三話
年寄りも元気に井戸端会議をしている。
溢れんばかりの湯治客でにぎわう宿場町では浮浪者の姿を目にしないし、暴れん坊はいないかと、職務柄、そういった目線で見てしまうリディール・レイ・サトゥーン騎士団長である。
(山賊の類も出なかったし、治安は悪いと聞いていたが、
さほどではなかったようだな)
活気があるように感じる。
良くも悪くも金環国家バージルは、長年の敵国であった我がアーディ王国との経済交流活性化により、その恩恵を甘受しているようだ。民からの不平不満も少なからずあるとは思うが、表だって出ることはなさそうである。彼ら金環国民の服、よくよく見ると金環国家独自の装飾品だけじゃなくアーディ王国の流行が取り入れられたりしている。忌避感はなさそうだ。
土産物屋にはアーディ王国からの輸入品であるガラスの小物入れもあったりして、女性客に人気が出るだろうな、なんて我がサトゥーン伯爵家の領地と比較してしまうあたりで、軽い視察を知らず知らず行っていることに気付き、はっと我に返った。ちなみにサトゥーン伯爵家の領地は長閑な森林地帯が広がり、高価な毛皮をなめしては売買して儲けを出している。
「……実に仕事馬鹿だな、私は……」
(さっさと体を休めよう……)
夕暮れの薄暗さに包まれたまま、なんとはなしにトボトボとした歩みでもって敵襲にも備えられるムキムキ護衛を幾人も雇っているそこそこ大き目な宿に目星をつけ、馬を預ける。
受付で先払いと言われ金を手渡しし、案内を勝手出る主のうしろをついていく。宿の主の腰にちゃんと金環国家住民らしく、模様の入った小さな容器がぶら下がっている。木目に描かれた模様はそれぞれ好きな絵が描かれていて見目を楽しませた。
「ご夕食は一階の大部屋にてご用意いたしております。
……失礼ですが、お客様、アーディ王国の方では……」
「ええ、そうです」
「やはりそうでしたか!
お食事に関して申し上げますと、
アーディの方には、少々食べづらいかもしれません。
その時は、フォークやスプーンなどのカトラリーを
ご用意いたしますので、近くにいる店員をお呼びください」
階段を登り切った先にある、入室を促された部屋は、大きな窓が一つだけ。
内装はおおむね、金環国家バージルの芸術で設えられていた。中華、いや和風、というか。屏風もあれば謎な黄金獅子舞が置かれていたりする。引き立て役のカーペットが地味だが真っ赤なあしらいがなされたベッドもあり、眩い置物効果も抜群にあってか、結果的にド派手な印象を受ける。
(そういえば……)
当時敵国であったバージルに詳しい人間を、国交の一助になればと試しに呼んだことがあった。金環国家文化のご高説を長々と受けていた王太子殿下の傍らで、護衛として控えていた騎士団長リディール・レイ・サトゥーンも耳にしていたのだ。
曰く、木材への熱意がバージルには連綿と続いていて、職人が代々持ち続けているらしい。
私の佇む出窓にもその未知の生き物は、欄干精緻な姿でもって鎮座している。今にも天へと駆け上りそうな、見事な造形だ。手には珠がある。もしかしたら、逆鱗もどこかに彫られてるかもしれないが、武骨な騎士には分からない。ただ、理解できるのは、
(龍だ)
喉が、乾く。
空気が乾燥しているからだろうか。
いや……それなら、どうして私の目元が滲むのだろう。
二階だからか、景色も良い。山も望めた。
ではごゆっくり、といなくなった宿の主をしり目に両手で窓を開け放つと、心地よい風が吹きこんできた。あの方向に、故郷アーディ王国があるはずである。時間的にも今頃王宮は夕飯の準備で多忙だろう。上から下までせわしなく働く官民一体の動き、騒がしい城内の様子をまざまざと思い浮かべてしまう。
こんなにも遠いところにいるというのに。なんとはなしに、年寄りになったと感慨深く身に染みる。
妙に心細い。
じじいにはまだまだ、と思っていたが、そうでもなさそうだ。
孫だって、見せてやれていないというのに。
「……それはそれで、親不孝かな……」
ぽつり、と呟く。この世界においての、私の肉親。
生真面目でいかにも頑固そうな父と、どこまでもたおやかな母の面差し。
日本と違い、彼らは洋風の眼と髪を持ち私にもそれは遺伝していた。見覚えのない文字を脳みそに叩き込み、一生懸命、父と母の顔を憶える。彼らは規則正しい貴族然とした人たちで、私にもその教えを享受させた。頑固で、優しくも厳しい方々。熱心だった。
私もまたその思いに報いようと辛抱強く奮闘する。勉学、騎士学校への進学、教養教育、それらすべてに恭順を示してそれなりの成果を出したが、ある日唐突に湧いた婚約だけは。
用意された対面さえ。どうしても、できなかった。
絶対に、相手が可哀そうだった。
どうにもならないことなんて世の中にいっぱいあるものだ。両目を閉じる。
(私の、女としての部分がある限り、結婚だけは……、
ましてや、夜の生活なんて、絶対にごめんだ。
男に走ることだって難しいだろう。前世を持つだけに、私は……)
いずれは、養子をとらねばなるまい。
血筋はどうでもいい、とはいかないのが、この貴族社会の厄介なところだ。目ぼしい親戚にあたりをつけるだけでも一苦労だ。両親はまさか、貴族としての心構えを教え込んだはずの一人っ子が結婚の結、が出た時点で逃げ回って場合によっては他国にまで仕事と称して結婚適齢期から駆けずり回るとは思わなかったであろう……まさかのまさか、健康男子で自慢の一人息子が、女性に恥をかかせるなんて。
綺麗に着飾った彼女は、憤怒とも悲しみともとれる顔をして婚約前の対面にさえ姿を現すことのなかった私を待ち続けていたという。想像するだに足が竦む。両親主導で無理やり行われた縁談ではあったが、一人の女性を苦しめてしまった。謝罪をしようにも、相手の方から事前に丁寧なお断りをされてしまった。
それほどまでに私は彼女を苦しめてしまったのだ。申し訳なさに次第に領地にある実家から足が遠のいてしまったが、決して、無理解な両親を嫌いというわけではない。
たまには帰る。
領地へ赴くことはあるけれども周囲の同僚たちに比べ、やはり頻度は低い。
(情けない自分を思い出しては、自分を慰める、か……)
「良い歳こいて、何をやっているんだか……」
ふぅ、と嘆息してから旅装を脱ぐ。
今回の旅路にて飛び道具への対策も考えていたが、あまり意味をなさなかったようである。せっかくつけていた護身の守りを外していると、宿の主が再び、私の部屋にやってきた。
「風呂がございます」
「おお、それはありがたい」
この宿場町は温泉が有名であった。それでいて、日本人にとって気安い環境なのも。
(もし、日本人、が来るというのならこの国においてほかはない)
そのことである。
冒頭の欄干のように、この金環国家バージルには日本人の痕跡が、あちこちに散見される。
すなわち、日本人にとって、この国は目指すべき場所にもなっていた。
私が、なぜ、危険を冒してまで、こんな隣国にやってきたのか。
それは、故郷を同じくする日本人に会いたかったからだ。
(私がこの世界を生きてきて、この世界へやって来る異世界人とは、
ましてや日本人とは、今も昔も、
遭遇することが全くといっていいほどになかった)
もっといえば、
(私が、なぜこの世界へ、
日本人の意識を保ったまま、生まれ変わったのか……)
答えは、どこにも見当たらなかった。
ただ、私は家柄が良かった。
サトゥーン伯爵家と裕福な豪商を祖父に持つ。
そのため、嫡男である私の唯一の我儘である食へのこだわりに、応えてくれた。
醤油や味噌、お米の恩恵にあずかることができたのは、ひとえに遥か昔、この国で苦労をしたであろう日本人のおかげである。輸入食品は馬鹿高かった。
ましてや、当時は敵国。細々とした取引の中で、私の都合だけを優先するのは非常に難易度の高い話である。それでもなお私は、この日本食を食べたくて、食べたくて、仕方なかった。
心が、寂しくなるのだ。
日本のお米を食べたくて、子どもの頃夜中にこっそり泣いた、なんてこともあったぐらいだ、祖父は孫の憔悴した姿を見かねて定期的に入手してくださったが、それでも手に入らぬ時があった。豪商の腕でもっても難しい食材であったのだ。現在では難易度の高さは下りに下って、経済交流が活発になったおかげで値段も庶民に手の届きやすいものとなり、醤油がハイカラ調味料と化して、我が国アーディ王国民の食卓を楽しませている。
匂いが、した。
すんすんと鼻を蠢かす。
「これは……」
うきうきとしながら、階段を下りる。
大きく開けた扉の向こうには、大部屋があった。
そこにはたくさんの旅人たちがちらほらと好きなようにテーブルにつき、店員がせわしなく立ち働いている。混み始めているようだ。さっさと食べてしまおう。空いている席にすっと腰をおろすと、たちまちに食膳が運ばれてきて、食事の準備ができあがる。
風呂の前に、夕飯をいただく。
なんと、幸せなことか。
ましてや、
「おお」
湯気の際立つ味噌汁に、白いご飯にお漬物。
煮魚に、食前酒。
お刺身は残念ながら無かったが、まずは、ぐびぐびとお猪口もどきを使い酒を嗜むと、ほっと腹の底が温まる思いがした。
お箸を器用に扱う私を、相席した旅人が目を丸くして見つめている。