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あの人。
例の渦中の人だった。伊東英毅くん。洗ったのかと思うくらいびしょびしょの頭に、タオルをかぶせて、彼はずかずかと教室に入ってきた。自分の机の中に手を突っ込んで、ノートを一冊取り出す。忘れ物なのだろう。
伊東くんは、伏せたまま多美が、こちらを見ていたのに気付いていた。そして彼もまた、ゆっくりと見つめ返した。
視線が合う。
彼は声をかけてきた。
「疲れた?」
ぶっきらぼうだけど、優しい言い方だった。多美は静かに答える。
「ちょっとね」
「無理はすんな」
唐突な物言いだったが、素直な人柄がとてもよく出ていた。単純で明快、サッカー部の期待の新人。そうだ、梓が昔、サッカー部だった。今頃普通だったとしたら、梓もこんな風にしてたのかな。そう思ったらちょっとだけ楽しくなった。
「……何?」
いきなり笑ってしまった多美を見て、彼はけげんそうにしている。
「ううん、なんでもない」
「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ」
「何か俺に出来ることがあれば、助けてやるよ」
びっくりした。他人からそんな風に言われたことがなかったから。しかも個人的に話をしたのはこれが初めてだったのに。
「そういうことをあちらこちらでいうから、あっちゃんも千葉さんも大変なんじゃないの?」
思わずそう言ってしまってから、しまった、口を噤んだ。
彼はそんな多美を見て、困ったように笑った。
「……確かにたまにそう言われる」
要はお人よしなのだと気がついた。けして悪いことではないけれど、気持ちのない人にあるようなフリをするのはとてもよくないことだ。
「でも、まあどうもありがとう。とりあえず間に合ってるから」
「そう。それならいいけど」
変な間があいた。多美はどうしようと迷う。このうちに本人から、この件について何か聞けないのかなと思った。けれど、亜季にもあっちゃんにも聞けない話を、当の針のむしろな人にぶつけるのも、どうかとも思う。
そうしたら、伊東くんが堪えきれない様子で笑っていた。
「堀口と千葉の件を聞きたがってる」
そう言われて、よほど顔に出ていたのかもしれないと、多美はなんだか申し訳なくなってしまった。
「……せっかくあっちゃんと仲良くなったから、気になってるだけ」
「まあ気になるだろうな。けど、堀口にはもう振られたし、振られたからと言って、他に自分のことを好きな人なら誰でもいいってわけでもないと思うけど」
「それは、そう」
「仕方ないと思うことにしてる。堀口のことは諦めるように、千葉には期待させないように、俺にできるのはそれだけ」
潔かった。けっこうかっこいいじゃないかと見直した。こういうことから、なあなあに逃げようとする男子はすごく多いのに、この人はそういうところができているのだった。
「まあ、とりあえず、何か困ったことがあったら相談にはのってやるよ」
「それって、次は私のことが好きっていう風に聞こえるよ」
「いや、ただ梶原を応援したいだけ」
すごく意外な言葉が、伊東くんから飛び出してきた。
「何で応援されているのかちっともわかんないんだけど?」
「わかんないなら、それはまったくどうでもいい話」
伊東くんから出てくるのは、そんな謎な言葉だけだ。
「なんだかよく分からなくて、気持ち悪い」
正直にそう言うと、彼も困ったように笑った。
「多分、そんな遠くないうちに分かると思うよ」
と、そんなことしか言わなかった。
明日からは、第二部「プラネタリウム心中」がスタートです。




