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三十五話

 すべての人間が、特に、わたしに気持ちを向けているようだ。ぼそぼそ、ぼそぼそ。訳の分からない言語が、あちこちで飛び交っている。大声にならないのは火事による騒音のほうが酷いってことがあるのと、わたしたちをちんたらと構える目の前の男が、危険人物であると一般人は理解しているからなんだろう。

黒髪の、明らかに異人という出で立ちのわたしに向き合う、軍服のような、何かを着崩した男の対面。それは、ごく普通に生きてきた金環国家の住人にとって、あまりにも異様な有様だとはっきりと把握できるはずだ。嫌味な男の部下らしき者どもだって、事の成り行きを見守っている。全体的に威圧的すぎるのだ、そりゃあ、一般人は嫌だろう。こんな連中に関わりたいなんて思わない。睨み合っているし。ただ見守っていても、訳も分からないはず。

 さて、決めたはいいものの、どうやって逃げたらいいんだろう。

どうしたら、あいつらは、わたしから視線を逸らすのか。

じりじりとした、なんとも言いようのないものが、わたしの体の内側を這いずり回る。ごくりと生唾を飲みこみ、周囲をさりげに見回す。

 どこもかしこも、人で、人で。一杯だ。増えていくから、余計に。

時たま、誰かが走り寄ってくる足音がするも、この異様な光景に静寂にたちまちに飲みこまれる。ぼそぼそ。そうして、火の粉が。

 わたしたちの間を飛び、どこかへと風に揺られて、舞う。


 「……埒があかない」


 けれど、全力で囚われの身にはなりたくはない。口の端を歪めているあの茶髪の暴力的な男は、わたしのことを散々に馬鹿にしてるんだろう。たとえわたしが翻訳する能力がなくったって、分かることだ。時折、わたしをチラチラと見ながら部下に何かを話して笑っているのだから。

 じりじりと、時間だけがやはり進む。チャンスなんて。在り得るのだろうか。

わたしは、うしろの女の子を守れるだろうか。こんなにも酷い震えをなるたけ我慢するのも、骨が折れる。無理だ。私の意志に反し、本音が出るものだから。

 土下座でもしたら、彼女は助かるだろうか。

自分の頭を、あの男に踏みつけられるんだろうか……。

 じわりと、目の端が滲む。




 事態は、何かを飲みこむように。

あっという間に、流れてくるもの。

 運命、か。それとも、作為的なものか。




 周囲の金環国家住人らは、あくまで、火事を心配して出てきた人々であった。水瓶にためていた水を今こそ使うべきだと、あちこちでバケツリレーの準備だって行われている。荷物を持って逃げようと、箪笥を大八車に乗せはじめた者もいたようであったが、かえって、そういった家財は火の車になりやすい。よく燃える乾いた木の作り物は、むしろ邪魔だと、敬遠されてもいた。法律によって、そう定められてもいたそうである。だから、彼らは、金目のものを手で持てるもの背負えるものだけを取得して、すぐに現金化できるように、持ち合わせてもいた。それなのに、憲兵が。火事を消火するのを遮っている。近づこうとすれば、威嚇される。控えるしかない。だが、円の中心には、燃え盛る蕎麦屋と、何故か怯える少女がふたり。なんだ、どうした。それが、大体の一般的な思案だった。 ましてや、黒髪の、少女もいた。もしや、あの子は……、看板に描かれた絵の、痛ましい姿を想起する。彼女は憲兵に対し、なんらかの不敬をしてしまったのではないか。いや、例えそうだとしても、あんなにも哀れなほどに怯え、参っている。何故か破れかけの蓑を身にまとっている。逃げて、いたのだろうか。金持ちのところから。悪い奴から? 

 この憲兵の、特に特務隊と呼ばれる王直属の者たちは、最近、巷を騒がすとんでもない輩であった。食べたものは金は払わないし、勝手に人の家に入り込んでは日本人がいないかと、隠すとためにならんと脅しつけてくる。おまけに、黒髪と聞けばすぐにその髪を引っこ抜いて毛根を調べようとする。花街の女たちは、おかげで商売あがったりだと、この者たちを毛嫌いしていた。昔っから、黒い髪は憧憬のものがあった、美しい髪の代名詞でもあった国である。押し付けられた何かを、そのまま受け取るにしては、この国の住人は、先祖からして大人しいものではなかった。

 事態を打開する、一手。

 とある人物が、最初であった。

叫びとか、そういったものはなかった。静かなる投擲であった。

誰かが、憲兵に投げつけた。それは石だった。たまたま、手は空手であった。背に負った行商人の商売道具である買い込んだ荷物は隣国へ持っていくつもりであったそうである。金目のものは、懐に仕舞い込んでいた。だから、手はいつでも自由にできるようにと、身軽であった。周囲はぎょっとした。しかし、胸がすく思いがした。見渡せば、そうだ。憲兵よりも、彼らのほうが人数が圧倒的に多い。いくら、武力がなんだかんだといっても、数の暴力を思えば、精鋭よりはあっという間に相手を疲弊させられる。

 そこから、である。

誰も彼もが、我先にと、彼ら憲兵に石という石を、生活用品の中で不必要だと思われるものや、必要なのにそれを忘れて感情のままに、あっちこっちから、まるで土砂降りの雨のように、彼らは気持ちよく投げた。日頃の鬱憤を晴らすためである。

 たまったもんではないのは、憲兵の長であった。

 

 「な、ナ、ナ」


 武器で打ち払おうにも、それを凌駕する勢いで、硬度のありそうな物体が天から落ちてくる。投擲が上手な奴もいるようで、中天から、上手い具合に放物線を描いて、狙い定められていた。もちろん、憲兵の長の頭部を標的にして、である。


 「い、イテテテ!」

 「た、隊長!」

 「こら、お前らやめろ!」

 「こんなことをして、タダで済むと思っているのか! 恥を知れ!」


 うるせえ! 馬鹿野郎!


 「なんということをする!」

 「隊長! ご無事で、いてっ」

 「ぼ、暴動と化してますな!」


 罵詈雑言が、あちこちから、抜けるようにして飛び上がって出てくる。

なかでも、ひと際大きい拳大の塊は、まるで岩のようなものだった。上手く躱した隊長の耳にそれが掠め、たと思ったら眉間に二度目の衝撃が走る。襲撃は一発だけの投擲ではなかったようだ。フェイクありだ。これにはさすがに堪忍の緒が切れた。

 

 「てめぇら、良い度胸してんじゃネーか」

 「げえっ、隊長!」

 「駄目ですよ、相手は一般人です、殺したらヤバい!

  ただでさえ隊長、馬鹿みたいに馬鹿なのに」

 「あア!?」


 ひえぇ、などと情けない声を上げて逃げ出す部下とうっかり頷いてしまった部下複数、そしてそれを追い回す隊長、なんて、国家公務員のはずなのにアホみたいな光景に呆れきってしまい、やれやれ、ようやっと消火できると近所住人が団結して火消を始めた彼ら。複数の影が、黒々とした煙を吐き出す蕎麦屋を中心にして、活動をし始める。あっちらこっちら、えんやこら。

 まるで遠い出来事のように、彼らはそれぞれの動きをしてみせた。

看板の告知なんて、どうでもいい。それよりも、自分家の無事である。ある種、利己的な彼らは平然とそれぞれの、助け合い精神を発揮し、無事、それを達成。皆、疲れたと互いを労わりながら家路につく。

 そこに、日本人少女と、大店の跡取りである五代目小女の姿は、なかった。

 ぜぇ、ぜぇと呼吸のままならないさまで肩を上下し、複数のすばしっこい部下に鉄拳制裁を行い、なんとか気持ちの済んだ茶髪の野郎。

 ――――気付くのに誰よりも早かったのは、案の定、特務隊の隊長である。


 「ゲ、忘れてたワ」


 隊長は、鼻がきく。

やや野生児的なものだが、くんくんと鼻を蠢かす。風上を見据え、じっと立ち尽くす真面目腐った姿は、やや遊離的でさえある。


 「隊長ぉ……」

 

 ぐすぐすと、情けない表情の部下たちを慰めるため、痛みのあまり転がっている彼らに、特務隊隊長はにこやかな笑みを、その茶髪の無駄に長い毛の隙間から、ニヤリと覗かせる。


 「喜べ、まだそれほど遠くへは逃げてイナイ」

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