バレンタイン
忘年会も終えて、怒涛の忙しさになる年末年始もやり過ごして。
バレンタイン、なんてものが世間を騒がす季節になる。
近所のスーパーで。
女性雑誌の特集で。
街のあちらこちらで手招きしているようなチョコを見るたびに、なんとも表現のしづらいモヤモヤが、胸のうちに沸き上がってくる。
そんな私に今年も、院内の男性職員に薬局一同から配るチョコの買い出しの役目が与えられた。通勤の途中にターミナル駅を通るから、って理由の゛仕事゛は、去年に引き続いて二度目。
配るのは、一番”若い”小南さんの仕事なのも、去年と同じ。
買ってくる個数、金額も去年と同じ、でいいことを確認して。
バレンタイン直前の土曜日が丁度、半日出勤だった私は、帰り道にターミナル駅近くのデパートへと足を運んだ。
予算に応じて適当なものを見繕って、必要な数を確保して。
これで、任務終了、でいいのだけど。
最上階の催物会場に特設された、売り場特有の熱気に当てられて。
なんとなく、少しだけ高め、のコーナーへと漂うように向かっていた。
今年、小山くんに渡すのは。
あり、だろうか。
他愛のない会話を重ねる彼との電話は、相変わらず続いている。
週に一、二回と、頻度が心持ち増えた状態で。
そして、もし。小山くんに渡すとして。
はたしてそれは、義理か本命か。
自分でも決めかねながら、陳列してあるパッケージを手にとっては戻す。
そもそも、いつ渡す?
当日は、平日だから私は仕事だし、小山くんは講義やバイトだろう。
だったら、来週末? いや、来週の土曜日は出勤だ。
それに……来週、小山くんと”会う”可能性って、何パーセント?
他愛ない会話の電話は、相変わらず彼からかかってくるのを待っている。
暖房の効いた電車に揺られながら、チョコレートが融けないか心配になる。
去年より一個多く買ったチョコが、膝に抱えたデパートの紙袋に澄ました顔で入っている。
結局、職場用よりも少しだけ高いチョコを買ってしまった。
義理、との差は。
以前、彼が”ラッキーカラー”だと言っていたオレンジのラッピングと、たったの二百円。
それだけ、だから。
と、座りの悪い自分の心に言い聞かせる。
今晩、電話を掛けなきゃ。
そして。来週の予定を訊いて。
そう、考えているだけで、頭に血が上ってくる。
電車の暖房よりも
自分の体温で、チョコが融けそう。
さっさとお風呂を済ませて、時刻は午後の八時半より少し前。
ベッドの上で正座をした私は、小山くんの電話番号を書いた手帳と子機を前に深呼吸を繰り返す。
この一回を吐いたら、アドレスを捲って。
あと、ニ回吸ったら、子機を手に取って。
あと、二回。
いや、三回深呼吸をしたら、ボタンを押すから……。
足掻いている私を笑うように、電話が鳴る。
慌ててお手玉をした後、ドキドキしている胸を押さえて受話ボタンを押す。
[もしもし。川本ですが]
[夜分、恐れ入ります。小山と言いますが]
左耳に流れ込んできた声に、『負けた』と思った。
思いながらも、電話こちらからかけずに済んで、ほっとする。
いつものように他愛ない話をしている彼の声を聞きながら、『いつ誘おう、なんて誘おう』ってことばかりが頭を巡る。
[でね、って。紀美さん?]
[はい?]
[聞いてる?]
[……うん]
ごめん。
自分の考え事に必死になりすぎて、聞いてなかった。
[なんか、今日は上の空?]
[そう?]
[仕事で、何かあった?]
[別に、何もないけど。あの……小山くん、来週の土曜日か日曜って、暇?]
うわ。つい、ぽろっと言っちゃった。
[ほら、やっぱり。紀美さん、俺の話、聞いてない]
[え?]
[俺、さっき言ったよ? 来週、トラたちと卒業旅行って]
カニ食べに行ってくる、とか。
そう言えば……言っていた気がする。
[紀美さんから予定を訊かれるって、めっちゃ珍しいんだけど。何? いったい]
[いや、気にしないで]
[そう?]
[そうなの。あー、でも。そっかぁ]
[何が、『そっかぁ』?]
[卒業旅行か、って。小山くんって、まだ、学生さん、だったもんねぇ]
つい、忘れてしまうことがあるけど。そう言えば、虎太郎と同級生だった。
[紀美さんは、卒業旅行って、どこに行った?]
[行ってない]
[行かなかったの?]
本気で驚いたような声に、三年前の今の時期は勉強漬けだったと思い出す。
四月に国試があるし、それに備えて卒業試験もあったし。
[真面目だったんだねぇ]
しみじみと言う声に、『それだけが、取り柄だし』と、心の中で自嘲する。
もう少しだけ。
もう少しだけ、フマジメに過ごしていたなら。
”義理”に毛の生えた程度のチョコくらい、さりげなく渡せたのだろうか。
「だからって、きーちゃん」
やっちゃんの呆れたような声を聞きながら、プディングの表面をコーティングしている固いカラメルを、スプーンで叩き割る。
小山くんが虎太郎とカニを食べに行っているという日曜日。
久しぶりに やっちゃんとケーキバイキングに来ていた。
「何も自分で食べちゃわなくっても……」
「置いておいても仕方ないじゃない」
義理より、少しだけ気合を入れて買ったチョコは、結局当日の夜、私のお腹に収まった。
ストレートの紅茶を、お供に。
お酒を飲む彼ならきっと……と選んだビターチョコは、思いの外、苦くって。
大きくもないひと箱が空く頃には、なんだか上顎が痛くなった。
「だってさぁ。来週渡したら、十日後だよ? マヌケも良いところじゃない?」
イタ。
喋りながら口に運んだスプーン。固いカラメルの角が、上あごの痛いところを直撃した。
一人悶えているマヌケな私に、やっちゃんが
「マヌケ上等。でなきゃ、フライングぐらいしなきゃ。負けるんじゃないの」
って。
「負けって? 何に?」
ミルクティーで痛む口の中をなだめてから、訳知り顔でアップルタルトを崩している幼馴染みに尋ねる。
「卒業旅行、コタの彼女も一緒らしいのよね」
「……いいの? それ」
「当然、親には内緒、だろうけど。お母さんあたりは、判ってるんじゃないの。私でもチラッと、電話の会話で聞こえたくらいだし」
うーん。
大学生。婚前旅行は、早くないか?
「小山くんの”別れた彼女”も、一緒に行ってるんじゃないの? カニ食べに」
たしかに。虎太郎の彼女と、”小山くんの彼女”が元々友達で。グループ交際から始まって……って、事のいきさつはいつだったか、聞いたことがある。
「時々、一緒のグループで飲みに行ったりはしてるらしいわよ?」
「『友達でいたい』らしいからねぇ」
「っていうより、”キープ”されてるんじゃないの? 小山くん」
それは、私も思わなくもない。
「卒業旅行で、よりが戻っちゃうかもよ? 宿泊先は、民宿らしいし」
部屋割り、なんて、ねぇ。
やっちゃんが、意味深に笑って。
紅茶のカップに、口をつける。
口数少なく萎れていた、初対面の日の小山くん。
春で止めた、と去年の夏に言っていた煙草を、あの時はひたすら吸っていたっけ。
それほど傷ついた失恋の相手と、旅行、って。何を考えて。
って。やっぱり、未練があるんだろうなぁ。
「きーちゃん、止めなよ。それ」
やっちゃんの嫌そうな声に、我に返る。
うわぁぁぁ。
プディングがぁぁぁ。
かき混ぜすぎて、器の中で悲惨な液体と化していた。
プディングを諦めて、ザッハトルテに手を付ける。
ビター過ぎないチョコが、口の中で溶ける。
これくらいの苦味のチョコは、小山くんは好きだろうか。
来年、買うんだったら。こんなのがいいかな。
もし、また私が食べるにしても……。
いやいや。来年のこと、考えてどうする。
小山くんがもし。
彼女と、よりを戻すなら。
来年のチョコレートに、出番はない。
悶々としながらも、手と口は機械的に動いていたらしい。
気づけば、”悲惨な”プディングすら、残さずに食べつくしていた。
お代わりを取りに行ったあと、今度はやっちゃんの愚痴を聞く。
この春で、社会人四年目を迎える私たちには、”後輩”なんて者がいるわけで。
『注意するのも嫌になった』と、やっちゃんが嘆く出来の悪い後輩の失敗談を笑って、一緒に怒って。
時間いっぱいケーキとおしゃべりを堪能して、駅へと向かう。
蔵塚市役所の最寄りのこの駅は、二つの電車会社が十字に交わるターミナル駅で。私も毎朝の通勤時には、南北方向の路線から、東西方向の路線へと乗り換える。
特に、病院の最寄り駅を通る東西方向の会社は、南隣の笠嶺市から北上してきて逆Uの字型に市の北部をぐるりと経由した後で西隣の楠姫城市へと抜けるような路線だから、利用する人も多くって。
この駅は、いつ来ても人であふれている。
そんな中響いた、大きな笑い声に驚いて背後を振り返ると、大学生くらいの集団がバカ騒ぎをしている。
「ああいう子たちが、また後輩で入ってくるわけよね。四月になると」
ヤダヤダと首を振るやっちゃんに、
「がんばれ。先輩」
と返したら、ギューッとほっぺたの両側をひとさし指で押さえられた。
「やーめーへーほー」
「他人事みたいに、言うなー」
「他人事だもーん。うちの薬局、今年は欠員出てないから、新人入らないもーん」
調剤数に比例した最低人数が法律で決められているから、それをむやみに超える人員を採用したりはしない。『それが、貧乏病院のやり繰りよ』と言っていたのは、私が入職した時の薬局長。
その言葉通り、薬局長が退職した補充で入職した小南さんが、私にとって唯一の後輩、だ。桐生さんの補充の辰巳さんは……現在薬局長をしている酒井さんと同い年の中途採用だから、微妙な感じ。
「ヤマショウったらぁ」
女の子のよく通る声に、おもわず やっちゃんと顔を見合わせる。
あのバカ騒ぎ集団。小山くんと虎太郎、たちか。
そういえば、彼らの足元に大ぶりのバッグと、お土産らしき紙袋がいくつも見える。
意識してみると、確かに。
こちらに横顔を見せる位置に、小山くんが居た。
その腕を掴んで何かを訴えているのは、快活そうな女の子。
彼女を見下ろすようにした小山くんの表情は、今まで見た事のないようなだらしない顔で。
それ以上見てることなんてできなくって。
やっちゃんを引きずるように、改札をくぐった。