22
家に帰ると、窓辺の鉢植えにいくつかつぼみがついていた。鉢植えは、見事に小さくても美しい花を咲かせた缶入りの植物の次に、駅前で購入した新顔だ。一人きりで外出するのも久しぶりだった母が、こんな大きな鉢植えを二つも抱えて帰ってきた時にはさすがにびっくりしたけれど、今では梶原家居間のなくてはならない一員となっている。
「おかえり」
母がソファーでのんびりしながら、ガーデニングの雑誌を読んでいる。表情は柔らかく、変な感じはまったくなかった。
「ただいま。今日、カレーでいい? すぐ支度するね」
「あら、それなら私がやるわよ」
「いいよ、ママは休んでて」
「なんだかヒマなのがダメな気がしてきたのよね」
母はそう言って、読んでいた雑誌を置き立ち上がった。多美はその言葉に思わず梓に言われたことを思い出してドキっとした。
「ほら、今までがてんてこまいだったでしょ? だから何にもしないのがどうにも慣れなくて。落ち着かないし」
「でもお医者さんが、急に無理するなって言ってたじゃない」
「頑張りすぎは厳禁ってね。うん、確かに言われたわね」
だから今、日記をつけているのよ。母はさらっとそんなことを言った。
「……日記?」
「うん。なんだかね、ちょっと実加ちゃんの気持ちが分かった気がするわ」
実加の気持ち?
「日記、見てみる?」
「いいの?」
どうぞ、と普通のキャンパスのノートを渡されたので、多美は適当にページをめくってみた。
8月25日 ○○錠を一日三回。昼ちょっと飲み忘れ。花と植木に水やり。本屋に外出。
「……なんか、実加の日記みたい」
最後の方、実加は日記をつけていた。実加の死後、遺品整理の時に初めて中を見たが、それはちょっと日記としては、異様な代物だった。
そこに書かれていたのは、投与された薬、受けた検査、その結果。身体の不具合。本当にそれだけだった。
カルテなのかメモなのか分からない、ただ事象のみを書き記しただけのもの。自分の気持ちや、イベントなど、そういったことは一切書かれていなかった。ぞっとする量の薬の名前と体温と血圧の数字が並ぶ。そこに実加の感情はない。
それでも、多美は生前実加からこのノートを「日記」だと聞いていたから、日記に間違いなかった。
そして母の日記もそれにとてもよく似ていた。
「飲んだ薬の内容と量、今日やれたことだけ書いておく日記よ。後で読み返すとね、できることがどんどん増えていくの。それがなんていうのかな、もうちょっとだけなら大丈夫かなの目安になるのよ」
母が言うには、何を思っていたとか何を考えているとか、そういう内省的なことは一切書かないのがルールなのだという。
「このままだるくてなんにもできないのかしらって思った時に読むとね、いや、まだまだ前よりはずっとできるようになってるじゃないって、ちょっと自信になるの」
だから無理はしてないの。今日も下ごしらえだけにしておくわねと、母はエプロンを身に着けて、シンク下のカゴに入っているたまねぎを取り出した。多美はそのノートをぺらぺらとめくりながら、本当に事象しか書かれていないことを確認する。
「実加ちゃんはね、あのノートで自分の状態のことを確認していたのねって、気がついた」
「ママ」
「だって、実加ちゃんのはママの日記とは逆よ。薬も治療もどんどん増えて、できないことも増えて、それでもまだ生きてる。そういうことだったんだもの。ギリギリまであの子は生きていることを確認してた。漠然とではなく、どれくらいの程度で自分が生きているかをきちんと見極めていたのね……。それを思ったら、ママ、また泣いちゃったわ」
たまねぎを持ちながら、母はしんみりとしてそう言った。
「だからママも実加ちゃんの真似。自分がどの程度で生きているかを確認」
「でもママは、よくなってきてるよ」
「そうね。それは否定しない」母は肯定した。「でも、一緒。親子だもの。同じことを考える。いつの間にかあの子と人生を重ねすぎてしまっていたからね」
多美はノートをテーブルにおいて、自分もエプロンをつけた。キッチンにいくと、包丁は玉ねぎのために母が使っていたので、洗ったじゃがいもを、ピーラーを使って剥く。後は圧力鍋に入れればすぐに柔らかく煮ることができる。
「多美にとってのノートが、きっと梓くんなのね」
「え?」
自分がどの程度生きているのか、確認。
ずっと瀕死だった彼の側にいられた壊れた自分。お互いに観察しながら。
「後悔のないようにしなさい」
母が多美と梓の間に何があるのかを知っているはずがなかった。なのにそんな言葉を選ばれて戸惑った。
「……うん」
その話はそこで終わって、話題を今日亜季たちに提案されたお誕生会の話に変えると、母はすごく喜んで二つ返事で受け入れを了承した。




