そんなに早く進めたくないんだけど……
……その頃、とある民家では。
「愛美ちゃん。そろそろ寝なさい」
「……はい」
ここは例の女児―――愛美の家。中年女性に言われて、彼女は自室に引っ込んだ。
「……はぁ」
扉に鍵を掛けてから、そっと溜息を漏らす愛美。―――ここは彼女の家であるが、家族は赤の他人だ。愛美は幼くして両親を亡くし、この家に養子として引き取られた。それ自体はよくあることだが、愛美と、この家の者達はあまりうまくいっていなかった。
「……いい加減、家族ごっこは止めたらいいの」
というのも、養父母たちは、愛美に事実を伝えていない。彼女を、実の娘として育てている。しかし、愛美は本当のことに気づいていた。彼女はそれを養父母たちにも伝えたのだが、彼らはまともに取り合わないのだ。愛美には、自分たちが実の親だと思って欲しい。そういう意図があったのだろう。
「……馬鹿馬鹿しい」
しかしそれは、彼女にとって苦痛でしかない。最初から、「血が繋がっていないけど実の親子のように仲良くしよう」と言われれば。或いは、ばれた段階でそうしてくれたら。そのほうが、ずっと良かった。
「……みんな、嘘吐き」
嘘を吐かれること、隠し事をされること。その二つは、愛美が一番忌避することだった。
「……そして、私も嘘吐き」
何故ならば。愛美自身、誰にも言えない秘密を抱えているから。自分のしていることが如何に醜悪なのかを思い知らされて、惨めで、罪悪感に苛まれるから。故に彼女は、嘘や隠し事を嫌うのだ。
「……」
それから愛美は、部屋の窓を開けた。外に広がるのは、夜の町並み。民家や街灯の光が溢れ、空から見下ろせば、きっと星空のようなのだろう。そして愛美は、それが事実であると知っている。
「……えいっ!」
愛美は窓から身を乗り出し、外へと飛び出した。ここは二階だが、彼女の体は落下を開始しない。寧ろ、ぐんぐん上昇していた。
「……これが、本当の私」
夜空を飛翔する愛美の姿は、消えていた。―――否、夜の闇に紛れて、見えなくなっていた。彼女の体は漆黒に染まり、着ている服さえ真っ黒に。茶髪のツインテールも、銀色の瞳も、気怠げな表情も、黒に塗り潰されている。背中には黒い塊が生まれていて、それが翼の形をとっている。その姿は、この時代では忘れ去られてしまった、天使を連想させた。
「……私は、魔族」
人ならざる少女は、星の少ない夜空を舞い上がる。今宵は新月で、彼女の姿は空の色に溶け込んでしまうのだった。
……さて、夜朗たちは。
「さてと……それじゃあ始めるわよ」
「ああ」
夜の繁華街を抜け、夜朗たちは公園まで足を伸ばしていた。ここは昼間のうちに下見して、彼らの目的にぴったりだと判断した場所だった。
「広くて人気がなくて、木々も少ないから遮蔽物も少ない。照明もない。空を見上げるのにも風を感じるのにも、これほど好都合な場所はないわ」
「つっても、ほんとにいるんだろうな?」
「いるって噂だったから遥々来たんでしょ? 海外で噂になるくらいだし、ガセってことはないんじゃない?」
彼らがここへ―――もっと言うなら日本へやって来たのは、ある人物を探すためだ。それは、「闇天使」という魔族。普段は人間の姿を持ちながら、夜は漆黒の翼を羽撃かせる鳥人―――彼らの師匠に言わせると天使―――と言われている、稀少魔族。その存在は、同じ魔族の間ですら都市伝説扱いで、故に尾びれのついた憶測が飛び交っている。地上最強の魔族だとか、「キャプチャー」が多種の魔族を交配させて生み出したとか、「キラー」に根こそぎ駆逐されたとか、「ガーディアン」の保護施設最奥部に収容されているとか。
「日本は「キラー」の勢力下だし、魔族が隠れてたら連れ出さないと。いくら夜では見つかりにくくても、そんなに噂が出回ってるなら、奴らが放っておかないだろうから」
日本は「キラー」―――魔族を抹殺する組織に属している。無論、今の日本には魔族が殆どいないので、彼らの施設は少ない。が、もしも「日本に魔族がいる」という情報があれば、血眼になって探し出して、殺害するだろう。同じ魔族として、また魔族に協力する者として、それは見過ごせなかった。
「けど、そいつが一人じゃなくて、例えば数百人規模で生活してたらどうするんだよ? とても連れ出せないぞ?」
「そのときはそのときよ。そうなってから考えればいいじゃない」
行き当たりばったりだが、即断即決。今の蝶香は男性側に傾いているからこうだが、逆の場合はとにかくリスクを重視したりする。しかも、夜朗は大抵彼女の反対意見を出す。馬が合うのか合わないのか、よく分からない二人である。
「さ、無駄話はもうおしまい。さっさと働くわよ」
「へいへい……つっても、蝶香が動かないと、何も出来ないんだけどな」
「何言ってるのよ? あんたも目視で探すのよ」
「……へいへい」
もう反論する気力がないのか、それとも気持ちを切り替えたのか。夜朗は大人しく蝶香に従い、夜空を見上げた。……今日は星が少ない新月だ。辺りが暗いから幾分マシだが、これでは闇天使とやらの姿は見えないだろう。それでも、夜朗は目を凝らして、空を見つめ続けた。
◇
「……まだかよ?」
「もう少し待てないの? 短気ね」
あれから三十分が経過して。痺れを切らした夜朗が、苛々しながら声を上げた。……ずっとここで張り込んでいるのだが、例の闇天使は全く姿を見せないでいた。夜朗はもう忍耐力が切れたらしいな。
「そう都合良く現れるわけないじゃない。ここに現れるとも限らないし、今日現れるとも限らない。場合によっては、大分移動しないとなんだから」
「そりゃあ正論だけどさ。そっちはどうなんさ? 風で気配を察知出来てないのか?」
「ええ、まだね。風は穏やか。鳥もいないし、ほんとに静かな空ね」
蝶香は空を見上げ、しみじみとそんなことを呟いた。その姿に、夜朗は違和感を覚えたが―――それを口にする前に、蝶香が声を上げた。
「……来たわ」
「マジかよ……!」
どうやら、お目当ての闇天使が来たようだ。蝶香が夜空の一点を見つめ、緊張を帯びた声でそう呟いたのだ。
「よし、じゃあ行くぞ」
「ええ……って、何抱きついてるのよ!?」
目標が見つかった直後、夜朗は背後から蝶香の腰に腕を回し、抱き締めていた。
「当たり前だろ。俺は空を飛べないんだから。向こうが都合良く、俺たちのところに来るわけねぇし」
「そ、そうだけど……」
論破されて、蝶香は顔を赤らめながら視線を逸らす。……どうやら、今の彼女は女性側らしい。乙女らしく、異性との接触を恥ずかしがっている。夜朗が先程感じた違和感の正体は、ホルモンバランスの変化だったようだ。
「ほら、さっさとしろよ」
「う……わ、分かったわよ!」
それが分かっていても、役目を放棄するわけには行かない。夜朗は蝶香に発破を掛けて、強引にでも働かせた。
「それじゃあ、しっかり掴まってなさいよ!」
すると、彼らの周囲で風が渦巻いて、二人を包み込んだ。そして彼らの―――というか蝶香の体が浮かび上がり、二人を漆黒の空へと誘う。
「うおっ……!」
風を体で感じながら、夜朗は蝶香に連れられて、夜の空へと飛び立つのだった。