29.ベンチの下に
―……坊や!坊や!!
惑星活性化に失敗し、惑星の大陸のほぼ全域が砂漠化してしまったため、人々に見捨てられてしまった星の片隅で、その若い母親は声をあげて嘆いた。サッカーボールほどもある彼女の紅い目からあふれる涙は、彼女の巣と彼女のまわりを取り囲む緑を濡らした。
―まま
その彼女に、彼女の長女は母親と同じ精神感応力会話で言った。
―まま。そんなに泣かないで。お花が枯れちゃうわ
まだ小さな手で、燃えたつ様に紅い母親の鬣を優しく撫で、将来は母親似の紅鬣になるであろう朱色の鬣をした長女は、母親の塩分まじりの大粒の涙のしずくが、白い花を咲かせている植物に降りかかっているのを、心配そうな表情でながめた。
彼女等が棲んでいる場所の外は、荒涼とした砂丘がただ延々と地平のはてまで続いているのみだが、その砂漠の中に浮島の様にぽつんと存在している街の、彼女等がいる都市制御中枢塔の屋上部の空中庭園はまだ都市機能管理プログラムが稼働していて、青々とした緑が生い茂り、人工の小川と池があり、その中には昆虫や小鳥たちもいた。
朱色の鬣の長女は、この庭園の緑と、自分よりもっと小さな姿をした動植物たちがとても気に入っていた。特に、今母親が涙でずぶ濡れにしつつある、巣のすぐそばに最近咲き始めた、あの白い花は気に入っているのだが……
―大丈夫だよ
三メートル近い巨体(が、その胴体の他に、六メートルもの尻尾もある)を巣の中に横たえ、途方に暮れてさめざめと泣き伏している母親に、父親は言った。
―私が行って、探してこよう。時空を歪めてどこか他の世界に迷い込んでしまったのかもしれない。すぐに連れて帰ってくるから。……ほら、そんなに泣かないで。朱鬣も心配しているだろう?
―……
父親の言葉に、母親は長い首を上げ、しゃくりあげながら言った。
―お願いします。早く見つけて帰って来て
しゃくりあげながら、なおも涙を流し続けている母親の横顔に、父親は自分の鼻面を優しく押しつけ、そして庭園の外へと歩いて行った。
―ママをたのんだよ
父親は彼女等を振り返って朱鬣に言った。
―はぁい
お気に入りの白い花と共に、今や自分も母親の涙のしずくを頭から滴らせながら、朱鬣は父親に返事をした。
その朱鬣に父親はにっこりと笑い、地上を数百メートル下に見下ろす庭園の端に立つと、息を大きく吸い込み、胸を膨らませ――
空に向かって巨大な青い炎を吹きつけた。
ゴウ、と音をたてて彼のロからたばしり溢れた炎の奔流は火柱となって宙に走り、そしていきなりばっと四方に拡散するや、宙にゆらめきながら浮かぶ青白い炎の水鏡、となった。
―じゃあ、行ってくるからね
父親はもう一度彼女等を振り返り、大きな翼を優雅に広げるとあたりに暴風を巻き起こし、炎の水鏡の中へと飛び込んで行った。
朱鬣は父親が吹いた炎と立派な翼をほれぼれと見つめながら、自分も早く両親と同じ立派な姿に成長して、大きな炎の水鏡を出現させたいものだと思った。
父親が“他の世界”へと行くために出現させた炎の水鏡――次元回廊は、朱鬣が見上げているなか、しばらく宙に浮いたままゆらめいていたが……やがてまわりの通常空間に溶け込み、消えていった。
―やれやれ
次元と時空が入り乱れている中を悠々と滑翔しながら、朱鬣の父親はひとりつぶやいた。
―まだ生まれてもいないうちから、たいした腕白ぶりな事だ
子供とはこんなものなのだろうか、と、はじめて父親になった彼は思った。
しかしそれにもまして、彼女があんなにも取り乱した事に、彼は驚いていた。
子供の事となると、女性はあんなに動揺してしまうものなのだろうか?それとも、産後間もない事もあって、あんなに冷静さを失ってしまったのだろうか?もちろん、自分も我が子の事が心配ではあるが、しかし……
普段の彼女は何事も冷静に判断できて、論理的で、物事に動じない性格なのだが。
次元と時空の狭間を自由に渡り飛び、彼はたくさんの世界を見知っていたが、自分の家族を含め、“生きているもの”の胸のうちというものは、彼にとっては一番の難解な世界であった。
「……?」
その男の子――ソール、は、病院の広い裏庭にあるベンチのうちのひとつに目をとめ、立ち止まった。
プラスチックやスチールなどではなく、本物の木で出来ているベンチの下に、何か……丸い、大きな白い石?がある??
ソールはベンチへと歩み寄ってかがみ込み、ベンチの下のその白い石を見つめた。
それは卵型をした、白地に黒や灰色の横縞模様がまるで雲の様に渦巻いている石だった。
大きさは……彼が母親にこの前買ってもらった立体図鑑に実物大として載っていた、大昔、地球のアフリカに生息していたダチョウという大きな鳥の卵くらい……いや、それよりは、もう少し小さいだろうか?
「……」
ソールは石に手をのばし、持ち上げると膝の上へと乗せ、今一度まじまじそれを見つめた。
思ったより重くはない。という事は、石ではなくて、硬化プラスチックか何かで出来ているのだろうか?しかしこのひんやりとしたなめらかな手ざわりは、プラスチックの様には……
ソールはその黒と濃淡の灰色の綺麗な縞模様をしたものが、庭のどこかの置物なのだろうかと、それを膝の上に乗せたままあたりを見回した。
が……庭にはいくつかの白い石膏の動物や人物の像と噴水があるだけで、この綺麗な縞模様をしたものが置いてあったような台も、それと同じ様な模様をした他の彫刻なども庭には無かった。
(これって……)
ソールは再び白い石?を見つめて思った。
この庭ではあのダチョウの様に大きな鳥が飼われていて、これはその大きな鳥の卵なのかな?でも、そんな大きな鳥が、狭苦しいベンチの下なんかに、卵なんて産むのかな……?
その時、
「ソール……!」
どこかで、彼を呼ぶ母親の声がした。
病室に帰らないと、また怒られちゃうな。
ソールは卵の様な形の白い石を、パジャマ代わりのフリースの上着の下に隠し入れ、何やら小さな妊婦、とでもいった格好をして、あわてて自分のべッドへと戻って行った。
何だろう、とそれは思った。
まだ目も開いてはおらず、ころりと丸くなったままの姿勢ではあったが、それは、すでに自分の周りのものや気配をちゃんと感じ取る事が出来た。
同じ場所にずっといるのが退屈で、ちょっとどこかへ行ってみようかと思って、そうしてみたのだが……ここはいったいどこなのだろう?
ほんのちょっと、景色のちがうところへ行くだけでよかったのに。ぱぱやままの声が気配がしない?どこか、うんと遠くに一人で来てしまったのだろうか?
ぱぱやままやお姉ちゃんや弟や妹たちの気配を少しでも感じ取る事が出来れば、すぐにそこへと帰る事が出来るのだが。しかしその気配すら感じられないとなると……
困った、とそれは思った。
そしてそれは丸くなった姿勢のまま、くすん、と小さく鼻をすすった。
その複雑でおかしな気分を何というのか、その時はわからなかったが、そういう気分を“悲しくて寂しくて不安で泣きたい気分”というものだと、少し後になってから知った。
おや、と朱鬣の父親は思った。
今どこかで、あの子の声が……思念が聞こえたような?
彼はバサリと大きく翼をはばたかせ、我が子の精神感応力波が感じられた方へと飛んで行った。
黒と濃淡の灰色の綺麗な縞模様の丸いものはソールの新しい宝物のひとつとなって、病室のべッドの右横の、戸棚の一番上の段へと収まった。
部屋へと持って入るところは誰にも見られなかったし、戸棚の一番上の段は父さんも母さんもあまり物の出し入れをしない。ぬいぐるみや本の後ろの一番奥に入れたし、もし見つかったとしても、母さんの嫌がるトカゲやダンゴムシなんかじゃないから、別に怒られる事もないだろう。でも……
ソールは思った。
あれが本当は何かものすごぉい動物の卵で、夜中に孵って戸棚から出てきて、僕を頭からムシャムシャ食べちゃったらどうしよう?
「……」
ソールはべッドの上で、戸棚を振り返って見上げた。
いや、いや。あれがそんなすごいものであるわけ……?
ソールは思いなおして、再び手にしている図鑑の、ダチョウの卵の立体画像を見つめた。
看護師のリエさんたちが夜中でも何度か見回りに来てくれるし、それに明日手術をするから、母さんも今日から隣のベッドに寝てくれるんだから……
手術。
その言葉に、ソールは別の事を思った。
もううんざりだよな。
そのせいで今日はもう晩御飯は食べられないし、今晩寝る三時間前からは水だって飲んじゃいけない。
せっかく去年、人工培養の胆囊と膵臟に替えたっていうのに、今度はその新しくした胆囊の胆道が悪くなって、胆囊炎と胆道閉鎖症になってしまったとかで、お腹の右上のところがずっと痛くてお腹をこわしていて、熱が下がらない。黄疸が出て何だか身体が変な色だし。その黄疸で白目のところまで茶色くなっちゃったら、もう手遅れだって、先生は言ってたけど本当かな。
先生は胆囊ごと、その胆道とかいうところをまた新しいものに取り替えたら、今度こそ、みんなと同じように外でずっと遊べるようになるって言ってた。
そうなるんだったら、お腹の手術の跡がもうひとつ増えたってかまわないけど。
でも、水泳をする時に、僕の手術の跡だらけのお腹を見たら、みんな何て言うのかな。気持ち悪いって、言うのかな。僕自身、お腹の手術の跡は好きじゃないけど。手術の事を思い出すから。
治っちゃえば、さわっても、もうなんともないんだけど。手術はレーザーメスで切るから、怪我をした時の傷跡よりはずっと目立たなくて、僕が思っているほど、他のみんなにはひどい跡には見えないよって、先生も父さんも母さんも言ってくれるけど。
(あ、でも)
ソールは再び思った。
僕が手術してからまたちゃんと歩けるようになるまで、戸棚のあれが見つかっちゃったらどうしよう?
やっぱりもっとどこか見つかりにくいところ……僕のアパトサウルスのリュックの中にでも……
ソールはベッドから下りようとした。
と、そこへ
「ソール」
彼の母親が病室へと入って来た。
ソールはどきりとして振り向いた。
「お腹すいたでしょう?まだジュースくらいならいいから、あなたの好きなバナナシェイク、買ってきたわよ」
そのソールに、母親はにっこりと笑って言った。
「あ、ありがとう」
ソールはべッドの上に座りなおし、少しばかりぎこちなく言った。
「……」
その様子を見つめ、ソールにシェイクのパックを手渡しながら、母親は言った。
「手術、怖いの?」
無理もない、この子はついこの間、やっと七つになったばかりなのだから、と母親は思った。手術なんて、大人でも怖いものだ。
「ううん。ちっとも」
が、ソールは首を横に振った。
怖いと言ったところで、どうなるのだろう。母さんが困った様な顔をするだけだ?
「手術したら、今度こそ、みんなと遊べるようになるんだよね?」
ソールは笑って言った。
「そうよ」
しかし、母親はやはり困った様な、悲しそうな顔をして、ソールのやせ細った小さな身体を抱きしめた。
「だから、手術で治してもらいましょうね。みんなも待ってるわ」
そして本当に泣いてしまった。
しゅじゅつ?
こわい?
こわい??
それは思った。
だが“しゅじゅつ”も“こわい”もそれには何の事か、さっぱりわからなかった。
しかし――
ぱぱやままやお姉ちゃんや弟や妹の気配とはまったく違う、すぐそばにいるふたつの気配のうち、その片方の“いのち”には、どうしてこんなに元気が無いのだろう、とそれは思った。
―見つかったよ
異空間から聞こえてきた父親の声に、朱鬣と母親は、ふと顔を上げた。
―今声が聞こえた。そっちへ行ってみるよ
―どこにいたのですか?
母親は言った。
―思ったより遠くにいた。まだ生まれてもいないというのに、たいした冒険ぶりだ
父親は笑った。
翌日、事故の急患が入ったとかでソールの手術は開始が二時間近く遅れたが、ソールが病室から出る前に、いつもソールを診てくれている内科のイエレフ先生が来て、ソールに言った。
「大丈夫。うまくいくよ。ほんのちょっと、ソール君が眠っている間に、手術は終わっているからね」
先生はにっこりと笑って言った。
「外科の先生は、去年膵臓と胆嚢の手術をしてくれたマクード先生だからね。マクード先生はとっても腕のいい先生なんだよ。去年の手術の時は時間もかかって大変だったけど、ソール君はいつも先生や看護師さんたちの言う事をよく聞いてくれるいい子だからね。神様はいつだっていい子の味方なんだよ」
先生は、よりにっこりと笑った。
「はい」
ソールも少しだけ笑って返事をした。
でも、
“神様はいつだっていい子の味方”
と、先生は僕や他の子たちに時々言ってくれるけど、それなら、どうして神様はもっと味方をしてくれて、僕たちが手術なんかしなくていいようにしてくれないのだろう、とソールは思った
でも、いつもはあまりおしゃべりではない先生が手術の前にはこれだけお話をしてくれるのだから、先生も心配してくれているんだよな?
にしても……
ソールはそう思いながら、そっと戸棚を振り返った。
あの綺麗な縞模様のやつ……
とうとう、僕のリュックに入れる事が出来なかったな。戸棚の奥に入れたまんまだ。
まあ、いいか。
ソールは思った。
ただの石かプラスチックなんだもの。
僕の眠っている間に誰かが見つけても、捨てたりはしないだろう。
あんなに綺麗な模様の宝物みたいなものなんだもの。
手術が終わって、麻酔から目が覚めたら母さんに言って、僕の枕元に置いてもらおう。
もしかしたら、お守りになるかもしれない?
「じゃあ、行きましょうか」
看護師のリエがにっこりとソールに微笑み、ソールのベッドを手術室へと押し運んで行った。
あれ、とそれは思った。
さっきまでたくさんの気配がしてたのに……急に誰もいなくなっちゃったぞ?
どうしたんだろう?
また自分ひとりになっちゃった。
それはまた寂しくて悲しい気分になった。
ここから出ちゃおうかな、
それは思った。
―こっちだな
朱鬣の父親は言った。
そして我が子の気配の方へと、翼をむけた。
―こんなとんでもなく離れたところにまで来てしまうとは
朱鬣の父親は大きくため息をついた。
―子の親になるという事はなんとも大変な事なのだな
―出ちゃうって、言ってるよ
朱鬣は母親に言った。
―寂しいんだって
―まあ
長女に、母親は言った。
―それで、あの子は今、どんなところにいるの?
―わからないわ。ままにはわからないの?
―ママには、あの子が遠くにいる気配ぐらいしか、わからないわ。あなたたち姉弟同士の方が、よく感応力波を捉える事が出来るのね
ソールの手術は、予定していた時間より一時間以上経っても終わらなかった。
ソールの両親は、不安気に手術室の近くの椅子に腰かけてひたすら待ち続け、ソールの姉は待ちくたびれて、母親の膝を枕に眠り込んでしまった。
と、そこへ、手術中を示すランプは消えていないが、手術室からマクード医師が出て来た。
ソールの父親がマクード医師に歩み寄り、そして母親もソールの姉そっと椅子の上に寝かせると、父親の隣に立った。
「どうですか」
父親は言った。
「手術はうまくいきました」
マクード医師は外科用マスクを口元からはずして言った。
「ですが移植した胆囊に対する反応と術後の感染症が心配なので、ソール君のベッドの周りはしばらく簡易の無菌テントで囲います。でも、大丈夫ですよ。今までした手術でも酷い炎症を起した事はありませんでしたから。すぐに元気になってくれますよ」
マクード医師は自信ありげに頼もしくうなずいた。
「ありがとうございます」
ソールの両親も不安気な表情のままうなずいた。
そうするしかなかった。
えいっ
両親や姉と同じ白い五本の角で、それは自分の周りを取り囲む固い壁をつついた。
ここから出ちゃおう。ぱぱとままのところに帰ろう。
えいっっ!
「……」
その看護師――ソールを担当しているリエ、はふと手を止めた。
どこか……ソールが私物を入れている戸棚の中から?何か物音がしたような?
リエは戸棚を振り返った。
「リエ?」
その彼女に、彼女の同僚は言った。
「どうしたの?」
「今、何か物音がしなかった?」
「さあ?」
同僚は言った。
「あ、バイタル測定機はこっちね?」
測定機を乗せたワゴンを、同僚はソールのベッドが戻って来る場所の、すぐ横へと引っ張った。
「そうね」
二人は手術を終えたソールを病室へと迎え入れる準備を続けた。
えいっっ!
今度は少し応えがあった
そして、自分の周りに、またたくさんの気配ががやがやと帰って来た。
―おや
朱鬣の父親は言った。
―出てこようとしているのか?
そろそろ麻酔から目が覚めるだろうとマクード医師が言った時間を過ぎても、ソールは目を覚まさなかった。
「…………」
ソールの母親は心配そうな表情でソールの小さな手を取り、ずっと彼を見つめていた。
と、ソールはため息のような息をひとつつき、ぼんやりと目を開けて、無菌テントに覆われた中の、自分のすぐそばに座る母親を見上げた。
「ソール?」
母親はそのソールの顔をのぞきこんだ。
「……母さん?」
ソールは弱々しい声で言った。
が、ソールは再び目を閉じ、また眠り込んでしまった。
それからしばらくしてソールの呼吸が少し荒くなり、ソールの身体の状態を映し出しているモニターを見つめていたリエは、ソールのベッドのそばの通話器の前に立ち、ナースステーションに連絡を取った。
「すみません、601号のソール君です、至急どなたか先生をお呼びください」
えいっ!
パリン。
それ――彼、を取り囲む壁に、ほんの少し穴が空いた。
わあ、
彼は思った。
もう少しだぞ。
―あ
朱鬣は言った。
―ひびが入って、穴が空いた
「今の点滴が終わったら、もう50ml追加して。それから……」
イ工レフ医師は言った。
イ工レフ医師はソールの胸部や腹部に聴診器を当て、ソールの内臓が悲鳴を上げているのを険しい面持ちで聞いていた。
「大丈夫ですよ」
無菌テントの外へと追いやられてしまったソールの両親と姉をテントの中から振り返り、イエレフ医師は言った。
「まだ発熱もありませんから」
だがイ工レフ医師の表情は、その言葉とはちがい、あまり楽観的な様子とは言えない表情をしていた。
どうしたんだろう?
壁に穴を空けるのをふとやめ、彼は思った。
気配はいっぱいあるけど、でも……何だかみんな、すごくザワザワしてる?
やだな、こんなとこ。
早くここから出ちゃおう。
出ちゃうんだから。
(……?)
どんどん苦しくなってゆくばかりの中で、ソールはぼんやりと思った。
(何かいる……?)
(僕の戸棚の中に)
(あの綺麗な縞模様の……)
そして次に、ソールはもっと苦しくなった。
どこかで彼の名を呼ぶ母親の声が聞こえた。
母親は泣いているようだった。
「先生!」
バイタル測定機を見ていたリエが声をあげた。
バイタル測定機や他の幾つかの機器がそれぞれに耳障りな電子音をあげはじめた。
「電マッサージを!」
イエレフ医師が言った。
イエレフ医師はソールの胸に白いパッドを当てた。
ドスン
ソ一ルの小さな身体が、ベッドの上で跳ねあがった。
「どうだ?!」
「駄目です!」
「もう一度!」
ドススン
ベッドの上で、まるで人形のようにぐったりとしているソールの姿に、ソールの母親と姉は涙でくしゃくしゃになった顔で父親にしがみついていた。その二人をかかえながら、父親もまた、泣いているようだった。
でん……でんまっさぁじ??
彼は思った。
やっぱり何の事だかわからないが、しかし、こんなヘンな気配がいっぱいあるところはイヤだ、と彼は思った。
えいっ!!
パリン。
とうとう、彼の小さな頭を出すことが出来るくらいの、穴が空いた。
―あ
朱鬣は言った。
―出てきちゃった。生まれたよ
―まぁ……!
長女の言葉に、母親は心配そうに言った。
―おや
朱鬣の父親はふと顔を上げ、つぶやいた。
―孵ったようだな。急がないと……
イエレフ先生が胸に何か当てたと思ったら、ドカンと何かが身体の中で爆発したみたいになって、それから……急に楽になった。
そしてふと気が付くと、驚いた事に自分自身やイエレフ先生や看護師さんたちや、そして無菌テントの向こうで自分を見つめている両親と姉たちを、ソールは病室の天井くらいの高いところから見下ろしていた。
(わあ)
ソールは思った
(これって……)
去年、膵臓と胆嚢の手術をしている時、手術をされている自分や、先生や看護師さんたちのいる手術室を、やっぱり手術室の天井のあたりから見下ろした事があったのと、同じだ?
後でイエレフ先生にそれを言ったら、先生は、それは“臨死体験”っていうものなのかもしれないって、言ってたけど……
あの時はしばらくしたら、また勝手に自分の中へと戻る事が出来たけど、今度もそうなのかな。こうなっている時の方が、ちっとも苦しくなくって、いいんだけど。でも、ずっとこうなったまんまになっていたら……
と、
(?)
ソールはベッドにいる方の自分の、すぐ横にある戸棚の中を見つめた。
これも驚いた事に、別に戸棚が透けて見えているわけでもないのに、ソールには、その戸棚の中の一部を見る事が……気配を感じ取る事が出来た。
あの、黒と灰色の縞模様の白い丸いものが壊れて……その中に、何か白い、仔猫くらいの小さな姿をしたものがいる??
(わあ、あれってば)
ソールはまたも驚いた。
(あれってば、やっぱり石じゃなくて……)
(卵、だったんだ?)
―あ、
その、天井あたりに浮かんで(?)いる方のソールに、白い小さな姿をしたものは気づき、ソールを見上げた。
―ねえ
白い小さな姿をしたものは言った。
―君って……いつふたつになっちゃったの?さっきまではぼくのいるところの下にいたよね??でも……
白い小さな姿をしたものはソールを……ベッドに横たわっている方のソール、を見つめた。
―こっちの、みんなに囲まれてる方の君からは、あんまり……というか、ぜんぜん、君の気配を感じないね?
紅い目でソールを見つめ、ひょいと小首をかしげる。
(君は……だあれ?)
その小さな姿をしたものに、ソールはたずねた。
―ぼく?ああ、ぼくは……
白い小さな姿をしたものは言った。
―ドラゴン、だよ
(ドラゴン……?)
ソールはその言葉に、少しばかり驚いた。
しかし、そう言われれば……
絵本に出てくる、あのドラゴンに似ている様な……?
まだ身体は、ちょっと大きくなりだした仔猫くらいの大きさだが、コウモリの羽に似た形の白い翼と、頭にはえた白い五本の角、上顎から下とのびた二本の牙、頭のてっぺんから長い尻尾の先まである黒い鬣、白い身体、紅い鉤爪、そして黒い鬣の下からのぞいている紅い大きな瞳……
ドラゴン??
ソールは思った。
―うん、そうだよ
ソールのその思いに、黒鬣の子ドラゴンは精神感応力会話で応えた。
―ずーっと卵の中にいるのが退屈だったから、ちょっとどこかへいってみようと思って、ちょっと時空を歪めてみたら……こうなっちゃったんだ。ぱぱとままに怒られちゃうかなぁ。で、君は?ずーっとこうしてるの?でも……
黒鬣の子ドラゴンは、ベッドに横たわっている方のソールにかかりきりとなっている者たちを見おろした。
「ソール!」
無菌テントに取りすがって、彼の母親が泣いていた。
イエレフ先生がものすごい顔をしてソールの胸を大きな手で押し続けていた。
「ソール!!」
母親が涙声で言った。
(…………)
ソールはそれをながめて思った。
(もうダメかもしれないや)
(ううん、もうダメなんだ、きっと)
―何が?
黒鬣の子ドラゴンは、ふたたび小首をかしげて言った。
―何がダメなの?
(もうあの中には、帰れないんだよ。死んじゃうんだ。僕、たぶん)
―し、……しん、じゃう……??
(うん)
ソールはうなずいた。
(死んじゃうんだ。もうあの中へは帰れないんだよ。だって……こないだやっぱりこうなった時は、しばらくしたら勝手に、あの中へとまた帰る頃が出来たのに……今はまだこんなところにいるんだもん)
今度こそ元気になって、みんなと遊びたかったのに……
先生の噓つき。
ソールは思った。
神様はちっとも味方なんかしてくれないじゃないか。
―……やってみなくちゃ、わかんないよ?
もうすっかり死人の様に血の気が無い顔色となってしまっている自分を見つめ、思わず涙ぐんでしまったソールに、黒鬣は言った。
(え?)
―やってみなくちゃ、わかんないってば
黒鬣は言った。
―ぼくだって、えいってやって、卵の中から出て来たんだよ?君だって、えいってやったらまたあの中に帰れるかもしれないよ?やってみてよ。えいって
黒鬣は卵の殻を破っていた時の格好をソールにしてみせた。だがソールには、その格好が何やら頭突きでもしているかの様に思えた。しかし――
(……そうだね)
黒鬣の言葉に、ソールは思った。
(うん、そうだよね。やってみなくちゃ、わかんないよね?)
―うん
黒鬣はにっこりとうなずいた。
(やってみるよ。……えいっ)
宙に浮いたまま、自分の身体の中へ戻ろうと、それなりの気合を入れて、ベッドの上の自分の身体に向かってソールは念をとばせた。
(えいっ)
あの中に帰るんだから。
(えいっ)
みんなと遊ぶんだから。
(えいっ)
母さんやお姉ちゃんだってあんなに泣いてるんだから。
(……えいっ!)
―お姉ちゃん?
その言葉に、黒鬣は言った。
―君にも、お姉ちゃん、いるの?
(え?うん。……ほら、部屋の隅で、母さんと父さんと一緒に泣いてる、赤いスカートの……)
―へーえ。あれが君のお姉ちゃん?ぼくにもお姉ちゃんいるんだよ。あと、弟が二人に、妹が一人。ぼくの鬣は黒いけど、お姉ちゃんの鬣は君のお姉ちゃんみたいに赤いんだよ。弟や妹のは……あ、ほら、続けて続けて。えいって。ぼくも一緒にえいって、やってあげるよ?
(うん。せぇの……)
(えいっ!!)
―えいっ!!
大きく入れたその気合の直後、黒鬣の周りに“パシン!”と青白い光が走って、何か……
いや、ソールにわからなかった。
―ここだ
朱鬣の、そして黒鬣の父親でもある彼は、我が子の気配が感じられるところにまで来ると、再び胸いっぱいに息を吸い込み、あの青い炎を、次元と時空が入り乱れている空間へと吹きつけた。
火柱はゴウとばかりに音をたてて走ると、またもあの炎の水鏡となった。
「心拍、戻りました!」
リエが叫んだ。
「よし、このまま……いや、2mlの方を!」
「はい!」
リエの同僚がアンプルから注射器に中身を吸い込み、イエレフ医師に渡した。
イエレフ医師はソールの首の根元に無針注射をすると、バイタル測定機や他の機器のモニターをしばらく無言でながめ、それから小さくひと息ついた。
「持ち直してくれましたよ」
イエレフ医師はソールの両親を振り向いて言った。
「少なくともさっきまでの状態よりは回復しました。まだまだ目は離せませんが」
その言葉に、ソールの母親は手を組んで、また涙を流しながら小さく何がつぶやいた。
それは、神様、と言ったようだった。
(……ちがうよ)
その母親にソールは思った。
ベッドの上でまだ荒い息をつき、目を閉じているままだが、ソールにはその目を閉じているままの状態で周りをちゃんと見渡す事が出来た。
(僕がまたここに帰って来る事が出来たのは、神様のおかげなんかじゃないよ)
ソールは思った。
(僕が自分でがんばったからなんだから。あと、ドラゴンのチビちゃんと……)
と、
―やったぁ!
そのソールの、無菌テントで覆われたベッドの右隣にある戸棚の、最上部の扉が突如、バン、と大きな音たてて勢いよく開き、中から何か白いものが飛び出て来て、無菌テントの上に小さな白い翼でパタパタと舞い降りた。
―やったね?!
それは無菌テントの上にちょこんと座り込み、透明なビニール製のシートごしにソールをのぞきこんだ。
「?!!!」
ソール以外の者たちは、みな目を見開け飛び上がり、突然戸棚から現れた者を見つめた。
それはコウモリの羽にも似た形の翼の、黒い鬣をした、紅い目と鉤爪の……
―ねえねえ
自分の姿に驚き、目を見張る周りの者たちにはまったくおかまいなく、無菌テントごしにイエレフ医師を見下ろし、黒鬣の子ドラゴンは言った。
―もう大丈夫なんだよね?中に帰れたんだよね??
「…………」
しかしイエレフ医師は、その子ドラゴンの言葉に応える事は出来なかった。その場に居合わせた、他の者たちも。
と、その時、
子ドラゴンが飛び出してきた戸棚の奥に、何やら青白く光りながら渦を巻いてゆらめく、異様な空間が現れ――
その空間の中から
巨大なドラゴンの頭部が、ぬっとばかりに現れた。
―すみません
サッカーボールほどもあろかという大きな紅い目を銀の鬣の下でまたたかせ、巨大なドラゴン(の頭部)は言った。
―あのぉ、うちの子がこちらにお邪魔を……あ、いたいた。これ、こっちへおいで!
無菌テントの上に座り込んでいる黒鬣の小さなドラゴンに、その巨大なドラゴンの頭部は言った。
―ぱぱ!
黒鬣の子ドラゴンは嬉しそうな声をあげて翼をはばたかせ、銀鬣の親ドラゴンの首に飛びついた。
「……!」
その親子ドラゴンの姿に、リエは声になっていない声で小さく叫び、二、三歩後ずさった。だが、あまりもの事態に足がすっかりすくんでしまい、ペたんと床に座り込んでしまった。
「…………」
自分のまさに目と鼻の先に巨大なドラゴンの頭部を見上げ、イエレフ医師は椅子に座ったまま、腰から下がまったく動かなくなっていた。
彼はこれが“腰が抜けてしまった”状態というものなんだな、と思った。
部屋に居合わせた他の看護師やソールの両親と姉も、同じようなものだった。
ソールも黒鬣の“ぱぱ”にとても驚いた。
だが、
(それ、君のパパ?)
まだ目を閉じたまま、ソールは黒鬣に言った。
(迎えに来てくれたんだね)
―うん
黒鬣は父親の銀の鬣の中から、にっこりとうなずいた。
(よかったね。パパが来てくれて)
―うん。君も、また中へ帰れてよかったね。……じゃあね。ばいばい
(うん。ありがとう。君のおかげだよ。また来てよ、よかったら。僕も毎日退屈なんだ)
―うん。元気でね
(バイバイ)
―ばいばい
黒鬣はソールに小さな手を振った。
―どうもすみません。お邪魔いたしました
黒鬣の父親ドラゴン(の頭部)は、我が子を頭の上にのせ、恐怖にひき歪んだ顔のまま、いまだ表情を膠着させてしまっている人々を気まずそうにながめ、そしてぎこちなく巨大な頭をひとつ下げると、再び、青くゆらめく空間の中へと姿を消した。
戸棚の向こうのその異様な空間は、しばらくは戸棚の奥でゆらめいていたが――そのうち周りの普通の空間の中に溶け込む様に消えてゆき、あとには、ソールが大事にしている本と、玩具と、そして何かの……大きな卵?の白い残骸が残っている、いつもの空間がまるで何事もなかったかの様に姿を現した。
―帰って来るよ。ぱぱと一緒に
朱鬣は母親に言った。
―まあ、本当?
長女の言葉に、母親ドラゴンはその紅い目を輝かせた。
そしてその彼女等に、
―見つけたよ
父親ドラゴンの言葉が聞こえてきた。
―今、連れて帰るから
―……
その言葉に母親ドラゴンは、大きなため息をひとつついた。母親のその鼻息で朱鬣のお気に入りの白い花の花びらが数片吹き飛んで行った。
―……
朱鬣はそれを残念そうに見つめた。
(まあ、いいか)
朱鬣は思った。
(つぼみはまだまだいっぱいあるんだし……)
―もうこんな事をしてはいけないよ
次元と時空の狭間を渡り飛びながら、父親ドラゴンは黒鬣に言った。
―ママがとっても心配したんだよ。もちろん、パパもだけど。お姉ちゃんだって
―はぁい
父親のふさふさとした銀の鬣の中で、黒鬣はばつが悪そうにしょげかえった。
―どこかおかしな歪みや亀裂のあるところに行ってしまったら、もうパパやママでも見つけてあげられなくなるかもしれないよ。時空も傷めてしまうし
―はぁい……
―でも、まぁ、それはおいといて
父親ドラゴンは言った。
―おまえはいい事もしたようだね
―いいこと?
―そうだよ
父親はうなずいた。
―おまえはあの人間の男の子を助けてあげたんだね
―にんげん?
黒鬣は首をかしげた。
―そうだよ
父親は再びうなずいた。
―あれは……あの生き物たちは人間という者たちなんだよ。私たちとはまた別の起源の生き物たちさ。私たちの様に鬣も翼も長い尻尾も無かったろう?
―うん
黒鬣はあの世界での者たちの姿を思い返した。
―この世の中で、ー番問題多き生き物たちだよ
父親ドラゴンは言った。
―パパやママは、ああいった、この世界の生き物たちの、時空がほころびてしまったところをなおしているんだよ。おまえたちも大きくなったら、おまえたちのそれぞれの宇宙に渡り飛んで、パパやママみたいに、次元や時空の狂いを修正出来るようになるからね
「ソール!」
目をぽかりと開けたソールに、彼の母親はぎゅうとばかりにソールを抱きしめた。
「……母さん?」
ソールはまだ弱々しい声でつぶやいた。
そして、
「イエレフ先生」
目分の枕元に立つイエレフ医師を、ソールは見上げた。
「先生。僕、神様じゃなくて、ドラゴンに助けてもらったよ?先生も見たでしょう?」
「…………」
ソールの言葉に、イエレフ医師は何やら複雑な笑みを浮かべた。
イエレフ医師には、あの、戸棚の中から現れたものが……特にあの大きな姿の方のものが、いまだに信じる事が出来なかった。
自分もこの目で、それもまさに目と鼻の先でしっかりと見たというのに。
「でも、もしかしたら、あれが……」
そのイエレフ医師にはおかまいなく、ソールは言った。
「あれが、神様、だったのかな?」
―まま!ただいま!!
父親と一緒に、青くゆらめく次元回廊から出てくるなり、黒鬣は母親の頬に抱きついた。
―ごめんね、ごめんね。もうあんな事、しないから。ひとりでどこかへ勝手に行ったりなんか、しないから。ね?
母親の大きな右目をのぞきこむ。
―まぁ、坊や。困った子ね。どこにも怪我はないの?どこに行っていたの?とても心配したのよ。とっても……
母親ドラゴンの瞳に、再び涙が溢れかけた。
―うん、ごめんね。どっこも怪我なんかしてないよ。安心して。でね
黒鬣は続けた。
―ぼく、あっちの世界で、いい事、したんだって
―いい事?まぁ、なぁに?
我が子の無事な姿を見るや、先程までの絶望的なまでの不安はたちまちどこかへときれいに吹き飛び、母親ドラゴンは息子を叱るのも忘れて、黒鬣を巨大な両の腕で抱きしめて言った。
―ひ……ひとだすけ、だって。ぱぱが言ってた。これっていい事なんだって。ねぇ、本当??
―まぁ、そうなの。まぁ……
母親ドラゴンは自分の鉤爪ほどの大きもない小さな身体の我が子の、これまた小さな横顔に自分の大きな鼻先を優しく押し付け、そして今度は安堵の涙で黒鬣と、母親の足元で母親を見上げている朱鬣と、朱鬣のお気に入りの白い花を濡らした。
と、その時、
―えいっ!
彼女等の巣の中ので小さな声が響き、そしてドラゴン夫婦の残る三つの卵のうちのひとつに内側から穴が開けられ……父親とそっくりな銀の鬣をした彼女等の次男がひょっこりと殻から顔をのぞかせた。
―まま……??
生まれて初めて見る卵の外の風景を、いともめずらしげにくるりと見回し――母親の姿に気がつくや、彼女等の次男は、彼女を見上げそう言った。




