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今日から新しい生活が始まるというのに、多美にはなぜかその実感が湧かなかった。どうしてだろう。あんまりにも環境が変わりすぎたからなのだろうか。今度入学する高校は、自宅よりとても遠いところにある。バスに乗り合わせた、いかにも新しい制服の波から、ざわざわと共感できる会話が聞こえてくる。
混雑したバスを、人の波に便乗してなんとか降りた。すぐ右手に見える、バス停から徒歩三分の高校は、ぼろぼろのとても古い建物で、玄関がなぜか二階にあった。正面玄関階段前に張り出されたクラス発表の板の前は、多美と同じような新入生であふれかえっていた。背伸びしながら、やっとで三組に自分の名前を見つける。
ここまでするのにもうへとへとになってしまった。入学前案内のとおりに階段を上り、二階の玄関で自分のロッカーを探し、上履きに履き替える。教室は四階だ。ところどころの壁に貼ってある案内の紙を見ながら、ふらふらと教室に続く階段を探した。
見つけた三組の扉の前で、大きく深呼吸、一回。
――今日から、再出発。
入学式は多美だけではなく、家族にとって一つの契機だった。父も母も、朝からしきりにそう口にした。
――今日から気持ちを切り替えていかなきゃな。
多美は意を決して、目の前の扉を開けた。
新しい教室の扉を開けた瞬間、一斉に中の視線がこちらに向いた。おずおずと、緊張しながら中に入る多美を迎える視線は、緊張しているけれど温かい。見知った顔は当然いなかった。
『ご入学おめでとうございます。出席番号順に着席してください』
色とりどりのチョークで黒板にはそう書いてあり、自分の席を探して、七番のついた席に座った。机や椅子は中学の時よりもずっときれいだ。次々と入ってくるクラスメートは、みんな緊張している。時々中学からの知り合いを見つけた歓声があがっていた。
新しい教室、新しい制服に新しい鞄、教科書。見慣れない顔。すべてがなんとなくぎくしゃくしていてしっくりこないけれど、周囲のみんなの顔は明るい。
知り合いもいないので、ぼんやりと座っていたら、突然声がかかった。
「こんにちは」
すぐ後ろに座っていたその人は、とんとん、と多美の座っている背もたれを叩いた。振り向いた多美が見たのは、えくぼの浮かぶきれいな笑顔だった。よく見ると、笑顔だけではなく、ちょっとびっくりするくらいキレイな人だった。襟足長めのショートカット髪がつやつやとしていて、短いのにとても女の子らしく似合っていた。
「席も近いしよろしくね。私、一中の門倉亜季」
多美はびっくりしつつも、答えた。
「よろしく。梶原多美です。聖上中出身」
「聖上?! なんでこんな遠くのガッコ選んだの!」
多美の住んでいるK市は、大雑把に北部と南部に分かれている。多美の住む南部には、近場でここと同じくらいのレベルの高校があるので、そちらへ進学するのが普通になっている。
多美は細かく説明することは止めて、簡潔に答えた。
「家庭の事情、かな」
「家庭の事情……ね」
亜季はうーんと考えながら、それからこちらをまじまじと見つめる。
「何か大変なことがあったとか……?」
言葉を濁されて、何か誤解された気がしたので、多美はにっこりと笑い返した。
「そんなんじゃないよ。両親がこっちによく来てて、その都合」
そうは言ったけれど、本当はもうこの学校にする理由は存在しない。だから両親は家から近い、滑り止めで受けた私立の学校を選んだほうがいいと言ったが、多美自身がこちらを選択した。
一からの出発。全ての生活のリセット。大きく何かが変わってしまったこと。入学というイベントに混ぜ込みながら、その転機を乗り越えなければならなかった。それに、多美にはまだ残されている課題がある。
「わかった」
そういう亜季の目が一瞬するどくなってから、ゆっくりと緩んだ。本当に家庭の事情なのか、はたまた実は触れてはならない部分だろうか、その見極めを一瞬でされたような気がしたが、彼女が「わかった」らしい内容までは確認しなかった。
「ねえ、多美って呼んでいい?」
亜季はにっこりと笑ってそう聞いてきた。
「どうぞ。私はなんて呼べばいいですか?」
「うーん、友達にはアキとか、カドちんとか、カドクラとか、やっぱ呼び捨て系?」
「あ、ちょっと親近感。私もカジワラか、多美ってしか呼ばれない」
「なんだよね。なーんか、アキちゃんとかそういう風に呼ばれないんだよね。可愛げないし、まあ似合わんし」
こんなに美人なのに、確かに彼女はかわいいという印象がまったくない。あえて言うならかっこいいのだ。多分ものすごく同性にもてるタイプ。さばっとしていて姉御肌で、後輩にファンクラブとか作られてそうな気がする。
「そうそう、私ね、おんなじクラスに中学の時からの友達いるんだ。後で来たら紹介するね」
「うん。よろしく」
そう答えながら、多美は憂鬱なのと楽しみなのとが混ざった気分になった。元から仲の良い子と一緒になるというと、なかなか大変そう。でも誰も知らないところで一人にならずにすみそうで、ホッとしたのも本当だった。辺りを見渡すとあちらこちらで自己紹介の雰囲気になっていた。おもに隣の席、前後の席だ。亜季のように朗らかに声をかける人や、多美のように、顔がこわばったまま答えている姿があちらこちらにいて、なんだか可笑しい。
――緊張もするよな。でもきっと大丈夫。
昨日、多美をそう言って送り出した彼を思い出して、こっそりと笑う。そういえば彼も最初の頃に、さっきの亜季のように言ったっけ。ねぇ、多美って呼んでいい?
――梓。心配しなくても、大丈夫みたいだよ。