春四月
春四月、とは言っても。
いつぞや やっちゃんに言ったように、今年は新人の入る予定もないから、変わらぬ毎日が流れる。
処方箋を受け取って、調剤や監査をして、投薬。
その繰り返しの合間に、ひょっと、地雷のように配合禁忌だとか、併用注意だとかの薬が紛れ込んでは、ドクターを探して。
そんな毎日を過ごす私とは違って。
四月一日付で入社した小山くんは、『会社の保養所を使った、泊りがけの研修があって』とか言って、最初の一週間ほど電話が途絶えて。
疲れたような声で、帰宅を告げる電話をかけてきたと思ったら、そのあとまた、二週間ほど連絡が途絶える。
当然のように、休日遊びに行くなんてこともなくなってしまって。
自分が入職した当初。トイレに行く暇も見つけられずに、膀胱炎を起こしかけた事を思えば、彼も忙しいのだと思う。
思ったその心の隅から、『会社で好きな子が、できたのかも。いや、もしかして、”彼女”と、よりが戻ったのかも』と、ささやく声。
その声に耳を塞いでも、今度は『負けるんじゃない?』と、やっちゃんの声がする。
一緒に星空を眺めながら、小山くんのことを諦めたくないと思ったけど。
小山くんに告白をしたとしても、『俺の気持ちは彼女のモノ』なんて言っている彼が、応えてくれる可能性なんてゼロに等しいから。
今の、友達としての関係を捨てる勇気がもてない。
そして。忙しいだろう彼に、友達でしかない私から電話をするのは、ためらわれる。嫉妬に焦げている自覚があるから、尚更。
そうでなくっても、苦手な電話だし。
こちらから掛けることもできず。毎晩、部屋のドアを開け放って、ただ、電話の鳴る音だけを待つ。
声が、聴きたい。彼の声が。
家族と暮らして、患者さん相手に毎日喋り通しのような生活をしている私だから、決して”人恋しい”わけはないのに。
彼の”声”が聴けない日々に、疲れが降り積もる。
[夜分、恐れ入ります。小山と申しますが。紀美さんはご在宅でしょうか?]
待ちわびた電話がかかってきたのが、五月の連休に入る前日だった。
”台風ごとき”では、前倒しで受診しない患者さんたちも、さすがに連休の前には早めに受診に来るから、いつもの五割増し、って忙しさに、ぐったりしていた夜だった。
[あ、私。子機に切り替えるから、ちょっと待ってて]
[うん]
自分で取った通話を、お台所に置いてある子機に切り替えて。部屋へと向かいながら、待ちきれずに保留を解除して、話しかける。
[もしもし? お待たせ]
[紀美さん……]
[久しぶりだけど。忙しかったの?]
あ、責めるようなことを言ってしまった、とちょっと反省。
[うん。働くって、大変だね]
ほーっと、溜息のような声を漏らす小山くん。
[少しは慣れた?]
[うん。初任給ももらった]
そりゃそうだ。給料日がいつにしろ、入社から一ヶ月経ったんだし。
電話の応対から仕込まれている、とか。怖い先輩がいて、とか。
とりとめなく流れる彼の話を、ウンウン、と聞く。
内容が、愚痴でも何でも構わない。
ただ、彼の声が聞けることが嬉しい。
[紀美さん、この連休の出勤はいつ?]
出勤することを前提に尋ねてくる小山くんに、二人が過ごした時間の重なりを感じる。
たとえそれが、友達としての時間であっても、『分かってくれてるなぁ』って、口元が緩む。
今年の連休は、金曜日から月曜日までの四連休なので、病棟に払い出す点滴の関係で、私と小南さんの二人が土曜日に出勤になった。その代り、代休がどこかでもらえる。
部屋のカレンダーを眺めながら、そんなことを説明して。
[じゃぁ、日曜日に、出かけない? 久しぶりに]
[うーん]
[だめ?]
[ごめん。その日は、法事]
お祖父ちゃんの十三回忌、だったかな。
[そっか]
[月曜なら、って。次の日から仕事だから、しんどいよね?]
[いいよ。とにかく、気分転換がしたいから]
会社と家の往復に疲れたよー、って、泣き言を言っている彼。
[じゃぁ、せめて。次の日に疲れを残さないように、お昼ごはんでも食べに行こうか?]
[えー。夜でも、大丈夫だよ? 俺は]
[……]
[紀美さんの顔を見て、声が聴けたら。それを子守唄にして、ぐっすり眠れそうだし]
まったく。何を言い出すやら。この子は。
電話越しには、見えないだろうけど。
真っ赤になっているだろう顔を、隠すように俯く。
そして、約束の月曜日。
待ち合わせのターミナル駅に姿を見せた小山くんは、なんとなく顔色が悪いように思えた。
「帰って寝たほうが良くない?」
「会うなり、それ?」
酷いなぁ、と笑ってはいるけど。
その笑顔がいつものような楽しげなものではないし、眼鏡をかけているのも久しぶりだし。
「冗談ぬきで。熱とかはないよね?」
「触ってみる?」
小山くんが軽く身をかがめる。お互に、男女の平均身長くらいだから、それほどかけ離れた体格差はないのだけど。
それでも、いつもより近くなった互いの顔に、緊張して。震えている気がする手を、そっと伸ばして額に触れる。
うーん。人肌、ってあまり触れる経験ないからなぁ。
「分からないなぁ。熱い……かなぁ?」
「紀美さんの手が冷たいだけでしょ」
「冷え性、ではないと、思うけど」
額に当てていた手を取られて。
私の方が熱を出しそう。
体を起こした小山くんは、そのまま私の掌を眺めたりしているし。
「紀美さん、荒れ性?」
そう言った彼に、掌、指先、手の甲と、撫でまわされる。
「どうしても、消毒でね……いっ」
「あ、ごめん。痛かった?」
互いの指が当たった角度が悪かったらしい。親指から鈍い痛みが流れる。
手を取り戻して、軽く振る。痛いの痛いの、飛んで行け。
「切り傷?」
いつまでも、改札前で佇んでいるのも邪魔になる、と、ショッピングモールにつながる方へと歩きながら、小山くんが尋ねてきた。
「ちょっと、爪がはがれ気味で」
「何をして、そんなこと……」
「うーん。土曜日の仕事の時に、PTP包装でやっちゃったみたい」
「PTP?」
「Press Through ……。ごめん。最後のPが思い出せないけど。錠剤の包装でほら、ぎゅっと押したら、アルミ箔が破れて、プチっと出てくる。あれ」
土曜出勤の拘束時間は、半日だったから。錠剤を機械で一回分ずつパックする時のために、前もって錠剤を包装から出しておくことを、暇つぶしにした。
百錠単位で、プチプチと包装剥きをしていると、爪がジワジワと剥がれたようになってくる。
「労災……」
「なるわけないでしょ。ほっとけば治るし」
ナースさんの針刺し事故と一緒にしたら、ダメじゃないかな?
「小山くん、何が食べたい?」
「うーん」
レストランフロアで、案内図を見ながら立ち止まる。
若干の店の入れ替わりがあったらしくって、以前にはなかったトンカツ屋とカレー屋が、新たに地図に加わっていた。
あー。去年の秋に小山くんと来たオムライスの店が、無くなってる……。
「うどん……かな」
お腹を撫でるようにしながら言った彼の言葉に、『やっぱり、本調子ではないんだ』と、思う。
「食欲ない?」
「紀美さんが心配するほどじゃないけどね」
お腹を撫でていた左手が、彼の口元に異動して。思案顔、になる。
『うどんが良い』って、本人が言うのだから、きっと。彼自身の体がうどんを欲しがっているのだろう。
「じゃぁ、うどん屋ね」
「ああ、うん」
返事をした小山くんが、一つ。
吐息をこぼした。
注文を済ませて、待っている間。
ほうじ茶の入った湯呑みを両手で包むようにして、深く息をはく彼を、注意深く見守る。
ゆっくりとその手が、湯呑みを口に運ぶ。
「眼鏡かけてるって、珍しいね」
「最近は仕事も、眼鏡で行ってるんだ」
「へぇ」
「コンタクトだと、目つきが悪いって言われて……」
「そう?」
「見た目が怖いんだって。眼鏡越しのほうが、マイルドになるからって」
ああ、三白眼か。
「紀美さんも、怖い?」
「いや? もう慣れたし」
「そっか」
「シベリアンハスキーみたいで、可愛い可愛い」
そう言うと、彼の唇が綻んだ。
それからしばらくは、犬猫談義になって。
「紀美さんって、犬派なんだ」
「子供の頃、飼ってたし」
「何犬?」
「雑種よ。やっちゃんの所で生まれた仔を貰って」
「へぇ」
「だからかね、結構、犬にも好かれる方」
「そりゃ、犬だって、自分を嫌う人に懐いたりしないんじゃない?」
「でもねぇ。この前は、信号待ちの間に足、舐められちゃって」
犬の散歩中らしき近所のおばさんと、信号待ちの間、立ち話をしていて。
スカートに鼻先を突っ込むようにして、ストッキング越しに膝を舐められた。
そんな話をしている間に、互いが注文したうどんが届く。
梅おろしうどんを頼んだ彼が、お箸を手にして。
思い直したように、置き直した。
「紀美さん」
「ああ、七味? いる?」
と、ひょうたん型をした七味入れを差し出すと、『要らない』と言われて。
やっぱり胃の調子が良くないのか、と思いながら自分の月見うどんに、少しだけ振りかける。
「紀美さん、あのさ」
「うん?」
お箸を手に見た彼の顔は、一段と具合悪そうで。
「どうしたの? 大丈夫?」
「あのさ。あの……”嵐の失恋”の彼のこと、まだ好き?」
「はぁ?」
突然の話題に、つい、瞬きが増える。
「ほら、この前、水族館で会った……」
「ああ、会ったわね。っていうかさぁ、”同僚”だから、毎日一緒に仕事してるけど?」
「まだ、諦めることはできない?」
「だから、きれいさっぱり、諦めてるってば」
あの時にも言ったよね?
「諦めきれてない、つらそうな顔、してたよ?」
この前、『諦めたくない』って、歌っていた時にも。って、ため息交じりに言った小山くんが、やっと箸を手に取った。
一口、二口と、うどんをすすって。
「ね。紀美さん。俺じゃぁ、代わりにならない?」
代わりって、あのね。
「小山くんこそ、私を”彼女”の代わりにするつもり?」
「彼女、って?」
真剣に『分らない』って顔を作らないで。
「一緒にカニを食べに行ったらしいじゃない。別れた彼女と」
「あぁぁぁ」
聞いてたかぁ。
そう言って、小山くんが項垂れた。