三十二話
※残酷な描写があります。
派手な音と共に、引き戸が破られる。
「なっ、」
それはまさしく暴漢、といっていい所業であった。
誰かの声が上がったが、それはいったい誰の声だったのか。それさえ分からないほどに、あっという間にその場は混乱の一途を辿った。
老人は、ただでさえ曲がっていた腰がさらに曲がって全身を打ちすえて床に倒れこみ、女子二人は台所へと辛うじて身を隠すことができたものの、隠し部屋へは至らなかった。物陰に座り込んで、事態を見守ることしかできないでいる。
「お前が蕎麦屋の爺さんか」
若い男の声だった。
しかし、有無を言わさぬ怖い声だと、子女は思った。
「ひ、け、憲兵さん、か……、」
「罪状は分かってンだろう?」
足音が複数、蕎麦屋の中に、客が蕎麦を食べる木机周辺をたむろっているようだ。隣にいる黒髪少女の肩が、子女の腕に触れた。身を小さくし、ぶるぶると震えているようだ。大店の娘は可哀想に思い、彼女の手をぎゅっと握る。娘もまた、小刻みに怯えてはいたが。
「ここに、日本人がいるって、通報があった」
老人が教えてくれた通り、憲兵がこの店に来てしまったようだ。
なんてこと……、
子女は、とんでもないことになってしまったと、唇を噛み締める。いったい誰がこんなことをしでかしたのか。あの子供、か?
いや、今は、そんなことを考えている場合ではない。
強く握り返してくれた黒髪の彼女に、小女は顔を向ける。頷き合う。
「さて、爺さん。
どこにいる?
隠してっと、碌な目にあわねェーぜ?」
「し、知らぬ……」
「ハっ!
知らん、か。
犯人はだいたい、知らぬ存ぜぬ、って言うんだよなァ」
面倒そうな言い振りをしている若い男か、誰かは分からないが、誰かが店内の椅子か、机か、何かを蹴り飛ばしたものか、派手に壁に叩きつける音がした。
「ひいっ」
老人の悲鳴と同時に、壁面に叩きつけられたソレらがバラバラになった様子が伺い知れる。落下する物音からも、憲兵らが恐ろしさが際立つ。
「さ、爺さん。
分かっただろう?
ウチらが、ただの憲兵じゃないって」
「な、なんでこんなこと……」
「なんでって。
王に命じられた特務隊だからだよ、爺さん」
と、くむたい……。
小女は、声にならない声で、特務隊、をなぞった。
傍目からみても分かるほどに、彼女の顔は真っ青になった。真っ白、になってもおかしくはないが……、それほどに、絶望を感じた。足元に暗い穴があって、今にも落ちてしまいそうな、そんな危うさを感じる。
「へーカはご立腹だよ、
せっかく妻となるべき、由緒正しき奴隷がやってきたんだからサー。
……まァ、諦めてお縄についたほうが、いや、首輪か。
ついちまったほうが、人生にも諦めがつくってもんでしょ」
さァ、どこにいる?
若い憲兵の訊ねる声が殊の外優しいが、背筋が凍る。ぞっとするような、氷のようなものを、彼の声音に孕んでいるような予感がしてならない。
子女は、見つかりませんようにと、ぎゅっと、少女と覆うように抱きしめる。
黒髪の少女もまた、帽子を被ったままの蓑虫といった態で明らかに妖しい恰好ではあったが、大人しく少女に抱擁されるがままでいる。彼女もまた、あの若い男の声色に、何か、恐ろしいものを感じているようで先ほどから震えが止まっていない。
「んー、爺さん殴るのは趣味じゃネーんだけどな」
「隊長、」
「ん?」
「自分がやりますか?」
「いンや。
てめーみたいな筋肉が殴ると、この爺さん、さすがに死ぬだろうからナー。
アハハハハ」
高笑いが蕎麦屋内に響く。
幾人か、憲兵がほかにもいるだろうに、彼らはまったくもって、隊長のように同調して笑いもせずにいたため、
「ホラ、笑ェよ」
と、隊長らしき若い男が促したため、なんとも不気味な男たちのカラ笑いが、狭い蕎麦屋にトグロを巻くように籠った。
「ンじゃあ、調べるか」
「拷問は?」
「してもいいいが、面倒だしなあ、後始末が。
ンー、そうだ、店の中調べてからやるかネ」
すると、先ほどから動きをみせなかった老人が、立ちあがった、ようだった。
「ま、待ってくだせぇ、
こ、この店はワシが大事にしてきた、
ワシの生きがいなんじゃ。
やめてくれ、やめてくれぇ」
「だったら、ちったぁ、奴隷の情報を吐け」
「そ、そんなもん、知るはずが……ぎゃっ」
あ、と。憲兵の、誰かの声がした。
再び、店の中で何かが壊れる音がした。それも、気持ち悪い音だ。甲高いようで、何か、二重三重に大事にしているものをまとめて折ってしまった、そんなような音が。黒髪少女の身体が、強張る。
「隊長、力加減苦手なんですから……」
「ありゃりゃ。
こりゃ、爺さん、って。おい。生きてる、よナ?」
「だから自分がやると申し上げた」
「気ぃ失っちまっただけか」
ひ、と声が漏れるのを小女は抑えられなかった。
そう、老人が。殴られたようだったから。
「失禁しちまってるなあ。
うーん。マ、しょうがないか……。
いきなりオレっちの服を掴もうとするから、ついヤっちまった」
「隊長……」
「しゃーねェ……おい、この爺さんは使えるかもしれんから、
連れていけ」
「はっ。
独房でよろしいですか?」
「そーだナ。
一応着替えもつけてやれ。
吐かせるときに、臭うと困る」
「隊長は潔癖ですな」
「ヌかせ」
恐怖が、やってきた。
足音が、台所へとやってくる。靴が、高らかに、床を詰って、二人の娘のところへとやってくる――――。
がつ、がつと、ところどころ、足で蹴り付けたり、綺麗に整頓されていたはずの籠やら、野菜の束を床に投げ捨てられながら、彼らは台所の中も調査している。
「はァ、見つかったか?」
「いいえ」
「ンー」
隊長、と呼ばれる、恐怖の憲兵らの上司らしき人物は、衝立のあるほうの小上がりスペースにて、あれこれと見て回っているようだった。
「あー、ナイわ。
こりゃあ、ガセ、掴まされた、かねェ」
「ですが、奇妙な言葉を喋る人間がいると、近辺で目撃されてたようですが」
「んんー、それなんだよなァ。
黒い髪の男がいる、と。
マ、あの奴隷は男みたいな寸胴な餓鬼だったし、
まず間違いなく目撃情報は合ってるンだよな~……」
悩んでいるようだったが、若い男の部下らの荒らし方に、いくら聞き耳を立てようと踏ん張ろうとしても、若い娘のことである、歯がガチガチとかみ合わなくて、次第に涙目になっていくのを、鼻の奥がつん、としてくるのもどうにもできなくて、貴重な情報だというのに途切れ途切れにしか、集中できなかった。
奴隷呼ばわりされた黒髪の少女もまた、似たようなものだったが、それでもぎゅっと目を瞑っているあたり、相当堪えられない様子ではあった。
「ハァー、ったく。
へーカの我儘にも困ったもんだワ……」
「隊長、それ、陛下には言わないでください」
「わーってるよ。さすがにいくらオレっちだって、
物理的に首が飛んじまう。
あの親父、とんでもネェーエロ親父」
「隊長!」
「ハイハイ」
とうとう、水瓶が。
はっとして、気付けば。大瓶が、割られた。
二人は、ぎゅっと、互いに強く、痛いぐらいに掴みあった。
「おうおう、綺麗に割れた音。
結構、結構」
「隊長。
あらかた台所は調べつくしましたが、どこにも、
異変は発見できませんでした」
「同じく。
こっちは私室のようでしたが、狭い部屋で……、
何もありません」
「……まァ、人が隠れる場所自体、
こんな狭い店じゃ、限られてくる、か」
「どうします?」
「撤収だ」
もうこれ以上、探しても何もないんじゃーなァ、などと若い男はぶつくさ言いながら、蕎麦屋を出ていく。
部下たちも、それに呼応して。壊れた店の物を踏みつけながら、出ていく音がした。
しばらくそうして、彼女たちはじっとしていた。
無言で。語る言葉もなく、ただ。静かに、何も考えられずにいた。
仕事柄、小女だって、客に怒られることや、理不尽に怒鳴られることは、何回かあった。でもそれは、なんとか我慢できる、受け流すことのできることだった。とんでもないストレスだが、それでも、命の危機を感じるほどのものではなかった。
武器を持つことが許された、いわば、暴力をふるうことを命じられた憲兵の、それも特務隊。
あの彼らが、奴隷と酷くなじる彼女を、探している。
圧倒的な暴力を前に、防ぐ力さえない小女は、大店の跡取りとして、冷静に判断し行動せよと言われているというのに、やはり、こればかりは、どうにも。
涙が、双眸から流れ落ちてくるのを、堪えることができなかった。
特務隊がいなくなって、やっと。安堵したためか、こみ上げてくるものを、我慢することができなかった。
彼女たちは、気丈にも、言葉通わずとも意志疎通を果たし、隠し部屋へとその身を移すことができた。
もし、それがほんのわずかにでも遅れてでもしていたら……。




