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新京迷宮特區(前篇)

    〔西暦一九六三年五月十七日 午前六時五十五分(東亜標準時)〕


         〔滿洲國新京特別市:新京駅前廻車場(ロータリー)


 よく晴れた金曜日の朝。職場へと向かう通勤客で、首都の鐵道駅(ステーション)は賑わっている。


 慣れない様子で改札員に切符を渡し、行き交う人波に混ざって駅舎から出てきたのは、ひとりの女性だった。長髪を後ろで纏め、紺色の洋装に身を包んでおり、細い眼鏡と黒い手提げ鞄(アタッシュケース)も相まって、彼女は職業婦人(ビジネスガール)の雰囲気を醸し出している。


 売店で新聞を買い求めた後、彼女は駅舎から一歩を踏み出した。朝の日射しに目を細め、眩しそうに手を翳しながら、ここまでの旅程をぼんやりと回想する。

 神戸から佐世保まで車で移動し、定期便で釜山(ぶさん)に渡り、南滿洲鐵道の寝台特急に揺られ続けること十数時間。その間まともに動かせずに固まった体を伸ばし、強行軍で寝不足気味の頭を振って、なんとか意識をはっきりさせようと試みる。


 乾燥した空気の匂いに、ここが異国の地であることを彼女は実感した。周囲を見回してみれば、外国人の姿が多いことに気付かされる。

 二十年前に始まった混乱からいち早く抜け出したこの国、この都市が、世界中の注目を集めているという事実を改めて認識しつつ、彼女は目当ての人物を探して広い廻車場を歩き始めた。


 しばらくして、小型の貨物車(トラック)の横に立つ、迷彩服を着た大柄な男と視線が合った。白い肌の露西亜(ロシア)人は両手で持っていた半紙を掲げて見せ、問うように首を傾げた。

 半紙には、彼女が属する会社の名前が書かれている。加えて、貨物車の側面に「東亜迷宮運輸」と記されているのを確かめて、彼女は男に近付いてった。


(チーグル)さん、ですか」

「はい、始めまして。遠路はるばるお疲れ様です。お名前を伺っても?」


 満州語での問いかけに対し、チーグルの口から流暢な日本語が出てきたことに僅かに驚きつつ、彼女は鞄を置いて真新しい名刺を取り出した。

 日本語と満州語、どちらで会話をするべきかと一瞬悩んだ後、今後のことを考えて満州語を選択する。


芦屋(あしや)重工の赤眼(アカメ)と申します。勝手が分からないもので、手間をおかけします」

「問題ありません。朝食がまだなら、『特區(とっく)』に入る前に何処かに寄りますかね」


 アカメの意図を汲んだのか、チーグルも会話を満州語に切り替える。

 顎に人差し指を当て、思案すること数秒。滿洲料理は気になるものの、この時間帯では大したものは期待できないだろう、とアカメは首を横に振った。


「荷物が届いているか心配ですし、先に出張所を見に行こうかと。あちら側でも普通に食事はできますよね」

「それはもちろん。昼も夜も無いもんで、どこかしら開いてる店はありますよ」


 助手席の(ドア)を開けてアカメに乗るように促しつつ、チーグルもまた思案する。

 つい最近取り揃えたと思しき、折り目正しい洋装と名刺を見れば、彼女がまだ経験の浅い人材であろうことは予想できた。依頼主から支払われている高い前金には、彼女に対して便宜を図るべし、という意味が込められているのだろう。


「参ったな。接待ならともかく、現場教育なんざ柄じゃねえんだが」


 扉を閉めて運転席へと回り込みながら、チーグルは眉をひそめて母国語で呟いた。


    ○


 ふたりを乗せた貨物車は、広い大通りを走っていく。道路の中央を走る路面電車や並び立つ背の高い建物を眺めて、アカメは羨むように口を開いた。


「思っていたより、ずっと活気がありますね。『大禍時(おおまがとき)』でかなりの被害を受けたと聞いていたんですけど」

「全部が全部、元通りというわけじゃないですがね」


 それでも、数年前にようやく奪還できた帝都東京とは大違いである。あと十年も経てばここまで復興できるだろうかと、流れる景色を見ながら彼女は考える。

 この国で開発された結晶炉のおかげで、極東地域の電力事情だけは申し分ない状態になっている。しかし、前の大戦中から続く資源不足は解消できておらず、その点においても内地球世界(インナーワールド)への進出には大きな期待が寄せられていた。


 車は交差点を左折し、進路を朝日の方角へと向けた。道を進むにつれて人通りは減り、建物の間の更地が増えていく。アカメが眼鏡に指を当てて目を凝らしていると、それに気付いたチーグルが口を開いた。


「この辺りは特區が近いので、なかなか買い手がつかないんでしょうな」

「ああ、なるほど」


 建物の間に残る瓦礫の山を見て、彼女は納得する。いくら土地があっても、また魔物が現れて建物を破壊されてしまったら、溜まったものではないだろう。

 やがて、正面に鉄柵門(ゲート)が見えてきた。車は門の前で停まり、近付いてきた警備兵の男にチーグルが声をかける。差し出した通行許可証を手早く確認した男が戻っていくのを見送りながら、チーグルは小声でアカメに忠告した。


「ここから先は、迷宮庁と軍の管理地です。関係無い場所への立ち入りは禁止されているんで、気を付けてください」

「わかりました」


 同盟国とはいえ、他国の軍事施設で捕まるような真似はしたくない。

 そう思って表情を硬くした彼女に苦笑しながら、チーグルは言葉を続けた。


「勝手にあちこち歩き回らなけりゃ大丈夫ですよ」


 門が開き、警備兵が合図してきたのを確かめて、チーグルは車を発進させた。

 高い塀に囲まれた広大な敷地の内側には、研究施設と思しき無機質な建造物がまばらに存在している。それらの間をまっすぐに続く道の先では、ひときわ大きな建物の丸屋根(ドーム)が、太陽の光を反射していた。


    ○


 丸屋根の建物の中へと入ったところで、貨物車は検問所での手続きのためにいったん停車する。

 別室へと案内されたアカメは、旅券と書類の確認、手荷物の検査を滞りなく済ませて、車が停まっている通路へと戻った。


「お待たせしました。どうかしましたか」

「いや。ついでに配達するつもりだった荷物の中に、英国(イギリス)からの怪しい代物があったようでしてね」


 内地球世界は未だ全容が解明されていない未開地であり、物資の出入りについては厳しく検査が行われている。

 そこには、探索士たちや企業から情報を手に入れようとしている他国への牽制の意味も含まれている。国家の枠を超えて情報を共有しようという動きが広がりつつあるものの、少なくとも現時点において、世界は一枚岩ではなかった。


 荷台の横で難しい顔になっていたチーグルは、先に車に乗っているようアカメを促した。

 助手席へと戻った彼女は、駅で買った新聞を広げ、気になっていた囲み記事へと目を向ける。満州語で書かれた文章を、日本語に置き換えて読み上げていく。


「西暦一九四三年、十月二十八日未明。新京市内東部の、日本橋通の一部を含む繁華街、南北およそ二(キロ)、東西五百(メートル)に及ぶ地域が消失。陥没した跡地では、底に広がる黒い平面が観測された」


 現在では「経路(パス)」と呼ばれている黒い裂け目は、奇妙な異世界へと繋がっていた。世界各地の大都市を引き裂いた「経路」からは、様々な魔物が出現して人々を襲い始めた。魔物による被害は、当時の大戦を有耶無耶のうちに終結させるほどの混乱をもたらした。

 混乱は長く続き、未だ魔物に制圧されたままの地域も多く、復興への道程に大きな影を落としている。


「この『経路』が出現した原因については、現在になっても判明していない、か」

「探索士の連中が話す噂だったら、色々と聞きますがね。連合側が開発した電磁兵器のせいだとか、独逸(ドイツ)が劣勢を巻き返すために行った呪術攻撃だったとか。と、お待たせしました」


 運転席へと戻ってきたチーグルが、原動機(エンジン)を始動させながらアカメの独り言に答えを返した。


「仮に噂が真実だったとして、費府(フィラデルフィア)伯林(ベルリン)も向こう側に落っこちてるんじゃあ、成功したとは言い難いですな」

「確かに、そうですね」


 冗談めかした回答に、アカメもわずかに緊張を和らげる。チーグルが挙げたふたつの都市は、大規模な「経路」が出現した場所であり、広範囲に渡って封鎖され続けている。すべての元凶がそのどちらかか、あるいは両方にあったとしても、現地を調査するのは不可能だろう、と結論付けて、彼女は新聞を折り畳んだ。


「もし、二十年前に『経路』が現れていなかったら──」


 果たして世界はどうなっていただろう、という問いかけは、建物の中に響き始めた重低音に遮られた。

 わずかな振動と共に、車の正面に見えてきた分厚い鋼鉄製の扉がゆっくりと開いていく。奥の暗闇が前照燈(ライト)に照らされ、金網(フェンス)に囲まれた車両用の昇降機(エレベータ)と、その先に広がる広い空洞が露わになっていった。


    ○


「この先が、世界の裂け目ですか」

「ええ。天素(エーテル)濃度に異常無し。行きますよ」


 計器の数値を確かめつつ、チーグルは貨物車を前進させる。車が昇降機へと進入すると、すぐに背後の扉が閉まり始めた。

 扉が完全に閉まるのを見届けて、ふたりは車を降りた。薄暗い昇降機の中を歩き、片隅に設置された操作盤へと近付いていく。


「人間だけの場合は別の昇降機を使うことになりますがね。基本的な操作は一緒なんで、覚えておいてください」


 そう告げてから、チーグルは操作盤に手を触れる。わずかに間を置いた後、外側にある管制室での承認を受けて、昇降機は下降を始めた。


 わずかな照明を背に、アカメは金網の先の暗闇に目を凝らした。一定間隔を置いて設置された赤い非常灯が、頑丈な丸屋根の形状を彼女に認識させる。

 下に目を向ければ、一切の光を返さない暗闇があった。操作盤の上で減っていく数値だけが、世界の境界面へと近付いているという事実を示していた。

 高度計の数値が赤色に変化したところで、チーグルは「そろそろですよ」と声をかける。アカメは頷いて手摺りに掴まり、目を閉じた。


 数秒後。

 足元から水の中に沈んでいくような感覚に、身じろぎする間もあればこそ。その感覚は腰を上がり、胸へと差し掛かる。反射的に口も閉ざしたアカメの全身を違和感が駆け上がり、彼女は体をすくませた。

 しばらくして、奇妙な感覚が薄れてきた頃になって、アカメは恐る恐る目を開く。


「……いつまで経っても、これは慣れないもんだな」


 幾分か調子を落としたチーグルの声を聞きながら、ずれていた眼鏡を直して、アカメは再び金網の外へと視線を向けた。


 頭上には、たったいま通過してきた「経路」がある筈だが、その存在は途中で暗闇に消えている昇降機の支柱でしか判別できなかった。

 周囲は暗く、遠くに見える極光(オーロラ)の淡い光が、遺跡らしき建造物の陰影を作り出しているのがかろうじて見えている。


 眼下を見れば、遥か下には橙色の街明かりが広がっていた。繁華街の一部がこちら側へと落ちた後、探索士たちが居住するための都市区画として再建された場所。人口およそ二万人。周囲を高い防壁で護られた、内地球世界でただひとつの安全地帯(かがやき)


 その中心にそびえ立つ鉄塔のひとつに沿うようにして、昇降機は街へと降りていく。

 金網に囲まれた箱の中、チーグルは片手を胸に当て、アカメに向かって一礼してみせた。


「さて、改めまして。ようこそ、『新京迷宮特區』へ」

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