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「多美!」
左手の方から、知っている声が多美を呼んだ。振り向くと古沢さんがいた。手には生物の教科書を持って、なぜか慌てているようにも見えた。
「どうしたの?」
「どうしたのって……」
綺麗な髪を片手でぐしゃぐしゃっと掻き撫でて、困り果てた顔をしていた。何かを言いかけて止め、ずんずんとこちらにやってきて、ベンチの隣にどすんと座る。
「古沢さん?」
「……」
何も話そうとしないので、多美は思いついたことを聞いた。
「今日、合唱部は?」
「歯医者の予約があったから休み。時間まで教室で予習。言ったと思うけど」
全然記憶に残ってなかった。みんなとのおしゃべりも、なんとなくそぞろになっているのか。ここまでぼんやりしている自覚はなかった。
「そうだ、昨日は驚かせてごめんね」
多美がとりなすようにそう言ったら、少しだけ古沢さんから固さが取れた。
「謝ることなんてない。梓さん、ご愁傷様でした」
「……ありがとう」
「どんなお式だったの?」
「人は少なかったな。やっぱりもう学校から長く離れてたから、友達もほとんどいなくて、来てたのは家族と親戚とうちくらいだった。でも一人ひとりにきちんとしたお別れの時間がもらえて。実加の遺書を、棺に入れさせてもらったの」
「ああ、例の?」
三人にはざっくり、妹の遺書で頼まれて梓と会っていると説明はしてある。
「やっと終わったのに、終わった気が全然しない」
あれを受け取った時、多美はこの一生のお願いを、本当に叶えてやることができるのか不安だった。結局その約束は果たすことができたけれど。
「……あのさ、梓さんは、遺書とか残してたの?」
言いにくそうに古沢さんはそう訊いてきた。多美は静かに首を横に振る。
「何か残して欲しかった? 妹さんの時みたいに」
「……」
答えることはできなかった。
古沢さんは多美が答えにくいのが分かったのか、特に返事を求めなかった。
「……昨日、生物で遺伝子の話が出て」
古沢さんの会話が突然、別のベクトルに振られた。多美はよく分からないながら、うんと頷いた。
「人類の生存の話とか種の保存っていう話だったんだけど、普通人間が、自分が生きた証を残すとなると、まず子供を産んで遺伝子を引き継ぐ話になるよね。でもそんなことしなくても、それぞれの人は、その近くにいた人の記憶によっても引き継がれていっているんじゃないかと思った」
「……記憶、」
「妹さんが死んでも、多美の話してくれる妹さんは、まだ病院で生きているみたいな感じがする。それは多分、多美の記憶の中に妹さんがまだ生きて保存されているってことで、それなら梓さんのこともきっと、多美の中に確実に受け継がれているはずで」
――誰かが悲しんでくれるくらいには、命って軽くもない。
「梓さんが何にも残していかなかったとしても、多美は生きつづける。多美がいなくなっても、誰かが多美がいたことを引き継いでいく。それは人が生きていく中での約束だよ。私たちは私たちの知らないような人たちから引き継がれて今ここにいて、そして誰かに引き継がれていく。ただここにいるだけで必ず」
だから、と慎重に古沢さんは言った。「ヤケは起こすなよ、絶対」
……さっきの様子を見られていたんだ。
でも古沢さんはすぐに駆けつけてくれた。どれだけ回りくどい言葉を使ってそれが言いたかったのか、とちょっとだけ笑えた。それからすごく嬉しかった。
いつか必ず来るその日まで、ただここにいること。
生きている理由はたったそれだけでいい。
「ありがとう、古沢さん」
「いい加減その他人行儀な呼び方はやめて、唯って呼んでくれない? けっこう気に入ってるのに、この名前。唯一の唯。独り立ちしてて、かっこいいでしょ」
「呼ばれたかったんだ?!」
唯ちゃんと可愛く呼ばれるのは、あまり好きではないのかなと勝手に思い込んでいた。多美のツッコミにいたく傷ついたような顔をして、私のこと、何だと思ってたの?と少しだけ睨まれた。




