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初心者コースで

 初めてのデートは、病み上がりの彼の体が心配で、彼の家の近くでお昼ごはん、だった。


「いつか、祥くんがバイトをしてたラーメン屋さんも行ってみたいな」

「今から、行く?」

「いや、それはどうかと……」

「そうかな?」

「うーん」

 特に、食事制限はないらしいけど。

 心情的に脂っこいものは、ためらわれる。


 結局、チェーン展開しているこの前のうどん屋さんが、この近くにもあったから、そこへ行くことにした。


 しっぽくうどんを前に、お箸を手にした祥くんが

「紀美は、今度のシングルCDって買う?」

 と言い出した。

 そう言えば私達の好きなバンドが 『アルバム先行のシングルを出す』と、最近見た雑誌に書いてあった。

「買わない、と思う。私アルバム派、だし」

「そっかぁ」

「祥くんは、どうする?」

「紀美が買わないなら、買おっかなぁ?」

 摘み上げたかまぼこが、口へと運ばれる。

 私も、玉子焼きを箸でつまみ上げる。噛みしめると、ぎゅっとだし汁が染み出してきた。

「じゃぁ、私がアルバムを買って貸すから、シングル貸して?」

「いいの? それで?」

「何が?」

「金額、違いすぎない?」

「うーん。早く聴きたいって、気持ちもあるのよね」

 だからといって、無制限に買うのはな……と思って、『買うのはアルバムだけ』って、自分自身に制限をかけている。

「紀美がそう言うなら……」

「商談、成立」

 めでたしめでたし、と、お箸を持った手で拍手すると、彼の目が笑う。

「こんなに簡単に、商談が成立したら、楽だよね」

「ま、ね」

 私の職場でも、二年に一度、採用薬品の入札があって、薬局長が頭を抱えながら残業しているし。

「営業に配属されたら、やっぱり大変かなぁ」

「決まったの?」

「うーん。仮決まり?」

「へぇ」

「今は、まだ仮配属、って感じ。特に俺は、一週間遅れたから」

 そうか。私達は、採用の時点で、仕事は決まっているけど。会社って、そうなんだ。



 そんなことを言っていた祥くんも、貸してくれると言っていたCDが発売になる頃には、営業配属の辞令が正式に出たらしい。

 約束のCDを借りた土曜日のデートで、そんな報告があった。


 その日は、彼が見つけてきた洋食屋さんで、夕食を”ご馳走”をして。

 『初ボーナスが出たら、俺が紀美にご馳走する』と言っていた彼と、駅で別れて。

 一人、電車に揺られながら、CDの入った袋を楽しみに撫でさする。


 今夜は、急いでお風呂を済ませて。CDを聴こう。



 歌詞カードを眺めながら、ヘッドホンからの歌声に耳を澄ませる。

 リピート再生していたCDの、何巡目かの繰り返しを聞きながら、祥くんのことを考えた。


 あの夏、桐生先生に”嵐の失恋”をしたからこそ、やっちゃん姉弟は、祥くんと引きあわせてくれた。

 私は彼と出会うために、失恋ともいえないような失恋を、今まで重ねてきたのだろうか。


 そう考えれば……彼との出会いは、運命かもしれない。



 祥くんの入院というハプニングで始まった”お付き合い”は、週に三度の電話と週末のデートが、基本になった。

 友達だった時と、あまり変わりない気もするけど。

 電話の時間と曜日、それにから週に一回は私からかけること、が、いつの間にか定着して

 デートの最後。駅では『じゃぁまた、来週』と言って別れる。

 ささやかだけど、彼と一緒に過ごす時間が、当たり前のものになってくる。




 そして、梅雨もそろそろ明けようかという頃。

「雨降りに外をウロウロと歩くのもどうかと思うし。俺、だまし絵って、結構好きなんだ」

 なんて言う彼の言葉に従って、病院のある駅からバスに揺られて、市の南部にある県立美術館に行くことになった。

 彼の言うだまし絵は、来週までの特別展、らしくって。

 私も、電車のポスターで見た時に、面白そうだと思っていた。 


「あー、これ。見た事ある」

 確か、中学校の美術の教科書で。

「うん、有名だよね」

「リトグラフ、って版画だったっけ?」

「だったかな?」

 そんな会話を交わしながら、展示を眺めて。


 あ、この絵は苦手だなぁ。

 鳥肌、たっちゃった。


 腕組みをしてじっと絵を見つめている祥くんから、そっと離れて。

 隣の絵の前に立ってみる。


 おぉ。

 これは、面白い。


 水の流れが無限のループを描くような、その絵の世界に入り込んだ小人の気分で、グルグルと絵の中のループを視線で辿る。

 酩酊感に似た、フワフワした感じがしてくる。

 あぁ。絵に酔っぱらってしまった。


 するりと、指が絡め取られる。

 隣に立つ人の体温が、ほのかに感じられる気がする。

「気が付いたら居ないから、探しちゃった」

 そう言って、軽く見下ろしてきた彼と目を合わせて微笑み合う。


 こうやって、手を繋ぐことにも慣れた。

 最初は、恥ずかしくって。でも、彼のあの手、が自分と重なっていることがうれしくって。

 振りほどきたいようなムズムズした感じに、内心で悲鳴を上げながら、悶えていたけど。



 そのまま、その日は、美術館内の喫茶ルームでお昼ご飯にした。

 サンドイッチに齧りつく彼の、白い歯。

 いつ見ても、おいしそうに食べるなぁと思いながら、ピザトーストを齧る。


「ちょっと気が早いけどさ。紀美は、お盆休みってないんだっけ?」

「うん。病院自体は、ずっと開けてるから。長期の休みを取るんだったら、有給と土曜出勤の代休を組み合わせてって感じかな?」

 去年、薬局長は『検査室の三沢さんとイタリアに行ってくる』とか言って、十日ほど休みを取っていたっけ。お盆シーズンを外して、旅行代金の安いころを狙って。

「祥くんの所は?」

「確か……」

 左手で指折り数えている。

「一年目でも、連休がもらえるんだねぇ」

「一年目でも、って?」

「うちの病院は、一年目の職員は、有給消化が月に一日、って制限があるから」

「へぇ」

 土曜出勤の代休があるから、それと合わせたら少しだけ、連休にすることもできたけど。

「で、お盆休みは、どうする予定?」

「うーん。考え中。一度、実家にも顔を出さないと。入院で、心配をかけてるし」

 祥くんは、そう言うとコーヒーカップに口をつけた。



 常設展示のフロアにも行って。

 現代アートとやらの不可解な作品に二人で首を捻って。

 お土産コーナーで、さっき酔っぱらいそうになった絵が印刷されたクリアファイルと、絵葉書セットを買った。

「クリアファイルなんて、使うんだ」

「あればね。便利だし」

「へぇ」

 自室の机の上には、薬品名が印刷されたクリアファイルがゴロゴロしているから、こういう機会でもないと、買うことは滅多にないけど。

 せっかく買ったこのファイルには、今日のチケットとパンフレットを入れておこう。ああ、今までに二人で行った映画や水族館のチケットも確か置いてあったはず。

 二人で重ねていく思い出を、このファイルに残していこう。



 そろそろ日も暮れる、と、美術館を後にして。

 最寄りのバス停へと向かう。

 朝よりも強くなった雨音が、祥くんの声を聞き取りにくくする。


「ごめん。何?」

「いや、いいよ。聞こえなかったなら」

 生活に支障はないから、誰にも言っていないけど。

 私の耳は、ほんの少し。聴力検査で辛うじてわかる程度に、右側が聞こえにくいらしい。

 だから、中学生の時の聴力検査で指摘されて以来、電話を取る時は必ず、左耳で聞く。



 今、彼は車道側。私の右側を歩いていて。そのせいで、聞き取りにくいのかとも思ったけど。

 さりげなく、そんな気遣いをしてくれる祥くんが、かっこいいから。

 ”気のせい程度”に聞こえにくい耳のことは、言わずにおく。



「紀美」

 今度は、はっきりと名前を呼ばれて。

 隣の青い傘の中を覗き込む。

 彼の三白眼が、いつもより怖い感じがして、少し、腰が引ける。

「紀美」

 いつだったか電話で耳にした、かすれたような声音に、視線が絡み合う。


 スローモーションのように、彼の傘が傾いで。

 見慣れた三白眼が、見慣れない色を湛えて近づいてくる。


 あ……。


 思わず目を閉じた私の頬に、柔らかな感触が触れる。



 そっと目を開くと、祥くんが目の前にいた。


「祥、くん」

 自分の声も、かすれている。

 今、キス、された。よね?


 思わず、彼の触れたところを掌で押さえる。

 なんだか、誰にも見せたくないな。

 私だけの宝物、だから。



「紀美は、ウブだねぇ」

 そう言って、祥くんのまなざしが、ふわりと緩んだ気がした。

 二十五歳にもなってウブで未通娘な自分が、恥ずかしくなって目を逸らす。

「俺は、そんな紀美が」

 好きだよ。

 左耳にささやかれたのは、そんな言葉で。

 一気に体温が上がった気がした。

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