花火
本格的な夏が来た。
祥くんもそろそろ独り立ちの日を迎えるらしくって、夜の電話では『明日は、一人で得意先に行かなきゃ』なんて、緊張気味の声を出しているかと思えば、『今日は、うまくできた……気がする』なんて、テストを終えた中学生みたいなことを言っていることも。
こうやって新人は、仕事を覚えて進んでいくんだなぁと、三年前の自分を思い出す。
そして、その合間のデートでは、夏のボーナスで買った浴衣を着てみた。
『八月の上旬にある鈴森川の花火大会に行こう』って誘われた時に、だったら浴衣、と思って。やっちゃんを誘ってデパートへと買いに行った”麻の葉 柄”の紺色の浴衣。
母に着付けを教えてもらって、何度か練習もして。髪もいつもとは違う、アップにまとめて。
祥くん、なんて言うだろう。
似合う、って言ってくれるといいなぁ。
待ち合わせは、ターミナル駅。
ここから病院へ向かう西向きの路線ではなく、涼岐市へと向かう、北向き路線に乗って祥くんの会社の最寄り駅で降りることになる。
乗り換え、だから、いつもとは違って、改札内で待ち合わせて。
改札を通る祥くんの姿を見つけた。
と思ったら、背後から、ポン、と肩を叩かれた。
振り返ると、同じように浴衣を着た薬局長が、手を振りながらプラットホームへの階段に向かうのが見えて。慌てて、会釈をする。
今夜も、検査室の三沢さんが一緒で。本当に、この二人は仲がいい。
そんな事を思っている間に、目の前に祥くんが立っていた。
「お待たせ、って。知り合い?」
「あ、うん。職場の先輩、っていうか、上司?」
「へぇ」
「浴衣を着てたから、向こうでも会うかも」
「いや、会ってもわからないんじゃないかな?」
「それもそうか」
周囲の人達を見渡す。
この内の何割かはきっと、同じ行き先だろう。
改めて、祥くんと挨拶を交わして。
「女の人って、本当に、着るもので変わるねぇ」
一歩後ろに下がるようにして、私を眺めた祥くんが、しみじみと言う。
「そう?」
「うん。いつものスカートとも、仕事中の白衣姿とも違ってて、新鮮」
新鮮、だって。
その言葉がくすぐったくって、顔がにやけそうで。
両手で口元を隠す。
「あ。爪も」
「うん」
普段は、マニキュアなんて付けられないけど。
実は化粧品の中で一番、興味が有るのがマニキュア。バイトのお給料で一番最初に買ったのが、薄いバラ色のマニキュアだった。
まぁ。実習とかの関係でほとんど付けることができないまま、固まってしまったけど。
今日は、ほんのりとした桜色を塗ってみた。
こんな些細なことにも、気づいてくれるんだ。
花火に行く人達で混み合った電車に乗り込む。
袖が気になって、つり革を持つのをためらっていると、
「ほら、紀美」
と言って、祥くんの手が差し出される。
「ええっと」
「掴んでいればいいよ。揺れると、危ない」
「……うん。ありがとう」
私の方から、祥くんに触れたのは……初めて、かもしれない。
そっと滑り込ませた手が、キュッと握られて。
と思ったら、ぐらりと電車が揺れる。
隣にいた女の子が、悲鳴を上げて、たたらを踏んだ。
同じように姿勢の崩れかけた私の体は、祥くんの腕に引っ張られた。
「大丈夫?」
そう言った祥くんの、胸元に私の手を握りこむようにした腕に、ぐっと筋と静脈が浮き上がっているのが見える。
はー、っと息を吐く。
「ありがとう。間一髪、だったね」
「うん。駅を出てすぐ位にポイントがあるから」
「へぇ」
「入社してすぐは、毎朝、ここでよろけてて。いつの間にか、自然と体が覚えたんだ」
『そろそろ来るぞ』って、身構えていたらしい。
そうか。入社して三か月。
色々なことを、身に着けたんだろうな。
ある意味、逞しくなった気がする彼を、ひっそりと見上げる。
その視線に気づいたようにこっちを向いた彼が、柔らかく微笑んだ。
目的の駅で降りて、花火大会の行われる川の方へと流れる人の波に乗るようにして二人で歩く。
「夕食は、屋台でいいかな?」
「屋台も出るんだ」
「うん、去年トラたちと一緒に来て……」
「ふぅん。虎太郎と」
ダメだ。いつの間にか虎太郎の名前が祥くんの口から出る度に、眉間にシワが寄るクセがついてしまった。
去年の夏、だったらきっと。”例の彼女”も一緒だったんだろうな。って、思ってしまう。
「トラと金子と、もう一人男子がいて、あと、女子が二人」
「ふぅーん」
あ、なんか嫌な感じの返事。
どうしても自分の声に籠ってしまう”不機嫌さ”に、内心で焦っていると。
「紀美。心配しなくっても、ゼミの連中と、だよ?」
なんて言いながら、探るように手を握られて。
伝わる体温に、不機嫌の角が少し削れる。
「心配なんか、してないけど」
「そう?」
「そうなの」
心配、じゃない。これは。
やきもち、だ。
「で、金子たちは、ゼミの女の子ともっと仲良くなりたい、って下心もあったんだけど。トラは『彼女がいるから』って、食べる方に専念してて」
「ああ、ベタボレの彼女?」
「うん。でも結局、後で女の子と一緒だったことが、彼女にバレたらしくって。『浮気か?』って、またケンカしてた」
「へぇ」
ココで、『祥くんは、どっちだったの? 食べる方? 下心の方?』なんて、可愛く責めることができたら。まだ、心のもやもやもスッキリするのかもしれないけど。
去年の夏、は、まだ友達でしか無かったし。
イジイジとした思いに胸を燻らせながら、下駄をカラコロと鳴らしてみる。
「で、去年見つけた絶好スポット、行かない?」
「絶好スポット?」
「うん。俺の会社の二筋ほど向こう側になるんだけど」
ちょっと小高くなった所に、公園があるらしくって。去年、意外と人がいないな、と思ったとか。
「川の直ぐ近くじゃないから、たぶん地元の人とかじゃないと来ない所みたいで」
「へぇ?」
「それでも、川の方角には高い建物が少ないから結構よく見えるんだ」
そんなに遠くないし、って言っている祥くんの目が、行きたいな、と言っているように見えて。
一つ、頷く。
「去年の花火を見てて、『来年は絶対、紀美と来るんだ』って思ってたんだ」
そう言った彼の声が、どこか弾んで聞こえたのは。
私の心が弾んだから、かも知れない。
途中のコンビニでペットボトルのお茶を買って。あとは、タコ焼きと焼きそばを買おうか、なんて相談しながら、会場に近づくにつれて増えてきた屋台を眺めて、歩くスピードを落し気味にしていた時だった。
「あれ? 小山くん?」
と、若干低めの女性の声が聞こえた。
「あ、お疲れ様です」
「いやぁね。仕事じゃあるまいし。お疲れ様、はないでしょ?」
足を止めた彼にあわせて、立ち止まって。声の方を振り向いて、つないでいた手を、そっと離す。
私より少し年上、かな? 堀田さんと酒井さんの間くらいの歳だろうと思われる女性が二人、そこには居た。
これは……祥くんの先輩、かな?
「花火だったら、一緒に来ればよかったのに」
最初に声をかけてきた方とは違う人、だろう。ほっそりとした方の人が、なまめかしい声で言いながら、ゆるいソバージュの毛先を、指でもてあそぶ。
声にも仕草にも、堀田さんとは違う”蠱惑的な色気”ってものが漂う気がする。
「ね、これから、合流しない?」
と誘う彼女の口から、私の知らない名前がポロポロと出てくる。
仕事の付き合い、もあるだろうし。行ってしまっても、仕方ないのかな。
割り切らなきゃ。
オトナなところを見せなきゃ。
私は年上で。数年とはいえ、長く仕事しているんだから。
そう、思っても。
『行ってもいいよ』とは言えずに、臙脂色の籠巾着を握りしめる。
「ダメだよ。小山くん、彼女連れなんだから」
クスクスと笑う声がして、アルトの声がたしなめる。
背の高いその人は、タバコを取り出して咥えると、慣れた手つきで火を着けた。
きれいにルージュの塗られた唇に、フィルターの白が映える。
ふーっと、溜息のような煙を吐き出した彼女が、笑っていない目で祥くんを見て。
「お邪魔しました。仲良く楽しんできてください」
馬鹿丁寧な物言いと共に、唇が笑みの形を作る。
その表面的な笑顔に、祥くんは
「では、失礼します」
と、丁寧にお辞儀を返す。
その姿勢は、薬局に訪れる営業の人と遜色のない、きれいな挨拶で。
また一つ、成長を遂げた彼の姿を知る。
彼女たちと別れて、最初に目に入った屋台で、ヤキソバを。その隣でタコ焼きを、一パックずつ買って。
次の曲がり角で右に曲がる祥くんの、繋いだ手に導かれるまま、人の流れから離れた。
「あ、あそこが、俺の会社」
そう言った彼が立ち止まるまで、なんとなく。互いに黙ったまま、歩き続けていた。
「あそこ、って。どこ?」
曲がり角から続く通りには、夕焼けをバックにしたオフィスビルと思しき建物が並んでいる。そのうちの”どれ”なんだか、指し示す指先を辿っても、はっきりとは判らない。
昔観たSF映画のロボットは、指先から光線がでていたっけ。
そんなことを考えている私の左頬に、顔を寄せた祥くんは、
「あの、赤い看板がでているビル、判る?」
と、私の首筋を抱え込むように回した右腕で、指をさす。
顔のすぐ横を通って伸びる腕に沿わせるように、目をやると。確かに、通りの真ん中辺り、三階くらいの高さに赤い看板の出たビルがある。
「うん、判った」
「そのビルの向かいのビル」
「ああ。街灯の斜め前?」
「そう、それ」
なんとなく、この話の流れのまま
「ね、さっきの人たちは、会社の人?」
って、尋ねてみる。
両頬に感じていた彼の体温が、すっと離れて。
再び手が繋がれる。
「さっきの人たちは、営業部の先輩、になるのかな」
「へぇ」
「とは言っても、実際に営業には出てないんだけど。なんて言うか、ほら」
「ほら?」
「書類の作成とか、事務処理を担当してくれている人たち。俺より、二期、先輩だったと思う」
ということは、私より一歳年下、か?
堀田さんより年上、と思った私の目算は、ハズレだ。
どうもなぁ。
病院で接する患者さんは、明治大正の生まれが多いから。そのくらいの年齢を当てるのは、なんとなくできるようになってきたけど。
逆に、自分と近い年頃の人の年齢が、最近読めなくなってきた気がする。
特に女性は、服装やお化粧で変わるし。
花火の開始まで後、三十分くらいの頃。
たどり着いたのは、思っていたよりも広い公園だった。
遊歩道が整備されている公園の中を、迷うことなく歩く彼に連れて行かれたのは、東屋のようなところだった。
防犯のためか、灯りもついていて、ベンチもある。
そこで、買ってきた”夕食”を広げる。
「ほら、こっち」
食べ終えた所に一発目の花火の上がる音がして。始まってしまった、と急いで後片付けをして。
もっと花火がよく見える場所へと歩く私達の上に、低い破裂音が響く。
それに合わせて、夜空が明るくなる。
そして背の高い植え込みを回りこんだら。
目の前には
遮るもののない空に
華が咲く。
滝が流れる。
息をするのも忘れるように、
目の前の光の舞に、酔いしれる。
音と光が途切れて、しん、と静寂と闇が落ちてくる。
おわった、のかな。
真剣に見ていたせいか、喉が渇いた。
残ったお茶を持ってくれていた祥くんに
「祥くん、お茶を」
頂戴、と言いかけた声が、途切れる。
覆いかぶさってくる彼の影。
両頬を包む手の感触。
そして
唇に触れた
あたたかな……。