夏の思い出
初めて、互いの唇同士が触れたその夜は。
なにかを見透かされそうな気がして、両親の目を盗むように玄関を通り、浴衣を脱ぐ。
そして入浴を済ませたあと。
いつものスキンケアをしながら、なんとなく視線が鏡の中の唇に向かう。
頬に……じゃないキス、しちゃったんだなぁ。
なんて、やっちゃんが聞いたら、『まだ、そんなオボコい事を』って叫びそうなことを思う。
そして、翌週のデートの時には。
チラリ、と、彼の唇を見ては、ドキドキする。
あの、唇が私に……。
その日のデートでも、別れ際、人目のない通りの隅でキスをして。
「近いうちに、もっと。紀美に近づきたい」
なんて言われた。
「もっと、って……」
そういう意味?
「まずは、お盆休みにでもプールに行かない?」
「うーん」
「いや?」
高校卒業以来、プールなんて入ってないから水着もないし。彼に水着姿を見せるのも、勇気がいる。
でも。
花火の時に出会った、祥くんの”同僚”の顔を思い出して。
なんとなく、この誘いを断ったら”負け”な気がした。
「嫌じゃないけど……」
「だったら、行こうよ」
と、重ねて請われて。
頷きながら見た彼は、”ちぎれるほど尻尾を振っているシベリアンハスキー”のような顔をしていた。
水着を買いに行くのは、さすがに一人で行った。やっちゃんを誘うのは、浴衣と違って、どうにも恥ずかしくって。
店員さんに勧められるまま、ビキニも試してはみたけど。ボリューム不足、の感じがどうにもならないし。それ以前に、やっぱり恥ずかしくって、直視に耐えない。
かといって、ハイレグも……なぁ。
悩みに悩んで。
若干ハイレグ気味、ってところで手を打った。
せっかく買った水着だから。
いいお天気になるといいな。
そんな願いを空も聞き届けてくれたらしくって、世間がお盆休みに入る週の日曜日は、雲ひとつない快晴だった。
気温も高くなるらしく、絶好のプール日和。
「おぉー。紀美の足だ」
ヒューなんて、口笛を吹かれると、余計に恥ずかしくなって。
男女の更衣室から出たところで落ち合った彼の前で、身を隠すようにしゃがみこむ。
「やーめーてー」
亀のように首もすくめた私の目の前に、彼の足。
大人の男性の足をこんなに間近で見ることなんて、長いことしていない。
子供の頃は、父もステテコで晩酌、なんてことをしてた時もあったけど。
私たち姉妹が年頃になったころから、父はパジャマのズボンを穿いて、お風呂から出てくるようになった。
そうかぁ。
父と同じように、彼もすね毛、なんてものが生えていたりするんだなぁ。
そう言えば、入院中には、無精ひげも生えていたっけ。
男女の違い、なんて、保健体育の教科書のようなことを思いながら、目の前の足を眺める。
「紀美。いつまでもそんなところで丸まってないでさ。プールに入ろうよ」
焦げるよ、なんて言われて。
しぶしぶ立ち上がる。
「水に入っちゃえば、見えない見えない」
「……祥くん、なんで眼鏡かけてるの」
「コンタクト流したら、高いし」
片目で一万円、もするらしい。
いや、私が言いたいのは、そうじゃなくって。
「それに、視界がぼやけてるのは、心配だし」
「はぐれたら、私が探せば済むじゃない」
「いや、そっちの心配じゃなくって」
「どっち?」
「ほかの男の心配」
「そんな心配、要る?」
さっきの更衣室でも、今歩いているプールサイドでも。
華やかな水着を着た、スタイルのいい子なんていっぱいいるじゃない。
「惚れた欲目、でもいいよ。とにかく、他の男だって紀美の水着姿を見るのに、俺がぼんやりとしか見えないのは嫌だ」
眼鏡越しの三白眼が、拗ねたような色を帯びる。
大人っぽくなった、と、最近では思うことが多くなったけど。
こんな表情を見ると、『かわいいなぁ』と思ってしまう。
こんなかわいい祥くんのことこそ、”他の誰か”になんか、見せたくない。
私だけの祥くんで、いてね。
お腹が減るまで水遊びをして、最近できたらしいウォータースライダーも楽しんで。
遅めのお昼にしよう、と、水から上がる。
更衣室に向かってプールサイドを歩いている時、
「紀美、日焼けが……」
祥くんに言われて初めて、肩のあたりがかなり赤くなっていることに気付いた。
肩のストラップをチラッとずらすと、痛々しいほどのコントラストで、日焼けの跡がついている。
「痛くない?」
「うーん。見た目ほどには……」
同じように遊んでいた祥くんも、少し赤くなっている。
「祥くんは、大丈夫?」
「俺は、もともと黒く焼ける方だから」
「私も、どっちかと言えば黒くなる方なんだけど」
部活でテニスをしていた中学から高校時代なんて、体操服越しにブラのラインが日焼けしてたこともあった。
「帰ったら冷やすし。一週間もしたら皮が剥けて元通りになるんじゃない?」
「そう?」
「そうよ。きっと。祥くんが帰省から帰ってくるころには、ね」
明日の月曜日から、一週間の予定で、実家に帰ると聞いている。
「じゃぁさ。紀美」
「なに?」
「日焼けが落ち着いた頃に」
「うん?」
「俺の部屋に一度遊びに来ない?」
そう言った彼の、いつもより掠れた声に、何かを感じて。
彼の三白眼を、じっと見つめる。
黙って、頷く。
たぶんそれは。
もう一歩、互いが近づく日、になる。
遅い昼ご飯は、そんなやり取りを少しだけ意識してしまって。
どこかぎこちない会話になってしまった気もするけど。
帰りのバスの中では、水に疲れて。
彼に肩を借りて、ぐっすりと眠ってしまっていた。
「紀美、起きて。終点だ」
肩をゆすられて、目が覚めた。
半分寝ぼけた状態で、椅子から立ち上がって。
ズーンと後頭部に重い痛みが乗っかってきた気がする。
声を立てるような痛み、ではないから、片目をつぶる様にして、痛みが去るのを待って。
そろそろと、バスから降りる。
「疲れた?」
「うん。やっぱり、水に入ると疲れるね。高校生の頃とか、水泳の後の日本史の授業が、つらかったのを思い出すわぁ」
「日本史がつらかった? 俺は、数学だったけど」
文系と理系の違いか、と笑いあって。
自分の笑い声が、頭に響く。
レム睡眠とかの関係か、たまに、こうやって寝起きに頭痛がすることは、今までにもあったから。
きっと家に帰って、寝なおせば、明日の朝には、良くなるはず。
「日焼けは、大丈夫?」
「ちょっと、ヒリヒリしてきた」
「薬とか、買った方が」
と言いかけた彼が、はっとした顔で私を見る。
「ごめん。プロに……」
「いや、いいけど」
家の救急箱を思い出す。
うーん。日焼けに使えそうな薬か。
無いな、今の所。
とりあえず、今夜は冷やしておいて。
「明日、仕事の合間にでも処方してもらうから、大丈夫」
「そう?」
「大丈夫だって。薬箱の中で、仕事しているようなものだから。大概のものは、そろっているし」
毎年、この季節。
日焼けがひどくって、って理由で受診する人は居る。明日は、皮膚科の診察はないから、とりあえず……外科、か。
翌朝になっても、ズーンとした頭の重みは取れなくって。
でも、休むほどではないし……と出勤する。
日焼けの塗り薬と一緒に、鎮痛剤も処方してもらって。
一日の仕事を乗り切る。
「見事に焼いたわねぇ」
終業を迎えて、そろそろと着替えている私の背後から、辰巳さんの声がする。
「ね、突ついてみてもいい?」
「止めてください!」
うりゃ、と、変な声を出して突つこうとしているのは、薬局長。
「白衣の襟は糊が効いていて痛いし、肩にTシャツが擦れるしで、今日はもう死にそうなんですから」
「どこ行ってきたわけ?」
横で着替えている堀田さんに訊かれて。
「半日ほど、プールに行っただけなんですけどね。油断しました」
「へぇ。プール」
薬局長と堀田さんの声が、シンクロして聞こえた気がした。
「それは、あれかな? 彼氏と行ったのかな?」
探るような薬局長の声に、小南さんが反応する。
「川本さん、彼氏、居るんですか? えー。どんな人? かっこいい?」
「いや……」
どんなって……どう答えればいいんだろう? これ。
「川本さんて、結構、強面好みよね?」
「は?」
いつ、私が強面好みと?
薬局長の言葉に、面食らっていると、
「へぇ? 意外」
「辰巳さんもそう思うでしょ?」
「なんとなく、さわやか系か王子様系が好きそうなイメージ」
「ああ、あるわねぇ」
なんて、勝手に薬局長と辰巳さんの二人が盛り上がっている。
って、どんなイメージ?
「で、強面、なんですか?」
「目つき悪い人、好きよね?」
小南さんの問いかけに、ほら、入職した頃の……なんて、古いことを持ち出される。
「もう、昔の話はいいじゃないですか。薬局長が言っている人は、別に目つき悪くないと思いますし」
桐生先生は、切れ長なだけで。祥くんの三白眼とは、怖さが違う。
「いやいや。川本さんが知っているのは、仮の姿、よね? 堀田さん?」
「あー。かもしれませんね」
その日の帰り道。前を歩いている小南さんたちに聞こえないように、と、少し離れ気味に歩きながら堀田さんが小声で教えてくれたことによると。
私が入職する以前。桐生先生は、奥さんがらみの武勇伝があったそうで。
「だからね。あんまり川本さんがしつこく絡んだら、やばいなーと」
「はぁ。そんな風に思われていたんですね」
「台風が味方に付いたのは、川本さんの方だったかもよ?」
思いもかけない形で、終止符を打たれた恋だったけど。
祥くんと出会うきっかけにもなった台風は確かに、私の味方だったのかもしれない。
実家に帰っている祥くんは、県外からの長距離もものともせず、同じように電話をかけてくる。
その合間に、かつての同級生と飲みに行ったりしているらしい。
そして。プールに行った翌週の土曜日のお昼前。
休日だったその日、ターミナル駅で待ち合わせた祥くんは、
「日焼け、どう?」
と言いながら、軽く肩に触れる。
「昨日ぐらいから、皮が剥けてきてて……」
「だったら、痛みは落ち着いてきているよね?」
確かめるように顔を覗きこんできたのは、きっと。
違う意味での確認、だと思った。
その”確認”に、息を飲み込むように頷く。
もう一歩、あなたに。
近づく覚悟は、この一週間で固めたから。
毎日、乗っている電車に、今日は二人、並んで座って。
初出勤の日みたいに、心臓がどきどきする。
「祥くん、昼ごはん、どうする?」
「紀美は、何が食べたい?」
「うーん」
内心の緊張を、隠すように”日常”の会話をして。
「あのさ。紀美、ナポリタンスパゲティって、作れる?」
「は?」
「ほら、ケチャップ味の……」
「ああー。うん。多分」
「実家に帰った時に友達と飲んでてさ、給食の話になって」
「食べたくなった、って?」
「そう。でも、さすがにこの年で、母親にねだるのもなぁ、って思って」
「自己流でよかったら、作ってみようか。材料はある?」
「麺と、玉ねぎ……くらいは」
「あのあたり、スーパーってあったっけ?」
「紀美の病院より、ちょっと東に行ったら……」
説明する祥くんの言葉を頼りに、頭の中で地図を描く。
なるほど。
普段、通勤で使う道とは逆方向になるから、知らなかったのか。
二人で、買い物をして。スーパーの袋をぶら下げて、彼の家へと向かう。
ワンルームマンション、というところに、初めて足を踏み入れる。
へぇ、なるほど。
こんな造りになっているのか。
感心しながら、見渡した部屋の片隅。カラーボックスの上に、小さなプラモデルを発見。
「祥くん、プラモデル作ったりするんだ」
「ああ、それ? この前、たたき売りになってるのを見つけちゃって」
「へぇ?」
「懐かしくなって……つい」
そう言いながら、彼が指先で突いているのは、私でも知っている、というか。私たちの好きなバンドが映画の主題歌を歌っていたロボットアニメの、敵役の赤いロボットのプラモデル。
「紀美が仕事で会えない土曜日に、暇つぶしで作ったんだ」
「ごめんね。休みが合いにくくって」
完全週休二日、だもんなぁ。祥くんの所は。
自己流、で作ったナポリタンスパゲティは、まあまあの出来だった。
「新しく買ったケチャップ、かなり残ったけど……使い切りそう?」
「いいよ。あればあったで、何かに付けて食べるだろうし」
食器の後片付けをしながら、そんな話をして。
濡れた手を、タオルでふく。
「紀美」
背後から、祥くんが抱きついてきた。
「祥、くん」
胸元に這った彼の手に、男、を意識する。
「今まで以上に、紀美のこと」
見せて?
吐息のような声が、左耳に流れ込んでくる。
背後からはいつもより高く感じる、彼の体温。
「祥くん」
今までにないほど深く、互いの唇が重なる。
「祥くん、さっきも言ったけど、日焼けの跡が凄いことになってるけど。いいの?」
「紀美、は嫌?」
ついばむような口づけの合間に、ささやかな抵抗、をするのは。
”オトナ”になることへのためらい、だろうか。
「紀美。俺の心も体も、キミのモノだから。どんな紀美も見たいよ?」
その言葉に緊張にこわばった体が、少しほぐれた気がする。
彼の手に、自分の手を重ねる。
「祥くん。私も」
すでに心は、あなたの
モ ノ だ か ら。
今日、体もあなたの
モ ノ に し て。