表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/17

夏の嵐

 その日は、嵐だった。

 八月には珍しい、台風の直撃があって。私が四月から薬剤師として勤め始めた病院も、電車が止まることを危惧した院長が、外来の早仕舞いを決めた。



「本間さん、帰らないんですか?」

 タイムカードを押した後、待ち合い室の方へと引き返す一歳年上の先輩の背中に声をかけた私を、二歳年上の堀田さんが

「ほら、川本さん。さっさと帰らないと、電車止まるよ」

 と、職員出口へと引っ張っていく。

 そんな私達のやり取りを、振り返って小さく笑った本間さんの姿が、廊下を曲がって見えなくなる。


 いいのかなぁ?

 本間さんも電車通勤なのに……。


 人の心配をしていられたのは、ドアをくぐるまでだった。

 典型的な風台風は、傘をさすことも許してくれず、飛ばされないように歩くだけで必死だった。



 やっとの思いで最寄り駅について。

「あー。やっぱり院長が言うように、間引き運転になってるわね」

 直属の上司にあたる薬局長が、改札の掲示を眺めて疲れたような声をだす。

 確かに、いつ電車が止まってもおかしくなさそうな状況で、改札前には人があふれていた。

 

 改札を通れるまでに、時間がかかりそうで。その間に、濡れた髪の毛をタオルで拭く。薬品名が入った薄いタオルの使い道なんて……と、出入りのメーカーさんから貰った時には思ったけれど。薬局倉庫の片隅で密かに出番を待っていたノベルティグッズも、意外な所で役に立つ。

 濡れたタオルを鞄に仕舞いこむのも抵抗があって。どうしたものかと思いながら、なんとなく券売機のあたりに目をやる。

「あ、」

「どうしたの?」

 小さく漏れた私の声に返事をした堀田さんの方を見ることもできないまま、のろのろと指をさす。

 自分の手のはずなのに、重たい気がするのは。

 湿ったタオルを握りしめているせい?


 私の視線の先には、さっき別れた本間さんの肩を抱く、リハビリの桐生先生の姿があった。



「あーあ。バレちゃった」

 私の隣で小さく呟いた堀田さんの声が聞こえたように、二人が軽く会釈をしながら近づいてきた。

「お疲れ様です」

「お疲れ様」

 そんな会話を薬局長と桐生先生が交わすのを聞きながら、瞬きを繰り返すけど。

 見ている光景は、何度見返しても、変わることがなく。厳然と、私の前に存在した。


「何で? 本間さんと桐生先生?」

 思ったよりも大きく響いた私の声に、もう一人の先輩である酒井さんと薬局長が、あっけらかんと答える。

「何でって、ねぇ?」

「この嵐だったら、”彼女”守るのが男ってもんじゃない?」


 彼女? って、本間さんが?


「そう、年上の彼女」

 そう言って、桐生先生の腕に力がこもるのが、見ていても判った。

 小柄な本間さんを抱え込むようにした桐生先生は、『ウソだ』と言って欲しい私に、違う言葉を投げてくる。

「最初から、俺、言ってたでしょ。『本間先生と同い年の彼女』って」

「いつから?」

「川本先生が入職するよりも前から」



 五月に開いてくれた副診療部での歓迎会の時。

 三年制の短大出身で同い年、と聞いた桐生先生に、私は親近感を抱いた。

 そして、その席で、桐生先生には彼女が居る、って話も確かに聞いた。

 一歳年上だという彼女の話をする桐生先生は、照れの中に嬉しさを取り混ぜたような顔で。

 『桐生先生とお付き合いができれば、私もこんなふうに見てもらえる?』と、酔った頭で考えた私は、なけなしの勇気を奮って、彼に二次会を提案した。

 その提案は、『彼女に悪いから』と、あっさり断られたけど。

 毎日のように、廊下や食堂で顔を合わせる彼は、いつも穏やかに笑ってくれているから。

 私は『いつか、きっと……』と、本気で思っていた。


 でも、判ってしまった。

 桐生先生が笑いかけていたのは。

 指導担当で、私と常に一緒にいた本間さんに、だった。


 零れる涙を、湿ったタオルで押さえる。

 子どもみたいにしゃくりあげるのが、止まらない。


「俺達は、タクシーでも拾います」

 そんな言葉を残して、二人が立ち去る。

 私の背中を、誰かが優しく叩いてくれていた。



「で、どうしようかしらね」

「しばらく、私がついておきますよ。薬局長と堀田さんは先に……」

「でも、酒井さん。電車が止まったら、どうするんです?」

「大丈夫よ。止まったら、二人で みっちゃんのところにでも転がり込むわ」

 泣いてる私の横で、先輩たちが相談している。

「わた、は、だ、いじょぶ、で、から。さ、かいさ、も」

 あぁぁ。うまく喋れない、伝わらない。

 しゃくりあげる自分自身が疎ましい。

「大丈夫じゃないでしょ? 川本さんは」

「で、もっ。みさっ、わさ、ま」

 検査技師の三沢さんと酒井さんは、同期で仲良しとは聞いているけど。そこまで、お世話になるのって……。

 それに

「ひ、とり、にしっ、て、ほっし」

「あぁ。そっかぁ」

 背中を叩いていた手が、緩く擦るような動きにいつの間にか、変わっている。

 その動きに合わせるように、深呼吸をして。


 整わない息の下、なんとか泣き笑いの顔をつくる。

 背中を撫でてくれていた酒井さんに、頭を下げる。

「ご、心配、お、かけ、し、ました。も、だいじょぶ、です」

「じゃぁ、途中まで、一緒に帰ろう。ね?」

 と、酒井さんが乗り換える、隣の駅をだされて、ためらいがちに頷く。

 ここまで言ってくれているのを断るのも、角が立つ気がするし。


 絞れそうなタオルを握りしめて、頭を下げる。


「あぁ、電車が来たみたいね。そろそろ動けるんじゃない?」

 そんな薬局長の言葉に、カバンの外ポケットから定期入れを取り出して。

 周りの人波に流されるようにして、改札へと向かった。



 その夜、私は食事とお風呂以外、部屋にこもり続けた。

 『俺の今の気持ちは、沙織のモノなの。心変わりってね、した者も、された者も傷つくけど。”させた者”も一生、傷を負うんだよ。川本先生は、まだ若いんだからさ。そんな茨道をわざわざ歩くことないよ。ね?』

 別れ際の、桐生先生の言葉が、何度も耳に蘇る。

 そうか。私の願っていたことは、桐生先生の”心変わり”だったんだ。

 それをずっと横で見ていた本間さんは、どんな気持ちだっただろう、と思うと、恥ずかしくって穴があったら入りたい。

 明日、仕事行くの、嫌だなぁ。

 もう一日くらい、荒れて。警報なんか、出ないかなぁ。



 翌日は、昨日の嵐がウソのような晴天だった。

 警報が出ても、休みになんかならないけど。

 まぶたの腫れを気にしながら、化粧をして出勤の準備を整える。

 どんな顔で本間さんと仕事をしたらいいのやら、と思うと、気が重い。


 それでも、彼女より遅く出勤するのは、”負け”のような気がして。

 いつもより一本早い電車に乗った。


「おはようございます」

 ロッカールームを兼ねている、薬品倉庫のドアをそっと開く。

「ああ、おはよう」 

 聞こえてきた薬局長の声に、ほっと一つ息をついた所で

「おはようございます」

 と、背後から声がした。

 うわっ。本間さん……。

「お、はようございます」

 不自然な私の挨拶にも動じず、本間さんはいつも通りニコッと微笑むと、

「今日は、昨日の分も患者さんが来るからね。覚悟して、頑張ろうね」

「あ、はい」

 そうか。昨日嵐だった分、外来が暇だったもんなぁ。だからこその、早じまいだったわけだけど。


「本間さんも、言うようになったわねぇ」

「そりゃぁ、ちょっと考えれば私にだって分かりますよ」

「うん。成長、成長」

「身長は、これ以上伸びませんけどねー」

 薬局長と軽口を叩きながら、本間さんが着替えを始めたのを見て、慌てて私もロッカーに鍵を差し込む。

 って、あれ?

 昨日の一件は、スルー?


 内心で、首をかしげながらも、私から何かを言うのも”違う”気がして。

 そのまま、その日は忙しさにプライベートの事を考える暇もないまま、午前の仕事に追われる。


「いやぁ。本当は昨日のうちに来ないといけなかったんだけどねぇ」

 苦笑しながら投薬カウンターに姿を現した吉村さんに、曖昧な笑みを浮かべて一通り薬の説明をする。

 フンフンと、軽い相槌を打つ吉村さんに、輪ゴムでまとめた薬袋を渡すと、早速一番小さい袋の口を開けようとしている。

「今朝の分の薬が足りなくってさぁ。今、飲んでおいた方がいい?」

 腕時計で時刻を、そしてカウンターに置いた処方箋の内容を確認する。  

 朝は、糖尿病の薬だから……。

「朝の分は、飛ばしましょうか。今から飲んだら低血糖が危険ですし」

「そう?」

 なぁんだ。たまには、まじめに飲もうかと思ったのに。

 なんてことを言いながら、吉村さんがポケットに無理やり薬袋を突っ込もうとしているのを押しとどめて、ビニール袋を渡そうとしたら、『ゴミになるから、要らない』とか言われるし。


 そうかと思えば、週に二回、点滴でやってくる古賀さんって高齢の女性は、

「昨日の風は、本当にすごかったねぇ」

 と、のんびり言いながら、カウンターの上に風呂敷を広げる。

「斎藤先生の日だからって言ってるのに、息子が来させてくれなくってねえ。『こんな風の日に出歩くなんて、自殺行為だ』って。薬もなくなるから、来ないといけなかったのに」

「病院に来るために、ケガをしたら、意味ないですよ」

「それはそうだけど。高野先生に診てもらったりしたら、斎藤先生が気をわるくされないかしらねぇ?」

「それは、大丈夫ですよ」

 話の合間に説明した薬を、風呂敷の上に置いていく。大きな袋の上に小さい袋を置いて。

 あ、シップが先か。

 積み木のような危なっかしいバランスで積み上げた薬袋を、古賀さんは慣れた手つきで風呂敷に包みこんで。キュッと角同士を結び合わせた。

 おお。いつ見ても、凄い。



 そうしてようやく迎えた昼休み。

 この日は、薬局長が会議だとかで堀田さんや本間さんと一緒に早番でお昼休みを取ったので、遅番は私と酒井さんの二人だった。


「どうして、早めに薬を取りに来ないんでしょうねぇ」

「どうしたの?」

「いや、今日の患者さんが……」

 台風が来るのは、判っていたんだから。早目に受診すればいいのに、と、愚痴をこぼしながら、薬局の裏口から出る。

 食堂へと廊下を歩きながら、酒井さんが

「病識、っていうかね。『薬がないと死んじゃう』っていうような発作もちの患者さんは、そのあたりきっちりしてるんだけど」

「はぁ」

「生活習慣病とかだとね。痛くも痒くもないもんだから、結構いい加減な人もいるわけよ」


 そう解説してくれる先輩の後ろから、声がした。

「酒井先生、川本先生。お疲れ様です」

 だから、どうして。

 このタイミングで桐生先生と会うんだろう。

「昨日は、タクシー捕まりました?」

「いやぁ。タクシー乗り場も長蛇の列で。結構時間がかかりましたね。電車は、大丈夫でしたか?」

「なんとか帰るまでは、ね」

 そんな会話を交わしている酒井さんと桐生先生の後ろに並ぶようにして、職員食堂に入る。

 

 丁度三つ、固まって空いている席の一つにお弁当を置いて。

 ポットからお茶を注いでいると、定食のトレーを片手に桐生先生が近づいてきた。いつもみたいに、ココに座るのだろと思っている私に、軽く会釈をするようして通り過ぎていった彼は、そのまま二つほど向こうのテーブルでレントゲン技師の小松さんと向かい合う席へと行ってしまった。

「どうしたの、変な顔をして」

 向かいに定食のトレーを置いた酒井さんが、私の顔を覗きこんできた。

「あ、いえ」

 そうか。

 今まで当たり前のように、桐生先生が一緒のテーブルでお昼を食べていたのは、本間さんが一緒だったから。

 今日も本間さんがいれば、ココに、桐生先生が座ったのかもしれない。

 そう思って、空いた一つの椅子を睨む。

「さかちゃん。そこ空いてる?」

「ああ、みっちゃん。どうぞ。あいてるわよ」

 頭の上から、三沢さんの声が聞こえて、我に返る。


「うわ。川本さん、その目、どうしたの?」

 慄いたような三沢さんの声に、慌てて目元を隠す。

 あまりに周りがいつも通り過ぎて、眼が腫れていることをすっかり忘れていた。

「ちょっと。ね?」

「……はい」

「ちょっと、ねぇ。ま、若いうちは、色々あるわよねー」

 そんな年寄りじみたことを言っている三沢さんに、一つ余分に入れてしまったお茶を渡す。

「いいの? これ。私が貰っちゃって?」

「はい。薬局長の分まで、間違えて入れてしまったので。よかったら」

「ああ、そうか。今日は、会議か」

 ありがとう、と言いながら割り箸に手をのばす三沢さんに、心のの中で、小さくごめんなさいを言う。



 その週いっぱい、妙な緊張感を持って仕事をしていたのは、私だけだったのかもしれない。本間さんも、先輩たちも淡々といつも通りの仕事をこなす中で一人、金曜日の仕事を終える頃は、精神的にものすごく疲れた気がしていた。  


 明日の休日には気分転換に、何か、パーッと。

 雀の涙ほどの夏のボーナスで、買い物でも行くか。



 駅前の銀行で、お金を下ろして。帰りの電車に揺られる

 服でも買うか。それとも、髪でも切ろうか。

 あ、でも失恋して、髪を切るってのも、お約束すぎるなぁ。


 ボンヤリと考え事をしながら、電車を降りて。

 改札の手前でいつものポケットに定期入れが入っていない事に気づいて、一気に頭が現実に戻る。パスケースを探しにカバンを覗きこんで、化粧ポーチを取り出した所で、ポンと肩を叩かれた。


「きーちゃん」

 へ?

 掛けられた声に、顔を上げると幼馴染みの弥生(やっちゃん)だった。

「やっちゃん、久しぶり」

「久しぶり、はいいけど。この前の台風の日、泣きながら道を歩いてたって?」

「え?」

「コタが見たらしいわよ?」

 彼女の三歳年下の弟、虎太郎の八重歯が目立つ笑い顔が脳裏に浮かんで。空想のパンチを一発入れる。

 

 そんな所、見るな。

 見ても、しゃべるな。

 男のくせに。



「で、何があったの?」

「やっちゃん。聞いてくれる?」

「じゃぁ、どっかご飯食べに行く?」

「これから?」

「ダメ、かな」

 うーん。

 この前の歓迎会で正体をなくすほど酔って、両親にすごく叱られたところだしなぁ。

 送ってきてくれた薬局長が、『監督不行き届きで……申し訳ない』って、謝ってたって。


「たぶん、お母さんが夕食の準備しているだろうしねぇ」

「それも、そうか」

 腕時計を確認した やっちゃんも、難しい顔をする。

「やっちゃんが休みだったら、明日、ケーキバイキングに行かない?」

「きーちゃんのおごり?」

「うん。任せて!」


 よし、ボーナスの使い道は決まった。

 ケーキバイキングで、自棄食いだ! 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ