四十二話
火事だ火事だと、大慌てでやってくる人々の足が止まる。
なんせ、憲兵の、それも嫌われ者の特務隊が高見の見物としけこんでいるのである、下手に関わるとお縄になるのは住民の間では常識であった。
燃焼中の蕎麦屋の前で屯うのを目の当たりにし、信じられない生き物を見たと皆、一律に同じ表情を浮かべている。とはいえ、このままにしていては危険なのは、木造建築の宿命である。自分の家まで延焼するかもしれないと、皆、じりじりとした風でいて、それでいながら誰ひとりとして、彼らに声をかけようという気持ちの者はいなかった。いや、いるにはいたようだが、殴られていた。幸い、暴力を受けた彼は捕まらなかったようだが、そんなとんでもない不条理さに彼らは慄きつつも、怒りの感情を内心押さえつけているようだった。
(……なるほど、憲兵らが嫌われている、ということは、だ。
ストレスの詰まった風船を割るように仕向ければ、)
そうすれば、民衆は一斉に非難するのは明白だった。
私は、ちら、と、幼馴染みたるジェイズのほうを見やり、他の誰であろう、私からこいつを離そうと思った。
王族直属の部下たる情報部、その情報部長官といえば、王族の影である。アーディ王国の興りから、ずっと続いている家系であるらしい。正直、私のサトゥーン家よりも系譜が長く、由緒正しいかもわからない。
「ジェイズ」
「あ?」
「あの火事を鎮火させたい。
石でも何でもいいから、憲兵にぶつけてやれんか」
情報部所属のジェイズは、思考する態をとる。
「……それは、殺すつもりか?」
「いや。
あくまで鎮火がメインだ。
このままでは、助かる命も助かるまい」
「それはそうだが。
まさか、その後に、お前があの火事場に飛び込むとか」
「それはしない。
最終的には、助ける。
だが、今飛び込んでしまうと、どうも、面倒事になりそうな気がする」
内紛を外交問題にしてはならない。
もし、他国の人間があれこれと憲兵に文句を言ってしまったら、同じ国民である彼らは理不尽な目に遭おうとも、不満を抱きやすい。いわゆる身内びいきというやつだ。体裁だけは整えた方がいいだろう。
あくまでも、やるべきは最終的に意思決定をした民でなければならない。
「住民のナリでもなんでもいい、通りすがりでも別に構わん。
とにかく、切っ掛けを作ってさえやれば、
彼らは勝手に爆発する。
憲兵らの目が逸れたとき、蕎麦屋から誰も出てこなければ――――」
「団長様」
呼ばれて蕎麦屋に向き直ると、そこには。
「おお……」
しじまが、広がっていた。
誰もが異変に気づき。
声を噤み、じっと。
蕎麦屋の、崩れた出入口から、引き戸のあたりから。
のそのそと出てくる存在に、目が奪われていた。
真っ赤な炎を背景に、すっと、立ち上がった人影。
恰好は歪な蓑虫で良くわからないが……、その髪は短く、背丈は、なるほど、170センチぐらいだという報告の通りだ、確かに女性にしてはやや高いかもしれない。袖口でぐりぐりと拭う仕草で黒墨が伸びてしまっているが、あの顔立ちなら、幼い。私はそう確信した。
「嗚呼……」
待ち望んだ、黒い髪に、黒い瞳の。
そうだ、あの顔だ。アジア的な。
何か、懐かしいな。あの、顔立ち。見目も、そう。
どこにでもいるような、いないような。普通の女の子の顔だ。
はっきりとした彼女の声が聴きたかった。
ほそぼそとした立ち聞きではない、本当の日本語を。
私が感動に打ち震えていると、木が燃える音に混じる金環国家の人々のざわめきが、耳に入り込んでくる。
「……アレが、日本人?」
「え? ほ、んもの?」
「だよね。だって、顔が……、私たちと違う」
住民の動揺が手に取るようにして分かる。
「……捕まえなきゃいけないの?」
「けど……、オレたちゃ、とんでもないことをしてしまっただろ?」
「おい、憲兵に聞こえるぞ、声を落とせ」
「いや、しかしよぉ。
誰だって知ってるだろ、勇者様と同じ……」
「我々を救ってくださった方と、
ああ、本当によく似ていなさる」
(これは驚いたな)
想像していた以上に、この国の住民は、勇者様を敬愛しているらしい。
そして、日本人を捕まえ、知恵を絞ってきたという経緯を知ってはいるようだった。思えば、あの温泉街での爺さんも、沈痛な面持ちだった。仏像のように拝んでいた住民もいるようだったし、嫌な感情というよりかは、罪悪感に近いものを覚えているのか……。
――――なら、少しは希望が持てる、かもしれん。
「ジェイズ、時間がない。
彼女らが捕縛されたらかなわん。
……あの子ら二人が逃げられる隙間を、どうか捻出してくれ」
幼馴染みは逡巡したようだったが、即決する。
「……分かった。
…………リディ」
「ん?」
「無理すんなよ」
言いながら、渋々といった態で幼馴染みはやるべきことをしにこの場を離れた。
「それで、君には……、」
じっと、私の言う話に耳を傾けていた少年に、お願いごとをする。
「一生懸命、私の後をついてきてくれないか?」
頷いてくれた。
よし。私は鷹揚に顎を引く。
(これで、私の見張りは少なくなった、か?)
ジェイズの不満げな顔を思い出し、口の端を緩める。
(あとは、彼女たちから目を離さずにいるだけだな)
幼馴染みは首尾よくやってくれるはずだ。
そうして、きっと、日本人たる彼女も、やるだろう。やらねばならん。
(……これも、ある種の身内びいき、かもしれんが)
―――――小柄な女の子を庇い、憲兵の犬にさえも立ち向かう姿、それはまさしく、勇者のように勇ましかった。
私でさえ胸打たれたのだ、私からしてみれば明らかに年齢が下の子が、大人でさえ怯む地獄の犬に刃向うなんて。
吠え猛る畜生にも、勝る。
バージル王の番犬のおふざけにも彼女は、その幼さ残る顔立ちで踏ん張ったのだ、良くやったと褒めてやりたかった。




