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母が不安定であるということは、梓には言えなかった。なぜならばそれは、梓のご両親にも起こり得る話だったからだ。特に梓は一人息子だし。
何も言えずに憂鬱な多美を、梓は何も問いかけずに迎え入れた。外は静かに雨が降っている。いつもいい天気が続くわけがない。
梓はサッカー雑誌を読みながら、適当な感じで、ぽつりぽつりと声をかける。
「合唱、あいかわらずもめてるの」
「そんなことないよ。千葉さんと亜季だけは口きかないけど、面白い話で、千葉さんのお友達って事情が分かってて傍観してるから、変な対立はしてないし」
千葉さんのお友達である尾崎さんが前の席にいて、こっそり多美に教えてくれたのだ。
「梶原さん慣れてないみたいだから言っとくけど、ヨウコと門倉のはああいうスタイルだから気にすることはないのよ」
スタイル、という表現が面白かった。
「ヨウコも素直だからああ言うけど、正面切って言うだけあって、裏でこそこそすることは絶対ないし、門倉も堀口さんの件だけつっかかるだけで、ヨウコのやりきれなさ自体は理解してるみたいだし、あれはあれでコミュニケーションだと思うことがあるのよ。怖い話」
確かにあれで交流しているとしたら怖い話かもしれない。
少なくとも周囲にとっては嫌な交流に違いない。
「変に横槍がはいったほうがこじれるの、よーく見てきてるから、二人だけの言い争いなら、適当にやらせておけばいいってことよ」
お友達も開眼するほどの喧嘩友達がいるというのも、不思議な感じだ。
多美は肝心なことを尾崎さんに聞いてみた。
「で、千葉さんがそこまで追いかけている人って、誰?」
尾崎さんは、趣味はよくないと思うわ、と前置きして、そっと指を指した。
「……あの人ですか」
「そう。別にイケメンでもないんだけど。どこがいいんだろうね」
――と、そこまで話して、梓は読んでいたサッカー雑誌を放り出して、多美に詰め寄った。
「で、そいつ、どんなやつなの?!」
「なんだ、ちゃんと聞いてたんだ」
「多美の話は全部聞いてます。失礼な」
女子高生みたいなノリで梓は反論する。
「それこそ普通の人。ああ、サッカー部だね。でもそれくらいじゃないかな。特にどんな人っていうのはないよ。話もあんまりしないし、よくわかんないけど」
「つまんねぇの」
「つまらない言わないの」
「はーい」
雨はしとしとと降り続ける。沈みがちな気持ちがますます下がるのが悲しい。多美は梓がいつか実加から譲られた文庫本を手にしていた。その本をぱらぱらと何気なく開いて、その内容にぎょっとした。
「? どうしたの。読むならもっと楽しい本にしなよ。貸すよ、ワンピース」
「……マンガより字がいい」
「わがままだね、多美さんは」
その本は古典だ。曽根崎心中。この世の名残世の名残と五七調で歌う、心中の物語。梓は多美に何があったかなんてことは聞かない。だから多美も梓に聞かない。
――梓と実加が起こした、あの心中事件の真相が知りたいとは。




