お土産
駅で小山くんを見かけた三日後、彼はいつものように電話をかけてきた。
こっちも、いつものようにシレッと応対する。
伊達に三年も、サービス業に就いてない。今日だって、『俺は病人なんだから、他の人より先に薬を作ってくれ』とごね続ける男性患者さんに頭を下げて。なんとか待って貰えたし。
あ、思い出して、ちょっと……。
唇が、゛への字゛に曲がる。
[紀美さん?]
受話器からの声に、仕事のことは頭から追い出す。
[何?]
[また、上の空?]
[そう?]
誰だ。『伊達に三年も……』なんて言ったのは。
気をとり直して、小山くんの土産話を聞かせてもらう。いつぞや合コンをした子たちと虎太郎と、ってメンバーで行ったとか。泊まりがけだから、お酒のブレーキが効かなくって、とか。
その話題の中に、虎太郎の彼女とか駅で見かけた女の子の事が出てこないのは……隠しているのだろうか。
って。隠さないといけない間柄、でもないんだけど。
[でね、紀美さん。ささやかなお土産を買ったから、来週会える?]
[いいのに。お土産なんて]
[本当に、ささやかだから]
気にしないで、って笑い声でいう小山くんと、次の日曜日に会うことにして。
ついでに、そろそろ終わりそうな映画も見ることになった。
約束の日曜日。出かけるまで時間があるから、少しだけ髪を弄ろうかと、階段を降りた所で、電話の鳴る音が聞こえた。
「ハイハイ、いま出ますよー」
なんて言いながら、母が電話にでる。
その後ろを通りすぎようとしたところで、腕を掴まれて。
「紀美子、電話よ」
そう言って、受話器を渡される。
『寝坊して遅刻しそう』とかだろうと思いながら、電話にでる。
てっきり小山くんだと思い込んで出た、電話の相手は、病院のナースさんだった。
『救急で麻薬の処方がでるので、調剤のために出てきて欲しい』
そんな内容の電話に、腕時計を見る。
病院に行っていたら、完全に約束には遅れるけど。
これも、仕事、だ。
うちの病院は、薬剤師の人員がギリギリなこともあり、薬局の当直制や休日出勤の体制はとっていない。基本的に、時間外の調剤は、ナースさんがしてくれるのだけど。麻薬の調剤だけは、こうやって呼び出しがかかる。
少しだけ、時間がかかることを伝えて、電話を切る。
小山くんに連絡する方が優先と、髪は、いつものハーフアップで出かけることにして、急いで電話をかけたけど。
市の西部、病院のあるあたりに住む彼は、もう家を出た後らしい。
鳴り続ける呼び出し音を十まで数えたところで諦めて、受話器を置いた。
母に伝言を頼んで、とりあえず家を出る。
待ち合わせのターミナル駅で彼を待って……いたら遅くなるし。
小山くんが、電話をしてきてくれたらいいのだけど。
一仕事を終えて、待ち合わせの改札前に着く頃には、約束の時間から一時間近くが経とうとしていた。
当然、小山くんの姿は……ない。
ここで待ち合わせる時にはいつも、小山くんが立っている辺りを横目に、券売機の方へ向かう。
電車を降りた時よりも、改札を抜けた時よりも、ドキドキしている。
あ、あった。
【わかった。時間を潰して、一時間半後に来る ーヤマショウー】
駅の片隅の伝言板に、残るメッセージ。
その隣。左端には、一時間前に私が書いた伝言。
よかった。とっさの思いつきだったけど、乗り換えの合間にメッセージを残しておいて。
さて。後三十分ほど。どこで時間を潰そうか。
「紀美さん」
軽く肩を叩かれて、振り向く。
三十分後に来るはずの小山くんが、そこにいた。
「どうして?」
「うん?」
「まだ、時間あるのに?」
ああ、と頷いた小山くんが言うには。
時間つぶしにいたコーヒーショップが混んできたから、と移動するつもりで駅を通り抜けようとして、私の姿が見えた、ってことらしい。
「丁度良かった」
そう言って微笑んだ彼が、手にした紙袋を差し出す。
「はい、お土産」
「あー。ありがとう」
受け取って。思いの外、軽い手応えに袋を覗いてみる。
うん? なんだ? これ。
「紀美さん、毎日、お弁当を持っていってる、って言ってたでしょ?」
「まぁね」
作っているのは、母だけど。
「お弁当箱なんだ。それ」
確かに、包んである薄紙を通して、朱色の塗りらしい小判型のお弁当箱が薄っすらと見えた。
「伝統工芸の一種、かな? 紀美さんに似合いそうなの、見つけたから」
「似合いそうなお弁当箱、って。どういう意味?」
問い質したけど、笑ってごまかされた。
お弁当箱、か。
これに自分で毎日詰めて……って。
頑張ってみようか。
そして、いつか。
このお弁当に”似合う”中身が、パパッと作れるようになったらいいなぁ。
それから、予定していた映画館へと向かって。
上映案内を見上げて、眉をしかめてしまった。
そろそろ終わりそう、とは聞いていたけど。見ようとしていた映画は、今日の上映が、三十分前からの分と夜の八時からの二回だけ、って。
「ごめん。小山くん。遅れて」
「いや、仕方ないし」
「でも……見たかったんじゃないの?」
申し訳ないな、と思いながら見上げた彼は、なんとなく眩しそうな顔をして。
「働くって、そういうことなんだな、って。俺も勉強になったし」
なんて、言っている。
「それに、紀美さんと伝言板を使ってやり取りできたのも、面白かったし」
「そう?」
「ほら、いつだったか話していたスナイパーの……」
と、私達が好きなバンドが主題歌を歌っていたアニメの名前を出す。あのお話では、仕事の依頼が駅の伝言板を通じて、もたらされる。
「やっぱり、アレを思い出した?」
「うん。東西線の改札から来たら、伝言板の前を通るでしょ? で、通りすがりになんとなく眺めてさ。『お、何か書いてある。”仕事の依頼”だったりして』って、好奇心で近づいたら、ビンゴだった」
私も通勤時に、似たようなことを考えてチラリと見ることがあるから、その気持はなんとなく判る。
で、この後どうしようか、って相談になって。
特に、見たいのもしていないし……って、しばらく考えていた小山くんが。
「紀美さん、水族館、行かない?」
と、言いだした。
「水族館?」
「うん。ほら、市の南部にあるでしょ? ここからだったら、南北線?」
と、尋ねられて。
頭の中に、路線図を描く。
「東西線のほうが……」
「そう?」
「うん。駅からは、ちょっと歩いたと思うけど。それでも快速電車が止まる駅だから。南北線だったら、バスに乗らないと」
「へぇ。詳しいね」
「私が通った高校から近いから」
「さすが、地元民」
「県外人、には負けませーん」
『お見それしました』と、冗談めかして笑う小山くんと並んで、歩き始めて。
駅に行く前に早目のお昼ご飯を取ることにした。
小学校以来、になる水族館は数年前にリニューアルをしたらしく。
入口正面に、大きな水槽ができていた。
自分の頭より上に水面がある大水槽で、悠々とエイが滑るように泳いでいる。
「エイってこうして見ると、ゲリラカイトみたいだよね」
「あー。確かに」
小山くんの言葉通り、小学生の頃に揚げた凧に似ている。
「凧って、ああ見えて、作るの難しいよね」
「へぇ? 紀美さん、作ったことあるんだ?」
「私の行ってた小学校って、毎年冬休みの宿題に凧を作ってくる、っていうのがあってね」
「マジ?」
「うん」
「作り方って……」
「図書館で調べたり、とか。私は、虎太郎のお父さんが器用でさ。やっちゃん姉弟とうちの姉妹、四人まとめて、作り方教室」
「へぇ」
ボンドで手をべたべたにしながら、竹ひごを張り付けたりしたなぁ。
「尻尾の長さが、ポイント、だったっけ」
「うん?」
「俺は、市販のゲリラカイトしか使ったことないけどさ。新聞紙とかで、しっぽをつけると揚がり方が変わるんだよ。確か」
「手作りだとね、しっぽで左右のアンバランスを調整したりね」
右に曲がって落ちる、とか、試し揚げをしながら調節したよなぁ。
「本当に揚げたりもしたんだ」
「年明けに、全校凧揚げ大会」
「はぁ? 何それ」
「学年ごとに、一時間ずつ、凧揚げするのよ。運動場で」
ゆとり世代からは、ほど遠い時代だったけど。
こう考えると、のんびりしてたなぁ。
そんな凧談義をしている私たちの前を、口元から砂粒をこぼしながらエイが通り過ぎて行った。
入口でもらった案内パンフレットを広げて、さて、次は、と考えていると、甲高い子供の歓声が聞こえた。
大人でも、この水槽の大きさには興奮するもんなぁ、と、ほほえましく思いながら、小山くんの向こう側、声の聞こえた方に目を向ける。
「と……ちゃ……ぱ」
「こら、暴れるなって。わかったから」
抱っこの腕から降りようともがいてる幼児に、顔を押しやられながら、父親らしき人が身をかがめていた。
「キャー、ちゃったっ、パー」
意味不明な叫び声とともに、両手を挙げたおぼつかない足取りで、水槽へと向かってくる男の子と、その後ろからついてくる両親。
一家の姿を目にして、思わず、息を飲む。
父親の方が私たちを見て。切れ長の目を細めるようにして、軽く会釈をしてくる。
それに対して、私が返した会釈はきっと、どこかぎこちなかった。と、思う。
それは、桐生先生の一家、だった。
同僚として、二人の結婚式にも、出席した。
息子さんが生まれた時、検査室と合同でお祝いの品も送った。
代表で届けに行った酒井さんから、赤ちゃんの写真も見せてもらった。
百聞は一見に如かず、ということだろうか。
この人たちが”家族”であることを、私はどこか、”作られた話”のようにとらえていた。
でも、いつだったかの虎太郎の言葉じゃないけど。
桐生一家は、こうして目の前に実在していて。
息子だけを見ながら中腰で手を伸べて歩く桐生さんは、すっかりお母さんだなぁって。
一歩後ろから、その二人を見守る桐生先生は、お父さんなんだなぁって。
一緒の場所にいたはずの人たちが、一足先に大人になってしまったのを知ってしまった。
そんな……自分だけが一人、取り残されてしまった寂しさ、のようなものをかみしめながら、親子の姿を見つめる。
「紀美さん。知り合い?」
小山くんの声に、我に返る。
「うん。同僚、と、昔の先輩」
そう答えた私の肩に、彼の手が乗った。
「小山くん?」
尋ねた私に応えのないまま、肩の載せた手に力がこもる。
その力に押されるように、体の向きを変えられて。
大水槽の前から、私たちは離れた。
薄暗い通路を、肩を抱かれるようにして歩く。
心臓は、さっきから、ものすごい速さで打ち続けている。
「紀美さん、さっきの”同僚”」
「う……ん?」
息が詰まって、変な声になる。
咳払いをして。
「なに? 小山くん?」
「いつだったか言っていた、”嵐の失恋”の相手?」
なんだ、その……妙なネーミングは。
否定、はしない私の肩が、ぎゅっと握られる。
「小山くん。痛いって」
「……」
「小山くん? 聞いてる?」
「紀美さん。ダメだよ。不倫は」
誰が? 不倫?
「妻子持ち、好きになっても、不幸なだけだよ」
「いや、もう、諦めてるけど?」
そっち方向には、きれいさっぱり。
桐生さんと入れ代わりたい、とか思ってないし。
別に、さっきだって。嫉妬なんか……。
あれ? ちがうな?
嫉妬か?
いや、桐生先生に想われたいんじゃないけどさぁ。
私にも、誰か……例えば小山くんとか。
そう思って。
この前駅で見かけた彼のだらしない顔を思い出して、胸がむかむかしたのも事実で。
これも、嫉妬、か?
グルグルと、思考が入り乱れる。
乱れた思考に振り回されながら、黙ったまま、順路に従って歩く。
小山くんの手が、いつの間にか肩から離れていたことに気付いたのは、少し明るい休憩スペースにたどり着いたところでだった。