15
「ねぇ、梓くん、多美ちゃん彼女じゃないって本当?」
お隣さんの荒井が、消えた背中の桜吹雪を梓に再度書きながら、笑ってそう言う。
「本当。俺の彼女はもう死んじゃった」
「ならつきあっちゃえばいいのに」
「つきあってもエロいことできないもん」
ははは、と大声で荒井は笑う。それをうるさそうにして顔をしかめたのは、お向かいの井口青年だ。
「でも、あの子のこと、好きだろう?」
井口が梓から譲られたサッカー雑誌から目も上げずに、ぼそりと呟いたのを、二人はしっかり聞き遂げた。荒井がそこんとこどうなのーと茶化してくる。
「どうなのかね」
梓はくすくす笑うだけで、核心ははぐらかす。
「しかしあの子、すごい美人さんだよね。笑うとすごく可愛いのにもったいない。もう冷たくて。ツッコミはげしいし。クールビューティ? 大人になったらいい男ハイヒールでぐりぐりって」
「荒井さん変なオトナの想像はやめようよー」
「ヘンタイ」
ほがらかに笑う少年と、顔をしかめる青年に、親父はがははと笑い飛ばす。
「でも歌は上手だったね」
「でしょう? 本人は人並みだって思ってるみたいだけど」
「あんな歌ここで歌うかって」
「いいじゃない、多美らしくて」
あの日。夕焼けの中、窓を開けて彼女は歌っていた。小さな声で、けれどとても美しく。
梓だけではなく、カーテンを引いていた井口も、テレビを消したばかりの荒井もそれを聞いていた。三人とも、多美には気付かれないようにして、それが終わってしまわないように。曲名はよく知っていた。子供の頃にみんな必ず歌ったことのある歌。『今日の日はさようなら』
胸が痛くなるほどの美しい歌声に、思わず聞き入った。
「薄目開けて見ちゃったよ。やっぱり多美はいいなあ……」
けして自分には手に入らない人。
欲しいとも思ってはいけない人。
――なのに、最後まで側にいてくれる約束がある人。
「告白しないの? この世の名残、世の名残」
「しないしない。彼女にはまだまだ先があるからね」
否定も肯定もせずに飲み込むだけの梓。のっぺらぼうの梓。美しい多美の声が歌ったのが、永遠の約束だったらいうことはなかったのに。




