君のもの
恋人同士で迎えたこの年のバレンタインは、去年とは違って、堂々と本命チョコを買って。
バレンタインの当日、仕事の後でデートをして渡す。
「このまま、帰したくないなぁ」
互いの帰る方向が別れるターミナル駅。
駅前のロータリーで客待ちをしているタクシーを眺めながら、肩を抱いた祥くんがささやく。
今夜は、食事だけのデートだったから。名残惜しいのは、私も一緒、だけど。
「帰らないと。ね?」
「明日、休みだよ?」
珍しく、聞き分けのない子どものようなことをグズグズと言っては、頬にキスをしてくる。
行き過ぎる人たち自身も、幸せそうなカップルが多いからか、そんなことをしていても誰も気にも留めてないみたいだけど。
やっぱり、ちょっと……恥ずかしいなぁ。
互いの体温を分け合うようにくっついた私たちの目の前に、白いものがチラチラと落ちてきた。
「冷えると思ったら……」
目の前に舞う雪を受けるように、手袋をはめた手を伸ばす。
黒い指先に、ちょこんと乗った白い結晶。
「寒いとさ」
祥くんの声が左の耳元で聞こえる。
「うん」
「一人、ってしみじみと実感してしまうんだよね」
「そう?」
「うん」
『”寒い”と語り合える人がいるだけで温かい』なんて意味の短歌がそういえば、少し前に一世を風靡した女性歌人の歌集にあったっけ。
逆に、『寒い』と、語り合える人がいなければ……寒さは、倍増するのかもしれない。
そう思うと。
あの部屋で一人、膝を抱えて寒さに耐えている祥くんを、思い浮かべてしまって。
「祥くん」
「なに?」
「家に、電話してみるね」
「え?」
急な話題転換に驚いた顔をしている祥くんの手を取って。
駅の公衆電話コーナーへと向かう。
『今夜は、”友達”の家に泊まる』と母に伝えると。
しばらく考えているような間、があって。
[紀美子]
と、聞いたことのないような声で呼ばれた
[はい]
[もう、二十六だし。野暮なことを言う気はないけどね]
あ、ばれてる。これはきっと。
[自分が傷つくようなことだけは、しちゃダメよ]
[は、い]
母の言葉に、見えていなくっても電話のこっち側で頷く。
頷きながら、隣にいる祥くんの手を握る。
明日の昼には帰ることを約束して、受話器を置いた。
初めての外泊、の翌日。母と顔を合わせた時の居心地の悪さと言ったら。
キスや、初体験の比ではなかった。
けど母は何も言わずに、じっと私の顔を見て。
「お帰り」
とだけ言った。
この一回で、外泊のハードルが下がったか、といえば、自分自身の中でブレーキがかかって余計に上がった。
あの、居心地の悪さを経験するのは……特別な日だけ、にしておこうと。
そうして、いつもの仕事と電話と週末のデート、の毎日に戻る。
祥くんも社会人二年目を迎えて、『後輩が入ってきた』とか言っているうちに、その年のゴールデンウィークも過ぎる。
梅雨入りの頃には、『今年はお盆に休みを取って、一度旅行に行こうか』なんて話も出てきて。
これは”特別な日”ということにして、一泊二日で出かけた。
行き先の温泉は、三年前の慰安旅行で行ったところ。
ホテルのランクの分、オンシーズンにしては安上りに済ませた旅行ではあったけど。二人っきりの時間を、思う存分楽しんだ。
三年前に来た時、祥くんとはまだ電話を掛けあう仲ですらなかった。
今度来るときには、もしかしたら。家族、になっているかもしれない。
そんなことを思いながら、彼の肩にもたれるようにして帰りの電車に揺られていたのに。
秋も深まる頃。
祥くんに転勤の話が出た。
行き先は、西日本の中規模都市。支社勤務だったのが、営業所勤務になるらしい。
そして、私の方も。
「年明けから、病棟業務を始めることになりました」
そう、薬局長から発表があったのは院内会議の翌朝。外来の処方箋が来るまでに行われた、薬局内のミーティングの時だった。
病棟業務、ということは、最近話題になってきている入院患者に対する服薬指導。
大学時代、教授から『近い将来、薬剤師も病棟に上がって仕事をする日が来る』とは聞いていたけど。とうとう、始まるんだ。
「業務、まわるんですか?」
私の隣で腕組みをした堀田さんが、難しい顔をしている。
確か……薬局の人員は、調剤数で決まったはずだから。法定人員ぎりぎりのこの病院では、病棟業務までは考えて採用されてはいない。
「院長はパートで、補充を考えているそうよ」
手元の資料を眺めながら薬局長は言うけど。
「パートさんを雇っても、仕事を覚えるまでに時間がかかりますよね?」
教える手間も、計算に入れてくださいよ、と、堀田さんが私の方を見ながら、くぎを刺すけど。
「堀田さん? どうして私の方を見るんです?」
「指導担当」
ピッと指をさされて、思わずのけぞる。
「順番から言ったら、小南さんでしょう? それは」
「順番から言ったら、小南さんは次に入るだろう新人の指導担当だからね」
『中途採用の辰巳さんの指導担当は、私だったじゃない』と言われて、ぐうの音も出ない。
そうか。もう一度指導担当か。
「まあまあ。二人ともその辺で。とにかく、年明けには動き出すから、それまでの準備も含めて、よろしくお願いします」
薬局長の締めの言葉に重なるように、調剤室からナースさんの呼ぶ声が聞こえた。
さて。今日の仕事が始まる。
結局のところ。
補充の人員として、半日勤務のパートで桐生さんが復帰することになった。『一から覚えてもらうより、手間じゃないでしょ?』なんて薬局長は、言っているけど。
私の指導担当だった桐生さんを、私が指導なんて恐れ多い、と、堀田さんに泣きつく。
堀田さんも、
「確かにね。私も『薬局長の指導をしろ』って言われたら、泣くわ」
と、理解をしてくれて。
桐生さんが新卒だった時の指導担当だった堀田さんが、引き受けてくれた。
そんなこんなで、仕事のほうが新しい業務に向けて進んでいく一方で、祥くんの転勤の日は、一日一日と近づいてくる。
時を惜しむように、デートを重ねて、体を重ねて。
互いの心と身体に、相手を刻みこむように時間を過ごす。
けれど。
祥くんは、ただの一度も。『一緒に来てほしい』とは言わなかった。
私も『ついて行きたい』とは言えなかった。
転換期を迎えようとしている仕事を放り出したくないし。
今、この業務を経験しておかないと、将来。
私は仕事の波に取り残されてしまう。
唯一、二人をつなぐ絆のように指輪を買って貰った。
蔦を象った透かし彫りの、細身のリング。
「”名にし負わば 逢坂山の実葛”ね」
「”人に知られで、くるよしもがな”だったっけ?」
指輪を嵌めてもらいながらふと思いだした百人一首を口ずさむと、祥くんが下の句を続けてくれる。
さすが。
『中学校のかるた大会で優勝したことがあって』なんて、いつだったか話してくれたことがあったっけ。
指輪を撫でて、蔦の文様に目を凝らす。
人目をはばかる恋ではないけれど。
遠く離れるあなたに会えるなら、毎晩でも蔦をたぐり寄せたくなりそう。
引っ越しのその週から、電話のパターンが変わった。
祥くんからの電話は週に二回。その代り、私からも週に二回電話をする。
電話越しの声は、変わらずに耳元で聞こえるのに。手を伸ばしても彼の体温を感じられない”寒さ”が、身に沁みる。
そして。一人暮らす彼の感じる寒さは、如何ばかりか。
せめて夢で会えたら……と、リングの嵌まった左薬指を右手で握り、蔦をたぐり寄せる。
夢だけでは足りなくて。
声だけでは寂しくて。
定期的に、互いのもとへと通い合う。
泊りがけで彼の元へ訪ねていったり、彼の方が帰ってきたり、と。
さすがに、父はいい顔をしなかったけど。バレンタインに越えておいたハードルは、こんなところで役に立った。
そうして、新しいデートのありようが固まる頃には、年度も変わって。
新しい業務にも少しずつ慣れてきた。
「そういえば、”強面の彼氏”とは仲良くやってる?」
堀田さんがそんな話題を振ってきたのは、ちょうど桐生さんが勤務を終えて、着替えようとしているところだった。
今日の昼休みは、堀田さんと私が早番で。食堂でお昼ご飯を終えたタイミングが桐生さんの終業のタイミングと重なっていた。
「ええ、まぁ」
と、頷いて。食後の紅茶に口をつけながら、今夜は電話のある日だと、一人頬を緩める。
「あ、やらしーなぁ。なんか、思い出し笑いしてる」
脱いだ白衣をハンガーにかけていた桐生さんに指摘されて、思わず咽る。
咽た私を軽く笑った堀田さんが
「さては、昨日のデートで……」
「昨日は、デートなんて、してません!」
先週、祥くんがこっちに帰ってきたところだから。次のデートは来月早々に私が、向こうへ行く。
それまでは、電話だけだ、と、今度はため息が漏れる。
『寂しい、寂しい』と、心は毎晩のように叫んでいる。
「川本さん?」
桐生さんの、黒目がちの目に覗き込まれる。
「大丈夫?」
新人の頃、困ったなぁと思っているとすかさずフォローしてくれていた”先輩の声”に、何かがポロっと心の表面から剥がれ落ちた気がした。
「彼が転勤で、遠距離恋愛になってて」
「あらあら」
「月に一度か二度、会えたらいい、って状態で」
「うーん。そうか。遠距離か」
難しい顔をした桐生さんに、堀田さんが
「超近距離恋愛で結婚したパターンじゃない。桐生さんの場合」
と、混ぜ返す。
「遠距離恋愛の経験も、なくはないんですけどね」
「へぇ」
「現実の距離が心の距離、って、典型的なパターンで」
そんな先輩たちのやり取りに、泣きそうになる。
「やっぱり遠距離恋愛って、難しいですか?」
祥くんが心変わりしてしまう日が来るんだろうか。
「それは本人同士の努力次第、ってところもあるだろうし」
「ついていく、って言えば良かった……」
「結婚、考えていたの?」
そっと桐生さんに尋ねられて。
「私は、彼と結婚したい、って思っていますけど」
祥くんは、どうなんだろう。
「桐生さん。結婚って、何が決め手、ですか?」
なんて、すがるように訊いてから。自分の失言に、冷汗が出る気がした。
決め手も何も。妊娠したから、だった。
そんな失礼なことを訊いたのに、桐生さんはといえば。
穏やかな微笑みを浮かべて
「タイミング、かな?」
と答えてくれた。
「タイミング、ですか」
「うん。うちはほら、貴文に背中を押してもらったっていうか」
桐生さんの口からは、三歳になったという息子さんの名前が出てきた。
「それ以前に、プロポーズっぽいことは言われていたんだけど。お互いに若かったからねぇ。踏ん切りがつかなくって」
「はぁ」
「どうしようか、って、迷っている時に貴文が来てくれたから」
順番が逆なら、きっと二人ともが迷ったし、妊娠が無かったら、さらに迷った、と、答えて。
化粧を軽く直した桐生さんは、その黒い目で私をじっと見て。
「互いの心を掴みあった相手と、”ご縁”があれば。いつかきっと、タイミングはあうんじゃないかな?」
そう言って桐生さんは、化粧ポーチを片付けたカバンを手に取った。
タイミング、かぁ。
離れて暮らしている私たちのタイミングは、本当に合う日が来るのだろうか。
いや、それ以前に彼の”縁”は、本当に私とつながっているのだろうか。
もしかしたら。今この瞬間にも。
彼と心を”掴み合う”、ほかのだれかとの縁が結ばれているかもしれない。
もやもやとしながらも、一人慣れない土地で頑張っている祥くんにぶつけるわけにもいかず。
ただひたすら、互いに掛け合う電話を拠り所に、会える日を指折り数えて日を過ごす。
合間に手に取るのは、一緒に出掛けた先のチケットやパンフレットを挟んだクリアファイル。
水族館に映画。動物園や、美術館にも行った。
二人の思い出を頭の中でたどりながら、指先はクリアファイルのだまし絵をたどる。
滝壺へと落ちた水が、流れ流れていつか滝の上に流れ着く。そしてまた、滝壺へ。
縁とタイミング、縁とタイミング。
心に宿った二つの言葉も、エンドレスに回り続ける。
その年のお盆休みは、土日の連休に有給を足して。合計四泊、彼の部屋に泊まりこんだ。
私が生まれ育った地元とは違って漁港の近いこの街では、新鮮な魚が丸ごと手に入るから。こうやって泊まるときには、時々、魚をおろして料理をするようになった。
そういえば、練習した魚の三枚おろしを初めて彼に披露した時には、『かなり練習した?』と訊かれたっけ。
『相変わらず、紀美は真面目だねぇ』なんて言われたことも思い出しながら。二人で食料品の買い出しをして、料理をして。
彼との結婚生活、を意識しながら過ごす。
そして、それは。
三日目の朝、だった。
インスタントコーヒーが足りなさそう、と、祥くんがコンビニに出かけて。
私は、一人で、朝ご飯の支度をしていた。
冷蔵庫から出したミニトマトのパックが傾いで、二個、床に転がり落ちる。
流し台の足元まで転がったトマトを拾おうと膝をついた時、ゴミ箱と壁の間に白い錠剤が落ちているのに気付いた。
拾い上げた錠剤を掌に乗せて、指先で転がす。風邪薬か何かの市販薬だろうと思いながらも、錠剤の刻印を表面に探したのは、単なる職業的な好奇心。
そこには、見慣れた文字と数字が彫られていた。
これは……睡眠導入剤、だ。
そういえば、祥くんは学生だった頃から、何度か『眠れない』とか『”今夜は”眠れそう』とか、言っていたことがあった。
でも、薬を飲んでいるとは、知らなかった。気付かなかった。
玄関ドアのあく音に、我に返った。
立ち上がったところで、コンビニの袋を手にした祥くんがキッチンスペースに入ってきた。
「祥くん……これ」
「なに?」
掌をそっと差し出す。
祥くんの三白眼が、逸らされた。
「やっぱり、何か、判る?」
「うん」
「そうか」
流し台にコーヒーの瓶を置いた彼が、ヤカンに水を汲む。
「祥くん、眠れないの?」
「……こっちに来てから、あまり……」
「こっちの生活が、しんどい?」
そう尋ねた私から顔を隠すように、洗い籠の方を向いて。伏せてあったマグカップを二つ、流し台に置く。
「祥くん?」
責める口調にならないように気を付けたつもり、だったけど。
彼は言いにくそうに私の顔を見ては、視線を逸らすことを繰り返す。
やっと、彼が口を開いたのは、ヤカンのお湯が沸いてからだった。
「こっちの生活がしんどいわけじゃないんだ。近所の人たちも、いい人だと思う」
「うん」
インスタントコーヒーの蓋が空けられて、二つのカップにスプーンで計り入れられる。
「ただ、仕事的には、この転勤で出世コースからは外されたのかな、って気がしてて」
「そう」
「このままで、俺、大丈夫かな、とか。一人でいたら考え込んじゃって」
そう言って、素手でヤカンを持とうとしている彼を押しとどめて、鍋つかみでヤカンを持ち上げる。
マグカップに半分お湯を入れて。祥くんが持っていたスプーンでかき混ぜる。
「こんな俺が『紀美と結婚したい』って言っても、ダメかなぁとか。家族を養うことができなかったらどうしようかって」
「そうだったんだ」
「紀美が腕の中にいてくれる夜は、安心できた。紀美の声を聞けた夜は、それを思い出しながら眠れた。でも、毎日は紀美の邪魔になると思って、電話できなかったから。そんな日は、どうしても眠れなくって」
眼鏡を外した彼が項垂れて、目をこする。
生まれ育った町で、親と暮らして。
慣れ親しんだ職場に通う毎日を過ごしている私でも、この一年弱は寂しかった。
それを思うと、一人この部屋で過ごした彼の”寒さ”に、胸が詰まる。
「祥くん」
「う、ん」
「私、こっちに来てもいい?」
「紀、美?」
潤んだような三白眼が、迷子の仔犬のように私を見る。
「こっちに来る、って仕事を辞めて?」
「今すぐ、は無理だけど。病棟業務が軌道に乗って、辞めた後の欠員補充のめどがついてからだから。早くても来年の春、かな」
「でも、またどこかに転勤になるかもしれないし。それに俺……」
紀美の一生を養う自信がない、と、小さい声が呟く。視線が再び、床に落ちる。
これが多分。
桐生さんの言うタイミング。
ここで祥くんとの縁を掴まないと。
一生、掴める日はこない気がする。
「祥くん。私は、私自身を養える」
「え?」
「病院か薬局さえあれば、祥くんがどこへ転勤になっても、そこで働ける」
辰巳さんが転職してきたように。
桐生さんが復帰したように。
私だって……。
「祥くんが出世コースから外れていたとしても、大丈夫。私が養うだけのことよ」
”私が養う”なんて、おこがましいかもしれないけれど。
でも、一人で抱え込まないで。
祥くんへと手を伸ばす。
頬に触れる。抱き寄せる。
彼の髭のチクチクした感触と体温が左頬に触れる。
肩で息をするように、祥くんが深く息をついた。
「紀美。俺と、一緒に……居て、くれる?」
「祥くん。それは違う」
「……」
「居てあげる、んじゃない。一緒に居たいの」
「……うん」
ありがとう、と小さな声を、左耳が捉える。
「ずっと、一緒に居よう、ね? 祥くん」
嵐の失恋があったから、私は祥くんに出会えた。
そして、今。
心に嵐を抱えているような祥くんを、私が守る。
だって、私のすべては、
”君 の モ ノ”
END.