願い
初めて彼の家に行ったその日の夜は。
経験者の母には、自分が”オトナ”になったことがバレそうで。昼間とは違った緊張感で、挙動不審に陥りそうになる。
平常心、平常心。
仕事中、だと思えば。大丈夫。
って。
ダメだ。
夜になっても体に残っている熱と違和感に、自分自身が”経験”を無意識に反芻してしまう。
百人一首で確かあったよなぁ。
会ってしまえば、思いが募る。みたいな意味の歌が。
あの時代の人たちって、こんな”感覚”を抱えて、後朝の歌のやり取りなんてしていたのかな。
翌週のデートは、普通に映画に行って。晩御飯まで一緒にいて。
「毎日でも、紀美に触れていたいけど」
「うん」
互いに仕事もあれば、親の目だってある。
その日は、キスだけで別れる。
また来週、彼の家へ行く約束をして。
大人のお付き合い、をするようになって、平日の電話は相変わらずだけど、デートの二回に一回くらいは、彼の家で過ごす。
そうなると、私がご飯を作る機会も増えるわけで。
「祥くん」
「なに?」
今日は、オムライスにしよう、と、玉ねぎを切ってくれている彼の横で、私は鶏の胸肉を炒める準備をしていた。
「やっぱり、彼女の作る肉じゃが、とかって、惹かれる?」
「は?」
眼鏡の奥の三白眼が、キョトンと、見開かれる。
「何? それ?」
「いや、よく言うじゃない? 肉じゃがの上手な女の子がいい、とか」
「ああ」
あれか、と言いながら、ちょっと考えた彼が、右の人差指で目じりを掻く。
「俺はどっちかって言ったら、魚さばける女の子、って凄いな、って思う」
「はぁ。魚。三枚下ろし、とか?」
「そうそう。牛ロースで肉じゃがより、贅沢な気がする」
う……過去の失敗を……。
しかし。三枚おろし、かぁ。
結構ハードルは高い。
自分のスキルと照らし合わせて、唸っている横で、祥くんまでが唸りだす。
「どうしたの?」
「目が……」
「え? 目?」
「さっき、目を触った時に、玉ねぎの汁が……」
「ああ。その手でまた、こすったら……」
余計にひどくなる、と言う間もなく、祥くんが悲鳴を上げる。
そして、毟り取るように外した眼鏡を、横の小さな洗濯機の上に置くと、洗面台へと体の向きを変えた。
狭い家にも思わぬ利便性、というものがあるらしい。
我が家の間取りと思い比べながら、フライパンの火を一度止めて。
顔を洗う水音を聞きながら、残った玉ねぎに包丁をあてる。
その日、夕食片付けを手伝いながら
「お母さん、魚の三枚おろし、ってできる?」
と、尋ねると
「ほとんど、やったことない」
なんて、主婦三十年とは思えない返事が返ってきた。
「だよね?」
見た事ないもん。私。
今夜の白身魚のフライだって、買ってきた切り身に衣をつけただけ、だと思う。
「三枚おろしくらい、スーパーで普通に売ってるじゃない」
「それはそうだけど。あのスーパーができるまでは、どうしてたわけ?」
確か……小学生、じゃなかったかな? 近所のスーパーができたのって。
校区内に初めてできた、エスカレーターのある建物にワクワクした覚えがある。
「それまでは、魚屋さんでお願いしてたのよ。近所のほら……」
と母が、最近マンションになった、かつての商店街の名前を出す。
「あそこに、魚屋さんなんて、あったっけ?」
「佐代子の同級生のお家で…」
「そんなの、覚えてるわけないじゃない」
「村田さん所のコタとも仲の良かった子よ?」
そんな事を言われたって、余計に分からない。
しばらくお皿をスポンジでこすっていた母が、急に声を上げる。
「ああ、思い出した。ほら、魚屋のショウくん。覚えてない?」
「さぁ?」
今の私にとって”しょうくん”は、祥くんにしかならない。魚屋でも何でもなく。彼、ただ一人。
お茶碗を拭きながら、昼間の逢瀬を思い出して。おヘソの奥が、キュッとなる。
そんな私に気づいていないだろう母は、手に付いた泡を洗い流しながら
「そう言えば、どうしてるのかしらね」
なんて、言い出して。
「何が?」
「うん? ああ、ショウくんのお家。スーパーができてからも、何年かは頑張ってたけど。結局はお店を閉めちゃったでしょ? お母さんの方の田舎がある東隣の県に引っ越す、って聞いたけど……」
「ふーん」
気のない返事をしながら、グラスを拭いていて。
妙な一致に気づいてしまった。
妹と同級生、ってことは……祥くんとも、同い年で。
で、東隣の県に引っ越した?
まさか、ね?
[紀美。それはいくらなんでも……]
電話の向こうで、苦笑する気配がする。
[そうよねぇ]
母と゛魚屋のショウくん゛の話をした翌日の電話で、祥くんに尋ねながら、自分でもありえないと思ったし。
まさか、祥くんと虎太郎と幼なじみだ、とか。
[そんな事実が有ったりしたら、最初っからトラが言ってるって]
[たしかにね]
[でも、゛ショウ゛って音で、俺を連想してくれるようになったのは、ちょっと嬉しい]
その言葉に、彼の笑顔が目に浮かぶ。
そうか、嬉しいんだ、って、こっちもなんだか、嬉しくなる。
[いつだったか、トラの先輩に”ショウさん”がいて、って話の時には、紀美、何も反応しなかったからさ]
[ショウさん? そんな話、した?]
[ほら、トラの先輩がデビューするから、って話の時]
うーん。ああ、あれか。
彼女とケンカした、ってコーヒーショップでベソベソ泣き言を言ってたときか。
[あの時は、まだ、”小山くん”だったし]
友達、というにも微妙な。
知り合い、程度のお付き合いだった。
その頃のことを思うと、なんだか不思議な気がしてくる。
あの”小山くん”と、こうやって電話をして。
昨日みたいなデートもして、なんて。
当時は、思いもしなかった。
魚の三枚おろし、をどうやってマスターするか、で、それからしばらく頭を悩ます。
料理教室はこの春から、”お弁当作り”のコースにしたから、お弁当はそれらしくなってきたけど、あまり魚のメニューって、ないし。
それ以前に、朝から魚をさばくわけないから、切り身が前提だ。
その日も、自分で作ったお弁当を、職員食堂で食べていると、
「酒井先生、そこ空いてる?」
と、声がした。
顔を上げると、リハビリ室長と桐生先生だった。
ああ、そうか。今日は、会議だ。
各部署の責任者が出席する会議が昼休みにあるから、本来なら堀田さんと私の二人が早番でお昼休憩だけど、今日は薬局長も一緒になっている。
三人で業務を回しているリハビリ室も、普段の早番は一人のはずなのに、今日は二人で昼休み、らしい。
「おー。桐生先生。愛妻弁当ですか?」
ニヤニヤと笑いながら、堀田さんが言う。
「はい。そろそろ、息子も離乳食じゃなくなって、自分で食べるようになってきたので」
朝、余裕が出てきたらしくて、と、嬉しそうにお弁当箱の蓋を開ける桐生先生。
「そろそろ二歳、だったっけ?」
「ええ。この十月で、二歳です」
「じゃぁ、いたずら盛り?」
「帰ったら、部屋中がひっくり返っていることもありますねぇ」
薬局長とそんな会話を交わす桐生先生が、斜め向かいの席で焼き鮭をほぐしている姿を見ていて。
ふっと、思い出した。
そういえば、桐生さんって、料理上手だったなぁと。
「あの、桐生先生」
「はい? なんでしょう?」
首を傾げた桐生先生。
「桐生さん、魚さばいたり、できますか?」
「沙織が? 丸のままの魚を?」
「はい」
頷いたついでに、ポットからお茶のお代りを注ぐ。
その間、ちょっと考えるようにしていた桐生先生は
「多分……してる、と思いますよ」
と答えてくれた。
よし。師匠、発見。
『魚がさばけるようになりたいんです。教えてもらえないでしょうか』と、頼み込んだ私に、桐生先生はいつもよりちょっとだけ、怖い目をしながら考え込む。
そうか、いつだったか堀田さんや薬局長が言っていたのは、この目つきか。
そんな事を思っている間に、桐生先生はいつものように穏やかな顔に戻ったけど。
「返事は、沙織に訊いてから」
と、結局、保留にされた。
それから、三日後。午後診も終わって、片づけをしている時だった。
「川本先生」
と呼ぶ声に、投薬カウンターへと出る。
カウンター越しに、桐生先生が一枚のレポート用紙を差し出した。
「沙織から」
との言葉に、手に取ってみてみる。
そこには、懐かしい先輩の文字で、魚のさばき方が図解してあった。
末尾には、『頑張って、胃袋つかめー!』なんて書いてあって。桐生さんに似た、犬のイラストまでがついていた。
「ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
そう言って、リハビリ室の方へと立ち去る桐生先生の後ろ姿に、深くお辞儀をして。
大切な”虎の巻”を片付けに、倉庫兼更衣室へと向かった。
桐生さんは、いきなり捌く練習をするのではなく、まず、魚を食べるときに骨格を意識して観察することを教えてくれた。
尾頭付き、というのも違う気がするけど。
ちょうどサンマの旬だったので、週に一度くらいの頻度で、サンマを食べるのはいいチャンスだった。
中骨、血合い骨、肋骨、と観察する。
観察の結果と、”虎の巻”を見比べる。
身をほぐす手順と、さばく手順になんとなく共通項が見えた気がして来たところで、サンマが食卓にのらなくなってきた。
次の段階、イワシの手開き、に挑戦だ。
そんなことをしつつ、祥くんとのおつきあいも、穏やかに重ねる。
仕事にもまれた彼は、冬を迎える頃にはなんだか、顔つきも精悍になってきた気がして。
差し向かいでコーヒーを飲みながら、格好いいなぁと、見惚れることもあったりして。
互いの誕生日、クリスマス、お正月、と、過ごしながら、折に触れて願う。
このまま、来年も。
こうやって彼と過ごせるように、と。