二十七話
その個人店では、閉店時間になるとボロキレのように使い古された暖簾を下ろし、ビッコを引きながら歩く老人が影となって、入り口の障子に映る。
腰を落としているところをみるに、蝶番ならぬ、引き戸につっかえ棒をしているんだろう。すっと曲げた腰を上げた人影が遠のく。
夕方も、一番星が紅に染まる世界の端で輝くその時刻。
金環国家首都は這い寄る夜に避けるように、往来を歩む人の姿が少なくなっていった。
「あれか」
「はい」
小さく返事をした諜報員、彼は少年であった。
紫部と同じ、諜報員の卵であり、きりりとした強気さのある眉毛がなんとも愛らしいものがある。彼は、軒下にいる私の後ろで控えていた。
「いかがなさいますか」
店の中は、とにかく静寂であった。
近所からの通いの子女はすでに帰らせている。老人は、丁寧に水拭きで、その木机の脚まで綺麗に拭きとったあと、背骨をまっすぐに伸ばしてトントン、軽く叩いた。
「……さあ、そろそろ、おいでくださいまし」
台所の奥には大きな水瓶がある。
老人のしわがれた声に反応したのか、なみなみと注がれたはずの水が跳ねた。途端、暗がりから、人の子の顔が浮かんだ。
年齢は、13歳頃、だろうか。
中学生といってもおかしくはない、その年齢の子供が、低姿勢で水瓶の脇を這って出てきた。
短髪の黒髪で、黒い瞳の少年。いや、少女、か。辛うじて胸がふっくらとしている。それでいて何故かその黒い髪の一束である端っこが紫色に変色しているが、概ねアジア的顔立ちであることがすぐ分かる。
彼女は、周囲をきょろきょろと警戒しながらも、その、この国では珍しい黒い髪を左右に揺らしながら立ち上がる。
「はぁ、もう、大丈夫、だよね」
「心配なさんな」
「うん……」
老人は、にっこりと、ただでさえ皺くちゃな顔をさらにくちゃくちゃにしながら、椅子に座るよう勧める。
彼女は特に拒絶することなく言われた通り背のない椅子に座り、いそいそと老人が持ってきた食事にその幼い眼を輝かせる。
おにぎり三つに、沢庵のしっぽ二切れ。
つましい食事だが、彼女にとってこれは何よりもありがたいご飯だった。今日一日、ずっと隠し部屋で身を隠し、トイレだって狭い部屋の隅に置いてあった瓶にしていて、己の尿意に殺意さえ芽生えていたところである。ただでさえ、この老人は危険極まりない日本人を保護してくれている。一日一食は育ちざかりには辛いことだが、あの城にいるよりはマシだった。
「ああ、美味しい……、
白いご飯がこんなにうまいなんて」
「ほら、たんとお食べ。
まだあるんだよ」
「もっと食べたいけど、でも、駄目だよね……」
「いいのかい、そんな少量で。
よく遠慮する子じゃ」
野菜だって食したい。だが、彼女にはそれを言葉にする術がなかった。
以前出された野菜、がアレルギーを引き起こすものだった。あれ以来、彼女はこの老人の出される野菜を食べることができないでいる。これもまた、言葉の不自由さの弊害で、彼女は大層申し訳なさそうに、山盛りのお野菜をそのままにしていた。あのときの居たたまれなさを思えば、食材を無駄にしてもらいたくない一心で、我慢するしかなかった。いったいどの料理に毒が潜んでいるか、分からないからだ。
せめてもの情けで用意された久方ぶりの水を飲んでいると、老人が彼女の袖を引っ張る。思えば、少女はこの世界の服装にしては、どこか妙な恰好であった。膝から下が丸見えだし、襟元には赤いハンカチーフのようなものが垂れ下がっている。それでいて、背中には何本か線の入った四角い襟が立たせることもなく下がっていて……だが、老人はそんなこと気にも留めず、部屋の奥に用意してあったらしい、この世界の服を見せた。
「あ、ありがとうございます」
彼女にとっても、清潔な寝間着はありがたいものだった。
たとえそれが、ただの寸胴なワンピースにしか見えなくとも。
小上がりの、衝立の影で着替える。その心細さは今なお消えないし、心もとないものだが、背に腹は代えられない。いくらお高い異世界の服であっても、あんなに走り回っていれば薄汚れるし転んでしまえば擦り切れてしまう。
洗濯板で洗ったことのない現代っこな彼女にとって、この異世界における洗濯は、冷たい水で指を痛めつける行為だし、石鹸らしきもので何度も擦るも、大した汚れがとれない。匂いも、朝日に当てないゆえか、どうも臭い。匂う。それでも彼女はこの制服を脱ぎたくはなかったし、できうる限り着用していた。それを着てさえいれば、いずれ、元の世界に帰れると信じていた。いや、縋っていた。睡眠前は寝間着の恰好で室内の衝立に慰め程度に干して、寝るときに懐に掻き抱いて、起きている昼間は身に着ける。
そうして、自由にできる時間といえば、日本語しか喋ることができない彼女が老人と作る料理だけだ。着替えると、暗がりに照らされた、カマドが暖かい台所へ足を運ぶ。割烹着もまた着用済みだ。ここが異世界の店でなければ、ただのお手伝いさん風の女の子である。
老人は、日本語を喋ることができなかった。
また、女の子も、現在、この世界の言語を話すことができなかった。
そのため、老人は大変、困っていた。
彼は男だった。
現在、大層しわくちゃで、いつあの世にいってもおかしくはない年齢だが、こんな可愛らしい女の子を手助けすることができて、大いに喜びを感じていた。それは何故か。
彼は独り身で、このまま、この蕎麦屋と心中するしかないと固く信じ込んでいた。近場に住まう、親戚の小女が通いで客さばきをしてくれているも、それも、この老人がいくばくかであの世に旅立つ頃にはすっかり良い嫁さんになってしまっているだろう。その嫁姿をみることができない、そういった無念さはあるものの、長年地元密着型で経営してきたこの店を手放すには、子女は跡取りには成り得ない、婿取り予定の一人娘であった。
仕方なしに、己の死と共に、この店の名物である蕎麦は、消えるものと思っていた。
そんな折に、彼女はやってきたのだった。
「さあ、ここに残りの食材がある。
好きなように作り、食べていいからね」
「うわあ、胡瓜ある!
大根も。
うーん、どうしようかな……」
彼女はいわゆる、家庭科が大好きな女子だった。
といっても、本格ではない、ただの料理好きに毛が生えたようなもの。到底、大人の舌を満足させるほどのものは作れないが、
「よし!
今日は、胡瓜のサラダを作る。大根も入れようか。
あと、ドレッシングは……、うん、またマヨネーズにしよう」
「ほう、そこまで細かく……、
煮しめを作るというわけではなさそうな」
「あの油があればなあ、
ごま油……、みりん……、はあるけど、うん、
まぁ、仕方ないか」
彼女はふんふんと、記憶にあるCMの音楽を鼻歌で歌いながら、手際よく、水に細かく刻んだ大根を晒す。重たい包丁は最初しんどかったが、コツを掴めばなんとも手慣れたものである。ぷかりと浮かんだ野菜に塩を少々入れるのは彼女の好みだ。
「しゃきしゃきしてるのが良いんだよねぇ~」
次いで、大きく懐のある器に、卵をまるまると投入。
何個か入れ、塩も混ぜ。油も回して馴染ませるようにして垂らしこみ、数少ない手持ちである黒こしょうを振りかける。このコショウ、母から買い物してこいと言われ、スーパー袋に入っていたものである。
彼女は、この老人に感謝の念を抱いていた。
したがって、時代によっては貴重な黒ダイヤとも呼ばれるような代物を、あっさりと使ってしまっていた。
そうして、大量のドレッシングを作成する。
それは、このかくまってくれているお年寄りのため。それと、彼女をここに連れてきてくれた女の子のためだった。子女は、彼女の作ったマヨネーズをいたく気に入ってくれている。隠れている部屋にさえ、彼女の歓声が聞こえたほどだから、嬉しくないわけじゃない。それに、もし余ったのなら、客にやってもよかった。
そう、彼女は、あまりこの世界のことを知らなかった。
幼い。観察力も経験値もまだまだこれからの、未来ある若者にすぎなかった。
それゆえに、当たり前のように和食があちこちで給され、城でも、商人のお屋敷でも当然のごとく出されたご飯(和食)の数々に、彼女は思いっきりスタートダッシュを間違えてしまったのだ。
せめて、この異世界にやってきた当初のように、日本語が通じていれば、なんとかなっていたのかもしれないが。
「完成ー!」
「おお、出来たようじゃな」
「はい、おじいちゃん!
でも、あんまり食べたら駄目だよ、油っ気が強いし」
「うむうむ、舌がぴりぴりとして。
面白い味じゃな。
またお客さんに面妖だと喜ばれるぞい。
よし、明日はおぬしが作ってくれた胡瓜の油混ぜを出してやろうかのう」
「おいしー!」
「よいよい、ちゃんといっぱい野菜も食べんと大きくなれんぞ。
まったく、変わった嬢ちゃんじゃな、
自分で作らないと食べないとは」
「何言ってるかわかんないけど、でも、
喜んでくれてるみたい。良かった~」
爺さんは、根っからの善人だった。
地元密着型の、そのお店で初めてとなるマヨネーズを誰にでも分け隔てなく出し、評判になった。
いや、そのお店初のものではない。
世界初、であった。




