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四十三話

 石による投擲が始まると、あっという間に雨あられな模様になってしまった。いまだ頭上の天候模様はぐずぐずの割に本物は降りそうもないというのに、燃える蕎麦屋の一角だけは、あちこちからあらゆる物が投げつけられて見るも無残な状態になっていた。私の傍らにいる小さな少年も、これには凄い、と感情を露にする。中には、ジェイズが放ったらしい、妙に鋭い投擲が混じっていたりするのだから、あまり派手にやるなと念だけを送る。バレたら元も子もない。


 「ジェイズ様と、父さんが頑張ってますね」


 どうやら、この少年の父も参加しているようだ。

いつの間に……いや、在り得る話だ、なんせジェイズという情報部の長がいるのである、その部下が近くにいて命令待ちしていてもおかしくはない。

 傍らにいる少年に詳しく聞いてみると、


 「父さん、行商人の恰好が大好きみたいで。

  団長様にお見せしたことがあると、

  嬉しそうにしていました」

 

 脳裏に諜報員ジョークという謎かけがぽつねんと浮かび、嫌な予感がしたのでそれ以上は話を広げなかった。

 それより、問題なのは彼女らだ。戸惑うように突っ立っている。

私の意図したチャンスを上手く使い、しっかり逃げてくれれば良いのだが……。

 

 「団長様、すごい心配してますね」

 「……混乱すると身動きできなくなったり、

  恐怖に身が竦むことは、歴戦の勇にも起き得ることだからな」


 だから、いたいけな少女では難しい、かもわからない。

しかし、あの力強い瞳には、そんな諦めは無さそうである。

 憲兵らがあたふたしている好機に、びっくりしていたようだったが決心したものか、黒い瞳に覚悟の意を表し煌めく。

 ―――蓑虫状態の妙な恰好になっている黒髪の少女が、自分より幾分か背が低い小さな女の子の手を引き走り出したのは間もなくの事。駆ける際、ボロボロとその蓑の崩れという落下物が気になるが、憲兵の長である地獄の犬は、まったくもってそれに気づいてない。

 住民の怒髪天に、振り回されてしまっていつもの鼻が利いてないようだった。

存外に、金環国家住民からの攻撃的な振る舞いに衝撃を受けているようだ、実に素晴らしい。

 目くらましは、成功だ。

 彼女らの後ろ姿を見送りつつ、


 「よし!」


 思わず口に出たのを諜報員の卵たる少年に仰ぎ見られていたのに気付かず、ついガッツポーズまでしてしまった。

  

 「団長様……?」


はっとする。

きょとん、と大きな瞳をくりくりとさせる少年を見下ろしながら、ゆっくりと固めた拳を緩める。


 「あ、あぁ……我々も、行くとしよう」


 照れ隠しも上手く決まらないままに、黒髪少女の後を追った。




 方向としては、少女たちは、大店のある大道へ向かっているらしかった。

大人の、それも騎士である私の足に無我夢中でついてくる少年に、私はうっそりとほほ笑む。後方で、懸命に走っているんだろう。

 



 ぽつり、ぽつ、ぽつり。




 雨が降り始めた。

 (これは……ますますもって、まずいかもしれない)

夕立というやつだろう、ずいぶんと冷えた空気が漂っていたし、匂いも普段とは違った、どうも生温かい風が吹いていたものだから。

 (この子を、退避させるか)

 いずれにせよ、この見張りという名の指標を撒かなければならないと考えていた。本人は幼い年頃なのだから自覚はないのだろうが、その卓越な脚力は明らかにおかしい。始めはあえて距離を置いて走ろうとしていたのに、すぐについてきた。これは決して私の足が遅い訳ではない。それなのに、この少年はついてきた。どこまでついてこれるか。試しに全力で走ってようやく、彼は私と距離を置くことができた。それでも私の姿を認識できる範囲で走り続けられるのだから……諜報員スパイの卵だから、という話だが、それにしてはあまりに生え抜きではないか。紫部もそう。あの娘も、明らかに用意された様子の子だった。あるいは、私は嵌められていたのかもしれない。

 美しい赤毛の、麗しき顔の王太子殿下の双眸が私を見ている気がした。青く、透明な。まるで宝石を眺めているような心地さえしてくるのが、あの方の御尊顔である。かのお方は、妙に私を追い詰める癖があるようだ、まったくもっていけない。魅惑な唇が弓なりに曲がるようなものさえ幻視できる。

 ――――はあ、と。

一言、酸素を吸い込み、足を止める。

 橋の袂にまで、先回りした。

紅色の欄干橋は、曇天模様を背景にしている。さも絵画のようであった。

 金環国家バージルの美しいところは、和を貴ぶところにある。

見事に降り出した大雨に打たれても、木造建築はしっとりと濡れて風情があった。雨音は耳に良い音を弾かせてくれるし、私たちの先回りする足取りを消し去ってくれる。

 ぱちゃりと水たまりを踏みつけても、誰も出先には出ないし、皆、雨宿りでもしているんだろう。私だってできればそうしたいところなれども、そうはいってはいられない。

 これから、あの少女たちはこの紅色の欄干橋にやってくるだろう。

 す、と、脳内シュミレーションを試みる。

この街そのものの地図が、私にはあった。なんせ、食べ道楽をして歩き回ったものである、どこが逃走ルートか、どこの道を歩めばどこに出るのか、だいたいの憶測を持っていた。

 彼女たちが蕎麦屋から抜け出した道筋からだと、ここにしかたどり着けない。すなわち、まるで誘導されるかのように黒髪少女たちは、ここにやって来るはず。水路は決まった場所にあるし、橋もそう。このルートでなければ、大道にある小女の実家へは辿りつけない。

いずれにせよ、彼女たちは救いの手を欲しがるはず。

 私は、欄干橋の手前で私を見続けている少年に、あるお願いをする。

お願いという名の命令だが。

 

 「さて、ここで待っていたら彼女らは必ずやって来るはず。

  このまま私はここに待機、君にはやって欲しいことがある」

 「はい」

 

 肯首する少年の素直さが可愛らしい。

とりあえず水が滴っている彼の額の前髪を払い、撫でてやった。

 少々、雨がただの雨じゃなく、大雨になりかけていた。

私の旅装束もだいぶ濡れていて萎んでいる。


 「副官殿には私の命令だと言って欲しい。

  黒髪少女を保護しろ、と」

 「あの日本人、ですか」

 「ああ」


 私は答えながら、背後にある欄干橋の向こう側の、大店が並んでいるであろう大道を見据える。遠方すぎるから、この目にはうつらないが大店呉服屋があるはずである。


 「……私はひっそりとここで待ち構え、彼女たちを逃がす助力をする。

  逃げた先で見知らぬ男と一緒にさせられるよりも、まだ、

  女のほうが、何かと信頼と安心が得られやすいだろう」


 それと、


 「呉服屋も守ってやってくれ。

  火でもつけられたらかなわん」

 「はい」

 「呉服屋の近くで張ってろ、と、副官殿に」

 「承知しました」


 少年は子供らしからぬ言葉遣いをしつつ、なんだか今にも小躍りしそうな雰囲気を発しながら、私の傍からいなくなった。

きっと、やってくれるはず。

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