったような……)
夢は所詮夢。
気にする必要はないかもしれない。だが。
声色は穏やかそのものだったが、発言の内容はいただけない。
何やら苛立ちのようなものを受け取ったような気がしたが、気のせいだった、だろうか。喉が渇く。水は無論、あるはずもない。
両目を閉じ、再びベッドの上の住人と化す。
ちりちりと、ロウソクの炎が揺らめくばかり也。
朝も昼も夜もない、牢屋の中。
五日期限のうち、二日過ぎ、三日目が訪れようとしていた。




