キミは誰?
隠すつもりはなかったんだけど。
そんな前置きで、小山くんが言うには。
虎太郎が、彼女に甘くって。なんだかんだ言いながらも、わがままを聞いてしまうらしい。
卒業旅行の行き先を一緒にしたい、と言い出した彼女は最初、虎太郎たちの方の行き先を変更させるつもりだったけど。
小山くんたちが、『さすがに、海外は無理』と渋って。だったら、と、金子くんの実家に無理を言って、女子が六人増えることになった、らしい。そして、別れた彼女もメンバーの中にいた、と。
「さすがに、金子の実家だからさ。部屋割りは、厳重に男女別だったよ」
「ふーん」
ってことは。
海外になっていたら、ホテルの部屋が……ってこともあり、だったわけか。
小山くんも”オトナ”なわけだ、と、面白くない気分で、うどんの黄身に、箸を突き刺す。
破れた膜から、じわりと、黄色がだし汁に漏れる。
「でも、『俺の心は、君のモノ』なんでしょ?」
「紀美さん。それは……」
「卒業式の日の、あの子が、別れた彼女でしょ?」
「あぁ……うん」
「そんな事、言ったくせに。代わりになる、なんて、言わないで」
黄身が溶け出ただし汁が、濁る。
濁っただし汁に、うどんを浸しては引き上げる。
「紀美さん、それは違うって」
「違うって、何がよ」
唇がとがって。
自分でも、みっともないくらい、嫌な顔をしている自覚があるけど。
そうでもしないと、涙が出てきそうになる。
「”キミ”の意味が違うんだって」
「君、は君、でしょ?」
卵の黄身だとでもいうわけ?
「君、じゃないっ。俺が言ったのは、”紀美”っ」
叩き付けるような彼の声が、頭の中でしばらく渦を巻いて。
「き、み?」
「そう。自分の名前だって、気づかない?」
「全然。全く」
だって、あの子の言った”キミ”は、絶対に”君”の発音だった。
それに。
「小山くん、ずっと”紀美さん”って呼んでたから……呼び捨てにされてるとは思ってなかった」
「あー。それは、ごめん」
彼にしては珍しく、ごにょごにょと言い訳めいたことを言う。
「トラが、『紀美ちゃん』って呼ぶでしょ? なんとなく、それに負けたくないなぁと」
「はぁ」
なんだか、疲れた。
この二ヶ月ほど、”彼女”の存在に心を痛めた、私の時間を返せ。
伸びかけたうどんを、口に運ぶ。
麺に絡んだ黄身を、味わいながら、勝手に顔が綻ぶ。
小山くんの心は
私のモノ、らしいと。
食べ終える頃には、心なしか彼の顔色も良くなった気がした。
「ちょっと、元気になった?」
「まぁね。これで、紀美さんが色よい返事、くれたら完璧」
そう言われて、上気してしまった顔を隠すように俯く。
伏せた視線の先。テーブルに置かれた彼の綺麗に整った爪が目に入る。
ちょっと、勇気を出せば。
この手は、私のモノ。
「小山くん」
「うん」
「あの、ね」
「うん」
「桐生先生の代わりなんかじゃなくって」
「うん」
「小山くんのこと……」
「うん」
もう、判ってほしいなぁ。
なけなしの勇気が枯渇しそう、だ。
なのに。
「小山くんの、彼女にしてください!」
清水の舞台から飛び降りる、って、きっとこういう覚悟だろう。
そう思いながら、言った言葉は
「紀美さん、それ、違う」
と、彼自身に否定された。
「紀美さんの彼氏に、ならせて?」
「はい?」
何が、違うわけ?
「俺は、結構前から、紀美さんのこと好きだったわけ」
「はぁ」
「でも、紀美さんは社会人で、俺は学生で、さ」
「ああ、うん」
「嵐の失恋の相手が、同僚だったでしょ? そんな人と比べたら、俺って頼りないだろうな、って、思ってて」
確かに。
若いなぁ、って思うことは、今まで、色々とあった。
「だから。就職したら、告白しようって」
「そう、かぁ」
「でも、いざ、就職したら、仕事を覚えるだけで必死でさ」
なかなか、電話もできなかった。
そう言って、小山くんは苦笑いをした。
その日の昼食のあとは、『書き易いボールペンは、どれか』なんて話しをしながら、文房具屋を覗いたり、本屋で情報雑誌を眺めながら『今度また、映画に行きたいね』なんて相談したりして、連休の最終日を過ごす。
そして。別れる頃には、互いの呼び方が『紀美』『祥くん』で、落ち着いた。
「今夜は久しぶりに、ぐっすり眠れそう」
と、”祥くん”が言う。
「うん。明日は仕事だからね。一週間頑張って、また来週、会おう?」
「紀美。デート、って言おうよ。それは」
なんて言って、笑いあう。
「来週まで待ちきれなくって、毎日でも電話しそう」
そう言った祥くんの言葉は、冗談には聞こえなくって。
「毎日って……」
「本当は、毎日でも電話をかけたかったんだよ? 友達、だから、遠慮してたの。彼氏だったら、いいかなぁ」
いや、すでに家族は”彼氏”だと、認識しているけど。
って言うのは、なんだか恥ずかしくって、内緒にした。
翌朝、目覚めた時。なんだか、世界の色が違って見えた。なんてことはなく。
化粧のノリが、いつもより良くって。なんてこともないけど。
私とは逆方向の電車で出勤する祥くんとは、通勤途中のどこかで、電車同士がすれ違う。
見えるはずなんてないし、どの電車に乗っているのかは、判らないけど。
それでも、なんとなく。
電車の窓を、いつもよりも一生懸命に見つめてしまう。
そんな通勤時間を過ごしても。
病院に着いてタイムカードを押したら、仕事の時間だ。
連休明けの待ち合い室は、診察時間前から人であふれていた。
椅子が足らずに立っている患者さんの間を縫うように通り抜けて、処置に使うための薬品を外来へと届ける。
病棟からも、連休中に変更になった点滴の返品と、新しい注射処方箋が届けられて。
トイレに行く暇も無さそうな一日が、始まる。
そうして、始業から一時間ほど経った頃。
『急ぎの点滴を準備してほしい』と、外科の婦長が薬局に飛び込んできた。
注射の払い出し担当だった私は、ざっと処方箋の内容を確認して、点滴ボトルと中身を準備する。
そして患者の名前を書こうと、油性ペンを手に、改めて処方箋を見た。
ICU
コヤマ ショウジ
見間違いかと、何度見なおしても、名前に変化はなくって。
ただ、生年が私の二歳下。虎太郎より一歳年上。
同姓同名の他人、と言い聞かせながら、名前を書く。
内容的には、手術前後、の点滴らしいけど。
準備をする間、横で足踏みをしそうな勢いだった婦長に詳しいことは聞けないまま、黙って点滴を渡した。
会ったのは、昨日、だったのに。
『紀美』と呼ぶようになった、彼の声が、耳の底でこだまする。
いや。きっと絶対、人違い。
だって、ほら。年齢が違ったじゃない。
苗字も名前も、珍しい組み合わせじゃないし。
そう、必死で自分に言い聞かせるけど。
心配で居ても立っても居られない。
そんな気持ちを初めて知った。
でも、私は医療人で。ここは仕事場だ。
この後まだ、内科へと払いだす注射薬の処方箋が束になって待ち受けているし、休み明けの外来調剤だって、そのうちに山積みになるのは目に見えている。
気持ちを切り替えて、仕事をしなきゃ。
祥くんのことを考えるのは、仕事が終わってから。
大丈夫。今夜きっと、祥くんから電話はかかってくる。
『紀美の声が聴きたかった』と言って。
そして。
その期待は……裏切られた。
いつもの時間になっても電話は鳴らず。
思い切ってこちらからかけた電話も、虚しく呼び出し音がなるばかりで。
忙しいだけだから。きっと。
病院だって、今日は忙しかったじゃない?
そう、自分に言い聞かせても、その夜、なかなか睡魔は訪れなくって。
一人ベッドの中で呟いてみる。
『祥くんの声が聴きたいよ』




