三十三話
だが、このまま、隠し部屋でずっといられるかどうかといえば、そんなことはありえない。いつ何時、発見されてもおかしくはない。危険だ。
それに、小女の母が作戦通りに動くはずである。小女は不安に苛まれている。もし、肝心の娘が身動きひとつとれず指定された場所にこなかったら、どうしたのかと、この蕎麦屋に近づくかもしれない。異変を感じて逃げてくれたら、それはそれで良いのだが、憲兵がこの蕎麦屋の周りにもし、警戒でもして見張っていたら……見つかったりでもしたら……母は。
つい先ほどのことなのに、どこか薄い膜を張った向こう側のような出来事が、脳内に蘇る。あの、人を殴る音が、母に覆いかぶさってくる想像を働かせてしまい、ぶるりと身を震わせた。
老人のことも気がかりだった。酷い目に遭わされ、連行されてしまったようだったが、無事かどうか。確かめるすべさえ持ち合わせていない小女は、さて、この隠し部屋から出るにしても、未だ、勇気が湧いてこなかった。
こんなとき、誰かがいてくれたら……。
お父様、お母様……、お祖母様……。
小女は、恐ろしい国家の使いに、心も体も竦んだままであった。
どうしよう、どうしよう。
どうすればいい。
どうしよう、どう、しよう……。
「……どう、しましょう……」
弱弱しく黒髪の少女に尋ねるも、日本語しか理解できない彼女は頭を横に振ることでしか意思表示ができない。何かを訴えているのは、その悲壮なる顔つきで分かるということなんだろう。できれば解決策のようなものを、浮かべてほしかった。そんな破廉恥な服を後生大事に抱えてまで、否定しなくてもいいのに。捨ててしまえばいいのに。何か、この現状を突破できる方法を教えてほしい。助けて欲しい――――。
しかし、それは土台、無理な話だ。暴力的な環境に置かれ、どうすればいいのか分からないのは、黒髪の少女のほうである。そんな右も左もわからぬ彼女を保護すると、決めたのは、誰か。
強烈なストレスゆえか、小女の、唸りのようなものが口の端からのぼる。
「うう……」
しっかりしなきゃ。
俯き、そうは思うも、大店である呉服屋の五代目、と目される彼女としても、この状況をどうにかするにしては、あまりにもその腕はか細いし、頭の中は入道雲みたいに純白な真っ白に染まりきってしまい、まったくもって良いアイディアなんてものは浮かびやしない。これほどまでに積む、なんてこと、想定外であったし、何より、なんとかなると、楽観的に想像していたのだ。頼りになる家族がいたからこその、傲慢さだった。
確かに、国に背くということは、一家郎党を迷わせることになる。だが、それは覚悟の上であった。だが、所詮は、つもり、のようだった。
まったくもって、どうしようもなかった。
「お母様…………」
逃げたい、という思いもあるが、幼い頃より厳しくも手優しくしてくれた母の匂いを思い出し、まさか、こんなにも短い人生で終わるのか、と。
不安に苛まれる小女、一種の恐慌状態に陥っていた。
涙が枯れ果て、それでも恐怖に怯え、その隠し部屋から二人、逃げ出せずにいた。狭い小部屋でじっとうずくまり…、どれだけの時間が、過ぎたことだろう。
最初に気付いたのは、黒髪の少女であった。
勝手に被らされていた帽子をとって、ぼうっとしていた面もちであったのだが、鼻をすん、と蠢かす。
体育座りをして物静かにしていたのだが、嫌な臭いを感じ取ったのである。険しい顔をしたまま、
「ね……」
「ん……?」
ぼんやりと途方に暮れていた小女を揺らす。
そうして、身振り手振りでもって、伝えようとした。
「あの、ね、これ。
もしかして、火事?」
「え?」
黒髪の少女の顔をじーっと見つめ、その妙な緊迫感をみてとった小女は、妙に鼻を指差して膨らませる姿に思わず苦笑してしまったが、笑われても真顔のままな態度をあらためないので、すっと、その凝り固まった脳をようやく、働かせた。何かを、伝えようとしている、と。
人生経験が少ないぶん、母のように勘働きは未だ鋭くはないが、黒髪少女の必死なアピールに心動かされた小女、彼女もまたその小さすぎる鼻の穴を蠢かし、ようやっと、事態を把握するに至った。
「か、かかか、火事っ!?
え、も、燃えてる?」
何やら、燃焼したときの、あの焦げ臭い匂いが、こんな隠し部屋にも、入り込んでいた。黒髪の少女は、大層、大慌てだが負けじと小女も盛大に狼狽えた。
「煙がヤバい! ヤバいって!」
「どどど、どうしよう、に、逃げなきゃ、
丸焦げになっちゃう!」
物理的に殴られるのも嫌だが、煙にまかれて失神するほうがヤバい。死ぬ。
豚の丸焼きみたいに、じゅうじゅうに焼かれるのは嫌だ。死ぬ。
似ているようで、まったくもって思考の方向性が違う予想図を描いた二人は、勢いつけて、隠し部屋からの脱出を試みる。
ひぃ、ひぃと、声にならぬ声で、蕎麦屋の台所へと這ってでも姿を現す。
そこには、無残にも打ち据えられた、大事な蕎麦屋の商売道具があちこちにばらまかれており、野菜もまた、干されていたというのにそこかしこで大根はど真ん中から折られ、調味料は床にたっぷりと振りかけられ……、とてもじゃないが、人間のすることとは思えぬ所業だった。
もっとひどいのは、この蕎麦屋に火をつけた輩、か。
すでに、煙は回っていた。木造ゆえに、火の手が早い。燃え盛る炎の音がする。
「ごほ、ごほ」
立ち上がる小女は、思わず咳き込む。
彼女の頭から上にある空間は、すでに真っ黒な煙で覆われていた。
そんな彼女を慮るように、黒髪の少女は、自らの大事な制服を、彼女の口に当てて、頭を押さえつけて、驚かれてどれだけ髪の毛が抜けようとも後頭部を押し込み、腰を低くするよう促した。そういった、かなりの力技であったが、
「そう、そう。
そうして、逃げるんだ」
黒髪の少女は、しっかと、ほうれんそうを学んでいる。
それを、実践するときがきたようである。これがもし、周りに大人がひとりでもいたのなら、ぼさっと突っ立ってものの役にたっていなかったのかもしれない。
だが、黒髪の少女にはやらねばならぬ、守らねばならない子がいた。ぽつんと一人っきりで、身寄りのない異世界で惑っていた迷子を、この小さな女の子は、小さいナリのくせして、見捨てようとせず、奴隷として生かされようとしていた彼女を救ってくれたのである。それがたとえ、途中から日本語が分からなくなっても、罪悪感からによるものだとしても、我が身振り返らず助けてくれた。
間違いなく、まごころで、救ってくれたのである。
その恩義を感じていた。
まさか、あんな酷い城だとは思わなかったと、謝罪をしてくれた、良き人たち。西洋の顔立ちに近い、日本人とはまったくもって異なる顔の、彼ら。
そうして、黒髪の少女を一心に励ましてくれた、あるいは、
友達。
「そう、だね。
もし、もう少し言葉を互いに理解できたのなら……、時間があったら、
きっと、良い友達になってた」
「痛い……うう、いきなり、何をするの」
煙を吸わせないために、後頭部を強く押し付けた反動で、彼女の髪の毛が少し、抜けて黒髪少女の指の隙間にはりついていた。
密着し、離れ離れにならないように動くのも苦心する。物があちこちでバラバラになって、少女二人の道行きを阻んでもいたのだ。黒髪の少女の腕や足は、すっかり青たんだらけ。痛みと、小さな出血が、身体のあちこちに出来上がる。
それもこれも、彼女が率先して、先に動いてカバーしているから。
「ごめんね、でも、早く、出ないと」
「わかんない、何を言っているのかわからない」
黒い髪の少女が、唐突にも野蛮な行動をしてきたことに動揺を隠しきれないでいる。
が、彼女は、少女と会話をしたことがある、数少ない意志疎通をした者の一人でもある。色んな慰めの言葉も交わした。
たくさんの、この世界の、この国についての話し合いをした。
決して、暴力的な人ではない。
こんな異世界に一人ぼっちでも、決して異世界の人間を恨んだりはしなかった。顔について不気味だとあれこれ言われても、たとえ、妙な染毛剤をかけられ苛められようとも、彼女は決して同じ異世界の人間を嫌ったりはしない。
「悪い、人じゃないもの……」
床にへばるようにして、歩かされる。
這い蹲らされ、身体のあちこちにあの憲兵らが暴れ回った残骸がぶつかり、痛い思いをするが、それでも小女は、僅かな時間に話したときの、黒髪少女の人柄が、とても優しくて、真っ直ぐなことを知っていた。
だから、信じた。
出口は、もうすぐ。
たとえ、それが地獄の入り口だとしても、彼女たちは、この炎に巻かれるのは嫌だった。
ゆっくりと、しかし、確実に進む。
「ほぅラ、言った通りでしょ」
若い男の声。
隊長、と呼ばれる、憲兵の長、と思わしき男がそこに立っていた。彼の後ろには、ずらりと人の姿がある。煙に目をやられ、うっすらとしか見えないが……。
げほ、と咽ながらも、黒髪の少女は、彼らを射抜くようにして見据える。
異界の、友と呼べるかもしれない小女を、背後に回した黒髪の少女は、汚れているであろう熱くて痒い顔を袖口で拭った。




