第9話「舞踏会の開幕と元婚約者の愚行」
ミレーヌが杖を掲げ、甲高い声で詠唱を始めた。
しかし、そこに現れたのは神聖な光ではなく、どす黒い霧のような靄だった。
会場がざわめき始める。
「な、なんだあれは?」
「聖女の光ではないぞ……まるで瘴気だ」
ミレーヌは焦ったように声を張り上げるが、霧は濃くなるばかり。
彼女の手元の杖――聖女の証とされるアーティファクト――が、ピシリと音を立てて亀裂が入った。
「ち、違うの! これは……まだ準備が!」
ミレーヌが叫んだ瞬間、杖から黒い波動が弾け飛び、近くにいた貴族たちが悲鳴を上げて逃げ惑った。
会場の花瓶に生けられていた花が一瞬で枯れ落ち、テーブルの料理が腐敗していく。
それは祝福どころか、呪いそのものだった。
「ミレーヌ! どういうことだ!」
エドワード殿下が慌てて彼女に駆け寄るが、ミレーヌは震えながら後ずさる。
「私のせいじゃない! 土地が……土地が私の魔力を拒絶しているのよ!」
その光景を、私とアレクセイは静かに見つめていた。
アレクセイが私に耳打ちする。
「予想通りだな。器でない者が力を無理に使えば、こうなる」
「……彼女は、自分の生命力を魔力に変換して使っていたようですね。限界が来たのでしょう」
私は冷静に分析した。
薬膳の知識で言えば、彼女の「気」は枯渇寸前だ。
その時、パニックに陥ったエドワード殿下が、矛先をこちらに向けた。
「貴様ら! 貴様らが何か細工をしたな!?」
彼は壇上から私たちを指差し、血走った目で叫んだ。
「リリアナ! お前が呪いをかけたのだろう! 追放された恨みで、ミレーヌの儀式を妨害したに違いない!」
あまりの言い掛かりに、会場が一瞬静まり返る。
アレクセイが溜息をつき、一歩踏み出そうとしたが、私はそれを手で制した。
ここは、私が言うべきだ。
私はゆっくりと壇上の二人を見上げ、凛とした声で言った。
「殿下。私はただ、この会場で美味しい空気を吸い、アレクセイ様との時間を楽しんでいただけです。細工などする必要もありません」
「嘘をつくな! ではなぜ、ミレーヌの力が暴走するんだ!」
「それは、彼女が聖女ではないからではありませんか?」
私の言葉に、会場中の視線が集中する。
タブーを口にした。
しかし、誰もが薄々感じていたことだ。
「なっ……! 無礼者! ミレーヌこそが真の聖女だ! お前のような毒婦とは違う!」
「毒婦、ですか。……では殿下、一つお聞きします。真の聖女が祈りを捧げて、なぜ作物は枯れ、人々は飢え、水は濁るのですか? 聖女の加護とは、生命を育むものではないのですか?」
私の問いかけに、エドワード殿下は言葉を詰まらせた。
現実があまりにも雄弁に物語っているからだ。
「うるさい! 衛兵! この女を捕らえろ! 不敬罪で処刑だ!」
エドワード殿下が喚き散らす。
衛兵たちが躊躇いながらも動き出そうとしたその時、ドォォォォン! という轟音が響き渡った。
窓ガラスが割れ、夜空から巨大な影が舞い降りてくる。
「グォォォォォォ!!」
咆哮と共に現れたのは、骨と皮だけの巨大なドラゴンのような魔物――アンデッド・ドラゴンだった。
王都の地下に溜まった瘴気が実体化したものだ。
会場はパニックに陥り、悲鳴が響き渡る。
衛兵たちは剣を抜くが、恐怖で足が動かない。
ミレーヌはその場にへたり込み、エドワード殿下は腰を抜かしている。
「ま、魔物だ! 逃げろ!」
貴族たちが出口へ殺到する中、アレクセイが悠然と前に出た。
「やれやれ。こんな余興まで用意しているとは、王家のおもてなしには恐れ入る」
彼は右手を軽く振る。
それだけで、迫り来るドラゴンの爪の前に、巨大な氷の壁が出現した。
ガギィィィン!
爪が弾かれ、ドラゴンがたじろぐ。
「アレクセイ様!」
「リリアナ、下がっていろ。すぐに終わらせる」
彼は私に背を向け、戦闘態勢に入った。
会場の空気が急速に冷却されていく。
しかし、私は気づいた。
ドラゴンの体から溢れ出る瘴気が、アレクセイの魔力と反応し、彼の呪いを活性化させようとしていることに。
彼の手の甲に、黒い氷の紋様が浮かび上がっている。
まずい。
このまま高出力の魔法を使えば、彼自身の体が内側から凍りついてしまう。
「アレクセイ様、だめです! その魔物は、ただ倒すだけじゃ……!」
私の叫び声は、轟音にかき消された。
ドラゴンが再び瘴気のブレスを吐く。
アレクセイはそれを氷の盾で防ぐが、苦悶の表情を浮かべて片膝をついた。
「くっ……! 魔力が……持って行かれる……!」
彼の呪いは「魔力の循環不全」と「冷気の暴走」。
瘴気のような負のエネルギーを吸収してしまう性質があるのだ。
このままでは、彼は氷像になってしまう。
『どうすれば……私にできることは』
私は周囲を見渡した。
逃げ惑う人々、枯れた花、腐った料理。
ここには「生命力」が足りない。
負の連鎖を断ち切るには、圧倒的な「陽」の力が必要だ。
私は、ドレスのポケットに入れていた小さな瓶を取り出した。
それは、辺境を出る前に作った「特製スパイス」。
太陽の光をたっぷり浴びたハーブと、火炎キノコ、そして私の魔力を凝縮させたものだ。
「スノー!」
私が呼ぶと、影から巨大化したスノーが飛び出してきた。
いつもの可愛い姿ではない。銀色の毛並みをなびかせる、神々しいフェンリルの姿だ。
「アレクセイ様を守って!」
「グルルァッ!」
スノーがドラゴンに飛びかかり、その牙で腐った肉を噛みちぎる。
その隙に、私は会場の中央にあった給仕用のワゴンへと走った。
そこには、手つかずのワイン樽がある。
私は瓶の蓋を開け、中身をワイン樽に放り込んだ。
そして、ワゴンの上のキャンドルを倒し、樽に火をつける。
ボッ!
アルコールとスパイスが反応し、一瞬にして青白い炎が燃え上がった。
しかし、それは物を焼く炎ではなかった。
優しく、温かく、そしてどこか懐かしい香りを放つ「浄化の炎」。
ハーブの香りが会場中に広がる。
ローズマリー、セージ、タイム。
それらは古来より、魔を払い、場を清めるために使われてきた。
『届け、私の想い! 温かいご飯の記憶よ、みんなを守って!』
私が祈りを込めると、炎はさらに大きく燃え上がり、天井を突き抜けるほどの光の柱となった。
その光は、ただの物理現象を超えていた。
私の「聖女」としての力が、料理という触媒を通して爆発したのだ。
光がドラゴンを包み込む。
アンデッド・ドラゴンは苦しげに身をよじったが、やがてその体から黒い霧が晴れていき、ただの骨へと戻って崩れ落ちた。
同時に、会場に充満していた瘴気が消え去り、枯れていた花々が、見る見るうちに色を取り戻していく。
「な、なんだこれは……」
「体が……軽くなる……」
うずくまっていた人々が顔を上げる。
光の中で、私はただ祈り続けていた。
そして、その光の中心に、アレクセイがいた。
彼の体の氷が溶け、苦痛に歪んでいた表情が和らいでいく。
彼は驚いたように自分の手を見つめ、それから私を見た。
その瞳には、かつてないほどの熱情が宿っていた。




