すれ違う電話
翌日、水曜日の昼休み。
「おー。川本っちゃん。お疲れー」
「あ、ナベちゃん」
食堂に行こうとしたところで、外科のナースの渡辺さんと行きあった。
合コンを一緒にした子、だから。小山くんのことを覚えてないかと思って、詰所に戻るところを引き留める。
「昨日の朝、婦長が点滴取りに来たICUの患者さんてさ、前に合コンした時の子?」
「いやぁ、私は担当じゃないから、顔は見てないなぁ」
「そうかぁ」
「大体、合コンっていつしたっけ? そんな前の事、覚えてないし」
「そりゃそうだ」
「なに? あれから、付き合ってる、とか?」
「……」
「虫垂炎だったから、今朝から大部屋に戻ってるみたいだし」
うん。病室が変更になった連絡は確かにあった。
午前中に払い出した点滴の内容も、重篤な代物ではなかった。
でも。
もしかしたら、祥くんかもしれない。
その不安をぬぐってはくれない。
「気になるんだったら、昼休みにでも覗いてみたら?」
「いや、それは、無理でしょ?」
薬剤師が病棟に上がる理由は限られているし。病室に入る理由なんて、もっとない。
ほかのナースさんに見咎められたら……。
『経過は良好らしいから、心配いらないって』
そう言って、軽く背中を叩いたナベちゃんに手を振って。
先に食堂へ行った小南さんと薬局長の後を追いかけた。
その夜、待ちわびた電話がかかってきたのは、私がお風呂に入っている時だった。
電話を取った母に、『折り返す』と、伝言を頼んで。
鼻の下までお湯につかって、ブクブクと息を吐き出す。
ほら、やっぱり。他人だったんじゃない。良かった。
心配させないでよね。祥くん。
濡れ髪をタオルにくるんで、子機を取りにお台所に向かう。
夕食のお皿を片付けていた母が、振り返って。
「小山くん、『出先だから明日また』って」
「出先、かぁ。入社早々、残業かなぁ」
「接待とかもあるだろうしね」
「お父さんも、今夜は飲み会だったっけ?」
「そうよ。サラリーマンも、大変よねぇ」
そんなことを母と話しながら、牛乳をグラスに注ぐ。
疲れていた彼の姿が、目に浮かぶ。
ゆっくりしっかり休んで。
来週は、デートしようね。
その翌日は、料理教室で帰るのが遅くなって。
帰る直前に電話があったと、妹から聞いて思わず腕時計の時間を確認する。
昨日といい、今夜といい。えらく早い時間にかけてきたなぁ。
そう思いながら、電話をかけたけど留守らしくって。
この夜もすれ違ったまま、祥くんの声を聞けなかった。
「あ、れ? 紀美?」
間の抜けたような声に、顔を上げる。
「小山くん……」
やっぱり入院してたのは、彼、だったか。
金曜日のこの日は、午後から外科病棟詰所にストックしてある薬品の、年に一度のチェックがあって。珍しく私は、病棟に上がっていた。
祥くんとつき合い始めて、四日目? いや、五日目か?
お付き合いを始めたばかりの、私にとって初めての”彼氏”は、ウグイス色の病衣を着て、病棟の廊下を歩いていた。
「そうかぁ。ここ、って……そうか」
一人で納得している彼だけど、こっちは仕事中で。
横にいる堀田さんの視線がなんだか、痛い。気がする。
とりあえず仕事に戻って。午後の仕事をこなして。
終業と同時にタイムカードを押して、病棟へと向かう。
見舞客、として病室に入る。
六人部屋の真ん中のベッドに、祥くんは居た。
「祥くん」
「紀美……」
ばつが悪そうな顔で、体を起こした彼のベッドサイド。スツールに腰を下ろす。
「盲腸、だって?」
「あ、やっぱりバレた? 」
「隠すつもりだったわけ?」
「いや、心配かけるかな……と」
確かに、ここ以外の病院に入院していたら、判らなかった。
きっと『最近、電話のタイミングが悪いなー』で、スルーしていた。
「いつから、具合悪かったの? ご飯食べに行った時から?」
「うーん。あの時は、ちょっとおかしいな……とは思ってたんだけど。紀美に話す内容に気を取られてて、っていうか。多分緊張してるせいかなと思ってたら、夜中になって」
救急車のお世話になりました、と言って、頭を下げる。
彼の家が駅を挟んだ向こうと近かった上に、その夜の救急当番がこの病院だったので運び込まれた、らしい。
「そっかぁ。私も、顔色悪いな、って思っていたけど、疲れてるせいかと思っちゃった」
もっと早く、気づけばよかった。
「で、祥くん」
「うん?」
手遊びをするように、布団の上で私の手を握ったり開いたりしている彼に、聞きにくいことを訊いてみる。
「処方箋を見たんだけど。歳……」
「あ、言ってなかったっけ? 俺、浪人してるから、トラより年上」
「そうだったんだ」
「浪人してるような、落ちこぼれは、嫌?」
「は?」
落ちこぼれ、か?
「留年よりマシじゃないかと」
「そう?」
「留年は、まじめに勉強したら回避できるけど、浪人は仕方ない時もあるし」
高望みしたとか、たまたま体調が悪くって、とか。
「真面目な紀美らしいな」
そう言って笑う、祥くん。
廊下に配膳車が来た気配がしたのをきっかけに、立ち上がる。
「退院まで、まだかかりそう?」
「うーん。週明けかな、とは言われてる」
「日曜のデートはお預けだからね。早く治して」
「うー」
「明日の仕事は半日だから、午後からお見舞いにきてあげる」
「う、ん」
彼の体温を名残惜しく思いながら、ゆっくりと立ち上がる。
互いの手が離れる。
病室を出たところで、婦長に会って。
おや? って顔に、軽く会釈をしてから、階段へと向かった。
土日は、お見舞いで過ごして。
週明けに無事退院した祥くんは、その日の夜、電話をかけてきた。
明日から十日ぶりの仕事だという彼は、『病院の夜は、長かった』という。
[消灯時間があるから、遅くなったら紀美に電話もできないし]
[ああ、それで……]
いつもとは違う時間帯に、電話してきたんだ。
[傷がうずいて、眠れないし。紀美の声が聴きたくって仕方なかった]
[入院してるのが祥くんだってわかってたら、毎日でも仕事の後で病室に寄ったのに]
[そっかぁ。ほんの数メートルの所に居たんだもんなぁ]
知らなかったとはいえ、残念。
そんな彼の言葉に、院内の地図を頭に描く。
うん、確かに。天井を突き抜けた直線距離はきっと、十メートルも離れていなかった。
『今夜は、ゆっくり眠れそう』
そう言う声に、微笑む彼の顔が目に浮かぶ。
枕元の目覚まし時計が示す時刻は、そろそろ一時間近く話していたことを告げていた。
[じゃぁ。おやすみ、祥くん]
取り立てて意識せずに零れた言葉に、自分でも驚いていると、ふっと、息を吐く音が受話口を震わせる。
[うん。オヤスミ]
左耳に流れ込んできた声は、いつもよりかすれ気味で。
その声にドキドキしながら、彼が受話器を置く音を聞いて。私も、そっと”切”のボタンを押す。
おやすみ。祥くん。
今夜はぐっすり眠って、明日からの仕事に備えようね。